第34話「エピローグ:純白の祝福」
最終話です!
卒業式から一週間。
あの日、公園で桜の下、指切りしてキスをして――それでも世界は、意外と普通の顔をして、いつも通り回り続けた。
感動の余韻を塗りつぶすように、現実的な事務手続きが押し寄せていた。
朝起きて、書類を書いて、近所のスーパーに行って。
制服を脱いでも、私が私であることは変わらない。
ただ、スマホの通知に「秋穂」の名前が光るたび、一週間前より、ほんの少しだけ胸があたたかくなる。
大学の書類に住所を書き込みながら、私はふと、あの日のマスターの言葉を思い出す。
――二人だけにしか頼めない、仕事。
卒業式の夕暮れ、マスターが不敵に笑って告げたあの「予告」が、ずっと胸の端に引っかかっていた。
そのとき、机の上のスマホが短く震えた。
08:03 秋穂 おはよう
08:04 秋穂 例の仕事の件、マスターから連絡があった
08:04 秋穂 驚かないでね
驚かないでね、という前振り。その時点で、私の心臓は少しだけ「仕事」以上の熱を帯びて走り始めた。
私は慌てて上着を掴んで、鏡の前で髪を整えた。制服じゃない自分は、まだ少しだけ頼りない。けれど、指先で頬を押さえると、そこに確かに熱があって、「大丈夫」と言っている気がした。
――だって、もう卒業したんだ。
同じクラス、っていう枠も、校舎も、掲示板も、もう背中にない。
でも、秋穂はいる。
喫茶店はある。
マスターは、私たちのことを知っている。
それだけで、息が少しだけ楽になる。
◇
鈴が鳴る。
カラン。
いつもの音なのに、今日は特別に聞こえた。
「おう」
マスターの声に、胸がじんと温まる。
あの日、震え声で「付き合ってます」と告白したとき、「知ってたよ」と返してくれた優しさが、まだ心の奥で光っている。
今日のマスターは、いつも通り。
それが逆に嬉しい。
「秘密」が終わっても、「日常」は続いていく。
カウンターの中のマスターが顔を上げた。
「卒業したってのに、ちゃんと来るな。えらい」
からかうみたいな言い方なのに、目がやさしい。
私は照れくさくて、軽く会釈する。
「ここ、来ないと……落ち着かないです」
「正直だな」
そのとき、ドアの鈴がもう一度鳴った。
振り向くと、秋穂が立っていた。私服の秋穂。黒髪が肩に落ちて、白いマフラーが首元にふわっと巻かれている。卒業式のあとに見た桜の色より、ほんの少しだけ落ち着いた春の色。
目が合うと、秋穂が小さく笑って、こっそり手を振った。
私はその瞬間、胸の奥がきゅっと鳴るのを感じた。
――制服じゃない秋穂は、やっぱり、少しだけ知らない人みたいで。
でもその目の温度は、いつもと同じで。
秋穂が私の隣の席に座ると、マスターが「ほらよ」と言って水を置いた。
「で、仕事って?」
私が聞くと、マスターは顎で入り口のほうを示した。
「もうすぐ来る。俺の知り合いだ。……衣装関係の仕事してる」
「衣装……?」
秋穂が、ほんの少しだけ肩をすくめる。さっきのメッセージの「驚かないでね」は、これだ。
鈴が鳴った。
入ってきたのは、背の高い女性だった。年は二十代後半くらい。髪はきっちりまとめていて、手には大きなガーメントバッグ。動きが早いのに、所作が丁寧で、店の空気を乱さない。
「マスター、ありがと。助かる!」
明るい声で言ってから、私たちを見て一瞬目を丸くする。
「……え、二人とも、めっちゃ可愛い子じゃん」
秋穂が、ぴくっと小さく反応した。私も、視線が泳ぐ。
「紹介する。麻里。衣装屋やってる」
マスターが言って、意味深に笑った。
「で、こっちが、美春と秋穂」
「へえ! この子たちが」
麻里さんが目を輝かせる。
「女性同士のウェディングフォト、撮影してるの。でもプロのモデルだと演技になっちゃうのよね。本当に大事にし合ってる二人の、自然な空気が欲しくて」
麻里さんは真剣な目で私たちを見た。
「マスターに相談したら、"世界一お似合いの二人がいる"って」
一瞬、店の音が遠のいた気がした。
スプーンがカップに当たる音も、珈琲豆を挽く音も、全部。
「……ウェ、ウェディング……」
「うん。着るだけ。衣装合わせの手伝い。外に出さない。顔も出さない。ほんとに、お願い」
お願い、の言い方が妙に真面目で、余計に怖い。
私は秋穂を見る。
秋穂も私を見る。
そして、二人同時に、頬が熱くなる。
――結婚式。
ウェディングドレス。
それを、私たちが。
頭の中で言葉がぐるぐる回って、まとまらない。
そんな私たちを見て、マスターが何でもない顔で言った。
「ま、着るだけだ。やってやれ。……似合うだろ」
「マスター……!」
私は抗議みたいに声を上げたけど、マスターは肩をすくめるだけだった。
秋穂が、小さく息を吐いた。
そして、私の指先にそっと触れる。
「……美春。嫌なら、断っていい」
その声が落ち着いていて、逆に胸が締まる。
嫌か、って言われたら――嫌じゃない。
むしろ、怖い。
怖いのに、どこかで、見てみたいと思ってしまう。
秋穂がドレスを着たら、どんな顔をするんだろう。
私が着たら、秋穂はどんな目をするんだろう。
私は、喉の奥に溜まった空気を、ゆっくり外に出した。
「……やります。手伝います」
秋穂が目を瞬かせる。
「美春……」
「だって……せっかく、頼ってくれたし」
それは半分だけ本当で、もう半分は、言葉にできない胸の高鳴りだった。
麻里さんが満足そうに頷いて、ガーメントバッグを持ち上げた。
「よし! 決まり! じゃ、うちのアトリエ、すぐそこだから。行こ!」
◇
喫茶店から歩いて十分。
商店街を抜けた先に、小さなビルがあった。二階の扉には、控えめな看板。中に入ると、白い布と、淡い色のドレスが整然と並んでいて、空気が少しだけ違う匂いをしていた。洗剤と、アイロンと、香水の残り香。
「こっち、更衣室ね」
麻里さんに案内されて、私はカーテンで仕切られた小さなスペースに入った。
椅子の上に置かれた白いドレス。
近くで見ると、布はただ白いだけじゃなくて、光の角度で乳白色に揺れる。レースの模様が、細かい花みたいに浮かんでいる。
――こんなの、着るんだ。
指先で触れると、思ったより柔らかい。ふわっと沈む。雲みたい。
「緊張してる?」
カーテンの向こうから、秋穂の声がした。
「してる……」
「私も」
珍しく、秋穂が小さく笑った気配がする。
「……美春、変なこと言っていい?」
「なに」
「今、心臓……オーブンみたいに熱い」
思わず声が出て、私も笑ってしまう。
こんな場面でまで、秋穂は秋穂だ。
麻里さんの指示で、私たちはそれぞれドレスを着た。
背中のファスナーを上げてもらって、ウエストを少し詰めてもらって、肩紐の位置を調整してもらって――
鏡の前に立った瞬間、息が止まった。
白い。自分が、白い。
いつもの自分じゃない。でも、鏡の中の「白い自分」は、誰かのふりじゃなくて、ちゃんと私だった。
そして、恐ろしいことに気づいた。
この白いドレスを着た自分を、いちばん見せたい人がいる。
その人も、今、同じ白を纏っている。
向かいのカーテンが開いて、秋穂が出てくる。
――白いドレスの秋穂。
その瞬間、胸の奥が、音を立てて跳ねた。
秋穂は、一番完成された、触れるのをためらうほどの砂糖菓子みたいだった。
レースの胸元が呼吸のたびにわずかに揺れる。
ウエストはきゅっと締まって、スカートがふわりと広がる。
これは、ただの「仕事」じゃない。
私たちは今、未来を味見している。
秋穂は鏡に映る自分ではなく、まっすぐに私を見た。
その事実だけで、心臓が落ち着かない。
「……美春」
呼ばれて、私はうまく返事ができなくて、ただ瞬きした。
秋穂の耳が少し赤い。
私も同じくらい赤いのが、自分でも分かる。
「……このレース、すごい」
秋穂の指先が、自分の胸元の刺繍をそっとなぞる。
「シュガークラフトみたい。……細かくて、温度管理を間違えたらすぐに崩れそうな、繊細な手仕事」
秋穂の言葉に、胸が熱くなる。
レースの細かさを"手仕事"として見てしまうのは、秋穂らしい。
でも、今はそれ以上に――怖い。
秋穂がドレスを着て、私を見ている。
その事実だけで、心臓が落ち着かない。
「……負けないよ」
私が言うと、秋穂が目を瞬いた。
「負けないって?」
「秋穂のお菓子も、同じくらい繊細」
秋穂の耳まで赤くなる。
私も同じくらい赤いのが、自分でも分かる。
「……美春」
「なに」
「……そういうの、ずるい」
ずるい、なんて言う秋穂が可愛くて、私は笑いそうになる。
でも笑ったら、もっと恥ずかしくなるから、唇を噛んだ。
「え、何その空気! 甘い! 甘すぎ!」
麻里さんが楽しそうに笑いながら、私たちの周りをぐるぐる回る。
「こっち、ベールつけてみよ。ほら、頭。はい、動かない」
頭に薄いベールが落ちる。
視界が少しだけ霞んで、世界が柔らかくなる。
秋穂もベールをつけた。
白い布の奥で、秋穂の目だけが妙にまっすぐで――それが、こわい。
「じゃ、歩いてみよ。ゆっくり前へ」
麻里さんの声に従って、私たちは並んで歩いた。
裾が床を擦る、ふわふわした音。
それが、式場の通路の音みたいに聞こえてしまう。
――結婚式みた……
喉まで出かけた言葉を、私は飲み込んだ。
同じタイミングで、秋穂も息を詰めたのが分かる。
目が合う。
お互い、同じ言葉を言いかけたのが、顔に出ている。
「……言わないで」
私が先に言うと、秋穂が悔しそうに目を細めた。
「……美春も、今言いかけた」
「言いかけてない」
「うそ」
「……うそじゃない」
言い争ってるのに、声が小さい。
"誰かに聞かれたら終わる"みたいな癖が、まだ残っている。
麻里さんが「はい最高、もう一枚!」と笑って、私の頭の中が真っ白になった。
真っ白なのに、秋穂の目だけは、ちゃんと見えていた。
◇
着替え終えて、アトリエを出るころには、夕方の光になっていた。
麻里さんは何度も頭を下げて、最後に小さな箱を渡してくれた。
「これ、うちの取引先の引き菓子。試作品。よかったら二人で食べて。今日のお礼」
箱を開けると、小さなクッキーと、薄い砂糖菓子が入っていた。白と、淡いピンク。結婚式で配るやつだ、と分かってしまって、私はまた頬が熱くなる。
秋穂も同じ顔をしていて、目が合った瞬間、二人で同時に視線を逸らした。
帰り道、商店街の端を歩く。
空は薄紫に変わり始めていて、風が少しだけ冷たい。
「……ねえ、美春」
秋穂が言う。
「うん」
「さっきの……」
「言わないで」
私が即答すると、秋穂が小さく笑った。
「……言わない」
でも、その声が楽しそうで、私は腹が立つより、心臓が困った。
◇
喫茶店の灯りは、いつも通りの色だった。
さっきまで白い布の中にいたのが嘘みたいに、コーヒーの匂いが現実を取り戻す。
鈴が鳴る。
マスターが顔を上げて、私たちの様子を見て、すぐに察したみたいに口角を上げた。
「おかえり。……どうだった」
「どうって……」
私は言葉に詰まる。
秋穂が、少しだけ咳払いをして、真面目な顔で言った。
「……仕事としては、ちゃんとできました」
「仕事として、な」
マスターが笑う。
「で、似合ってたか?」
「……」
私と秋穂が同時に固まる。
マスターはそれ以上追及せずに、カウンターの奥から二つのマグカップを出した。
青と白。
あの日の箱の中のままの色。
「ほら。使ってみろよ。今日くらい」
私たちは、黙って頷いた。
マグカップに注がれたのは、甘いカフェオレだった。泡がふわっと浮いて、湯気が揺れる。
私は青いマグを両手で包んだ。
熱が指先から胸へ移ってくる。
さっきのドレスの白より、こっちの温度の方がずっと怖くなくて、ずっと嬉しい。
秋穂が白いマグを持って、一口飲む。
それから、小さく言った。
「……今日、変だった」
「どっちが」
「全部。……でも、嫌じゃなかった」
言い方が真面目すぎて、私は笑ってしまう。
笑ったら、秋穂の耳がまた赤くなる。
テーブルの上に、麻里さんからもらった小さな箱を置く。
「……食べる?」
私が聞くと、秋穂が小さく頷いた。
「うん。……一緒に」
砂糖菓子を一つ、指先でつまむ。淡いピンク。
口に入れると、さらっと溶けて、甘さだけが残る。
秋穂が、私を見る。
「……これからも、いろんな味が増えるね」
「うん。でも、大丈夫」
秋穂が私の手の中の、白い砂糖菓子を見る。
「どんな新しい味も、最初はずっと、美春とがいい」
その言葉が、花びらみたいに胸に舞い降りた。
マグカップに注がれたのは、甘いカフェオレだった。
青と白。テーブルに置かれた二つのマグカップが、まるで二人が寄り添っているように見えた。
湯気が混ざり合って、一つになっている。
「最初の味見は、いつも君に」
カフェオレのあたたかさが、青いマグから指に伝わる。
その向こうで、白いマグを持つ秋穂の指先も、同じくらい赤い。
マスターが言った「お前らの"温度"」は、たぶん、こういうことなんだと思う。
きっとこれから、甘いものも、苦いものも、思ってもみなかった味も、たくさん、二人で味見していくんだろう。
そう思うと、卒業式の涙も、桜の切なさも、ぜんぶまとめて、少しだけ甘く感じられた。
"いつも通り"が、今日いちばんの祝福だった。
ありがとうございました!




