11
七月の初め、アンナのもとにハルト伯爵からの返事が届いた。
アンナは封を開ける手が震えていた。サチコは隣に座って待った。
アンナが手紙を読んだ。読み終えて、しばらく動かなかった。
「アンナ?」
「……続けていい、って」アンナの声がかすれた。
「卒業まで、学院にいていいって。婚約の話は、その後に改めて考えるって」
「よかった」
「父が——父が、『自分の言葉で書いてきたのが、よかった』って書いてる」
アンナがサチコに抱きついた。わんわん泣いた。サチコは背中をさすりながら、もらい泣きしそうになるのをこらえた。
よかった。本当に、よかった。
「リナのおかげだよ」とアンナが泣きながら言った。
「アンナが書いたんです。私はちょっと手伝っただけ」
「ちょっとじゃない! 一緒に夜中まで考えてくれたじゃない!」
「まあ、そうですね」
アンナはしばらく泣いて、それから顔を上げた。目が真っ赤だ。
「リナ、私、正直に言う」
「はい」
「エルクくんのこと、好きでしょ」
サチコは一瞬、固まった。
「……急ですね」
「急じゃない。ずっと見てたもん。リナ、エルクくんと話してるとき、ちょっとだけ顔が柔らかくなるんだよ。ほんのちょっとだけ。でも絶対になる」
サチコは窓の外を見た。夏の空が青い。
「……難しいんですよ、いろいろ」
「なんで?」
「私には、事情があって」
「二回目の人生とか?」
サチコはぎょっとして、アンナを見た。
アンナは真剣な顔をしていた。
「リナ、私ね、たまに思うんだ。リナって、子どもじゃない気がするって。考え方が、話し方が、全部——もっと長く生きた人みたいだって。だから、もしかして、って」
サチコは長い沈黙の後、「……なんで気づいたんですか」と言った。
「友達だから」とアンナは言った。
それだけだった。
サチコは天井を見た。目の奥が少し熱い。
「正直に言えば、長い話になります」
「夜中まで聞く」
「本当に長いですよ」
「聞く!」
サチコは息を吐いた。
「田中サチコ、という人間がいました。日本という国に生きていた、四十三歳の独身の女でした——」
その夜、サチコは初めて、誰かに前世の話をした。
アンナは最後まで、一言も遮らずに聞いた。
翌日。
エルクが研究室の扉を開けると、いつものようにサチコが先に来ていた。
でも今日は何かが違った。
羊皮紙を広げているが、手が動いていない。窓の外を見ている。
「どうした」
「少し、考え事を」
エルクは自分の椅子に座った。
「昨日、アンナに話したんです。私の——来歴を」
「来歴?」
「少し変わった、生まれ方の話を。以前、いつか話すと言っていたので」
エルクは黙って聞いている。
「信じてもらえると思っていなかったのに、信じてもらえた。それが少し——」
「動揺している」
「はい」
エルクは羊皮紙を手に取り、しばらく眺めた。それから、ゆっくりと言った。
「僕にも、話すつもりはあるか」
サチコはエルクを見た。
「……話したら、引きますか」
「引くかどうかは聞いてから決める。聞く前に決めるのは非論理的だ」
サチコは小さく笑った。
「そうですね」
「で、どうする」
「話します」
「今?」
「今」
サチコは羊皮紙を脇に置いた。窓から夏の光が差し込んでいる。
「田中サチコ、という人間がいました——」
エルクは一度も遮らなかった。ただ静かに聞いていた。前世の話を、日本という国の話を、四十三年分の話を。話し終えたとき、夕暮れになっていた。
長い沈黙があった。
「……要するに」とエルクが言った。
「お前は別の世界から来た、前世の記憶を持つ魂が、この体に入っている、と」
「そうです」
「だから年齢が合っていない気がしたのか」
「そういうことです」
エルクは眼鏡を外して、目を押さえた。考えているときの癖だ。サチコはよく知っている。
「引きましたか」
「いや」とエルクは言った。即座に。「むしろ——」
「むしろ?」
エルクは眼鏡をかけ直して、サチコを見た。
「謎が解けた。ずっと不思議だったことの、全部の答えが出た」
「謎が解けた」
「そうだ。つまり、お前が対等に話せる理由も、魔法の発想が独特な理由も、年齢に合わない落ち着きも——全部、説明がつく」
サチコはしばらく黙った。
「……それだけですか。謎が解けた、という感想だけ?」
「あとは」エルクは少し間を置いた。「別の世界から来た人間が、今ここにいることが——良かったと思っている」
サチコの目の奥が、また少し熱くなった。
「エルク」
「……何だ」
「今世では、誰かそばにいてくれる人が欲しいな、と思っています。前世では、ひとりだったから」
沈黙。
窓の外で、夏の虫が鳴き始めた。
「症状が悪化している」とエルクはやがて言った。
「症状?」
「以前、お前の顔を見ないと調子が出ないと言っただろう。最近、それが悪化していて——声を聞かないと調子が出ない、名前を呼ばれないと調子が出ない、という段階に進んでいる」
サチコは笑った。今度は堪えきれなかった。
「エルクは本当に正直ですね」
「遠回しに言う意味がわからないと言っただろう」
「私もそういうところ、好きです」
「症状のことか」
「正直なところが」
今度の沈黙は、やわらかかった。
エルクが羊皮紙を広げた。
「続きをやるぞ。並列回路の話の続きだ」
「はい」
でも今日はなかなか研究が進まなかった。ふたりとも、なんとなく、はかどらなかった。
それがまた、悪くなかった。




