20
終わって廊下に出ると、学院長が「よくやった」と言った。
エルクは黙っていたが、肩の力が抜けているのが見えた。
しばらく歩いたところで、エルクが「リナ」と言った。
「はい」
「今日、お前が実演台に立ったとき」
「はい」
「……目を離せなかった」
サチコは足を止めた。
エルクは前を向いたまま歩いていた。
「魔法を使っているとき、お前は——別の顔をする。集中しているとき、余計なものが全部消えて、ただそこにいる感じがする。それが——」
「それが?」
「ずっと見ていたい、と思った」
サチコはしばらく、その背中を見た。
(この子は本当に遠回しが苦手で、だから全部まっすぐ届く。)
「エルク」
「何だ」
「今世で、誰かそばにいてくれる人が欲しいと言いました。前に」
「覚えている」
「今も、そう思っています。できれば——長い間」
エルクがようやく振り返った。眼鏡の奥の目が、まっすぐこちらを見ていた。
「症状が」とエルクは言った。
「症状?」
「以前から進行している症状が。お前の声を聞かないと調子が出ない、名前を呼ばれないと調子が出ない——という段階から、さらに進行して」
「さらに?」
「お前がいない未来を、考えられなくなっている」
サチコは笑った。
笑いたくて笑ったわけじゃない。ただ、胸の奥が満ちてきて、それが笑いになった。前世では一度も感じたことのない、満ちる感覚だった。
「それは重症ですね」
「わかっている」
「治療法は?」
「そばにいてくれれば、症状は安定すると思われる」
「それは治療ではなくて現状維持では?」
「うるさい」
学院長が前をすたすた歩きながら、一切振り返らなかった。
気を遣ってくれているのだろう。七十代でもそういう気遣いができる人だ。
サチコはエルクの隣に並んで歩いた。
「そばにいます」と言った。
「今世は、前世より長く生きるつもりなので」
エルクは何も言わなかった。
でも今度は、耳だけでなく、少し顔まで赤くなっていた。
宿に戻って夕食を終えた後、サチコは窓から王都の夜景を見た。
魔法の明かりが街を照らしている。あの地下の陣みたいに、どこかの根幹に調律された流れがあって、それが街全体に光を届けている。
(私の魔法が、王都に知られた。)
田中サチコ、享年四十三歳。誰にも気づかれず、ひとりで逝った女が——転生して、名前のついた魔法を持って、王室の顧問に「面白い」と言われた。
おかしな話だと思う。
でも——おかしくていい。
扉をノックする音がした。
「リナ、起きてる?」エルクの声だった。
「起きてます」
「明日、学会が非公式な場を設けると連絡が来た。王室顧問が直接話をしたいと。学院長から伝言だ」
「わかりました」
「それだけだ」
サチコは少し笑って「エルク」と言った。
「何だ」
「今日、ありがとう。全部の質問に答えてくれて」
「当然のことをしただけだ」
「それでも」
扉の向こうで、短い沈黙があった。
「……おやすみ、リナ」
「おやすみなさい」
サチコは窓の外の光を見た。
明日、また新しいことが始まる。
調律魔法使いは、今夜も静かに——でも確かに、王国の流れの中に、いた。




