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第33話「桜の味」

ライトな百合x成長物語です。

 三月の空気は、二月よりずっと柔らかい。

 制服のブラウスに袖を通しながら、私は鏡の中の自分を見つめた。


 最後の朝。この襟元を整えるのも、リボンを結ぶのも、今日で終わる。

 指先が、いつもより遅い。まるで時間を引き延ばそうとするみたいに。

 でも時計の針は容赦なく進んで、七時十分を指している。


 なのに胸の奥だけが、細い針みたいに尖っていた。


 窓の外、桜のつぼみが揺れている。まだ咲いていないのに、もう「もうすぐ」と言ってくるみたいに。

 今日で、制服を着る朝が終わる。


 鏡の前で、最後の制服に袖を通した。

 襟を整える。リボンを結ぶ。指先が、いつもより遅い。


 一ヶ月前。バレンタインの夜。

 「マスターに話そう」と、秋穂と約束した。


 約束は、優しい。

 でも、逃げ場を奪う。


 鏡の中の私は、背筋を伸ばしている。

 「薄味」だった頃の私とは違う――そう言い切りたいのに、喉の奥に残る怖さは、まだ消えない。


 スマホが震えた。


 07:15 秋穂 おはよう。今日、一緒に学校、行きたい


 たったそれだけの文なのに、胸の中心がほどける。

 "最後の登校"に、秋穂が「一緒に」をくれる。


 返事を打つ指が、少しだけ震えた。


 07:16 美春:うん。

 07:16 美春:最後、ちゃんと一緒に行こ


 送信した瞬間、息が戻る。

 怖いのに、怖さの中で、確かに前に進める感じがした。


「美春、準備できた?」


 階段の下から母の声。


「うん、行く」


 リビングに降りると、母が私を見て、一瞬だけ目を細めた。笑っているのに、どこか寂しそうで。

 私は照れくさくて視線を逸らす。


「……大きくなったわね」

「……もう、そういうのやめて」

「だって、本当だもの」


 軽い言い方なのに、胸の奥へ沈んでいく。

 大きくなった、って。

 つまりこれからは、自分で選ぶってことだ。


「……いってきます」

「いってらっしゃい。美春」


 玄関の扉を閉める。

 冬と春の境目みたいな風が頬を撫でた。今日という日も、境目だ。


     ◇


 待ち合わせ場所に着くと、秋穂はもういた。

 制服姿で、いつもの場所に立っている。背筋が少しだけ伸びた、あの立ち方。


 目が合うと、秋穂が小さく手を振った。

 控えめなのに、ちゃんと私だけに向いている。


「美春」

「……秋穂」


 近づくと、秋穂が少しだけ笑う。

 朝の空気みたいに薄く、でも確かに温度のある笑い方。


「……最後だね」


「うん」


 短い言葉で、重さが共有される。

 秋穂の声が、胸の奥の尖りを少しだけ丸くする。


「寒くない?」

 秋穂が私のリボンのあたりを見る。指先が伸びかけて、ふっと止まる。

 人目を思い出したみたいに。


「大丈夫。……秋穂は?」

「私は、平気」


 その「平気」が、少しだけ固い。

 平気なふり。私と同じ。


 改札へ向かう途中、街がいつもより騒がしく感じる。卒業式の朝は、世界が勝手に祝っているみたいだ。

 ホームで電車を待ちながら、秋穂が小さく息を吐く。


「美春」

「なに?」

「今日のあと……話すんだよね」


 マスターへ。

 私たちの関係に、本当の名前をつける。


「うん。約束したから」


「……怖くない?」

 秋穂の問いは、逃げ道を作らない。


「怖いよ」


 正直に言うと、秋穂の目が少しだけ見開かれて――次の瞬間、眉がふっと下がる。


「……私も」


 二人で、ほんの少し笑った。

 笑ったのに、胸が詰まる。

 怖いのは同じ。それでも進むのも同じ。


 電車が来る。

 ドアが開く音に背中を押される。


「でも」

 秋穂が、私の袖をほんの少しだけつまんだ。人の波の隙間、誰にも見られないタイミングを選ぶ、こっそりの触れ方。


「怖いままで、いたくない」

「うん」

「だから、今日」

 秋穂の視線が、私の目に戻ってくる。


「……一緒に言う」


 その言葉が、嬉しくて、苦しくて、喉の奥が熱くなる。


「うん。一緒に」


 歩道橋の上から、桜並木が見えた。

 満開じゃない。七分咲きくらい。薄い桃色が枝の先で揺れて、風が吹くたびに花びらが一枚だけ落ちる。


「……去年も、ここ通ったね」

「うん」

「……ずっと、一緒だった」


 言ってしまったあと、自分の言葉に驚いた。

 秘密にしてきたのに、私の中ではずっと「隣」が当たり前だった。


 校門の前。

 看板が視界に入る。


 ――第51回 卒業証書授与式。


 本当に、終わる。


 秋穂が私の手を、そっと握った。

 一瞬だけ、熱が移る。すぐ離れる。

 その短さが、私たちらしい。慎重で、でももう離れない。


「……行こう」

「うん」


 二人で校門をくぐる。

 最後の登校。


     ◇


 体育館は、いつもより静かだった。

 音はあるのに、薄い膜がかかっているみたいな静けさ。椅子の軋み、足音、紙の擦れる音が、やけに鮮明に聞こえる。


 私は席に着く。

 秋穂もすぐ近く。隣ではないけれど、視界の端に入る距離。


 校長先生の声。祝辞。

 言葉の中身は毎年似ているはずなのに、今日は「終わり」という単語だけが、胸の中で重く鳴る。


 ふと秋穂を見る。

 秋穂は前を向いたまま、膝の上で指先を小さく動かしていた。癖。落ち着くための、静かな動き。


 私は、同じように膝の上で指を動かした。

 見えなくてもいい。伝わらなくてもいい。

 ただ、同じ呼吸でここにいることが、支えになる。


「周防秋穂」


 秋穂の名前が呼ばれる。

 秋穂が立ち上がる。壇上へ向かう背中が、まっすぐだ。


 証書を受け取って、一礼する。

 派手じゃないのに、凛として綺麗だった。

 私は息を吐く。誇らしい。自分のことみたいに。


 秋穂が席へ戻るとき、目が合う。

 ほんの少しだけ笑う。

 私は笑い返す。


「結城美春」


 名前が呼ばれた瞬間、身体の芯が一段固くなる。

 壇上へ向かう足音が、やけに大きい。


 証書を受け取る。

 紙一枚のはずなのに、三年間の重みがある。


 席へ戻る途中、秋穂を見る。

 秋穂が唇だけで「おめでとう」と形を作った。


 私は唇だけで「ありがとう」と返す。

 声にしない会話が、秘密のままなのに、どこか堂々としていた。

 もう逃げない、と決めたから。


 校歌。蛍の光。

 終わりの儀式は、ゆっくりで、あっけない。


     ◇


 教室に戻ると、もう「教室」じゃなくなっていた。

 机の上の荷物はなく、黒板に寄せ書き。チョークの粉の白さすら、愛しい。


 写真を撮る声。笑い声。

 笑いの奥に、別れが混ざっていて、胸の奥がざわざわする。


 窓際の私の席。

 その後ろ、秋穂の席。


 秋穂はもう座っていた。

 私が近づくと振り向く。


「美春」

「秋穂」


 窓の外。校庭の端の桜が揺れている。

 朝より少し開いた気がした。満開じゃない。途中。

 ――今の私たちみたいだ。


「美春!」

 れいなが私の肩を叩く。


「また遊ぼうね」

「うん……ありがとう、れいな」

「泣くなよ」

「泣いてないって」

「はいはい」


 れいなが秋穂へ視線を移す。


「あ、周防さんも。卒業おめでと」

「……ありがとう」


 秋穂が丁寧に頭を下げると、れいなは満足そうに頷いた。


「二人ともさ、これからも仲良くね」


 その言葉に、私と秋穂は目を合わせる。

 れいなは、たぶん全部わかってる。わかってるけど言わない。言わないことで守ってくれている。


「……うん」


 それからも、何人かが声をかけてくれた。

 軽い挨拶が、「最後」だと思うだけで胸がきゅっとなる。


 クラスメイトたちが一人、また一人と教室を出ていく。

 扉が閉まる音が、そのたびに小さな区切りになる。


 やがて教室には、私と秋穂だけが残った。


 静かだ。

 窓の外から鳥の声と、風の音だけ。


 秋穂が立ち上がって、私の隣に来る。

 肩に触れそうで触れない距離。

 同じ窓の外を見る。


「……ここで、いろんなことあったね」


 秋穂の声が、少しだけ震えている。


「二年のときも、三年のときも、ずっと一緒で」


 言った途端、喉の奥が熱くなる。

 積み重なった時間が、今日で全部"箱"にしまわれるみたいで。


 秋穂が私の手を取った。

 教室にはもう誰もいない。隠さなくていい。


「美春……ありがとう」

「……私のほうこそ」


 言葉がうまく出ない。

 秋穂が小さく笑う。


「泣かないで。まだ、これから」

「……分かってる」


 私は目を擦って、秋穂を見る。


「……行こう。マスターのところ」

 秋穂が強く頷いた。


「うん」


 手を離して、鞄を持つ。

 教室の空気がふっと遠のく。

 私たちは「卒業」から「始まり」へ歩き出す。


     ◇


 学校を出ると、風が吹いた。

 桜並木の下を二人で歩く。朝より花の色が濃い。八分咲きくらい。

 花びらが舞って、制服の肩に触れて、消える。


「……もうすぐ満開だね」

「うん。春だね」


 嬉しい。寂しい。怖い。楽しみ。

 全部が同時に揺れて、胸の中が忙しい。


 少し歩いたところで、秋穂が歩調を緩めた。


「美春……やっぱり、怖い」


 秋穂がそんなふうに言うのは珍しい。

 いつもは「大丈夫」を先に出すのに、今日は先に本音。


「私も」


 二人で、また少し笑ってしまう。

 笑いながら、泣きそうになる。


「でも」


 秋穂が私の手を握る。今度は、はっきり。

 一瞬だけ強く握って、それから指を絡めるのはやめて、普通の握り方に戻す。人目を忘れてはいない。けれど、もう離れない。


「二人なら、言える」

「うん。二人なら」


 角を曲がると、喫茶店の看板が見えた。

 いつもの文字。いつもの場所。


 でも今日は、ここで――秘密を終わらせる。


 深呼吸。

 秋穂が、そっと私の背中に手を添える。


「美春。大丈夫」


 その温度を胸にしまって、私はドアを押した。


     ◇


 鈴が鳴る。

 いつもの音なのに、今日はやけに大きい。心臓の鼓動と重なるみたいに。


 カウンターの中で、マスターが顔を上げた。


「おう。卒業おめでとう、美春ちゃん、秋穂ちゃん」

「……ありがとうございます」


 私と秋穂が同時に頭を下げる。

 マスターは私たちの顔を交互に見て、少しだけ目を細めた。


「……なんだ、二人とも。妙に緊張してんな」


 喉が締まる。舌が乾く。手のひらに汗が滲む。


「あ、あの……」


 声が情けないくらい小さい。

 マスターは、磨いていたボウルを拭く手を止めた。

 待つ。急かさない。

 その態度が、いつもより優しく見える。


 私は秋穂を見る。

 秋穂は震える指先で私の手を強く握ると、逃げ場をなくすみたいに一歩、前へ出た。

 職人の顔じゃない。

 ただの、一人の女の子の顔で。


     ◇


【秋穂】


 美春の指先が震えてる。

 私も震えてる。

 でも言うって決めた。美春だけに背負わせない。


「……マスター」


 声が揺れる。喉が熱い。

 それでも言う。


「私たち……付き合ってます」


 言葉にした瞬間、店の空気が止まった気がした。

 冷蔵庫のモーター音だけがやけに大きく聞こえて、コーヒーの香りがいつもより鋭く鼻をついた。

 時計の音も、外の車の音も、自分の心臓の音さえも、遠くなる。


     ◇


【美春】


 秋穂が言った。

 小さいのに、はっきりした声。

 私が何度も練習した「言う」という行為を、秋穂が先にやってくれた。


 私は秋穂の手を握り返して、マスターを見る。


「……はい。私たち、恋人です」


 言葉にした瞬間、胸の奥が痛いくらい軽くなる。

 怖かったのに、言ったら終わりじゃなくて、始まりなんだって気づく。


 マスターは、少しだけ目を瞬いた。

 それから――ゆっくり、笑った。


「……そうか」


 声はいつも通りのぶっきらぼう。

 そのまま、予想を全部ひっくり返す。


「知ってたよ」

「……え?」

「……え?」


 私と秋穂が同時に声を出してしまう。

 マスターが、少しだけおかしそうに笑う。


「だって、バレバレだったろ。去年のバレンタインも、それに――」


 マスターはカウンターに肘をつき、目を細めた。


「去年の夏祭りの夜。完売の札を貼った直後、お前ら屋台の裏で、世界が終わるみたいに抱き合ってただろ。あんなもん見せられて、気づかないわけがない」


 顔が一気に熱くなる。

 恥ずかしすぎる。

 "バレないように"必死で、でも私たちは、案外まっすぐだったのかもしれない。


「……バレて、ました?」

 秋穂が小さな声。耳まで赤い。


「ああ。手の繋ぎ方とか、目の合わせ方とか。隠してるつもりでも、店の中じゃすぐ分かる」

 マスターは、そこまで言って少しだけ間を置いた。


「俺にはずっと、お前らの"温度"が伝わってた」


 "温度"。

 その言葉が胸の中心に落ちて、じんと広がる。


 私は思わず顔を覆う。

 秋穂も口元に手を当てて、視線を彷徨わせる。


「でもな」


 マスターがカップを置いて、私たちを見る。

 目が、ふっと柔らかくなる。


「言ってくれて、よかった」


 その言い方が優しい。

 胸の奥が、ほどける。


「隠してる間は、お前らも、しんどかっただろ。言うのも、怖かっただろ」


 私は頷く。言葉にすると崩れそうで、頷くしかできない。


「でも、ちゃんと言葉にした。それは、えらい」


 子どもみたいな言い方なのに、胸にずしんと来た。

 私たちが守ってきたものを、マスターが"ちゃんとしてる"って認めてくれた気がした。


「……マスターは、私たちのこと……」


 秋穂が小さく言う。


「応援してるに決まってんだろ」


 即答。迷いがない。


「お前らが幸せなら、それでいい。誰が誰を好きだろうと、俺には関係ない」


 そこで少しだけ、声が低くなる。


「ただ――お互いを、大事にしろ。それだけだ」


 祝福みたいに聞こえた。

 私はもう涙をこらえられなくて、目を擦る。

 秋穂も静かに泣いている。落ちないように、睫毛の端で止まっている。


「……ありがとうございます……」

「泣くなよ。今日は、祝いだろ」


 そう言って、マスターはカウンターの奥から小さな箱を取り出した。


「卒業祝い。それから、カップル祝い」


 箱を開けると、ペアのマグカップ。

 青と白。シンプルで、でも、あたたかい色。


「二人で使え。この店でも、家でも、どこでもいい」


 私は青いほうをそっと手に取る。

 陶器の重みが、優しい。


 秋穂は白いほうを取って、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」

「……ありがとうございます」


 私も同じように頭を下げる。

 マスターは照れくさそうに、またカップを拭き始めた。


「ま、これからもここに来いよ。いつでも席は空けとく」


 "居場所"だ。

 私たちを丸ごと置いていい場所が、ちゃんとある。


 マスターは「ちょっと仕込みしてくる」と言って奥へ引っ込んだ。

 店内には私たちだけが残る。


 私は秋穂を見る。

 秋穂も私を見る。


 それから、二人で笑った。

 涙が残っているのに、笑えてしまう。


「……バレてたね」

「うん……恥ずかしい」


 秋穂が顔を覆う。

 私はその手をそっと引いて、指先を握る。もう隠さなくていい。少なくとも、この店では。


「でも……よかった」

「……うん。よかった」


 秋穂が握り返す。

 テーブルの上で、堂々と。

 それが信じられないくらい嬉しい。


「これから、もっと普通にしていいんだね」

 私が言うと、秋穂が瞬きをして、少し考える。


「うん。……少しずつ」


 少しずつ。

 それが現実的で、だから強い。

 今日で全部変わるんじゃなくて、今日から変えていく。


     ◇


 店を出ようとしたとき、カウンターの奥からマスターの声が飛んできた。


「おい、お前ら」


 振り返ると、マスターがニヤリと不敵に笑い、指を一本立てていた。


「卒業したんなら、もう子供扱いはしねぇぞ。近いうちに、お前ら二人にしか頼めねぇ"仕事"を用意しとく。覚悟しとけ」

「仕事……?」


 私と秋穂は顔を見合わせた。

 マスターはそれ以上何も言わず、また背を向けてカップを磨き始める。


 店を出ると、夕方の光が斜めに差していた。

 空はオレンジと青が混ざって、春の色。


「公園、行かない?」

 秋穂が言う。


 私は頷いた。

 袋を大事に抱えて、秋穂と並んで歩く。胸の奥が軽い。さっきまでの緊張が嘘みたいに遠い。


 公園の桜は、朝よりずっと開いていた。

 九分咲き。もうすぐ満開。

 風が吹くたび花びらが舞う。世界全体が薄い桃色に染まっているみたいだ。


「……きれい」

 秋穂が見上げる。


 私は同じように見上げる。

 花びらが夕焼けの光を透かして、淡く、やさしく、私たちを照らす。


 桜の木の下で、秋穂が立ち止まった。

 私も止まる。


「……言えたね」

 秋穂の声が、泣いたあとの水みたいに澄んでいる。


「うん。秋穂のおかげ」

「違う。美春が、頑張った」


 いつも秋穂は、私をそうやって"私の足"で立たせる。


「二人で、頑張った」

 私が言うと、秋穂は小さく頷く。


「……うん。二人で」


 風が吹いて、花びらが舞う。

 秋穂の髪に、一枚だけ引っかかった。黒髪に淡い桃色。妙に目を引く。


 私はそっと、その花びらを取る。

 指先に、柔らかい感触。


「秋穂」

「なに?」

「……これから、どんなことがあっても、一緒にいようね」


 言葉にした瞬間、胸が少しだけ痛い。

 願いを口にすると、現実になるぶん怖い。

 でも、逃げないって決めたから。


 秋穂が目を瞬かせて、ゆっくり笑った。


「……約束」


 小指を差し出す。

 私は絡める。


「約束」


 子どもの約束みたいなのに、今はこれがいちばん大事な誓いに思えた。


 秋穂が少しだけ距離を詰める。

 花びらが、私たちの間を通り過ぎる。


「……美春」


 呼ばれただけで、胸が熱くなる。

 秋穂の唇が、そっと触れた。


 桜の花びらが、私たちの周りを舞っている。

 朝より確実に開いている。八分咲き。もうすぐ満開。

 私たちも同じだ。秘密という蕾から、少しずつ開き始めている。

 まだ満開じゃない。でも、もう後戻りはしない。


 秋穂の唇が触れた瞬間、花びらが一枚、私たちの間を通り過ぎた。

 目を閉じると、世界が薄桃色に染まる。

 桜の色。春の色。始まりの色。


「……甘い」

「チョコじゃないよ?」


 私が言うと、秋穂が私の袖をぎゅっと握り直す。


「……おみくじ、本当だった」

「おみくじ?」

「『幸せは近し』。……こんなに近くに、あった」


 その言い方が秋穂らしくて、私は笑ってしまう。

 秋穂も笑う。笑いながら、私の手を握り直す。


「桜の味……」


 秋穂が、少しだけ迷うみたいに言葉を探して、続けた。


「……ううん。美春の味」


 胸の奥が、じんと熱くなる。

 "味"って言葉が、私たちの間ではただの比喩じゃない。

 何度も味見して、覚えて、当たり前にしてきた時間のことだ。


 私は袋の中のマグカップの重みを確かめるように抱え直した。

 青と白。ふたつが並んで、ひとつになるみたいに。


 空がオレンジから紫に変わり始める。

 一日が終わる。高校生活が終わる。制服を着る日々が終わる。


 でも、終わりは、始まりでもある。


 大学。専門学校。喫茶店。

 そして、この桜の木の下。


 私たちの場所は、ちゃんとある。

 秘密じゃなくなった未来が、ちゃんと待っている。


「秋穂」

「なに?」

「……ありがとう。ずっと、隣にいてくれて」


 秋穂が目を細める。

 泣きそうな顔じゃない。嬉しそうな顔。


「……私のほうこそ。美春が、隣にいてくれて」


 その言葉が、花びらみたいに胸に舞い降りた。


 私たちは桜の木の下で、手を繋いだまま夕焼けを見上げた。

 花びらが舞い続けて、足元に薄く積もっていく。


 制服の朝は終わる。

 でも、味は残る。


 桜の味みたいに。

 ――甘くて、少しだけ、切ない。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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