第32話「春の予感」
ライトな百合x成長物語です。
バレンタインデー!
二月の空気は、澄んでいるのにどこか甘い。息を吐くたび白くなるのに、コンビニの棚だけは赤や桃色で、冬の端っこに小さな春が引っかかっているみたいだった。
合格発表の日。二月十日。
朝、目が覚めた瞬間から、心臓がうるさかった。
窓の外は薄い曇りで、日差しが白くぼやけている。布団の中はあたたかいのに、手を出すのが怖い。スマホを掴むのが、怖い。
画面を開いて、サイトのページを開いて、受験番号を入力する。
指が冷えて、打ち間違えそうになる。
――大丈夫。
大丈夫だって、秋穂が言った。
神社の境内で、手を握ってくれた。
「間違ってないよ」って、笑ってくれた。
だから私は、息を吸って、画面を更新した。
……一瞬、読み取れなかった。
「合格」の二文字が、ただそこにあるだけなのに、目が追いつかない。
次の瞬間、喉の奥が熱くなって、涙が勝手に落ちた。
「……受かった……」
声が、震える。笑ってるのか泣いてるのか、自分でもよく分からない。
布団の上にスマホを落として、両手で顔を覆った。指の隙間から、また画面を見てしまう。
消えてない。夢じゃない。
胸の奥が、すとん、と静かになる。
今までずっと張り詰めていた糸が、やっとほどけたみたいに。
「美春? 起きてるの?」
廊下から母の声がして、私は慌てて涙を拭いた。
でも、隠しきれない。
「……起きてる。うん……あの、ね」
声が、また揺れた。
「どうしたの」
母が部屋のドアを少し開けて、私の顔を見た瞬間、表情が変わった。心配と、期待と、覚悟みたいなものが混ざって。
「……受かった」
それだけ言うと、母は息を止めたみたいになって、それから、ゆっくり笑った。
「よかった……! 美春、よかったね」
母の手が、私の頭を撫でた。
子どもみたいに、私はその手に縋る。
合格。
経営学部。
秋穂の隣に立つための道が、ちゃんと続いていく。
その実感が、じわじわと体の奥に染みていった。
――知らせなきゃ。
私はスマホを取り上げて、迷わず名前を押した。
呼び出し音が一回鳴って、二回鳴って、三回目で。
『……もしもし?』
少しだけ眠そうな、でもすぐに目が覚めた声。
「秋穂……っ」
『美春? どうしたの』
その「どうしたの」が、心配じゃなくて祈りみたいに聞こえて、私は今度は笑いながら泣いた。
「……合格した。受かったよ……!」
一瞬、静かになった。
それから、受話器の向こうで息を吸う音がして。
『……っ、やった……!』
秋穂の声が、跳ねた。
あんなに落ち着いている秋穂が、抑えきれないみたいに。
『美春、ほんとに……おめでとう。すごい。えらい』
「秋穂の、おかげ……」
『違う。美春が、頑張った』
その言い方が、去年よりずっとはっきりしている。
私も、秋穂も。
「ありがとう」を、ちゃんと受け取れるようになってきた。
『今日、店……来られる?』
「行く。行くよ。すぐ……じゃないけど、午後……」
『うん。待ってる。マスターにも、言ってある』
胸の奥が、また熱くなる。
待ってる。
その言葉が、ただの約束じゃなくて、居場所の名前みたいに聞こえた。
「秋穂……」
『なに?』
「……声、聞けてよかった」
『私も。――美春、今日は寒いから、ちゃんとあったかくして来て』
まるでいつもの会話みたいに、でも、いつもよりずっと甘い。
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを胸に押し当てて、深呼吸した。
窓の外の白い空が、少しだけ明るく見えた。
◇
午後。喫茶店のドアを押すと、鈴が軽く鳴った。
「いらっしゃ――」
カウンターの中にいたマスターが、私を見た瞬間にニヤッとする。
「おう、主役」
「しゅ、主役って……」
言い返そうとして、声が裏返った。
自分でも情けない。だけど、今日は許してほしい。心臓がまだ落ち着かない。
奥の厨房から、足音がして。
白いエプロンの秋穂が顔を出した。
目が合った瞬間、私の視界がふっと狭くなる。
周りのカップの音も、豆を挽く音も、遠くなる。
秋穂が小さく笑って、唇だけで「おめでとう」と言った。
その形だけで、もう泣きそうになる。
「……美春」
秋穂が近づいてきて、カウンター越しに、こっそり指先を伸ばしてくる。
私はエプロンの影に隠れるようにして、その指を握った。
――去年の二月十四日も、こうして手を探した。
テーブルの下で、こっそり。
目が合うと笑って、すぐに逸らして。
恋人なのに、恋人って言えない場所で。
あの夜は、甘さと苦さの境界線を、私たちは必死に跨いでいた。
義理と本命の境目を外の世界が決めたとしても、私の中ではもう決まっているのに、それを口にする勇気が、まだ細かった。
でも今は。
同じ「こっそり」でも、意味が違う。
隠れるためじゃない。
大事にしまうための、こっそりだ。
「……ほら、美春ちゃん」
マスターが皿を差し出してくる。
白い皿の上に、小さなケーキ。クリームの上に、チョコで「合格おめでとう」の文字。
「え、これ……」
「即席。秋穂ちゃんがさっき飾りしてた。俺は書いただけ」
「マスターが書いたんですか? ……きれい」
「ふん。俺だってやるときゃやる」
マスターが照れ隠しみたいに咳払いして、私にフォークを渡した。
「食べな。糖分は正義だ」
フォークで一口すくって口に運ぶと、スポンジがふわっとほどける。
甘い。優しい。
舌の上で、祝福が溶ける。
「……おいしい」
言った瞬間、秋穂が小さく息を吐いた。
それが、安心の音に聞こえた。
「――美春、ほんとに、おめでとう」
今度は声で。
私は、胸がいっぱいで頷くしかできなかった。
店の空気はいつも通りで、でも私の中だけ、世界が一段軽い。
受験が終わった、という軽さ。
そして、約束を果たせた、という確かさ。
その日の夕方、私はいつもより長く店にいて、秋穂の作業を手伝った。
伝票を揃えて、洗い物をして、食器棚に戻す。
慣れた手つきになっている自分に気づいて、少し照れた。
去年の私は、段取りだけで、手を出すのが怖かった。
秋穂の世界に、触れていいのか分からなかった。
でも今は、同じキッチンに立って、同じ湯気を浴びている。
小さなことなのに、それがすごく嬉しい。
◇
二月十三日の夜。
台所の明かりは、夜の中で小さな島みたいだった。
換気扇の音が一定で、まな板の上には計量スプーン、ボウル、クッキングシート。
去年は、焦って、何度も温度を間違えて、途中で固まらなくて、キッチンが「事件現場」みたいになった。
今年は、違う。
ノートを開いて、手順をちゃんと書いた。
秋穂に教わったメモも、横に挟んである。
――「温度は嘘をつかない」
――「焦ると、甘さが濁る」
秋穂らしい言い方だと思う。
だから私は、今日だけはその言葉を信じて、深呼吸してから始めた。
作るのは、生チョコ。
去年より少しだけ大人の味にしたかった。
受験を終えた「今」の私たちに似合う甘さ。
チョコを刻む音が、細い雨みたいに乾いて響く。
湯せんの蒸気が頬をかすめて、カカオの香りがふわっと立った。
……この匂いを嗅ぐと、去年の秋穂を思い出す。
厨房で真剣な顔をして、段取りを頭の中で組み直して、眉間に力を入れていた秋穂。
「チョコ溶けるぞ?」ってマスターにからかわれて、耳まで赤くなっていた秋穂。
あのとき私は、秋穂の作った箱を受け取って、オレンジの香りに驚いた。
苦いのに、最後が明るい味。
秋穂のことを、そのまま食べたみたいだった。
今年は、私も、もう少しだけ「秋穂の隣」に近づきたい。
だから、落ち着いて、丁寧に。
生クリームを温めて、チョコに注いで、ゆっくり混ぜる。
ツヤが出て、滑らかにまとまっていくのを見て、胸の奥も少しずつ整っていく。
冷やし固めて、切り分ける。
粉糖をまぶして、箱に並べる。
去年より、形が揃っている。
でも、完璧じゃなくていい。
大事なのは、ここに私の手があること。
私の「好き」が、ちゃんと形になっていること。
リボンを結んだところで、背後から母の声がした。
「美春、何作ってるの?」
私は、びくっとして振り向く。
「ちょ、チョコ……」
「へえ。今年も手作り?」
母の目が、ほんの少しだけやわらかい。
去年の私は、目を逸らして誤魔化した。
「友達に」とか、「みんなに」とか。
今年は、違う。
「……大切な人に」
それだけ言って、私は箱を抱えた。
母は何も追及しなかった。
ただ、少しだけ笑って「風邪ひかないようにね」と言った。
その「追い込まない」優しさに、胸がきゅっとなる。
◇
二月十四日。
朝の教室は、去年と同じように少し浮ついていた。
机の上に小さな袋が増えて、誰かが「渡した?」と囁いて、笑い声が弾ける。
でも、私の中の空気は、去年とは違う。
去年は、息を潜めていた。
自分の気持ちに名前をつけるのが怖かった。
秋穂のことを「特別」だと思うほど、世界がそれを許してくれない気がしていた。
今年は、もう、名前がある。
秋穂。
恋人。
隣にいてほしい人。
私は、れいなと、仲のいい子たちに小さな義理チョコを配った。
れいなは受け取った瞬間、にやっとする。
「美春、顔が余裕じゃん」
「余裕とかじゃないって……」
「はいはい。で? 今年も"本命"はあの人?」
声がでかい。
私は慌ててれいなの袖を引っ張った。
「……静かに……!」
「だって、バレバレだもん」
れいなが、ちらっと視線をずらす。
その先、窓際の席で秋穂が教科書を開いている。
耳が、ほんの少し赤い。
――かわいい。
去年も、秋穂はこんなふうに照れていた。
でも、去年の赤は「怖さ」と混ざっていた気がする。
人の目を気にして、何かを失うのが怖くて。
今の赤は、もっと素直だ。
恥ずかしさだけで染まっている。
「結城さんさ」
後ろの席の男子が、軽い調子で声をかけてくる。
「彼氏いるの?」
去年なら、私は言葉を飲み込んだと思う。
笑って誤魔化して、逃げ道を探したと思う。
でも、今年は。
「……いるよ」
それだけ言った。
嘘じゃない。
全部言ってないだけ。
「え、まじ? 誰誰」
周りがざわつく。
れいなが「ほらね」みたいな顔で肩をすくめる。
私は笑って、視線を落とした。
「秘密」
その二文字が、去年より軽い。
いつか、秘密じゃなくなることを知っているから。
秋穂のほうを見ると、秋穂は何も言わないまま、ページをめくった。
でも、指先が少しだけ速い。
照れているのが分かる。
私は、胸の奥でこっそり笑った。
◇
夕方。喫茶店。
外は冷たい風で、街灯の下に小さな影ができる。
店内にはコーヒーの香りと、カカオの気配が混ざっていて、二月の空気そのものみたいだった。
閉店の札をひっくり返して、最後の片付けが終わる。
マスターがエプロンを外しながら言った。
「じゃ、あとは二人でやれ。俺は帰る」
「え、今日もですか」
「今日"も"だよ。俺は空気が読める男だからな」
マスターが笑って、ドアの鈴を鳴らして出ていく。
店に残ったのは、私と秋穂と、静かな音楽だけ。
……去年の二月十四日も、こうだった。
店の外は冷たくて、店の中は甘くて。
マスターが「はいはい、お二人さん」ってからかって、逆チョコをくれた。
あの日の私は、恋人なのに恋人みたいに見えない距離で、必死に「本命」を守っていた。
でも、今は。
「美春」
秋穂が、カウンター越しじゃなくて、ちゃんと私の前に立つ。
目がまっすぐで、逃げ道がない。
――逃げる必要もない。
「……これ」
秋穂が差し出したのは、小さな箱。
包装は落ち着いた色で、リボンがきちんと結ばれている。秋穂の手つきが見える。
「秋穂……先に?」
「うん。……渡したかった」
私は箱を受け取った。
指先に、ほんの少し震えが伝わる。
秋穂も緊張しているのが分かって、胸がきゅっとなる。
「……開けていい?」
「……うん」
蓋を開けると、ふわっと柑橘の香りがした。
――去年と同じ。
でも、少し違う。
今年の香りは、尖っていない。丸い。落ち着いている。
並んでいるのは、艶のあるトリュフ。
表面の粉糖が雪みたいに薄く積もっていて、照明の下で静かに光る。
「……きれい」
私が言うと、秋穂が小さく息を吐いた。
「去年も言ってた」
「だって、ほんとに、きれいだもん」
私は一粒を口に入れた。
最初にビターが来て、そのあと、オレンジがふわっとほどける。
去年の「明るさ」と、今年の「やさしさ」。
同じ人が作った味なのに、時間が積もっている。
舌の上で、秋穂の一年が溶ける。
教室で、厨房で、神社で、喫茶店で。
秋穂が私を支えてくれた時間が、全部この甘さになっている。
「……おいしい」
「……ほんと?」
「ほんと。秋穂の"今年"の味だ」
秋穂が目を瞬かせる。
それから、少しだけ笑った。
「……美春、言い方がずるい」
「秋穂に言われたくない」
言い返して、二人で笑ってしまった。
「……じゃあ、次は」
今度は私。
私は鞄から、自分の箱を取り出した。
去年より、少しだけ自信がある。
でも、心臓はやっぱりうるさい。
「……作った。去年よりは……まし、だと思う」
「"まし"って」
秋穂が笑いながら受け取って、丁寧に蓋を開ける。
秋穂の目が、少しだけ大きくなった。
「……きれい」
その一言で、肩の力が抜ける。
去年の私は、秋穂の「おいしい」を信じられなくて、何度も確認してしまった。
今年は、秋穂の声が、そのまま胸に落ちる。
「食べて」
「うん」
秋穂が一粒つまんで口に運ぶ。
目を閉じて、少しだけ考えるみたいな時間。
その間、私は息を止めてしまう。
「……甘い」
秋穂が言った。
「……甘すぎた?」
「ううん。美春の甘さ」
去年も秋穂は「美春の味がする」って言った。
あのときは、恥ずかしくて、言葉の意味を掴めなかった。
今は、分かる。
秋穂は、私の不器用さも、焦りも、頑張り方も、全部味として受け取ってくれる。
そして、それを「好き」って言ってくれる。
私は、喉の奥が熱くなって、笑うしかなかった。
「……美春、来月」
秋穂が、箱をそっと置いて、私の手を取った。
指先があたたかい。
「……うん」
「マスターに、話そう」
心臓が、また跳ねた。
怖さがゼロじゃない。
でも、怖さだけじゃない。
その先にあるものが、ちゃんと見える。
「……うん」
私は頷いた。
この店で。
この人と。
秘密じゃなくなるための一歩を、ちゃんと踏みたい。
秋穂が、私の手を握り返す。
ぎゅっと。
迷いを潰すみたいに。
「美春、合格……ほんとに、ありがとう」
「ありがとうって、秋穂が言うの?」
「言う。……だって、美春が合格したから、約束、進める」
――あの神社の、おみくじみたいだ。
「人の言葉に惑わされず、己の道を行け。幸せは近し」
私は笑って、秋穂の手を握り返した。
「じゃあ、次は秋穂の番。専門学校のほうも」
「……うん。頑張る」
「私も、手伝う」
「……知ってる。美春は、いつも手伝うって言う」
「だって、秋穂の未来も、私の未来だから」
言ってから、少し恥ずかしくなって視線を逸らす。
でも、逸らした先に秋穂がいて、秋穂が笑っていて。
「……美春、強くなったね」
「秋穂のせい」
「うん。じゃあ、責任取る」
「責任って……」
秋穂が、少しだけ距離を詰める。
去年の二月十四日は、テーブルの下で指を絡めるのが精一杯だった。
今は、店の明かりの下で、こうして近づける。
秋穂の唇が、そっと触れた。
短くて、あたたかい。
チョコみたいに、溶ける前に消える。
「……甘い」
私が言うと、秋穂が小さく笑った。
「チョコじゃなくて?」
「両方」
言ったら、秋穂が少しだけ目を丸くして、それから、耳まで赤くなった。
「……美春、そういうこと言うの、反則」
「秋穂に言われたくないってば」
また二人で笑って、私は頬が熱いまま箱を抱えた。
◇
帰り道。
駅までの道は冷たくて、空は澄んでいて、星がやけに近い。
去年も同じ道を歩いた。
吐く息が白くて、手が温かくて、胸の奥がいっぱいで。
でも、去年の私は、未来がまだ輪郭だけだった。
「一緒にいたい」と思うだけで、怖かった。
今年の私は、未来に名前がついている。
大学。
専門学校。
喫茶店。
そして、来月の「話す」という約束。
秋穂が、私の袖を軽く引いた。
「美春」
「なに?」
「来年も……バレンタイン、一緒にいようね」
「うん。再来年も、その次も」
「……欲張り」
「秋穂だって、同じこと思ってるでしょ」
秋穂は答えずに、私の手を握った。
その握り方が、答えだった。
冷たい夜の中で、私たちの手だけが、確かにあたたかい。
甘さと苦さの境目なんて、もう外の世界の話だ。
私たちの中では、ずっと前に決まっていて。
それが今年は、積み重ねになっている。
――最初の味見を、どっちが先にするかなんて、もう争わなくていい。
だって、私たちは何度でも、何年でも、同じ甘さを分け合える。
私は空を見上げて、星の光を胸にしまった。
来月、ちゃんと前に進む。
秋穂の隣で、堂々と笑うために。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




