表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/34

第34話「エピローグ:純白の祝福」

最終話です!

 卒業式から一週間。

 あの日、公園で桜の下、指切りしてキスをして――それでも世界は、意外と普通の顔をして、いつも通り回り続けた。


 感動の余韻を塗りつぶすように、現実的な事務手続きが押し寄せていた。

 朝起きて、書類を書いて、近所のスーパーに行って。

 制服を脱いでも、私が私であることは変わらない。

 ただ、スマホの通知に「秋穂」の名前が光るたび、一週間前より、ほんの少しだけ胸があたたかくなる。


 大学の書類に住所を書き込みながら、私はふと、あの日のマスターの言葉を思い出す。


 ――二人だけにしか頼めない、仕事。


 卒業式の夕暮れ、マスターが不敵に笑って告げたあの「予告」が、ずっと胸の端に引っかかっていた。

 そのとき、机の上のスマホが短く震えた。


 08:03 秋穂 おはよう

 08:04 秋穂 例の仕事の件、マスターから連絡があった

 08:04 秋穂 驚かないでね


 驚かないでね、という前振り。その時点で、私の心臓は少しだけ「仕事」以上の熱を帯びて走り始めた。


 私は慌てて上着を掴んで、鏡の前で髪を整えた。制服じゃない自分は、まだ少しだけ頼りない。けれど、指先で頬を押さえると、そこに確かに熱があって、「大丈夫」と言っている気がした。


 ――だって、もう卒業したんだ。

 同じクラス、っていう枠も、校舎も、掲示板も、もう背中にない。


 でも、秋穂はいる。

 喫茶店はある。

 マスターは、私たちのことを知っている。


 それだけで、息が少しだけ楽になる。


     ◇


 鈴が鳴る。


 カラン。


 いつもの音なのに、今日は特別に聞こえた。


 「おう」


 マスターの声に、胸がじんと温まる。

 あの日、震え声で「付き合ってます」と告白したとき、「知ってたよ」と返してくれた優しさが、まだ心の奥で光っている。


 今日のマスターは、いつも通り。

 それが逆に嬉しい。

 「秘密」が終わっても、「日常」は続いていく。


 カウンターの中のマスターが顔を上げた。


「卒業したってのに、ちゃんと来るな。えらい」


 からかうみたいな言い方なのに、目がやさしい。

 私は照れくさくて、軽く会釈する。


「ここ、来ないと……落ち着かないです」

「正直だな」


 そのとき、ドアの鈴がもう一度鳴った。


 振り向くと、秋穂が立っていた。私服の秋穂。黒髪が肩に落ちて、白いマフラーが首元にふわっと巻かれている。卒業式のあとに見た桜の色より、ほんの少しだけ落ち着いた春の色。


 目が合うと、秋穂が小さく笑って、こっそり手を振った。


 私はその瞬間、胸の奥がきゅっと鳴るのを感じた。

 ――制服じゃない秋穂は、やっぱり、少しだけ知らない人みたいで。

 でもその目の温度は、いつもと同じで。


 秋穂が私の隣の席に座ると、マスターが「ほらよ」と言って水を置いた。


「で、仕事って?」


 私が聞くと、マスターは顎で入り口のほうを示した。


「もうすぐ来る。俺の知り合いだ。……衣装関係の仕事してる」

「衣装……?」


 秋穂が、ほんの少しだけ肩をすくめる。さっきのメッセージの「驚かないでね」は、これだ。


 鈴が鳴った。


 入ってきたのは、背の高い女性だった。年は二十代後半くらい。髪はきっちりまとめていて、手には大きなガーメントバッグ。動きが早いのに、所作が丁寧で、店の空気を乱さない。


「マスター、ありがと。助かる!」


 明るい声で言ってから、私たちを見て一瞬目を丸くする。


「……え、二人とも、めっちゃ可愛い子じゃん」


 秋穂が、ぴくっと小さく反応した。私も、視線が泳ぐ。


「紹介する。麻里。衣装屋やってる」


 マスターが言って、意味深に笑った。


「で、こっちが、美春と秋穂」

「へえ! この子たちが」


 麻里さんが目を輝かせる。


「女性同士のウェディングフォト、撮影してるの。でもプロのモデルだと演技になっちゃうのよね。本当に大事にし合ってる二人の、自然な空気が欲しくて」


 麻里さんは真剣な目で私たちを見た。


「マスターに相談したら、"世界一お似合いの二人がいる"って」


 一瞬、店の音が遠のいた気がした。

 スプーンがカップに当たる音も、珈琲豆を挽く音も、全部。


「……ウェ、ウェディング……」

「うん。着るだけ。衣装合わせの手伝い。外に出さない。顔も出さない。ほんとに、お願い」


 お願い、の言い方が妙に真面目で、余計に怖い。


 私は秋穂を見る。

 秋穂も私を見る。

 そして、二人同時に、頬が熱くなる。


 ――結婚式。

 ウェディングドレス。

 それを、私たちが。


 頭の中で言葉がぐるぐる回って、まとまらない。


 そんな私たちを見て、マスターが何でもない顔で言った。


「ま、着るだけだ。やってやれ。……似合うだろ」

「マスター……!」


 私は抗議みたいに声を上げたけど、マスターは肩をすくめるだけだった。


 秋穂が、小さく息を吐いた。

 そして、私の指先にそっと触れる。


「……美春。嫌なら、断っていい」


 その声が落ち着いていて、逆に胸が締まる。


 嫌か、って言われたら――嫌じゃない。

 むしろ、怖い。

 怖いのに、どこかで、見てみたいと思ってしまう。


 秋穂がドレスを着たら、どんな顔をするんだろう。

 私が着たら、秋穂はどんな目をするんだろう。


 私は、喉の奥に溜まった空気を、ゆっくり外に出した。


「……やります。手伝います」


 秋穂が目を瞬かせる。


「美春……」

「だって……せっかく、頼ってくれたし」


 それは半分だけ本当で、もう半分は、言葉にできない胸の高鳴りだった。


 麻里さんが満足そうに頷いて、ガーメントバッグを持ち上げた。


「よし! 決まり! じゃ、うちのアトリエ、すぐそこだから。行こ!」


     ◇


 喫茶店から歩いて十分。

 商店街を抜けた先に、小さなビルがあった。二階の扉には、控えめな看板。中に入ると、白い布と、淡い色のドレスが整然と並んでいて、空気が少しだけ違う匂いをしていた。洗剤と、アイロンと、香水の残り香。


「こっち、更衣室ね」


 麻里さんに案内されて、私はカーテンで仕切られた小さなスペースに入った。


 椅子の上に置かれた白いドレス。

 近くで見ると、布はただ白いだけじゃなくて、光の角度で乳白色に揺れる。レースの模様が、細かい花みたいに浮かんでいる。


 ――こんなの、着るんだ。


 指先で触れると、思ったより柔らかい。ふわっと沈む。雲みたい。


「緊張してる?」


 カーテンの向こうから、秋穂の声がした。


「してる……」

「私も」


 珍しく、秋穂が小さく笑った気配がする。


「……美春、変なこと言っていい?」

「なに」

「今、心臓……オーブンみたいに熱い」


 思わず声が出て、私も笑ってしまう。

 こんな場面でまで、秋穂は秋穂だ。


 麻里さんの指示で、私たちはそれぞれドレスを着た。

 背中のファスナーを上げてもらって、ウエストを少し詰めてもらって、肩紐の位置を調整してもらって――


 鏡の前に立った瞬間、息が止まった。

 白い。自分が、白い。

 いつもの自分じゃない。でも、鏡の中の「白い自分」は、誰かのふりじゃなくて、ちゃんと私だった。


 そして、恐ろしいことに気づいた。

 この白いドレスを着た自分を、いちばん見せたい人がいる。

 その人も、今、同じ白を纏っている。


 向かいのカーテンが開いて、秋穂が出てくる。

 ――白いドレスの秋穂。


 その瞬間、胸の奥が、音を立てて跳ねた。

 秋穂は、一番完成された、触れるのをためらうほどの砂糖菓子みたいだった。

 レースの胸元が呼吸のたびにわずかに揺れる。

 ウエストはきゅっと締まって、スカートがふわりと広がる。


 これは、ただの「仕事」じゃない。

 私たちは今、未来を味見している。


 秋穂は鏡に映る自分ではなく、まっすぐに私を見た。


 その事実だけで、心臓が落ち着かない。


「……美春」


 呼ばれて、私はうまく返事ができなくて、ただ瞬きした。


 秋穂の耳が少し赤い。

 私も同じくらい赤いのが、自分でも分かる。


「……このレース、すごい」


 秋穂の指先が、自分の胸元の刺繍をそっとなぞる。


「シュガークラフトみたい。……細かくて、温度管理を間違えたらすぐに崩れそうな、繊細な手仕事」


 秋穂の言葉に、胸が熱くなる。

 レースの細かさを"手仕事"として見てしまうのは、秋穂らしい。


 でも、今はそれ以上に――怖い。


 秋穂がドレスを着て、私を見ている。

 その事実だけで、心臓が落ち着かない。


「……負けないよ」


 私が言うと、秋穂が目を瞬いた。


「負けないって?」

「秋穂のお菓子も、同じくらい繊細」


 秋穂の耳まで赤くなる。

 私も同じくらい赤いのが、自分でも分かる。


「……美春」

「なに」

「……そういうの、ずるい」


 ずるい、なんて言う秋穂が可愛くて、私は笑いそうになる。

 でも笑ったら、もっと恥ずかしくなるから、唇を噛んだ。


「え、何その空気! 甘い! 甘すぎ!」


 麻里さんが楽しそうに笑いながら、私たちの周りをぐるぐる回る。


「こっち、ベールつけてみよ。ほら、頭。はい、動かない」


 頭に薄いベールが落ちる。

 視界が少しだけ霞んで、世界が柔らかくなる。


 秋穂もベールをつけた。

 白い布の奥で、秋穂の目だけが妙にまっすぐで――それが、こわい。


「じゃ、歩いてみよ。ゆっくり前へ」


 麻里さんの声に従って、私たちは並んで歩いた。

 裾が床を擦る、ふわふわした音。

 それが、式場の通路の音みたいに聞こえてしまう。


 ――結婚式みた……


 喉まで出かけた言葉を、私は飲み込んだ。

 同じタイミングで、秋穂も息を詰めたのが分かる。


 目が合う。

 お互い、同じ言葉を言いかけたのが、顔に出ている。


「……言わないで」


 私が先に言うと、秋穂が悔しそうに目を細めた。


「……美春も、今言いかけた」

「言いかけてない」

「うそ」

「……うそじゃない」


 言い争ってるのに、声が小さい。

 "誰かに聞かれたら終わる"みたいな癖が、まだ残っている。


 麻里さんが「はい最高、もう一枚!」と笑って、私の頭の中が真っ白になった。

 真っ白なのに、秋穂の目だけは、ちゃんと見えていた。


     ◇


 着替え終えて、アトリエを出るころには、夕方の光になっていた。

 麻里さんは何度も頭を下げて、最後に小さな箱を渡してくれた。


「これ、うちの取引先の引き菓子。試作品。よかったら二人で食べて。今日のお礼」


 箱を開けると、小さなクッキーと、薄い砂糖菓子が入っていた。白と、淡いピンク。結婚式で配るやつだ、と分かってしまって、私はまた頬が熱くなる。


 秋穂も同じ顔をしていて、目が合った瞬間、二人で同時に視線を逸らした。


 帰り道、商店街の端を歩く。

 空は薄紫に変わり始めていて、風が少しだけ冷たい。


「……ねえ、美春」


 秋穂が言う。


「うん」

「さっきの……」

「言わないで」


 私が即答すると、秋穂が小さく笑った。


「……言わない」


 でも、その声が楽しそうで、私は腹が立つより、心臓が困った。


     ◇


 喫茶店の灯りは、いつも通りの色だった。

 さっきまで白い布の中にいたのが嘘みたいに、コーヒーの匂いが現実を取り戻す。


 鈴が鳴る。

 マスターが顔を上げて、私たちの様子を見て、すぐに察したみたいに口角を上げた。


「おかえり。……どうだった」

「どうって……」


 私は言葉に詰まる。


 秋穂が、少しだけ咳払いをして、真面目な顔で言った。


「……仕事としては、ちゃんとできました」

「仕事として、な」


 マスターが笑う。


「で、似合ってたか?」

「……」


 私と秋穂が同時に固まる。

 マスターはそれ以上追及せずに、カウンターの奥から二つのマグカップを出した。


 青と白。

 あの日の箱の中のままの色。


「ほら。使ってみろよ。今日くらい」


 私たちは、黙って頷いた。


 マグカップに注がれたのは、甘いカフェオレだった。泡がふわっと浮いて、湯気が揺れる。


 私は青いマグを両手で包んだ。

 熱が指先から胸へ移ってくる。

 さっきのドレスの白より、こっちの温度の方がずっと怖くなくて、ずっと嬉しい。


 秋穂が白いマグを持って、一口飲む。

 それから、小さく言った。


「……今日、変だった」

「どっちが」

「全部。……でも、嫌じゃなかった」


 言い方が真面目すぎて、私は笑ってしまう。

 笑ったら、秋穂の耳がまた赤くなる。


 テーブルの上に、麻里さんからもらった小さな箱を置く。


「……食べる?」


 私が聞くと、秋穂が小さく頷いた。


「うん。……一緒に」


 砂糖菓子を一つ、指先でつまむ。淡いピンク。

 口に入れると、さらっと溶けて、甘さだけが残る。


 秋穂が、私を見る。


「……これからも、いろんな味が増えるね」

「うん。でも、大丈夫」


 秋穂が私の手の中の、白い砂糖菓子を見る。


「どんな新しい味も、最初はずっと、美春とがいい」


 その言葉が、花びらみたいに胸に舞い降りた。


 マグカップに注がれたのは、甘いカフェオレだった。

 青と白。テーブルに置かれた二つのマグカップが、まるで二人が寄り添っているように見えた。

 湯気が混ざり合って、一つになっている。


「最初の味見は、いつも君に」


 カフェオレのあたたかさが、青いマグから指に伝わる。

 その向こうで、白いマグを持つ秋穂の指先も、同じくらい赤い。


 マスターが言った「お前らの"温度"」は、たぶん、こういうことなんだと思う。


 きっとこれから、甘いものも、苦いものも、思ってもみなかった味も、たくさん、二人で味見していくんだろう。

 そう思うと、卒業式の涙も、桜の切なさも、ぜんぶまとめて、少しだけ甘く感じられた。


 "いつも通り"が、今日いちばんの祝福だった。


ありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ