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九月。
研究室の窓から、中庭の木が少し色づき始めているのが見えた。
エルクが新しい論文の構成を書いている。東部の村の調査報告と、殿下の治療経過を含めた、調律魔法の実践記録だ。
「リナ」とエルクが言った。
「はい」
「来年の春、学院長から打診があった。王国の各地の魔力調査を、体系的に行う計画を立ててほしいと」
「王国全体を?」
「東部だけでなく、各地に同様の滞りがある可能性が高い。調律魔法でなければ対処できない問題が、まだたくさんあると学院長は言っている」
サチコは窓の外を見た。色づき始めた木が、風に揺れている。
(王国全体。)
前世のサチコには、想像もできないスケールだ。事務仕事で一番大きな仕事は、全社の書類フォーマットを統一したことだった。あれは三ヶ月かかった。
今度は——もっとかかるだろう。でも。
「やります」とサチコは言った。
「即答だな」
「考えることが特にないので」
「不安はないのか」
「あります。でも、不安があることとやることは別です」
エルクは羊皮紙を置いて、サチコを見た。
「リナ」
「はい」
「一緒に行く。どこへでも」
サチコは少し目を細めた。
「わかっていました」
「わかっていたのか」
「エルクがそう言うだろうと、思っていました」
「……読まれすぎだ」
「一年半以上、隣にいましたから」
エルクは少し間を置いて、「そうだな」と言った。それから羊皮紙に戻った。
でも口元が、緩んでいた。
窓の外で、秋の風が木の葉を揺らした。
研究室に、朝の光が満ちていた。
田中サチコ改めリナは、羊皮紙に向かって、今日の仕事を始めた。
王国の流れを整えるために。大切な人たちとともに。
まだ長い、今世の続きを——ひとつずつ、丁寧に。
翌春、三月の末。
学院の中庭に馬車が二台止まった。一台は荷物用、一台は人員用だ。
王室からの支援で、護衛が二名つくことになった。
アンナが見送りに来た。去年と同じように、今年も。
でも去年と少し違うのは、アンナがエルクにも抱きついたことだった。
エルクは固まっていた。
「気をつけてね」とアンナは言った。
「……ああ」とエルクは言った。声がかすかに上ずっていた。
サチコは荷物を馬車に積みながら、そっちを見ないようにした。
カーロ先生が「何かあればすぐ連絡しろ」と言った。
学院長が「無理をするな」と言った。
殿下からは出発前日に手紙が届いていた。
「旅の安全を祈っている。戻ったら話を聞かせてほしい」と書いてあった。
馬車に乗り込むと、エルクがすでに地図を広げていた。
「最初の目的地は北部のカレン平原だ。ここは十年前から農地の魔力低下が報告されている。距離は学院から四日」
「わかりました」
「次に西部の港町、それから南の山岳地帯。全行程で二ヶ月を予定している」
「長い旅ですね」
「長い。だが——」エルクは少し間を置いた。
「悪くない」
サチコは窓から中庭を見た。アンナが手を振っている。
カーロ先生が腕を組んでいる。学院長が静かに立っている。
馬車が動き出した。
(また旅だ。)
最初の旅は村から学院へ。次は学院から王都へ。それから東部の村へ。
今度は——王国全体へ。
八歳のときに乗った馬車を思い出した。あのときは何もわからないまま揺られていた。
今は隣にエルクがいて、目的があって、帰る場所がある。
(ずいぶん遠くまで来たな。)
そう思ったら、なんだか可笑しくなった。
「何を笑っている」とエルクが言った。
「楽しいなと思って」
「楽しい」
「旅が始まる朝って、いいですよね。これから何が起きるかわからないけど、悪いことばかりではないとわかっているから」
エルクはしばらくサチコを見た。
それから小さく、「そうだな」と言った。
馬車が街道を走り始めた。春の風が窓から入ってきた。




