第1話 魔王軍へようこそ
魔界、魔王城「イグニファル」。
ダンジョンの最深部のような威圧感を放つ玉座の間——ではなく、その遥か下層。
冒険者ギルドの受付カウンターを100倍陰気にしたような場所に、俺は立っていた。
壁には『新兵選別所』と書かれた錆びた看板。天井からぶら下がる魔石ランプが薄暗い紫色の光を放っている。床は黒い大理石で、どこからか冷たい風が吹き込んでくる。あと、かすかに血の匂いがする。
BGMがあるとしたら、絶対に不穏なストリングスが流れているタイプのダンジョンだ。
黒崎遊真——俺は、選別待ちの列に並んでいた。
目を開けた瞬間、俺はすでにここに立っていた。頭の中には、この体の元の持ち主の記憶が断片的に流れ込んでくる。
どうやら、俺の置かれた状況は——かなりまずいらしい。
記憶によると、魔王軍は魔界全土を支配しており、各地から「貢物」として下級魔族や異世界人を徴収しているという。
百年に一度、辺境の村々から大量の「見習い兵」が本営に送られてくる。魔王軍は代わりにその村を魔獣の襲撃から守る——という建前だ。
一見すると、これは魔王軍で出世し、のし上がる絶好のチャンスに聞こえる。
しかし実際には、上級魔族の子弟でここに来たがる者は一人もいない。「供物」として送られてくるのは、俺のような最底辺の存在だけだ。
なぜなら——
毎年何千何万もの見習い兵が送り込まれるというのに、正規兵の数は一向に増えない。
見習い兵たちは次々と音信不通になり、まるで配属先が戦場ではなく、底なしの奈落であるかのように消えていく。
考えただけでも背筋が凍る。
「道理で体がこんなにボロボロなわけだ……まるで搾りカスみたいだ……」
俺は自分の腕を握ってみた。ぷにぷに。筋肉のきの字もない。これ本当に男の腕か? さらに気が滅入ってきたところで、立ち上がろうとした瞬間——
ズキン。
胸に鋭い痛みが走った。
「っ……この体、ガチでヤバくないか……?」
俺は思わず顔をしかめた。これはもはや虚弱とかいうレベルじゃない。完全に末期状態で、あと何日もつかも怪しい。
転生した瞬間にゲームオーバーとか、どんなクソゲーだよ。運営に問い合わせたい。
まさに絶望しかけた——その時だった。
俺の目の前に、小さな光の粒が現れた。
それは見る見るうちに膨らんで、半透明のウィンドウになった。
```
-------------------
STATUS
-------------------
名前:黒崎遊真
種族:人間(転生者)
ランク:F−(見習い兵)
HP:8/100【危険】
MP:2/10
筋力:E
耐久:E−
敏捷:D
魔力:E−
幸運:E−
【スキル】
なし
【称号】
なし
【所持金】
0ゴルド
【装備】
なし
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
```
おお、これだよこれ。異世界転生といえばステータス画面。
……と思ったが。
「HP8って何だよ。死にかけじゃねえか」
しかも全ステータスがE〜E−。最底辺もいいところだ。幸運すらE−って、どんだけツイてないんだ俺。
そして何より——
「スキル……なし?」
嘘だろ。
転生したらチートスキルの一つや二つ、もらえるもんじゃないのか?
《鑑定》とか《無限収納》とか《全属性魔法適性》とか。そういうやつ。
なんで俺だけ素手で放り出されてんだ。
運営、マジで仕事しろ。
俺がステータス画面を睨みつけていると——
ピコン♪
新しいウィンドウが開いた。
```
-------------------
STATUS
-------------------
【固有スキル】が検出されました
スキル名:《リトライ》
レアリティ:???
【効果】
死亡時、自動的に「初期地点」へ帰還
(現在の初期地点:新兵選別所)
【継承システム】
死に戻り時、以下から一つを選択可能
① 前世の「スキル」を全て継承
② 前世の「ステータス」を一部継承
③ 前世の「アイテム」を全て継承
④ 全てを放棄 → ランダムギフト獲得
【残り回数】
100/100
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
```
「…………」
俺は5秒ほど固まった。
それから——
「すまんシステム、お前が神だ」
さっきクソとか言ってごめん。マジでごめん。
100回のやり直し——これはどれほど巨大な財産だ?
しかも死ぬたびに前世の成果を引き継げる。
つまり——1周目は情報収集、2周目はスキル継承、3周目はステータス強化……これを繰り返せば、最底辺のF−ランクからでも、いつかは頂点に——
「名前を呼ばれた者は前に出ろ」
その時、冷たい声が響いた。
顔を上げると、選別カウンターの奥に一人の悪魔が現れていた。
黒いローブ。手には分厚い名簿。表情は陰鬱そのもので、目は——虫けらを見るような目だ。
「左腕を出せ」
悪魔はそう言って、黒い杖を取り出した。
「魔王軍の証——『隷属の刻印』を刻む。これでお前たちは正式に魔王軍の見習い兵となる」
この言葉を聞いても、誰一人として喜ぶ者はいなかった。
ここに送られてきた者の大半は、魔王軍の恐ろしい噂を耳にしている。この「見習い兵」という身分が、福ではなく禍であることを知っているからだ。
しかし黒ローブの悪魔は皆の気持ちなど意に介さず、淡々と名前を呼び始めた。
「ザルク」
「はいっ!」
名前が呼ばれると、俺の隣にいた銀髪の少年が元気よく立ち上がり、軽い足取りで悪魔の前に歩み出た。
この少年は非常に整った顔立ちをしていた。輝くような大きな瞳はまるで言葉を発するかのようで、何より眉目の間には、凡人でも見て取れる魔力の輝きがある。その立ち居振る舞いから見ても聡明で、人間界なら名門学院が争って欲しがる逸材に違いない。
案の定、黒ローブの悪魔も目を見開いた。
「ほう……生まれながらの魔力持ちか。素晴らしい」
「恐れ入ります」
少年は恭しく頭を下げた。その礼儀正しさと幼さが相まって、思わず好感を抱かせる。
黒ローブの悪魔はさらに満足げに頷いた。
「良い良い。我が魔王軍には、お前のような人材が必要だ」
——その言葉が終わった瞬間。
悪魔は杖を軽く振った。
ドサッ。
次の瞬間、何の前触れもなく、さっきまで輝いていた銀髪の少年は白目を剥いて地面に倒れ——そのまま、動かなくなった。
「…………は?」
俺は思わず声を漏らした。周りの見習い兵たちも、呆然と口を開けている。
黒ローブの悪魔は、それを済ませてから何気なく命じた。
「血液と肉は錬金課へ、骨と魂魄は鍛造課へ、内臓は魔獣課へ送れ。これほど優秀な素材、無駄にするな」
たった数言で、俺たちは完全に凍りついた。
悪魔はその様子を見て、口元を歪めた。
「諸君、誤解するな」
「我が魔王軍は常に『価値』を重んじる。兵の優秀さを測る基準は、軍にどれだけの価値を生み出せるかだ」
「先ほどの者は生まれながらの魔力持ち、骨格も優秀。——死んでこそ、軍に最大の価値を生み出せる。だから死んだのだ」
「だが諸君は資質が凡庸。生きてこそ価値がある。——だから心配するな」
「次」
悪魔は淡々と点呼を続けた。
見習い兵たちは恐怖に震えながらも、従うしかなかった。銀髪の少年の二の舞になることを恐れて。
「黒崎遊真」
「……はい」
俺は返事をして、前に出た。表情は恭しく保つ。内心はめちゃくちゃビビっているが、顔には出さない。
黒ローブの悪魔の視線が、真っ先に俺の顔に落ちた。
一瞬——ほんの一瞬だけ、悪魔の目に興味の色が浮かんだ。
だが、すぐに俺の体格を確認し始めて——
「……ふん」
失望したように鼻を鳴らした。
どうやら、俺は顔以外に取り柄がないらしい。
悪魔は杖を俺の左腕に押し当てた。
焼けるような痛み。
腕を見ると、黒い魔法陣のような紋様が浮かび上がっていた。
「この刻印は魔王城の結界と連動している」
悪魔は無表情に言った。
「脱走、裏切り、命令違反——その瞬間、刻印が発動してお前の心臓を握り潰す。あと、死んだら刻印は自動的に消える。つまり、お前が生きているかどうかは本部で常に把握されている」
悪魔は一拍置いて、
「——逃げ場はない」
……物騒すぎる。
悪魔は名簿に何かを書き込んだ。
「配属先:第七師団サキュバス課。——行け」
「……了解しました」
俺は魔導プレートを受け取り、その場を離れた。
◇
選別が終わった後、俺は一枚の黒い金属プレートを手にしていた。
表面には俺の名前と配属先——『第七師団サキュバス課・見習い』——が刻まれている。
それに加えて、一冊の薄い本も配られた。
表紙には『魅惑術・基礎編』と書かれている。俺が配属されたサキュバス課の基礎スキルブックで、これを習得すれば最低限の魔力操作ができるようになるらしい。
案内役の老いた下級悪魔が、俺たちを先導しながら説明した。背中は曲がり、片足を引きずっている。長年の激務で体を壊したのか、それとも元からこうなのか。
「プレートは身分証明だ。常に携帯しろ」
老悪魔は振り返りもせずに言った。
「魔王城の結界はこのプレートで個人を識別する。持っていなければ『侵入者』と見なされ、自動排除される。——ある日うっかり忘れて死んでも、俺のせいじゃないからな」
……さっきの刻印といい、このプレートといい。
魔王軍、セキュリティだけは厳重だな。
しばらく歩いて、俺たちはある建物の前に連れてこられた。
その建物は——
「…………」
——ピンク色だった。
周囲の黒っぽい建築と比べて、明らかに浮いている。外壁にはハートマークの装飾。入口の看板には『♡サキュバス課♡』とデカデカと書かれている。
なんというか、その——
「ラブホかよ……」
思わず呟いた。
すると——
「あら、新人?」
甘い声がした。
建物の入口に、一人の女が立っていた。
——いや、『女』という表現では足りない。
長い銀髪。紅い瞳。白磁のような肌。頭からは小さな角が二本、背中からはコウモリのような翼と細い尻尾が伸びている。
黒いドレスは深いスリットが入っており、太腿の付け根まで露わになっている。歩くたびに揺れる、その——いや、見るな。見たら負けだ。
「ゴクリ……」
隣から、誰かが唾を飲み込む音がはっきりと聞こえた。
俺たちの視線を受けても、女は恥じらうどころか、口元を隠してクスクスと笑いながら——
細い指で、腰のスリットをめくり上げた。
スリットの下、太腿に——魔導プレートがぶら下がっていた。
プレートに刻まれた名前:『セラフィナ・アビスゲート』
「ここがサキュバス課よ。私はセラフィナ、皆さんの先輩ってところかしら」
次の瞬間、俺はセラフィナと名乗った女の視線が、俺に注がれているのに気づいた。
真っ直ぐに。隠そうともせずに。
「あら、こんなに顔のいい後輩がいるなんて。——絶対、うちの新人ね」
セラフィナは軽く笑うと、蛇のようにくねらせた腰を揺らしながら、一歩一歩、俺の前まで歩いてきた。
甘い香りが鼻をくすぐる。目のやり場に困る。
「なかなかいい顔してるじゃない。ついてきて、サキュバス課について説明してあげるわ」
俺は慌てて頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします」
「そんなに硬くならなくていいのよ?」
セラフィナは艶っぽく俺を一瞥すると、身を翻し、蛇腰を揺らしながら歩き出した。周りの見習い兵たちは、目を奪われて固まっている。
俺はあまり見ないようにしながら、黙ってついていく。
「我が魔王軍の兵士には、ランクがあるの」
セラフィナは歩きながら説明を始めた。
「Fランクが見習い、Eが一般兵、Dが正規兵、Cが小隊長クラス……Sランクは魔王直属の四天王ね。あなたたち見習いは、当然Fランクからのスタート」
「ランクアップの条件は?」
「任務達成、功績ポイント獲得、上官の推薦——まあ、色々あるわ」
セラフィナは肩をすくめた。
「でもあなたは運がいいわよ。サキュバス課に配属されたんだもの。他の課みたいに、初日から死ぬような任務はないわ」
「他の課は……?」
「例えば魔獣課は、毎日キラーアントの巣穴を掃除するの。生存率は1年で3割」
「……それヤバくないですか」
「錬金課はもっとヤバいわよ。実験素材として『使われる』側だから」
「それもう配属じゃなくて処刑では」
「だから、サキュバス課は『マシ』なの」
そこまで言うと、セラフィナは突然、俺の傍に身を寄せてきた。
「ね、サキュバス課の任務、知りたい?」
次の瞬間——
俺の耳元に、熱い吐息がかかった。鼻先には甘い香りが漂う。振り返ると、艶やかな美貌が至近距離にあった。
「っ……!」
心臓が跳ねた。本能が警鐘を鳴らしている。
「そ、それは……ぜひ、教えてください」
俺はなんとか声を絞り出した。
「ふふ——」
セラフィナは満足げに微笑んだ。
「それはね——」
甘い声が、耳元で囁く。まるで恋人が愛を語るように——
「——修行よ♡」
俺は思わず息を呑んだ。
(第1章 完)




