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六月。
事件は突然だった。
魔法実技の授業中、学院の中央広場で上級生が大規模魔法の練習をしていた。
複数の生徒が同時に魔法陣を組む、連携魔法だ。
サチコは中庭でエルクと次の研究の話をしていた。アンナは別の授業中だった。
轟音がした。
魔法陣の一部が暴走した。通常、制御できる範囲のはずが——どこかの接続が切れ、魔力が制御を失って広場中に放出された。
逃げ遅れた下級生が数人、衝撃で倒れた。
建物の壁にひびが入る。中庭の木が根元から折れた。
騒然とした空気の中で、サチコは走った。
倒れている生徒のひとりに駆け寄る。足を抑えて呻いている。
骨折ではないが、魔力の衝撃を全身に受けている。
体の中の魔力の流れが乱れている——あの夜、子猫に触れたときと同じように、サチコには感じることができた。
整える。
乱れた川を、元の流れに戻す感覚。強引にではなく、自然な方向に。
「リナ、何をしている」エルクが追いついてきた。
「体の中の魔力が乱れている。流れを戻している」
「それは——治癒魔法士でも難しい技術だ」
「難しいですね。でもできないことはない」
サチコは集中した。三人分の「乱れ」を順番に、落ち着いて整えていく。
時間がかかる。でも焦れば失敗する。これは前世で覚えた、繁忙期の仕事と同じ感覚だった。
一件ずつ、確実に。
十五分後、三人の生徒の呻き声が静かになった。
教師たちが駆けつけた頃には、サチコは静かに立ち上がっていた。
「リナ、今何をした」カーロ先生が血相を変えて来た。
「応急処置です」
「体内魔力の調整は、専門の治癒魔法士が五年学んでできる技術だ。それを——」
「結果的にできましたが、正直しんどいです」とサチコは言った。
「少し座ってもいいですか」
どっと疲れが出た。足元がふらつく。前世でいう残業で徹夜した後のような感覚だった。
エルクが素早く手を出した。サチコの腕を掴んで、支えた。
「……ありがとうございます」
エルクは何も言わなかった。でも手を離さなかった。
サチコはそのまま、地面に座り込んだ。エルクが隣にしゃがんで、黙ってそこにいた。
変わったな、この子も。
出会った頃は、他人への関心を持たない顔をしていた。今は——こうして、黙って隣にいてくれる。
「エルク」
「何だ」
「ありがとう」
「礼を言われることをした覚えはない」
「いてくれるだけでいいんです」
エルクは黙った。耳が赤い。今日は夏の始まりで、涼しくない。
その夜、研究室でエルクが言った。
「リナ」
「はい」
「今日のことだが」
「はい」
「無茶をするな」
サチコは羊皮紙から顔を上げた。エルクは机の上を見ていた。
「僕は——」エルクは言葉を選んでいる。「君が何者かは、まだわからない。でも」
「でも?」
「君がいなくなると、困る」
サチコはしばらく、その言葉を心の中で転がした。
(困る。)
この年齢の男の子が言える最大限の告白に近い何かだ、と四十三年の経験が判定した。
「困りますか」
「困る。研究が進まない。それだけじゃなく——」エルクはようやくサチコを見た。
「お前の顔を見ないと、調子が出ない。最近そういう症状が出ている」
「症状」
「なんと呼べばいいかわからないが、症状だ」
サチコは小さく笑った。笑いたくて笑ったわけじゃなかった。
ただ、胸の奥があたたかくなって、それが笑いになった。
「エルク、あなたは正直ですね」
「遠回しに言う意味がわからない」
「いいことだと思います」サチコはまた羊皮紙に目を落とした。
「私も、あなたがいると調子が出ます。研究が楽しいのも、半分以上はあなたのおかげです」
沈黙が落ちた。
やがてエルクが、ぼそっと言った。
「リナ」
「はい」
「……なんでもない」
なんでもなくないのは、わかっている。
でもサチコは急かさなかった。この子はきっと、言葉を育てるのに時間がかかる。
それでいい。急かして出てきた言葉より、時間をかけて出てきた言葉の方が、ずっと大切だ。
四十三年でそれだけは、ちゃんと学んでいた。




