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第5話 人間界



その夜、俺は眠らなかった。


魔石ランプが放つ薄暗い紫色の光の下、俺は硬い石のベッドの上であぐらをかき、膝の上に『魔力精錬術』を広げていた。


ページをめくる。


『精気吸収が"個"を対象とするならば、魔力吸収は"場"を対象とする。空気中に漂う魔素、大地に眠る地脈の魔力、さらには複数の生物から同時に——あらゆる魔力を、己のコアに取り込む技術である。』


さらに、赤い文字の注意書きがあった。


『ただし——この技術を真に精錬するには、魔族の魔力だけでは不十分である。魔族の魔力は"濁"に属し、人間の魔力は"清"に属す。清濁両方を取り込んでこそ、魔力の純度は飛躍的に向上する。』


——つまり、レベルアップしたければ人間の魔力を吸え、と。


俺はスキルブックに記された通りに修練を始めた。目を閉じ、意識を集中し、大気中の魔素を感知する。《邪道の鬼才》の加速効果が働き、通常なら数週間かかる内容を数時間で習得していった。


ピコン♪ ピコン♪ ピコン♪


【スキル《魔力吸収 LV3》を習得!】

【スキル《魔力変換 LV1》を習得!】

【スキル《魔力強化 LV1》を習得!】


気づけば、窓の外が白んでいた。


だが——スキルを習得しただけでは足りない。スキルブックが明記している。人間の「清」の魔力を取り込まなければ、真の精錬には至れない。


俺はこの体を見下ろした。細い腕。白い肌。どこからどう見ても——人間だ。


魔王軍の魔紋は長袖で隠せる。見た目は完全に人間そのもの。


潜入するなら——今しかない。


俺は魔導プレートを開いた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【任務】人間領域・潜入偵察

報酬:12功績pt

内容:人間の街「エルドバレー」の情勢を偵察し、

   報告せよ。

備考:転送陣使用可。出口は近郊の洞窟。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


偵察任務を受注しつつ、人間の魔力を吸収して修練する。一石二鳥だ。


「受注する」



魔王城地下三層の転送陣から、紫色の光に包まれること数秒——


目を開けると、暗闇だった。


冷たく湿った空気。天井から水滴が落ちる音。足元はごつごつとした岩肌。


洞窟の中だ。


俺は右手に小さな火を灯し、洞窟の中を歩き始めた。約十分後、前方に白い光が見え——


「——っ」


洞窟の出口から飛び込んできたのは、本物の太陽光だった。


暖かく、明るく、容赦なく眩しい。


青い空。白い雲。風に揺れる緑の草原。風中に青草と湿った土の匂いが混じり合い、鼻腔に届いてくる。


30年間、東京の六畳一間で暮らしてきた俺には——この景色だけで、胸の奥が熱くなった。


魔王城の人工太陽とは何もかもが違う。これが、本物の「外の世界」だ。


だが感傷に浸っている暇はない。


俺は洞窟の出口に立ち、周囲を見渡した。


なだらかな丘陵地帯が広がっている。見渡す限りの草原で、遠くに森の稜線が見える。道らしきものは——見当たらない。


魔導プレートを確認する。


『エルドバレーの方角:南東。推定距離:不明。洞窟出口付近に道標あり。』


道標——。


俺は洞窟の周囲を探した。岩肌に半ば埋もれるようにして、朽ちかけた木の柱が立っていた。文字が刻まれているが、風雨で摩耗しており、辛うじて矢印と「エルド——」の文字だけが読み取れた。


矢印の方向は——南東。丘陵を越えた先だ。


「目測じゃ分からんな……まあ、歩くしかないか」


俺は丘を下り始めた。



歩き始めて——かれこれ一時間が経過していた。


草原はどこまでも続いている。丘を越えても、また丘。その向こうにも、また丘。景色が変わらない。


道らしきものは相変わらず見つからず、ただ草を踏みしめて南東に歩くだけだ。


太陽は中天をやや過ぎた位置にある。時間は午後の早い時間帯だろう。風が心地よく、気温もちょうどいい。


歩くこと自体は苦ではなかった。《魔力変換》で大気中の魔素を吸収し、スタミナに変換しているおかげで、疲労はほとんどない。


だが——問題は方角だ。


魔導プレートの地図機能は、魔王城の周辺しかカバーしていない。人間の領域に入った途端、地図は真っ白になった。コンパスすら持っていない俺は、太陽の位置だけを頼りに南東を目指すしかなかった。


「こんなことなら、地図を買っておくべきだったな……」


ゲームなら、マップは最初から開放されているか、少なくともミニマップくらいはある。だが現実にはそんな便利なものはない。


俺は五つ目の丘の頂上に立ち、周囲を見渡した。


草原。森。草原。遠くに川が光っている。


——街は、見えない。


「……迷ったか?」


嫌な予感がした。


いや、迷ったというより——そもそも、洞窟から街までの正確な距離を知らなかったのだ。「近郊」とだけ書いてあったが、この世界の「近郊」が何キロを意味するのか、誰も教えてくれなかった。


ゲームなら「近郊」は徒歩五分だ。だが現実の「近郊」は——下手をすれば十キロ以上ある。


「クソ……運営に問い合わせたい」


俺はため息をついて、再び歩き出そうとした。


その時だった。


風向きが変わり——風に乗って、かすかな音が耳に届いた。


最初は空耳かと思った。草原を渡る風の音と、遠くで鳴く鳥の声。それだけだと思った。


だが——もう一度、聞こえた。


今度ははっきりと。


「——ッ!!」


悲鳴だ。


女の悲鳴。若い。切羽詰まった声。


俺は反射的に、音のする方角を見た。


南——丘陵の向こう側。おそらく三百メートルほど先。草原の中に、木立が点在する一帯がある。声はそこから聞こえてくる。


「やめて——お願い——!!」


二度目の悲鳴。今度はもっと近い。いや、風向きのせいで距離が変わったのか。


だが——声に含まれた恐怖は、間違いようがなかった。



俺は走った。


丘を駆け下り、草原を突っ切る。長い草が足に絡みつくが、構わず走る。


《魔力強化 LV1》——発動。全身の筋力が一時的に底上げされ、病弱デバフの影響を受けているはずの体が、信じられない速度で草原を駆け抜ける。


三百メートルは、あっという間だった。


木立の手前で足を止め、身を低くして様子を窺う。


木々の間を抜ける細い道があった。わだちの跡がかすかに残っている。街道——とまではいかないが、人や馬車が通る道だ。


その道の真ん中に——一台の馬車が止まっていた。


馬車の車輪が片方外れて傾いている。荷台から荷物が散乱し、御者台には——人が倒れていた。初老の男。胸に深い刺し傷があり、すでに動いていない。


馬は二頭。一頭は繋がれたまま怯えて暴れており、もう一頭は繋ぎ縄を引きちぎって逃げたらしく、姿が見えない。


そして——馬車の脇に、五人の男がいた。


全員が汚れた革鎧を身に纏い、腰に短剣や粗末な片手剣を帯びている。顔は日焼けして皮が剥け、髪は脂で固まっている。体格は大きく、目つきは獣のように鋭い。


街道を行く旅人や商人を襲う——盗賊だ。


そして、男たちの足元に——二人の少女が押さえつけられていた。


一人は栗色の長い髪を持つ少女だった。


年齢は十五、六歳くらいだろうか。肌は白く、顔立ちが整っている。着ているドレスは——元は仕立ての良いものだったのだろうが、肩から胸元にかけて大きく引き裂かれ、白い肌が午後の陽光の下に露わになっていた。


少女は必死に体を丸めて抵抗しているが、両腕を背後で押さえつけられ、身動きが取れない。緑色の瞳は恐怖に見開かれ、涙が頬を伝い落ちている。


もう一人は——それよりやや年上の女性。二十歳前後だろうか。赤みがかった短い髪を持ち、意志の強そうな瞳で男たちを睨みつけている。こちらも侍女風の服を着ており、胸元が大きく裂かれて、片手で必死に押さえていた。もう片方の手で、栗色の髪の少女を庇おうとしている。


「大人しくしろって言ってんだろうが」


男の一人——顎髭を生やした壮年の男が、赤髪の女性の頬を平手で打った。


パンッ、と乾いた音が草原に響く。


女性は頬を押さえたが、視線は逸らさなかった。


「この子には……手を出さないで……!」


「うるせえな。嬢ちゃんの方が上物なんだよ。先にそっちを頂くぜ」


顎髭の男が、栗色の少女に手を伸ばした。


少女の目が恐怖で凍りつく。


「いや……いやぁっ……!!」


布が裂ける音。


少女の絶叫が、草原の風に乗って広がった。



俺は——木立の陰から、その光景を見ていた。


頭の中では、冷静な計算が回っている。


五人。全員武装。俺は丸腰ではないが、骨髄剣は目立ちすぎる。この状況で魔王軍の正規兵だとバレるわけにはいかない。


正面から斬り込めば勝てるかもしれない。だが——人間の領域で人を斬れば、たとえ盗賊相手でも厄介なことになる可能性がある。


なら——。


《魔力吸収》を使う。


触れずに、傷つけずに、無力化する。


これなら証拠も残らない。誰にも説明する必要がない。相手は「なぜか急に力が抜けた」としか認識できない。


完璧な手段だ。


——だが。


正直に言えば、そんな理詰めの計算で動いたわけじゃない。


「いやっ……! お願い、やめて……!」


少女の泣き声が聞こえた瞬間——俺の体は、もう動いていた。


30年間のクソみたいな人生。唯一の趣味がゲーム。彼女いない歴イコール年齢。テンプレのように冴えない社畜人生。


だが——ゲームの中で、俺はいつだって「助ける側」だった。


困っているNPCがいれば助けた。仲間がピンチなら駆けつけた。弱い者がいじめられていれば、割って入った。


それが正しい遊び方だと信じていた。


なら——現実でも同じだ。



俺は木立の陰から歩み出た。


「おい」


静かに、だが通る声で呼びかけた。


五人の男が一斉に振り返る。


「何だぁ?」


顎髭の男が、短剣の柄に手をかけた。


俺の風体を見て——警戒は薄い。当然だ。くたびれた旅人風の外套に革のブーツ。武器は見当たらない。痩せた若い男が一人。脅威とは思わないだろう。


「旅の者だが——道を尋ねたい。エルドバレーはどちらの方角だ?」


俺は極力自然な口調で言った。


顎髭の男が鼻で笑う。


「道を聞きに来たぁ? 見ての通り取り込み中だ。失せな。さもなきゃ——」


男が短剣を抜いた。


「——こいつの錆にしてやるぞ」


「そうか」


俺は頷いた。


——その瞬間、《魔力吸収 LV4》を発動した。


五人の男の体を中心に、魔力の「回路」を一気に展開する。蜘蛛の巣のような不可視の網が、彼ら全員を包み込む。


そして——吸った。


大気中の残滓を拾うような穏やかな吸収ではない。標的を絞った、直接吸収。彼らの体内にある魔力に、俺の魔力を共鳴させ——根こそぎ、引き抜く。


「——っ!?」


最初に異変に気づいたのは、顎髭の男だった。


抜いたばかりの短剣が——手から滑り落ちた。


握る力がない。指が動かない。膝が笑い、体が前のめりに傾く。


「な……何だ……?」


男は自分の手を見た。震えている。力が入らない。まるで全身の血が一瞬で抜かれたような——


「体が……動かねえ……!」


二人目の男が叫んだ。壁のない場所で、壁にもたれかかるように体が傾いていく。


三人目は少女の腕を離した。立っていられなくなったのだ。膝をつき、荒い息をつく。目は恐怖で見開かれている。


四人目と五人目は——逃げようとした。だが、足がもつれて二歩も進めない。まるで泥の中を歩くように、体が言うことを聞かない。


数秒後——


五人全員が、地面に崩れ落ちた。


誰も立ち上がれない。誰も剣を振れない。意識はあるが、指一本動かせない。


人間の魔力は、体の基礎的な生命活動と結びついている。魔力を極端に失えば、筋力も気力も維持できなくなる。死にはしない——だが、数時間は完全に無力化される。


「何を……何をしやがった……!」


顎髭の男が、地面に這いつくばったまま叫んだ。


俺は答えなかった。


代わりに——五人の男から吸収した魔力が、体内で渦を巻くのを感じていた。


人間の魔力——「清」の力。


スキルブックの記述通りだ。魔族の「濁」とは明らかに質が違う。澄んでいて、温かく、しかし力強い。


体の奥底で、既に持っていた「濁」の魔力と融合が始まっている。互いの不純物を打ち消し合い、残るのは——純度の高い、透明な魔力。


ピコン♪


【《魔力吸収》LV4 → LV5 に進化!】

【清濁融合による精錬効率が大幅に向上しました】


——思わぬ副産物だ。


盗賊を無力化しただけでなく、スキルまでレベルアップした。一石二鳥どころか一石三鳥。


だが——今はそんなことより。


俺は盗賊から視線を外し、二人の少女に目を向けた。


栗色の髪の少女は——呆然としていた。


引き裂かれた服を両手で押さえ、涙で濡れた緑の瞳が、信じられないものを見るように俺を見上げている。


赤髪の女性も、庇うように少女の前に立ちながら、警戒と驚きが入り混じった目で俺を見ていた。


俺は——何を言うべきか、一瞬迷った。


ゲームなら格好いい台詞を吐くところだ。「大丈夫か?」とか、「もう安心しろ」とか。


だが——俺は元30歳社畜だ。格好いい台詞なんて、現実では一度も吐いたことがない。


結局、口から出たのは——


「……怪我はないか?」


——至って普通の一言だった。


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