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王城からの帰り道、エルクが珍しく先に口を開いた。
「父から手紙が来た」
「ハルト伯爵から?」
「今回の王室との件が耳に入ったらしい。調律魔法が王室に認められたことで——僕のことを、表に出すことを検討している、と」
サチコは黙って聞いた。
「厄介払いにしたくせに、都合がいい時だけ名前を使おうとしている」
エルクの声は平坦だったが、その下にある温度をサチコは知っていた。
「ハルト家の長男が王室の研究者であることは、家にとって有利だからな」
「どうするつもりですか」
「わからない」エルクは珍しく、率直に言った。
「利用されることは腹が立つ。でも父と縁を切ることも——できないとは言わないが、アンナのことを考えると」
「アンナ?」
「アンナと話した。少し、だが。あの子は家が好きだ。父との関係も、複雑ではあるが——大切にしている。僕が父と対立すれば、アンナが困る」
サチコは石畳を見ながら歩いた。
(この子は、ちゃんと妹のことを考えている。)
「エルク」
「何だ」
「あなたは、お父様に何かしてほしいことがありますか。認めてほしいとか、謝ってほしいとか」
エルクは少し黙った。
「……ない、とは言えない」
「ならその気持ちは持ったままでいい。解決しなくていい。今すぐどうするかを決める必要もない」
「それは逃げではないか」
「逃げと保留は違います」サチコは言った。
「前世で学んだことのひとつは、急いで答えを出した問題の半分は、時間が解決してくれる、ということです」
エルクはしばらく黙った。
「前世の知恵は、実用的だな」
「四十三年分あるので」
「……羨ましい、と思うことがある」
「え?」
エルクは珍しく、少し照れたような間を置いた。
「四十三年分の経験を持つお前が、今ここにいることが。それだけの時間、生きてきた人間と話せることが」
サチコは少し驚いた。羨ましいと言われたことが、ではなく——エルクが素直にそう言ったことが。
「エルク、それは」
「なんだ」
「すごく嬉しいことを言ってくれています」
「事実を言っている」
「それでも」
エルクはそっぽを向いた。でも今日は耳だけでなく、確かに口元が緩んでいた。
学院に戻ってしばらくしてから、アンナがサチコに手紙を見せた。
「父から手紙が来たの。エルクくんのことが書いてある」
差出人はハルト伯爵だった。
内容は——エルクを認知する手続きを進める意向がある、という一節だった。
「どう思う?」とアンナが聞いた。
「アンナはどう思ったんですか」
「嬉しい。でも——エルクくんがどう思うか、の方が大事だと思って。私が喜んでも、エルクくんにとって迷惑だったら意味ないから」
サチコはアンナを見た。
この子は本当に、相手のことを考える。
「エルクに話してみてください。アンナの言葉で」
「私が?」
「あなたの気持ちは、あなたが話す方が届きます。私が仲介するより」
アンナは少し考えて、「うん」と言った。
「話してみる」
その夜、研究室でエルクがいつもより遅くまで作業していた。
サチコが「今日は帰りますね」と言いかけたとき、扉がノックされた。
アンナだった。
エルクがアンナを見た。アンナがエルクを見た。
「お邪魔するね」とアンナが言った。
「少しだけ話せる?」
エルクは羊皮紙を置いた。
「座れ」
サチコは「おやすみなさい」と言って、そっと扉を閉めた。
廊下を歩きながら、後ろを振り返らなかった。
流れは自然に、進んでいる。




