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第6話「猶予の条件」

ライトな百合x成長物語です。

4話、8話、14話がキリのいいポイントです!

15話以降、甘々予定!

 喫茶店のテーブルに、紙が増えた。

 増えた、というより――"積もった"。


 紅茶の湯気の上を、付箋がはためく。パンフレットの紙は少し硬くて、指でなぞるとざらりとした抵抗がある。コピー用紙は薄く、指先の熱でふにゃりと撓む。

 いつものこの場所は、甘い匂いと、少し焦げたコーヒーの匂いと、古い木の匂いでできていたのに。今日はそこへ、インクと紙と、緊張の匂いが混ざっている。


 秋穂は髪をきっちり結び、ペンを走らせていた。

 書く音が細く、速い。図書室で本をめくる音みたいに、静かなのに意志がある音。


 私は資料の束を整えながら、思う。

 これ、本当に、家庭の話なんだろうか。

 会議みたいだ。試験みたいだ。


 でも――秋穂の母親に向き合うなら、たぶんこれくらいでちょうどいい。

 ふわっとした気持ちのままでは、刃に触れてしまう。


「……ここ、数字が古い」

 秋穂が、指でグラフの端を叩いた。

「去年の統計。最新は今年。訂正する」


「了解」

 私はスマホを開いて、検索結果をスクロールする。画面の光が指の腹に冷たい。

「こっち、更新されてる。就職率、少し上がってる」


「……採用する」

 秋穂の声は淡々としている。淡々としているのに、喉の奥に熱がある。

 "あきらめない熱"だ。


 パンフレットには、制服姿の学生が笑っている写真が載っている。

 秋穂はそれを見ない。

 写真よりも、下に小さく書かれた"カリキュラム"と"資格"と"就職支援"の段だけを拾う。必要な部分だけを、過不足なく。


 私はその姿が、綺麗だと思う。

 綺麗、という言葉は軽いかもしれないけど、私にはそれしかない。


「菓子職人って、"夢"じゃなくて"職業"だよね」

 私が言うと、秋穂は小さく頷いた。


「うん。だから……夢の話だけじゃ通らない」

「秋穂のお母さん、理屈でしか納得しない感じ?」

「……理屈と、結果」


 結果。

 その単語が、テーブルの上に重く落ちる。


 秋穂はノートに箇条書きを並べた。

 文字が小さく、整っている。行間まできっちり揃っていて、余白が少ない。余白がないのは、たぶん秋穂の心の中も同じだ。


 ・なぜ菓子職人になりたいか(動機)

 ・どう学ぶか(専門学校/資格)

 ・どう働くか(就職/キャリア)

 ・成績は維持できるか(計画)

 ・校則の問題バイト

 ・学費の負担(自分で払う)


「順番、これでいい?」

 秋穂が私を見る。


「うん。筋が通ってる」

 私は言って、少しだけ笑った。

 秋穂が「……笑うところ?」という顔をする。


「笑ったんじゃなくて、安心した。秋穂、ちゃんと"言える形"にしてる」

「……形にしないと、壊れる」

 秋穂がぽつりと言った。


 壊れる。

 夢が。自分が。


 私は喉の奥がきゅっとなるのを感じて、あえて明るく言った。


「じゃあ、壊れない形にしよう。二人で」

「……二人で」

 秋穂が小さく復唱する。

 その復唱が、少し嬉しそうに聞こえた。


 カウンターの奥から、マスターが新聞を畳む音がした。

 紙が擦れる乾いた音のあと、マスターがこちらへ歩いてくる。足音がゆっくりで、床がきしむ。


「ほんとに真剣だねえ。甘い匂いより、紙の匂いが勝ってる」

 マスターが笑いながら、コーヒーのポットを置いた。


 秋穂が小さく眉をひそめる。

「……見ないで」

「見ないよ。見ないけど、聞こえるんだよ。耳は勝手に働く」

「……うるさい」

「うるさいって言えるのは余裕がある証拠」

 マスターは肩をすくめ、私に目を向けた。

「美春ちゃんも、顔が"決める"になってきたね」


 私は、え、という顔になった。

 "決める"って、顔に出るものなの?


 秋穂が私に紙を一枚差し出す。

「……美春も、話す?」

「え」

「美春の言葉は、届く。私は言い方が硬いから」

 秋穂は一瞬だけ視線を逸らして、続ける。

「それに……一人だと、途中で折れる」


 折れる。

 秋穂が自分の弱さを言葉にする。

 それだけで、胸が痛いくらい大きな出来事だ。


 私は返事をする前に、深呼吸をひとつした。

 怖い。

 でも、最近の私は、怖いことを"後回し"にしたくない。


「……行く」

 私は言った。

「一緒に行く。秋穂が言えないところ、私が補う。私が言えないところ、秋穂が補う」


 秋穂の肩が、ほんの少しだけ落ちた。

 息が吐けたみたいに。


「……ありがとう」

 声が小さいのに、きちんと温度がある。


 マスターが、ぽん、とテーブルを軽く叩いた。

「よし。じゃあ今日の宿題は、想定質問の洗い出し。香織さんは、"質問で殴る"タイプだろ?」

「殴るって……」

 私が言うと、マスターは笑う。

「殴るよ。正しさってやつでね。だから盾も槍も準備だ」


 秋穂が小さくうなずく。

「質問、想定する」

 言い方が、もう会議だ。


 私たちはそのまま、想定問答を作った。

 "なぜ大学ではだめなの?"

 "収入の見通しは?"

 "失敗したときのプランは?"

 "成績が落ちたら?"

 "校則は?"

 "危なくないの?"

 "あなたは続けられるの?"


 秋穂は、ひとつひとつ答えを準備した。

 答えに詰まるたび、私は言葉を言い換えた。

 硬い言葉を、相手の耳に届く形にする。

 逃げ道ではなく、橋にする。


 その作業をしている時、私ははっきり気づいていた。

 ――私は、誰かの"夢"の隣に座っている。

 文化祭の成功とか、クラスの空気とか、そういうものよりずっと手触りのあるものの隣に。


 そのことが、嬉しかった。


     ◇


 プレゼン当日。

 空は驚くほど青かった。青さが眩しすぎて、逆に怖い。

 私は秋穂と並んで歩きながら、何度も手のひらを握りしめた。汗で指が少し滑る。


 秋穂の家は、駅から少し離れた住宅街にあった。

 門があって、庭があって、鉢植えが整然と並んでいる。

 この家には、"整える"という価値観が根付いている。

 秋穂のきっちりしたところは、きっとここで育ったんだ。


 インターホンを押す秋穂の指が、ほんの少しだけ震えた。

 私はその震えに気づいて、目だけで言う。――大丈夫。

 秋穂は小さく頷いた。

「大丈夫じゃなくても、やる」


 ドアが開く。

 現れたのは、秋穂によく似た目をした女性――香織さんだった。髪はきちんとまとめられ、服装にも隙がない。冷たいわけじゃないのに、温度が一定。体温というより室温。


「いらっしゃい」

 声が静かだ。

 香織さんの視線が私に止まる。止まった瞬間、刺さる。


「そちらは?」

「同じクラスの、結城美春」

 秋穂が言う。

 香織さんは眉をほんの少し動かした。驚きではなく、情報処理の動き。


「友達?」

「はい」

 私は反射で答えてしまって、胸がちくりとした。

 友達――それだけで片づけるには、もう私は秋穂のことを知ってしまっている。


 香織さんは「どうぞ」とだけ言い、リビングへ案内した。

 机の上には余計なものがない。床にも何も落ちていない。

 空間が、ちゃんとしている。

 私はその"ちゃんとしている"に、少し息が詰まる。喫茶店の黄色い光とは正反対の場所だ。


 香織さんは向かいに座り、メモ帳とペンを手元に置いた。

 家庭の話なのに、議事録を取る体勢。

 秋穂の背筋が、さらに伸びる。


 香織さんは「話して」と言う前に、カップを置いた。

 秋穂の前に一つ。私の前に一つ。

 カップの置き方が、妙に丁寧だった。音がしない。

 砂糖とミルクが、最初から"二人分"並んでいる。


「どうぞ」

 香織さんが言う。

 声は静かなのに、温度が――ほんの少しだけある。


 秋穂が「……ありがとう」と小さく言った。

 その声が、震えている。

 お茶を出されたからじゃない。

 "拒絶されていない"ことを、行動で示されたから。


 私は、カップに手を伸ばす。

 温かい。

 冷たくない。

 それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。


 秋穂が息を吸う。

「……私、菓子職人になりたい」


 言い切った瞬間、空気が少し硬くなる。

 香織さんは予想していた言葉を聞いた顔で、すぐに問いを置いた。


「大学じゃなくて?」

「うん」

「理由は?」

「好きだから」

 秋穂が答えかけて、すぐ言い直す。

「……好きだから、続けたい。仕事にしたい」


 秋穂は準備してきた順番で話した。

 専門学校のカリキュラム。資格の取得。就職支援。卒業後の進路。

 学費は自分で払うつもりで、そのためにバイトが必要だということ。

 そして、成績維持のための勉強計画。


 秋穂の声は震えているのに、言葉は崩れない。

 ガラスを両手で抱えて、落とさないように運んでいるみたいだ。


 香織さんは途中で遮らなかった。

 ただ、ペン先だけが紙の上を滑る。

 さらさら、という音が、妙に大きく聞こえる。


 秋穂の説明が終わったとき、香織さんは一拍置いて言った。


「現実を見なさい」

 言葉は静かなのに、胸に落ちると冷たい。

「不安定よ。体力も必要。賃金も高くない。続けられる保証もない」

 香織さんは淡々と続ける。

「あなたは成績がいい。大学に行けば選択肢が広がる。わざわざリスクを取る必要がない」


 正しい。

 正しさは、刃みたいに滑らかで、触れると切れる。

 反論すれば、反論した側が幼く見える。


 秋穂の指が膝の上でぎゅっと握られる。

 拳が震える。

 言葉が詰まる。

 その詰まりが、自己否定の癖に見えて、私は怖くなる。


 ここで秋穂が「夢なんて贅沢」と言ってしまったら。

 ここで折れたら、今までの準備が全部"間違い"にされる。


 私は、怖さを飲み込んで口を開いた。


「……すみません」

 自分の声が、思ったより響いた。

 香織さんの視線が私に向く。鋭い。

 でも、逃げない。


「結城さん」

 香織さんが名前を呼ぶ。

「あなたは、何の立場でここにいるの?」


 ――立場。

 私は一瞬詰まった。

 友達、という言葉が喉に浮かぶ。

 でも今日は、"空気を丸くする答え"を出したくない。


 私は、決めた。

 自分の意思で言う。


「……秋穂の話を、最後まで聞いてほしい立場です」

 言ってしまって、胸が熱くなる。

 香織さんの眉がわずかに動く。

 感情ではなく、評価の動き。


 私は続けた。


「私は、秋穂が作ったお菓子を食べたことがあります」

「……喫茶店の?」

 香織さんが確認する。

 秋穂の肩がわずかに強張る。


「はい」

 私は頷く。

「味が、ちゃんと違うんです。甘いだけじゃなくて、奥にちゃんと苦味があって、香りが残る」

 言いながら、自分でも変な表現だと思う。でも、嘘じゃない。


「それは、技術と努力の結果だと思います。才能って言うと軽いけど……でも、"向いてる"って、こういうことだと思いました」

 香織さんは黙っている。

 黙って聞いてくれることが、逆に怖い。


 だから私は、逃げずに"現実"の話に踏み込む。


「香織さんの心配が、分かります」

「……分かる?」

 香織さんの声が少しだけ硬くなる。

 試されている。


「分かります」

 私は言った。

「不安定な仕事だって。失敗するかもしれないって。秋穂が傷つくかもしれないって」

 言いながら、指先が冷たくなる。

 でも、言葉は止めない。


「だから、条件を作るのは正しいと思います」

 香織さんが少し目を細めた。

 条件――その単語に反応した。


 私は、ここで初めて"提案"を出す。

 ただの感想じゃなく、決めるための言葉。


 私は、ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。

 手汗で少しふにゃっとしている。昨夜、秋穂と喫茶店で作った"想定問答"。

 香織さんの視線が紙に向く。一瞬だけ、眉が動いた。


「すみません、その、準備してきたので……」

 私は紙を広げる。指先が震える。

 文字が少し滲んでいるのが見える。でも、読める。


「あの、夏休みを……テストみたい、じゃなくて」

 言い間違えた。

 香織さんの視線が鋭くなる。

 私は息を吸い直す。


「夏休みを、"試験期間"にしてほしいです」

 香織さんのペン先が止まる。

 秋穂も驚いた顔で私を見る。


「夏休みの間に、秋穂がどれだけ自分の計画を守れるか。勉強とバイトと、お菓子の練習を両立できるか」

 準備してきたメモをめくる。


「もしできたら、続ける。できなかったら、やめる」

 言い切ると、香織さんの目がさらに細くなる。

 "それで本気か?"と問いかけているみたいに。


 私は続けた。


「成果報告も、毎回します。数字で」

 秋穂が小さく息を呑む。

 きつい条件だ。でも、ここで甘いことを言ったら、逆に香織さんは信じない。


 香織さんが、私と秋穂を交互に見た。

 "二人"を評価している目。


「あなたたち、簡単に言うわね」

 香織さんが言う。

「じゃあ、条件を積みます」


 私の背筋が伸びる。

 香織さんのペン先が紙を叩く。コツ、コツ、と。


「週に一回。成績の進捗、夏期講習の内容、模試の結果、生活リズム、バイトの勤務日数――全部、記録して見せなさい」

 秋穂の肩が強張る。


 そこで香織さんが、私に視線を向けた。


「結城さん。あなたは、どこまで手伝えるの?」


 私は一瞬だけ喉が乾く。

 でも、今日は逃げない。


「……週に一回、秋穂と一緒に勉強計画を見直します」

「それだけ?」

 香織さんの声が鋭い。

 私は、準備してきた紙をもう一度見る。

 ふにゃっとした紙。秋穂の字と私の字が混ざっている。


「必要なら、先生にも相談します。秋穂が一人で抱え込まないように――」

 言いながら、自分でも驚く。

 紙に書いてあったはずの言葉が、今は自分の言葉になっている。


 言いながら、自分でも驚く。

 私はいつも、責任が怖くて逃げてきたのに。

 今は逃げたくない。


 香織さんは、私と秋穂を交互に見た。

 "二人"を評価している目。


「……秋穂」

 香織さんが言う。

「あなたは、それをやり切れるの?」

 秋穂の喉が動く。

 怖い、という言葉が出そうな顔。

 でも秋穂は、目を逸らさずに言った。


「やり切る」

 声が震えている。

 震えているのに、逃げない声。


 香織さんは、そこで初めて息を吐いた。

 長く、深く。

 それは怒りの溜息じゃない。

 "覚悟を測る"ために止めていた呼吸を、ようやく解いたみたいな吐息だった。


 香織さんが言う。

「夏休みは遊ぶものよ。息抜きも必要」

 そこに、ほんの少しだけ母親の温度が混じる。

 "壊れてほしくない"という温度。


 秋穂が小さく言った。

「息抜き、する。……でも、逃げない」


 香織さんは、しばらく沈黙した。

 ペンを置き、指先でメモ帳の端を揃える。

 整える動作。

 その整え方に、感情が隠れている気がした。


 やがて香織さんは、決裁するみたいに言う。


「分かった」

 一瞬、私の胸が浮く。

 でも、香織さんは続けた。


「"条件付き許可"じゃない。"猶予"よ」

 言葉が鋭い。

 簡単には折れない、という宣言。


「夏休みの間、あなたが提示した通り、成果報告をすること」

 香織さんは具体的に条件を積む。


 秋穂の肩が強張る。

 でも、それが"本気で向き合う"ということだ。


「報告が曖昧だったら、その時点で中止」

「……うん」

 秋穂が頷く。


「そして夏休みの終わりに、もう一度話し合う」

 香織さんの視線が秋穂に刺さる。

「その時に、私が納得できる"結果"が出ていなければ、バイトも専門学校も、すべて白紙」

 言い切って、香織さんは少しだけ声を落とした。


「あなたが傷つくのが嫌なの」

 それは、正しさの刃じゃなくて、母の言葉だった。


 秋穂が目を見開く。

 その目に、一瞬だけ涙が浮かぶ。

 でも秋穂は泣かずに言った。


「……分かってる」

「分かってるなら、証明しなさい」

 香織さんは厳しいまま、でもどこか震えている。


 私はその震えを見て、香織さんがただ"敵"ではないことを改めて理解する。

 怖い人だ。厳しい人だ。

 でも、秋穂を守ろうとしている。

 守り方が硬いだけで。


 香織さんは立ち上がった。

 会議終了の動作。


 でも、扉へ向かう前に、香織さんは秋穂を見た。

 秋穂の肩が強張っている。

 疲れが、目の下にうっすら浮かんでいる。


「……今日はもう十分」

 香織さんが言った。

 声が、ほんの少しだけ落ちる。

「夕飯までには帰ってきなさい。続きは、夏休みの終わりに」


 秋穂が目を見開く。

 その目に、涙が浮かぶ。

「逃げ道」をもらえたみたいに。


 でも香織さんは、すぐに付け加える。

「条件は、変わらない」

 視線が鋭くなる。

「成績の報告は続く。曖昧だったら、中止」

 厳しい。

 でも、守るための厳しさ。


 私は、香織さんが単なる"敵"ではないことを、改めて理解する。


 秋穂に向けて言い、ドアの方へ向かう。

 去り際、香織さんは私を振り返った。


「結城さん」

「はい」


「……あなたは、責任が取れるの?」

 その問いは鋭い。

 私の弱いところを正確に刺す。


 でも、香織さんの声が――ほんの一瞬だけ落ちた。

 視線も、揺れた。

 試しているのか、確かめているのか。

 それとも、"娘を託していいか"を迷っているのか。


 私は一瞬だけ喉が乾く。

 でも、今日は"曖昧に笑う"を選ばない。


「取ります」

 言い切った。

「逃げません」


 香織さんの目が、さらに揺れた。

 でも今度は、驚きの揺れ。

 評価の揺れじゃない。

 "この子、本気だ"という揺れ。


「……そう」

 香織さんは短く言って、視線を逸らした。

 逸らすことで、自分の感情を隠すみたいに。


 残されたリビングの空気は、まだ固い。

 でも、さっきより少しだけ温度がある。

 私と秋穂の呼吸が、同じリズムで戻ってくる。


 秋穂が、ようやく息を吐いた。


「……終わった」

「終わってない」

 私は即答した。

「夏休みが、本番」


 秋穂が、苦い顔で笑う。

「……うん。本番」

 その笑顔は、逃げの笑いじゃない。

 覚悟の笑いだ。


「美春」

 秋穂が私の名前を呼ぶ。

 静かに、でもはっきり。


「さっきの……提案」

「うん」

「……なんで出たの」

 秋穂の目が、まっすぐ私に向く。


 私は胸の奥を探して、言葉を選ぶ。

 恋じゃない。

 まだ"恋心"と呼ぶには早い。

 でも、確かに"選びたいもの"がある。


「言わない方が、怖かったから」

 私は言った。

「秋穂が、また『贅沢』って言っちゃうのが怖かった」

「……」

「それに、私も練習したかった」

「練習?」

「自分で決める練習」

 私は笑って、でも逃げずに言う。

「秋穂のためでもあるけど、私のためでもある」


 秋穂は一瞬だけ目を逸らして、耳が少し赤くなる。

 それが可愛くて、私は見なかったふりをした。


「……ありがとう」

 秋穂が言う。

「一人だったら、途中で声が出なくなってた」


「私も」

 私は言った。

「一人だったら、黙って帰ってた。……でも、今日は黙りたくなかった」


 秋穂が小さく頷いた。

 その頷きが、私の胸の奥に残る。

 薄味じゃない。ちゃんとした味。


     ◇


 喫茶店のベルが鳴る。

 カラン。


 その音が、今日は少し違って聞こえた。

 "猶予をもらった音"。

 "条件の鎖が増えた音"。


 マスターがカウンターの奥から顔を上げる。

「おかえり。……お、顔が硬い。うまくいったのに硬いってことは、条件が重いな?」

「……重い」

 秋穂が小さく言う。

「夏休み、成果報告」

「ほう」

 マスターが眉を上げる。

「香織さん、簡単に折れなかったか」

「折れてない。猶予」

 私が言うと、マスターはふっと笑った。


「いいね」

「いいんですか」

「いいさ。夢を許すのに、相手が"覚悟"を求めるのは自然だ」

 マスターは二人分の紅茶を淹れながら言う。

「成果報告ってことはさ、夏に"結果"が必要なんだろ?」


 秋穂が頷く。

「……必要」

 声が少し固い。


 私はその固さを、握りしめるみたいに言葉にする。


「夏休み、ちゃんとやる」

「……うん」

 秋穂が私を見る。

「やる。やり切る」


 その瞬間、私は自分の中で何かが切り替わったのを感じた。

 文化祭の成功――それも大事。

 でも、今の目的はもう少し違う場所にある。


 秋穂の夢を、猶予で終わらせない。

 "白紙"に戻させない。


 それは、私が"決めて"いいことだと思った。

 誰かに合わせて選ぶんじゃなくて、自分の意思で選ぶことだと思った。


 マスターが紅茶を置く。

 湯気が立ち上る。

 その匂いが、いつもより少しだけ甘く感じるのは、たぶん――夏が近いからだ。


 秋穂がカップを両手で包み、ぽつりと言った。


「……美春、夏休み」

「うん」

「店、手伝って。……本気で」

「もちろん」

 私は即答した。

「本気でやる」


 私は、スマホを取り出した。

 画面に、新しいメモを開く。

 タイトルは「夏休み・成果報告」。


「記録、作ろう」

 私が言うと、秋穂が顔を上げる。

「香織さん、"記録して見せなさい"って言ってた。だから、続けられる形にする」


「……チェック表?」

「うん。週に一回、確認する。二人で」


 秋穂が、小さく笑った。

 震えてるのに、折れない笑い。


「……美春、本当に変わったね」

「変わった?」

「うん。前は、決めるの怖がってた」


 私は、少し照れて、でも逃げずに言う。


「今も怖い。でも――秋穂のためなら、怖がってる場合じゃない」


 秋穂の耳が、少し赤くなる。

 それが可愛くて、私は見なかったふりをした。


 マスターが、カウンターの奥から声を出す。


「責任ってのはな、"確認"だぞ」

 冗談めかした声なのに、重い。

「分かったつもり、やったつもり――そういうのが、いちばん危ない」


 秋穂が小さく頷く。

 私も頷く。


 秋穂が小さく笑った。

 震えてるのに、折れない笑い。


 マスターが、ふと思い出したように言う。


「そういえば、夏祭り出店の申し込み、しといたぞ」

「夏祭り?」

 秋穂が顔を上げる。

「ああ、町内会の。今年は店の名前出そうと思ってさ。申し込み締め切りギリギリだったけど、滑り込んだ」


 秋穂の目が、ほんの少し明るくなる。

「……限定、作りたい」

「いいねえ」

 マスターが笑う。

「詳細はチラシが来てからだけど、七月の最終週らしい」


「……間に合う?」

 秋穂が少し不安そうに聞く。

「間に合うさ。材料は早めに予約しとけば大丈夫」


 マスターの「予約しとけば」が、誰に向けた言葉なのか。

 私は一瞬、聞きそうになって――でも聞けなかった。

 マスターが全部やってくれる、と思ってしまった。


 秋穂も、小さく頷いただけだった。

 自分でやるつもりだったのか、マスターに任せたのか。

 そこを、確認しなかった。


 その小さな"聞けなさ"が、後で何を生むかを、私たちはまだ知らない。


 夏休みが来る。

 そして私たちは、"成果"を出さなきゃいけない夏になる。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

次回夏祭り前編!

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