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四月。
学院の北棟に、調律魔法研究室が正式に設けられた。
以前のエルクの間借り部屋より広い。窓は南向きで、午前中いっぱい日が差し込む。
本棚と作業机が新しく入り、王室からの支援で高品質の羊皮紙と魔法石が届いた。
エルクは棚の配置を三回変えた。
「そこは動線が悪い」
「でもここだと光が当たりすぎて羊皮紙が劣化する」
「じゃあここは?」
「それだと扉を開けたときに邪魔になる」
結局、サチコが配置を決めた。エルクは「合理的だ」と言って受け入れた。
アンナが開設初日に顔を出して「お祝いに」と焼き菓子を持ってきた。
三人で食べた。エルクとアンナはまだ少し距離があるが、最初の夜よりずっと近い。
「エルクくんって甘いもの食べるんだ」とアンナが言った。
「食べる」
「なんか意外。いつも難しい顔してるから」
「難しいことを考えているから難しい顔をしている。甘いものを食べるかどうかとは関係ない」
アンナがサチコに目配せした。(この人、リナに似てる)、という顔をしていた。
サチコは菓子を一口食べて、何も言わなかった。
五月、殿下の治療のために王都に出向いた。
今回は学院長は同行しない。エルクとふたりだった。
「緊張しているか」と馬車の中でエルクが言った。
「少し」
「前回より正直だな」
「前回は王都が初めてで、緊張する暇もなかった。今回は目的がはっきりしている分、考える時間があります」
「うまくいかなくても、最初からそうなるとは限らない」
「知っています」サチコは窓の外を見た。
「治療というのは、一回で決まるものじゃない。積み重ねるものだから。焦ってもしかたがないです」
「それは自分に言い聞かせているのか、僕に言っているのか」
「両方です」
エルクは小さく笑った。
王城の一室に通されると、殿下はすでに待っていた。前回より顔色がいい。
サチコたちが来ると決まってから、少し気持ちが楽になったとイレーナから聞いていた。
「また来てくれた」と殿下は言った。
「約束しましたから」
「その言葉を、僕は何人かから聞いて、全員に破られた」
「私は破りません」
殿下はしばらくサチコを見て、「なぜそう言いきれる」と言った。
「言い切れるかどうかよりも、そう思っているから言います。守れなかったときは、その時に正直に話します」
「……面白い人だ、あなたは」
「よく言われます」
椅子に座り、手を借りた。目を閉じる。
先月感じた流れを、もう一度確かめる。変化しているか——していた。
わずかだが、サチコが感じた後から、体が反応している。
(この体は、整えようとしている。ただ、方法がわからなかっただけだ。)
迂回路の起点になる場所を探す。無理に開けるのではない。すでに細くなっている流れを、もう一本、隣に作る。川が山を避けて流れるように——魔力をそっと、流す。
十分ほどで、サチコは手を離した。
「今日はここまでにします」
「変化は」
「少し、流れができ始めています。まだ細いですが」
殿下は自分の手を見た。
「何も感じないが」
「感じるようになるのは、もう少し先だと思います」
「そうか」殿下は顔を上げた。
「リナ、ひとつ聞いていいか」
「はい」
「あなたは、なぜそんなに落ち着いているんだ。年下とは思えない」
サチコは少し考えた。
「少し変わった生まれ方をしたんです。いつか話せる機会があれば」
殿下はしばらくサチコを見た。
それから「楽しみにしている」と言った。




