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第31話「誓い」

ライトな百合x成長物語です。

お正月!

 元旦の朝は、音が少ない。

 窓の外の空気が冷えきっていて、庭の木々も息をひそめているみたいだった。


 目を開けた瞬間に、思う。


 ――今年は、受験の年。


 布団の中で一度だけ深呼吸して、胸の奥のざわめきを落ち着かせる。

 緊張は嫌いじゃない。怖いけど、ちゃんと前に進んでる証拠だから。


 台所から、味噌と出汁の匂いがする。

 お雑煮の湯気が、正月の朝だけの特別な白さで揺れていた。


「おはよう、美春」


 母が振り向く。エプロンの紐を結びながら、私の顔を見て、少し笑った。


「今年は勝負の年ね。ちゃんと神様にお願いしてきなさい」

「うん」


 頷きながら、私はスマホを手に取る。

 画面に、秋穂の名前。


 07:33 秋穂 初詣、10時に駅前で

 07:34 秋穂 寒いから、あったかくしてきて


 短い文なのに、指先が温かくなる。

 合格。もちろんそれもお願いする。

 でも、それだけじゃない。


(秋穂と、ずっと一緒にいられますように)


 心の中で唱えるだけで、頬が少し熱い。

 去年の今ごろの私は、こんな願いを持つことすら、怖がっていたのに。


 着物は、タンスの中で静かに眠っていた。

 母が昨夜のうちに出してくれて、畳んだまま、座敷の端に置かれている。


「美春。予約、九時半ね」


 味噌と出汁の匂いの向こうで、母が言う。

 予約――という言い方が、すこしだけ背筋を伸ばす。


「……着付け、私ひとりじゃ無理だもんね」


 そう言うと、母が小さく笑った。


「当たり前。崩れたら一日中気になるでしょ。ちゃんとプロに任せなさい」


 私は頷いて、スマホを握り直す。

 画面には、秋穂のメッセージが残っている。


 ……言葉にすると、願いが現実に近づく気がして、少し怖い。

 でも、今年は逃げないって決めた。


     ◇


 外に出ると、冷たい空気が頬に刺さる。

 白い息が、まっすぐ伸びて消えた。


 母と並んで歩く。

 足元の音だけが、正月の静けさの中でやけに大きい。


 着付けの店は、駅前の通りから一本入ったところにあった。

 小さな看板と、硝子越しに見える柔らかい灯り。

 扉を開けた瞬間、整髪料と、お香みたいな甘い匂いが混ざって鼻先に届く。


「いらっしゃい。美春ちゃん、だね」


 声をかけてくれたのは、母より少し年上くらいの女性だった。

 慣れた手つきで、私の肩に薄い布をかける。


「緊張してる? 大丈夫。着物はね、着せてもらうだけで、自然と姿勢が良くなるから」


 その言い方が不思議と安心させた。

 私は小さく頷いて、指先を握りしめる。


 肌襦袢、長襦袢。

 布が重なるたび、体の輪郭が少しずつ"整って"いく感覚がある。

 紐がきゅっと締められると、息が一瞬止まりそうになった。


「苦しい?」

「……ちょっと。でも、大丈夫です」

「うん、いい子。苦しいのはね、最初だけ。あとで慣れる」


 帯を巻かれると、逃げ道がなくなるみたいに胸が鳴った。

 ――逃げ道。

 なんでそんな言葉が浮かぶんだろう。

 私は今日は、逃げないって決めたのに。


 鏡の前に立たされる。

 控えめな色の着物。母が「派手なのはやめときなさい」と言って選んだやつ。

 でも、今の私にはちょうどいい。目立つためじゃなく、ちゃんと背筋を伸ばすために着る。


 髪もまとめてもらう。

 後頭部が少しだけ引っ張られて、視界がすっと上がる。

 鏡の中の私は、いつもの私より"受験生っぽい"顔をしていた。


 ――今年は、勝負の年。


 そう思うと、帯の苦しさが頼もしく感じるから不思議だった。


 会計を終え、店を出る直前。

 私はスマホを取り出して、秋穂に短く送った。


 09:40 美春 今、着付け終わった。そっちは?

 09:41 秋穂 ……いま、帯。苦しい。


 秋穂らしい。

 たったそれだけで、胸がほどける。


 09:42 美春 がんばれ。逃げないで。


 自分でも何を言ってるんだろうと思って、少し笑った。

 でも、"逃げないで"はたぶん、私自身に言った言葉でもある。


     ◇


 駅前はすでに人が多い。

 家族連れ、友達同士、恋人っぽい二人組。

 その中で、私は秋穂を探す。


 ――いた。


 振袖姿の秋穂が、少し離れたところで立っている。

 髪はきれいにまとめられていて、襟元から見える首筋がいつもより大人っぽい。

 手はぎゅっと握っているみたいで、それが秋穂らしい。


 目が合うと、秋穂が小さく手を振った。


「美春」


 その呼び方が、正月の空気の中で特別に聞こえる。


「秋穂……」


 近づくと、秋穂が私の袖をつまむ。

 まるで「ここにいるよ」と確認するみたいに。


「寒くない?」

「……少し。でも、大丈夫」


 秋穂は私の着物をじっと見て、少しだけ目を細めた。


「似合ってる」

「……秋穂も」


 言った瞬間に、秋穂の耳が赤くなる。

 振袖の鮮やかさに負けないくらい、あの子の照れがはっきり分かるのが可笑しくて、私は笑った。


「なに」

「秋穂、顔あかい」

「……美春が言うから」


 その返しが、ずるい。

 私はわざと視線を逸らして、誤魔化すみたいに歩き出した。


 神社までの道は、人の波でゆっくり進む。

 肩がぶつかりそうになるたび、秋穂が私の手を取った。


「はぐれないように」


 言い訳みたいな言葉なのに、指はしっかり絡む。

 手のひらが触れ合った瞬間、去年の文化祭準備の教室で凍りついた自分が、遠くなる。


 私、今は逃げない。


 屋台の列に並んで、甘酒を買う。

 紙コップから立つ湯気が、鼻先をくすぐる。

 秋穂が一口飲んで、少しだけ眉を寄せた。


「……熱い」

「そりゃそうだよ。温かいんだもん」

「……美春も」


 秋穂がコップを差し出す。

 私は受け取って、一口飲む。米の甘さが喉を滑って、体の芯まで落ちていく。


「甘いね」

「……うん」


 秋穂の横顔が、屋台の光に照らされて柔らかい。

 その横顔を見ながら、私はふと思う。

 手を繋ぐなんて、まして人混みの中で。


 列は境内へ続く。

 私たちは参拝の列に並んだまま、手を繋いでいるのが自然になっている。

 誰かに見られたら、と昔ならすぐに手を離したはずなのに。


 前の方に、見覚えのある背中があった。


 ――あ。


 男の子二人。

 体育館裏でじゃなく、文化祭準備のとき廊下で、あの言葉を吐いた二人。

「きもい」「病気」――私の中で凍った言葉。


 息が詰まりそうになる。


 秋穂の指を、無意識に強く握っていた。

 秋穂が小さく私を見る。「どうしたの?」と目だけで言う。


 そのとき、前の男子が振り返った。

 視線が、私たちの繋いだ手に落ちる。


 一瞬だけ、驚いた表情。

 心臓が、どくん、と重く鳴った。


(言われる。今度こそ――あの言葉が、また私を凍らせる)


 でも、男子は何も言わなかった。

 隣の男子に何か小さく言って、二人は顔を逸らし、そのまま列を抜けて去っていく。

 まるで、私たちがただの風景みたいに。


 私は、拍子抜けして、目を瞬いた。


(……あれ?)


 何も言われなかった。

 それだけのことなのに、胸の奥に張り付いていた冷たい膜が、少しひび割れた気がした。


 参拝を終えて、境内の端のほうに移動する。

 木の枝に吊るされた絵馬が、風で小さく鳴っている。

 吐く息は白いのに、日差しはちゃんとある。


「秋穂」

「うん?」

「さっき……あの人たち、見た?」


 秋穂はすぐに頷いた。


「見た」

「……何も言われなかったね」


 言いながら、私は自分の声が少し震えているのに気づく。

 怖かったんだ、やっぱり。

 強くなったつもりでも、あの言葉の刃はまだ記憶に残っている。


 秋穂は、私の手を握り直した。


「……私たちには関係ないよ」


 その言い方は淡々としているのに、芯がある。

 秋穂は静かな子だけど、静かだからこそ、揺れないところがある。


 私は息を吐いて、笑った。


「うん……そうだね。私、あのとき――ハロウィンの夜に、秋穂に言ってよかった」


 秋穂が目を瞬かせる。


「え?」

「秋穂がいてくれるから、私……もう怖くないの。全部、消えたわけじゃないけど」


 胸の真ん中を指で押さえたくなる。

 そこに、秋穂の言葉が積もっている気がするから。


「他の人がどう思おうと、私は秋穂が好き。それだけで十分」


 言葉にした瞬間、空気が軽くなる。

 今まで胸の奥でこっそり守っていたものを、外に出しても壊れないって分かる。


 秋穂が、ふっと笑った。


「美春……強くなったね」

「秋穂のおかげだよ」


 私が言うと、秋穂は少しだけ眉を下げる。

 その表情は、嬉しいのと照れくさいのとが混ざっていて、私はまた笑ってしまった。


     ◇


 境内の端に移動して、少し落ち着いたころ。

 私は、秋穂と繋いだままの手を――ほどかずに、そのまま歩いた。

 怖さが消えたわけじゃないのに、いまは「離したくない」のほうが強かったから。


 絵馬の列を抜けた先に、ひとつだけ小さな鳥居が並んでいるのが見えた。

 大きな本殿とは別の、こぢんまりした社。

 白い紙垂が揺れて、足元には「縁結び」の札がひっそり立っている。


「……こんなところ、あったんだ」


 私が言うと、秋穂が小さく頷いた。


「……いつもは、人が多くて気づかなかった」


 縁結び。

 その言葉だけで、心臓が変な音を立てる。

 私はつい、言ってしまった。


「でも……縁結びって……」


 言いかけて、喉が熱くなる。


「わたしたち、もう……結ばれてる、けど……いいの?」


 秋穂が、困ったみたいに目を細めた。

 それから、真面目な声で言う。


「……いい。こういうのは、雰囲気を楽しむ」

「雰囲気……」

「そう。……気持ちを、言葉にする場所」


 秋穂がそう言った瞬間、胸がじんわり温かくなった。

 神様にお願いするっていうより、自分の中の「好き」を、ちゃんと形にする場所。


 鳥居をくぐると、周りの音が少し遠のく。

 小さな鈴の音と、紙の擦れる音だけが近い。


 秋穂が、繋いだ手を少しだけ強く握った。

 私はその力に引かれるみたいに、一歩前へ出る。


「……じゃあ、お願いしよ」


 賽銭箱は小さくて、でもきれいに磨かれていた。

 私は硬貨を落として、息を整える。


 手を合わせる。

 ――合格。未来。もちろん大事。

 でも、ここは「縁結び」だ。


(秋穂が好き)

(好きで、好きで、どうしようもない)

(来年も、その次も、隣にいたい)


 お願いというより、告白みたいだった。

 胸の内側に溜めていた言葉が、静かに整列していく。


 顔を上げると、秋穂がこちらを見ていた。

 見られていたと思うと、恥ずかしくて、でも逃げたくなくて。


「……なに、お願いしたの」


 秋穂が小声で聞く。

 私は、笑って誤魔化す代わりに――今日は、ちゃんと答えた。


「秋穂のこと」

「……それと、私のこと」

「それから……私たちのこと」


 秋穂の目が、少しだけ丸くなる。

 耳まで赤い。


「……言い方」


 秋穂はそう言いながらも、繋いだ手をほどかなかった。

 私もほどかない。

 秘密のままの手じゃない。

 "私が選んだ手"として、ここに置く。


     ◇


 縁結びの社を出ると、すぐ近くにお守りの授与所があった。

 巫女さんの声と、札の擦れる音。

 色とりどりの布が並んでいて、冬の空気の中でそこだけ小さな市場みたいに華やかだ。


「……お守り、買う?」


 秋穂が聞く。

 私は頷いた。頷きながら、指先が少し震える。


「買う。絶対に買う」


 受験の年。

 願掛けなんて頼りすぎるのはよくないって、頭のどこかでわかってる。

 でも――これは、気持ちの置き場所だ。

 不安を握りつぶさないための、小さな形。


 合格祈願。学業成就。

 私は迷わず、落ち着いた色の学業守を選んだ。


 秋穂は少し離れたところで、別の列を見ている。

「技芸上達」「商売繁盛」の札が並ぶ一角。

 秋穂はそこを、真剣な顔で見つめていた。


「秋穂、そっち?」

「……うん」


 秋穂が手に取ったのは、白地に小さな金糸が入ったお守りだった。

 派手じゃない。

 でも、布の端がきっちり縫われていて、妙に"秋穂らしい"整い方。


「それ、なに守?」

「……技芸」

「……お菓子の?」

「うん」


 秋穂が言って、少しだけ言い直す。


「……将来の、ための」


 その言い方に、胸がきゅっとなる。

 将来。

 秋穂の将来に、私がいる前提みたいに聞こえるから。


 私は手の中の学業守を見下ろして、つい、口が滑った。


「じゃあ、私のは……"回す"お守りだ」


 秋穂が一瞬だけ固まって、それから小さく息を吐いた。


「……学業守だよ」

「うん。でも、回すために学ぶから」


 秋穂の目が、少しだけ柔らかくなる。

 そして、ぽつり。


「……似合ってる」

「お守りに、似合うってあるの」

「ある」


 断言されて、私は笑ってしまった。

 笑いながら、泣きそうでもあった。

 似合うって言葉が、合格とか未来とか、そういう遠いものじゃなくて。

 "いまの私"をちゃんと見てくれてる気がしたから。


 会計を終えて、私たちはそれぞれのお守りを握りしめた。

 布越しに、ほんの少しだけ温度が伝わる。

 それは神様の温度というより、私たちの手の熱だ。


「……来年」


 秋穂が小さく言った。


「来年?」

「……また、ここに来る。お礼、言いに」


 来年。

 その言葉に、私の胸がふっと軽くなる。

 "来年"って言えるのは、"続く"って信じているから。


「うん。来年、来る」


 私は頷いた。

 頷きながら、心の中で付け足す。


(来年も、秋穂と)


     ◇


 参拝の列にもう一度並ぶ。

 鈴の音、柏手の音、冬の風。

 神社の空気は、冷たいのに清い。


 順番が来て、私は賽銭を入れて、手を合わせる。

 目を閉じると、いろんな顔が浮かぶ。


 教室の窓際で、眠そうに笑う秋穂。

 喫茶店で、粉を払ったエプロンの秋穂。

 海で、濡れた髪を結び直す秋穂。

 そして、クリスマスの朝の秋穂。


(合格しますように)

(それから――秋穂と、ずっと一緒にいられますように)


 お願いは2つ。

 でも、私の中では同じ一本の線につながっている。


 参拝を終えると、秋穂が小さく息を吐いた。


「……お願いした?」

「うん。秋穂は?」

「……した」


 その短さが可愛い。

 私たちはおみくじの列に並んだ。


 秋穂が先に引く。

 白い紙を開いて、目を見開く。


「……大吉」

「え、すごい!」


 秋穂は少しだけ照れて、私に見せる。

 そこに書かれていたのは、秋穂らしい文言だった。


「願望:叶う」

「恋愛:焦らず待て」


 私は思わず噴き出す。


「焦らず待て、だって」


 秋穂が私を見る。目だけで「笑うな」と言っている。


「……笑わないで」

「だって、秋穂にぴったり」

「……美春も引いて」


 私もおみくじを引く。

 指先が冷たいのに、紙は不思議と温かい。


 開く。


「……大吉!」


 思わず声が出た。

 秋穂が少し驚いて、それから小さく笑った。


 私は紙を読んで、目を丸くする。


「人の言葉に惑わされず、己の道を行け。幸せは近し……って」


 私は秋穂に見せる。


「秋穂、見て。なんか……私たちのことみたい」


 秋穂は紙をじっと見て、ゆっくり頷いた。


「……うん。私たちの道、間違ってない」


 その一言が、神様のお墨付きみたいに胸に落ちた。

 社会の空気がどうであれ、誰かが何を言おうと、私たちは私たちだって。


 私はおみくじを握ったまま、秋穂に向き直る。


「秋穂。私……受験、頑張るね」

「うん」

「そして、合格したら――もっと堂々と秋穂の隣にいたい。誰にも後ろめたくない、ちゃんとした関係になりたい」


 言った瞬間、秋穂の目が揺れた。

 涙が溜まるのが分かる。秋穂が泣くのは、滅多にない。


「美春……」

「ごめん、重い?」

「違う……嬉しい」


 秋穂は唇を噛むみたいにして、でもちゃんと声にした。


「……私も、ずっとそう思ってた」


 その言葉に、胸の奥がじわっと熱くなる。

 私は笑って、でも目の奥も少しだけ滲む。


 秋穂が、少しだけ冗談めかして言った。


「美春が合格したら、私からもマスターに報告する。私たち、ちゃんと付き合ってるって」

「……秋穂が言うの?」

「うん。美春だけに背負わせたくない」


 ずるい。

 そんなの、また好きになるに決まってる。


「……約束だよ、秋穂」

「約束」


 私たちは指を絡めて、小さく握手みたいにした。

 指先から伝わる温度が、誓いの印みたいだった。


「私……もう迷わない。秋穂と一緒なら、どんな未来も怖くない」


 秋穂が、くすっと笑う。


「私も。美春がいれば、世界中を敵に回しても平気」

「そこまで大げさじゃなくていいよ」

「……でも、気持ちは同じ」


 その言い方が、真面目で、秋穂らしくて。

 私は笑いながら、目を擦った。


 神社を出て、人混みを抜けるころには、日差しが少し強くなっていた。

 電車に乗ると、暖房の空気が眠気を誘う。


 座席に並んで座ると、秋穂が私の肩に頭を預けてきた。

 小さな重み。信頼の重み。


 私は動けなくなる。

 嬉しいから、動きたくない。


     ◇


 電車を降りると、駅前の空気がまたきゅっと冷たかった。

 正月の夕方は、どこか街全体がゆっくり息をしているみたいで、足音まで控えめに聞こえる。


「……寄ってく?」


 秋穂が言う。行き先を言わないのに分かる。

 喫茶店。マスターのところ。


「うん。新年の挨拶、したい」

「……私も」


 道を歩くあいだ、着物の裾がすこしだけ擦れて、普段より歩幅が小さくなる。

 なのに不思議と、急ぎたくなかった。寒さよりも、横にいる温度のほうが確かで。


 店の看板は出ていない。営業はしていないはずなのに、鍵の音がして、奥から小さな灯りが漏れている。

 マスターが片付けをしていたらしい。私たちの姿を見るなり、眉を上げた。


「……なんだ、おまえら。正月から揃って」


 ぶっきらぼうなのに、目が笑っている。

 私は袖を押さえて、背筋を伸ばした。


「明けましておめでとうございます」

「今年も、よろしくお願いします」


 秋穂も小さく頭を下げる。振袖の柄がふわっと揺れて、店内の薄い光を受けて綺麗だった。

 マスターはしばらく無言で私たちを見て――それから、ふっと鼻で笑った。


「……着物、似合ってんじゃねぇか」


 その一言で、胸の奥がぱっと熱くなる。

 褒められるのは慣れてない。ましてマスターに言われると、妙に"認められた"気分になる。


「……ありがとうございます」

「……うん」


 秋穂も小さく頷いて、でも耳が赤い。

 私も、たぶん赤い。


 マスターは湯呑みを棚に戻しながら、ついでみたいに言った。


「受験の年だろ。正月ぐらい、胸張っとけ」


 胸を張る。

 着物の帯が少し苦しいのに、その苦しさが今日だけは頼もしい。


 カウンターの前で少しだけ話して、帰ろうとしたとき――

 秋穂が小さく息を吐いた。


「……お汁粉、食べたい」


 あまりに唐突で、私は目を瞬いた。

 でも、想像した瞬間、口の中が勝手に甘くなる。あの、熱と小豆の匂い。


「食べたい……!」

「……でも、今日は無理」


 秋穂が自分の袖を見て言う。

 確かに。着物のまま台所に立ったら、袖が鍋に吸い込まれる未来しかない。


 マスターが会話を聞いて、肩をすくめた。


「着物で汁粉作るやつがいるかよ」

「……ですよね」

「……三日。閉店後に作れ」


 マスターのほうが先に"答え"を出すのが可笑しくて、私は笑いそうになる。


 秋穂が私を見る。

 その目が静かにきらきらしてる。


「……一月三日、閉店後。作ろう」

「うん。約束」


 私はスマホを取り出して、共有カレンダーを開く。

「1/3 閉店後:お汁粉」――打ち込む指が、妙に慎重になる。


 予定欄にたった一行増えただけなのに、胸がどきどきした。

 受験の年のカレンダーは、どうしても「やるべきこと」で埋まっていく。

 そこに、ふたりの甘い予定がひとつ増える。


 秋穂が覗き込んで、小さく頷いた。


「……いい予定」

「うん。すごく」


 帰り際、マスターが背中越しに言った。


「三日、材料は買っとけ。俺は食うだけ」

「……ありがとうございます」

「……今年も、よろしくお願いします」


 もう一度、二人で頭を下げた。

 喫茶店の灯りは正月の夜に小さく揺れて、胸の奥に温かい余韻だけ残した。


     ◇


 一月三日。

 夕方の喫茶店は、正月休みの人がちらほら来ていて、でも普段より静かだった。


 私は奥の席で、単語帳と長文問題を広げている。

 ペン先が紙を走る音が、やけに大きく聞こえた。

 焦りと寒さが混ざったみたいに、指先が冷たい。


 閉店時間。

 最後のお客さんを見送って、看板を裏返す。

 シャッターの音が降りた瞬間、店内の空気がふっとほどける。


 秋穂がエプロンの紐を結び直しながら、私を見る。


「……約束」


 胸がきゅっとなる。

 私は頷いて、カウンターの内側に回った。


「うん。お汁粉」


 着物じゃない。

 制服の上からエプロンをつけるだけで、"作れる"体になっているのが嬉しい。


 秋穂が鍋を出す。

 私は買ってきた材料の袋を並べる。

 ゆであずきの缶、切り餅、砂糖、塩。

 たったそれだけなのに、今日は特別に見えた。


「まず、お餅――焼く?」

「……焼く。香ばしいほうが好き」


 秋穂はそう言って、網に餅を並べる。

 火が当たると、表面が少しずつ膨らんで、薄く焦げ目がついていく。

 甘い匂いじゃないのに、なぜか"お菓子の予感"みたいな香りがする。


 私は鍋にあずきを開ける。

 とろり、と落ちる小豆の色。深くて、温かい色。

 水を少し足して、弱火にかける。

 木べらでゆっくり混ぜると、鍋底から「ことん」と小さな音がした。


「……塩、ひとつまみ」

「え、塩?」

「……甘さ、立つ」


 秋穂の言い方があまりにも真面目で、私は笑いそうになる。

 でも、その"真面目さ"が好きだ。


 小豆が温まってくると、湯気が上がった。

 ふわっと広がる匂いが、胸の奥を先に甘くする。

 私は木べらを持つ手に、少しだけ力を込めた。


「……焦がしたくない」

「うん。……弱火で、ゆっくり」


 秋穂が隣で見ている。

 その視線が落ち着いていて、なのに近い。

 私は混ぜながら、呼吸がすこしだけ乱れるのを自覚する。

 お汁粉の湯気のせいにしたい。


 餅がぷくっと膨らんで、表面がぱちんと割れる。

 秋穂が箸で返して、両面に小さな焦げ色をつけた。


「……いい」

「うん、いい匂い」


 器を用意して、小豆を注ぐ。

 焼き餅をそっと沈めると、表面に小さな波が立った。

 その波が落ち着くのを見て、私はようやく息を吐く。


 ――できた。

 たった一杯なのに、胸がいっぱいになる。


「マスター、できました」


 奥で片付けをしていたマスターが、面倒そうに出てくる。


「おお……ちゃんと作ったのか」

「当たり前です」

「……当たり前じゃねぇ」


 ぶつぶつ言いながらも、マスターは器を受け取った。

 一口すすって、しばらく無言。

 私は秋穂と顔を見合わせる。


「……うまい」


 たった三文字。

 でも、マスターの"ちゃんとした"評価だ。


 秋穂が小さく息を吐いた。

 たぶん、私も同じタイミングで息を吐いた。


「今年も、よろしくお願いします」


 私は改めて言う。

 秋穂も頷く。


 マスターは器を持ったまま、ふっと笑った。


「今年はもう間に合わねぇけどな」

「来年――正月限定で、お汁粉出してもいいかもな」


 来年。

 その単語が、胸の奥で柔らかく鳴った。


 私は大学。秋穂は専門学校。

 進路は別々で、忙しさも増える。

 でも――来年も、この店で同じ湯気を見ていたい。

 そのために、まずは目の前の受験を越える。


 お汁粉を食べ終えたあと、私はノートを開いた。

 ペンを持つ指が、少しだけ温かい。


 秋穂が向かいに座って、私の問題集を覗き込む。


「ここ……主語、これ」

「え、ほんとだ……」

「……美春、前より見えてる」


 褒め方が静かで、確信だけがある。

 私は笑って頷いた。


「秋穂がいると、落ち着く」

「……私も」


 店内にはもう客はいない。

 聞こえるのは紙の音と、遠くの車の音と、時々、ストーブの小さな鳴き声。


 甘い湯気の余韻だけがまだ残っていて、それが"今年の始まり"の味になった。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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