第31話「誓い」
ライトな百合x成長物語です。
お正月!
元旦の朝は、音が少ない。
窓の外の空気が冷えきっていて、庭の木々も息をひそめているみたいだった。
目を開けた瞬間に、思う。
――今年は、受験の年。
布団の中で一度だけ深呼吸して、胸の奥のざわめきを落ち着かせる。
緊張は嫌いじゃない。怖いけど、ちゃんと前に進んでる証拠だから。
台所から、味噌と出汁の匂いがする。
お雑煮の湯気が、正月の朝だけの特別な白さで揺れていた。
「おはよう、美春」
母が振り向く。エプロンの紐を結びながら、私の顔を見て、少し笑った。
「今年は勝負の年ね。ちゃんと神様にお願いしてきなさい」
「うん」
頷きながら、私はスマホを手に取る。
画面に、秋穂の名前。
07:33 秋穂 初詣、10時に駅前で
07:34 秋穂 寒いから、あったかくしてきて
短い文なのに、指先が温かくなる。
合格。もちろんそれもお願いする。
でも、それだけじゃない。
(秋穂と、ずっと一緒にいられますように)
心の中で唱えるだけで、頬が少し熱い。
去年の今ごろの私は、こんな願いを持つことすら、怖がっていたのに。
着物は、タンスの中で静かに眠っていた。
母が昨夜のうちに出してくれて、畳んだまま、座敷の端に置かれている。
「美春。予約、九時半ね」
味噌と出汁の匂いの向こうで、母が言う。
予約――という言い方が、すこしだけ背筋を伸ばす。
「……着付け、私ひとりじゃ無理だもんね」
そう言うと、母が小さく笑った。
「当たり前。崩れたら一日中気になるでしょ。ちゃんとプロに任せなさい」
私は頷いて、スマホを握り直す。
画面には、秋穂のメッセージが残っている。
……言葉にすると、願いが現実に近づく気がして、少し怖い。
でも、今年は逃げないって決めた。
◇
外に出ると、冷たい空気が頬に刺さる。
白い息が、まっすぐ伸びて消えた。
母と並んで歩く。
足元の音だけが、正月の静けさの中でやけに大きい。
着付けの店は、駅前の通りから一本入ったところにあった。
小さな看板と、硝子越しに見える柔らかい灯り。
扉を開けた瞬間、整髪料と、お香みたいな甘い匂いが混ざって鼻先に届く。
「いらっしゃい。美春ちゃん、だね」
声をかけてくれたのは、母より少し年上くらいの女性だった。
慣れた手つきで、私の肩に薄い布をかける。
「緊張してる? 大丈夫。着物はね、着せてもらうだけで、自然と姿勢が良くなるから」
その言い方が不思議と安心させた。
私は小さく頷いて、指先を握りしめる。
肌襦袢、長襦袢。
布が重なるたび、体の輪郭が少しずつ"整って"いく感覚がある。
紐がきゅっと締められると、息が一瞬止まりそうになった。
「苦しい?」
「……ちょっと。でも、大丈夫です」
「うん、いい子。苦しいのはね、最初だけ。あとで慣れる」
帯を巻かれると、逃げ道がなくなるみたいに胸が鳴った。
――逃げ道。
なんでそんな言葉が浮かぶんだろう。
私は今日は、逃げないって決めたのに。
鏡の前に立たされる。
控えめな色の着物。母が「派手なのはやめときなさい」と言って選んだやつ。
でも、今の私にはちょうどいい。目立つためじゃなく、ちゃんと背筋を伸ばすために着る。
髪もまとめてもらう。
後頭部が少しだけ引っ張られて、視界がすっと上がる。
鏡の中の私は、いつもの私より"受験生っぽい"顔をしていた。
――今年は、勝負の年。
そう思うと、帯の苦しさが頼もしく感じるから不思議だった。
会計を終え、店を出る直前。
私はスマホを取り出して、秋穂に短く送った。
09:40 美春 今、着付け終わった。そっちは?
09:41 秋穂 ……いま、帯。苦しい。
秋穂らしい。
たったそれだけで、胸がほどける。
09:42 美春 がんばれ。逃げないで。
自分でも何を言ってるんだろうと思って、少し笑った。
でも、"逃げないで"はたぶん、私自身に言った言葉でもある。
◇
駅前はすでに人が多い。
家族連れ、友達同士、恋人っぽい二人組。
その中で、私は秋穂を探す。
――いた。
振袖姿の秋穂が、少し離れたところで立っている。
髪はきれいにまとめられていて、襟元から見える首筋がいつもより大人っぽい。
手はぎゅっと握っているみたいで、それが秋穂らしい。
目が合うと、秋穂が小さく手を振った。
「美春」
その呼び方が、正月の空気の中で特別に聞こえる。
「秋穂……」
近づくと、秋穂が私の袖をつまむ。
まるで「ここにいるよ」と確認するみたいに。
「寒くない?」
「……少し。でも、大丈夫」
秋穂は私の着物をじっと見て、少しだけ目を細めた。
「似合ってる」
「……秋穂も」
言った瞬間に、秋穂の耳が赤くなる。
振袖の鮮やかさに負けないくらい、あの子の照れがはっきり分かるのが可笑しくて、私は笑った。
「なに」
「秋穂、顔あかい」
「……美春が言うから」
その返しが、ずるい。
私はわざと視線を逸らして、誤魔化すみたいに歩き出した。
神社までの道は、人の波でゆっくり進む。
肩がぶつかりそうになるたび、秋穂が私の手を取った。
「はぐれないように」
言い訳みたいな言葉なのに、指はしっかり絡む。
手のひらが触れ合った瞬間、去年の文化祭準備の教室で凍りついた自分が、遠くなる。
私、今は逃げない。
屋台の列に並んで、甘酒を買う。
紙コップから立つ湯気が、鼻先をくすぐる。
秋穂が一口飲んで、少しだけ眉を寄せた。
「……熱い」
「そりゃそうだよ。温かいんだもん」
「……美春も」
秋穂がコップを差し出す。
私は受け取って、一口飲む。米の甘さが喉を滑って、体の芯まで落ちていく。
「甘いね」
「……うん」
秋穂の横顔が、屋台の光に照らされて柔らかい。
その横顔を見ながら、私はふと思う。
手を繋ぐなんて、まして人混みの中で。
列は境内へ続く。
私たちは参拝の列に並んだまま、手を繋いでいるのが自然になっている。
誰かに見られたら、と昔ならすぐに手を離したはずなのに。
前の方に、見覚えのある背中があった。
――あ。
男の子二人。
体育館裏でじゃなく、文化祭準備のとき廊下で、あの言葉を吐いた二人。
「きもい」「病気」――私の中で凍った言葉。
息が詰まりそうになる。
秋穂の指を、無意識に強く握っていた。
秋穂が小さく私を見る。「どうしたの?」と目だけで言う。
そのとき、前の男子が振り返った。
視線が、私たちの繋いだ手に落ちる。
一瞬だけ、驚いた表情。
心臓が、どくん、と重く鳴った。
(言われる。今度こそ――あの言葉が、また私を凍らせる)
でも、男子は何も言わなかった。
隣の男子に何か小さく言って、二人は顔を逸らし、そのまま列を抜けて去っていく。
まるで、私たちがただの風景みたいに。
私は、拍子抜けして、目を瞬いた。
(……あれ?)
何も言われなかった。
それだけのことなのに、胸の奥に張り付いていた冷たい膜が、少しひび割れた気がした。
参拝を終えて、境内の端のほうに移動する。
木の枝に吊るされた絵馬が、風で小さく鳴っている。
吐く息は白いのに、日差しはちゃんとある。
「秋穂」
「うん?」
「さっき……あの人たち、見た?」
秋穂はすぐに頷いた。
「見た」
「……何も言われなかったね」
言いながら、私は自分の声が少し震えているのに気づく。
怖かったんだ、やっぱり。
強くなったつもりでも、あの言葉の刃はまだ記憶に残っている。
秋穂は、私の手を握り直した。
「……私たちには関係ないよ」
その言い方は淡々としているのに、芯がある。
秋穂は静かな子だけど、静かだからこそ、揺れないところがある。
私は息を吐いて、笑った。
「うん……そうだね。私、あのとき――ハロウィンの夜に、秋穂に言ってよかった」
秋穂が目を瞬かせる。
「え?」
「秋穂がいてくれるから、私……もう怖くないの。全部、消えたわけじゃないけど」
胸の真ん中を指で押さえたくなる。
そこに、秋穂の言葉が積もっている気がするから。
「他の人がどう思おうと、私は秋穂が好き。それだけで十分」
言葉にした瞬間、空気が軽くなる。
今まで胸の奥でこっそり守っていたものを、外に出しても壊れないって分かる。
秋穂が、ふっと笑った。
「美春……強くなったね」
「秋穂のおかげだよ」
私が言うと、秋穂は少しだけ眉を下げる。
その表情は、嬉しいのと照れくさいのとが混ざっていて、私はまた笑ってしまった。
◇
境内の端に移動して、少し落ち着いたころ。
私は、秋穂と繋いだままの手を――ほどかずに、そのまま歩いた。
怖さが消えたわけじゃないのに、いまは「離したくない」のほうが強かったから。
絵馬の列を抜けた先に、ひとつだけ小さな鳥居が並んでいるのが見えた。
大きな本殿とは別の、こぢんまりした社。
白い紙垂が揺れて、足元には「縁結び」の札がひっそり立っている。
「……こんなところ、あったんだ」
私が言うと、秋穂が小さく頷いた。
「……いつもは、人が多くて気づかなかった」
縁結び。
その言葉だけで、心臓が変な音を立てる。
私はつい、言ってしまった。
「でも……縁結びって……」
言いかけて、喉が熱くなる。
「わたしたち、もう……結ばれてる、けど……いいの?」
秋穂が、困ったみたいに目を細めた。
それから、真面目な声で言う。
「……いい。こういうのは、雰囲気を楽しむ」
「雰囲気……」
「そう。……気持ちを、言葉にする場所」
秋穂がそう言った瞬間、胸がじんわり温かくなった。
神様にお願いするっていうより、自分の中の「好き」を、ちゃんと形にする場所。
鳥居をくぐると、周りの音が少し遠のく。
小さな鈴の音と、紙の擦れる音だけが近い。
秋穂が、繋いだ手を少しだけ強く握った。
私はその力に引かれるみたいに、一歩前へ出る。
「……じゃあ、お願いしよ」
賽銭箱は小さくて、でもきれいに磨かれていた。
私は硬貨を落として、息を整える。
手を合わせる。
――合格。未来。もちろん大事。
でも、ここは「縁結び」だ。
(秋穂が好き)
(好きで、好きで、どうしようもない)
(来年も、その次も、隣にいたい)
お願いというより、告白みたいだった。
胸の内側に溜めていた言葉が、静かに整列していく。
顔を上げると、秋穂がこちらを見ていた。
見られていたと思うと、恥ずかしくて、でも逃げたくなくて。
「……なに、お願いしたの」
秋穂が小声で聞く。
私は、笑って誤魔化す代わりに――今日は、ちゃんと答えた。
「秋穂のこと」
「……それと、私のこと」
「それから……私たちのこと」
秋穂の目が、少しだけ丸くなる。
耳まで赤い。
「……言い方」
秋穂はそう言いながらも、繋いだ手をほどかなかった。
私もほどかない。
秘密のままの手じゃない。
"私が選んだ手"として、ここに置く。
◇
縁結びの社を出ると、すぐ近くにお守りの授与所があった。
巫女さんの声と、札の擦れる音。
色とりどりの布が並んでいて、冬の空気の中でそこだけ小さな市場みたいに華やかだ。
「……お守り、買う?」
秋穂が聞く。
私は頷いた。頷きながら、指先が少し震える。
「買う。絶対に買う」
受験の年。
願掛けなんて頼りすぎるのはよくないって、頭のどこかでわかってる。
でも――これは、気持ちの置き場所だ。
不安を握りつぶさないための、小さな形。
合格祈願。学業成就。
私は迷わず、落ち着いた色の学業守を選んだ。
秋穂は少し離れたところで、別の列を見ている。
「技芸上達」「商売繁盛」の札が並ぶ一角。
秋穂はそこを、真剣な顔で見つめていた。
「秋穂、そっち?」
「……うん」
秋穂が手に取ったのは、白地に小さな金糸が入ったお守りだった。
派手じゃない。
でも、布の端がきっちり縫われていて、妙に"秋穂らしい"整い方。
「それ、なに守?」
「……技芸」
「……お菓子の?」
「うん」
秋穂が言って、少しだけ言い直す。
「……将来の、ための」
その言い方に、胸がきゅっとなる。
将来。
秋穂の将来に、私がいる前提みたいに聞こえるから。
私は手の中の学業守を見下ろして、つい、口が滑った。
「じゃあ、私のは……"回す"お守りだ」
秋穂が一瞬だけ固まって、それから小さく息を吐いた。
「……学業守だよ」
「うん。でも、回すために学ぶから」
秋穂の目が、少しだけ柔らかくなる。
そして、ぽつり。
「……似合ってる」
「お守りに、似合うってあるの」
「ある」
断言されて、私は笑ってしまった。
笑いながら、泣きそうでもあった。
似合うって言葉が、合格とか未来とか、そういう遠いものじゃなくて。
"いまの私"をちゃんと見てくれてる気がしたから。
会計を終えて、私たちはそれぞれのお守りを握りしめた。
布越しに、ほんの少しだけ温度が伝わる。
それは神様の温度というより、私たちの手の熱だ。
「……来年」
秋穂が小さく言った。
「来年?」
「……また、ここに来る。お礼、言いに」
来年。
その言葉に、私の胸がふっと軽くなる。
"来年"って言えるのは、"続く"って信じているから。
「うん。来年、来る」
私は頷いた。
頷きながら、心の中で付け足す。
(来年も、秋穂と)
◇
参拝の列にもう一度並ぶ。
鈴の音、柏手の音、冬の風。
神社の空気は、冷たいのに清い。
順番が来て、私は賽銭を入れて、手を合わせる。
目を閉じると、いろんな顔が浮かぶ。
教室の窓際で、眠そうに笑う秋穂。
喫茶店で、粉を払ったエプロンの秋穂。
海で、濡れた髪を結び直す秋穂。
そして、クリスマスの朝の秋穂。
(合格しますように)
(それから――秋穂と、ずっと一緒にいられますように)
お願いは2つ。
でも、私の中では同じ一本の線につながっている。
参拝を終えると、秋穂が小さく息を吐いた。
「……お願いした?」
「うん。秋穂は?」
「……した」
その短さが可愛い。
私たちはおみくじの列に並んだ。
秋穂が先に引く。
白い紙を開いて、目を見開く。
「……大吉」
「え、すごい!」
秋穂は少しだけ照れて、私に見せる。
そこに書かれていたのは、秋穂らしい文言だった。
「願望:叶う」
「恋愛:焦らず待て」
私は思わず噴き出す。
「焦らず待て、だって」
秋穂が私を見る。目だけで「笑うな」と言っている。
「……笑わないで」
「だって、秋穂にぴったり」
「……美春も引いて」
私もおみくじを引く。
指先が冷たいのに、紙は不思議と温かい。
開く。
「……大吉!」
思わず声が出た。
秋穂が少し驚いて、それから小さく笑った。
私は紙を読んで、目を丸くする。
「人の言葉に惑わされず、己の道を行け。幸せは近し……って」
私は秋穂に見せる。
「秋穂、見て。なんか……私たちのことみたい」
秋穂は紙をじっと見て、ゆっくり頷いた。
「……うん。私たちの道、間違ってない」
その一言が、神様のお墨付きみたいに胸に落ちた。
社会の空気がどうであれ、誰かが何を言おうと、私たちは私たちだって。
私はおみくじを握ったまま、秋穂に向き直る。
「秋穂。私……受験、頑張るね」
「うん」
「そして、合格したら――もっと堂々と秋穂の隣にいたい。誰にも後ろめたくない、ちゃんとした関係になりたい」
言った瞬間、秋穂の目が揺れた。
涙が溜まるのが分かる。秋穂が泣くのは、滅多にない。
「美春……」
「ごめん、重い?」
「違う……嬉しい」
秋穂は唇を噛むみたいにして、でもちゃんと声にした。
「……私も、ずっとそう思ってた」
その言葉に、胸の奥がじわっと熱くなる。
私は笑って、でも目の奥も少しだけ滲む。
秋穂が、少しだけ冗談めかして言った。
「美春が合格したら、私からもマスターに報告する。私たち、ちゃんと付き合ってるって」
「……秋穂が言うの?」
「うん。美春だけに背負わせたくない」
ずるい。
そんなの、また好きになるに決まってる。
「……約束だよ、秋穂」
「約束」
私たちは指を絡めて、小さく握手みたいにした。
指先から伝わる温度が、誓いの印みたいだった。
「私……もう迷わない。秋穂と一緒なら、どんな未来も怖くない」
秋穂が、くすっと笑う。
「私も。美春がいれば、世界中を敵に回しても平気」
「そこまで大げさじゃなくていいよ」
「……でも、気持ちは同じ」
その言い方が、真面目で、秋穂らしくて。
私は笑いながら、目を擦った。
神社を出て、人混みを抜けるころには、日差しが少し強くなっていた。
電車に乗ると、暖房の空気が眠気を誘う。
座席に並んで座ると、秋穂が私の肩に頭を預けてきた。
小さな重み。信頼の重み。
私は動けなくなる。
嬉しいから、動きたくない。
◇
電車を降りると、駅前の空気がまたきゅっと冷たかった。
正月の夕方は、どこか街全体がゆっくり息をしているみたいで、足音まで控えめに聞こえる。
「……寄ってく?」
秋穂が言う。行き先を言わないのに分かる。
喫茶店。マスターのところ。
「うん。新年の挨拶、したい」
「……私も」
道を歩くあいだ、着物の裾がすこしだけ擦れて、普段より歩幅が小さくなる。
なのに不思議と、急ぎたくなかった。寒さよりも、横にいる温度のほうが確かで。
店の看板は出ていない。営業はしていないはずなのに、鍵の音がして、奥から小さな灯りが漏れている。
マスターが片付けをしていたらしい。私たちの姿を見るなり、眉を上げた。
「……なんだ、おまえら。正月から揃って」
ぶっきらぼうなのに、目が笑っている。
私は袖を押さえて、背筋を伸ばした。
「明けましておめでとうございます」
「今年も、よろしくお願いします」
秋穂も小さく頭を下げる。振袖の柄がふわっと揺れて、店内の薄い光を受けて綺麗だった。
マスターはしばらく無言で私たちを見て――それから、ふっと鼻で笑った。
「……着物、似合ってんじゃねぇか」
その一言で、胸の奥がぱっと熱くなる。
褒められるのは慣れてない。ましてマスターに言われると、妙に"認められた"気分になる。
「……ありがとうございます」
「……うん」
秋穂も小さく頷いて、でも耳が赤い。
私も、たぶん赤い。
マスターは湯呑みを棚に戻しながら、ついでみたいに言った。
「受験の年だろ。正月ぐらい、胸張っとけ」
胸を張る。
着物の帯が少し苦しいのに、その苦しさが今日だけは頼もしい。
カウンターの前で少しだけ話して、帰ろうとしたとき――
秋穂が小さく息を吐いた。
「……お汁粉、食べたい」
あまりに唐突で、私は目を瞬いた。
でも、想像した瞬間、口の中が勝手に甘くなる。あの、熱と小豆の匂い。
「食べたい……!」
「……でも、今日は無理」
秋穂が自分の袖を見て言う。
確かに。着物のまま台所に立ったら、袖が鍋に吸い込まれる未来しかない。
マスターが会話を聞いて、肩をすくめた。
「着物で汁粉作るやつがいるかよ」
「……ですよね」
「……三日。閉店後に作れ」
マスターのほうが先に"答え"を出すのが可笑しくて、私は笑いそうになる。
秋穂が私を見る。
その目が静かにきらきらしてる。
「……一月三日、閉店後。作ろう」
「うん。約束」
私はスマホを取り出して、共有カレンダーを開く。
「1/3 閉店後:お汁粉」――打ち込む指が、妙に慎重になる。
予定欄にたった一行増えただけなのに、胸がどきどきした。
受験の年のカレンダーは、どうしても「やるべきこと」で埋まっていく。
そこに、ふたりの甘い予定がひとつ増える。
秋穂が覗き込んで、小さく頷いた。
「……いい予定」
「うん。すごく」
帰り際、マスターが背中越しに言った。
「三日、材料は買っとけ。俺は食うだけ」
「……ありがとうございます」
「……今年も、よろしくお願いします」
もう一度、二人で頭を下げた。
喫茶店の灯りは正月の夜に小さく揺れて、胸の奥に温かい余韻だけ残した。
◇
一月三日。
夕方の喫茶店は、正月休みの人がちらほら来ていて、でも普段より静かだった。
私は奥の席で、単語帳と長文問題を広げている。
ペン先が紙を走る音が、やけに大きく聞こえた。
焦りと寒さが混ざったみたいに、指先が冷たい。
閉店時間。
最後のお客さんを見送って、看板を裏返す。
シャッターの音が降りた瞬間、店内の空気がふっとほどける。
秋穂がエプロンの紐を結び直しながら、私を見る。
「……約束」
胸がきゅっとなる。
私は頷いて、カウンターの内側に回った。
「うん。お汁粉」
着物じゃない。
制服の上からエプロンをつけるだけで、"作れる"体になっているのが嬉しい。
秋穂が鍋を出す。
私は買ってきた材料の袋を並べる。
ゆであずきの缶、切り餅、砂糖、塩。
たったそれだけなのに、今日は特別に見えた。
「まず、お餅――焼く?」
「……焼く。香ばしいほうが好き」
秋穂はそう言って、網に餅を並べる。
火が当たると、表面が少しずつ膨らんで、薄く焦げ目がついていく。
甘い匂いじゃないのに、なぜか"お菓子の予感"みたいな香りがする。
私は鍋にあずきを開ける。
とろり、と落ちる小豆の色。深くて、温かい色。
水を少し足して、弱火にかける。
木べらでゆっくり混ぜると、鍋底から「ことん」と小さな音がした。
「……塩、ひとつまみ」
「え、塩?」
「……甘さ、立つ」
秋穂の言い方があまりにも真面目で、私は笑いそうになる。
でも、その"真面目さ"が好きだ。
小豆が温まってくると、湯気が上がった。
ふわっと広がる匂いが、胸の奥を先に甘くする。
私は木べらを持つ手に、少しだけ力を込めた。
「……焦がしたくない」
「うん。……弱火で、ゆっくり」
秋穂が隣で見ている。
その視線が落ち着いていて、なのに近い。
私は混ぜながら、呼吸がすこしだけ乱れるのを自覚する。
お汁粉の湯気のせいにしたい。
餅がぷくっと膨らんで、表面がぱちんと割れる。
秋穂が箸で返して、両面に小さな焦げ色をつけた。
「……いい」
「うん、いい匂い」
器を用意して、小豆を注ぐ。
焼き餅をそっと沈めると、表面に小さな波が立った。
その波が落ち着くのを見て、私はようやく息を吐く。
――できた。
たった一杯なのに、胸がいっぱいになる。
「マスター、できました」
奥で片付けをしていたマスターが、面倒そうに出てくる。
「おお……ちゃんと作ったのか」
「当たり前です」
「……当たり前じゃねぇ」
ぶつぶつ言いながらも、マスターは器を受け取った。
一口すすって、しばらく無言。
私は秋穂と顔を見合わせる。
「……うまい」
たった三文字。
でも、マスターの"ちゃんとした"評価だ。
秋穂が小さく息を吐いた。
たぶん、私も同じタイミングで息を吐いた。
「今年も、よろしくお願いします」
私は改めて言う。
秋穂も頷く。
マスターは器を持ったまま、ふっと笑った。
「今年はもう間に合わねぇけどな」
「来年――正月限定で、お汁粉出してもいいかもな」
来年。
その単語が、胸の奥で柔らかく鳴った。
私は大学。秋穂は専門学校。
進路は別々で、忙しさも増える。
でも――来年も、この店で同じ湯気を見ていたい。
そのために、まずは目の前の受験を越える。
お汁粉を食べ終えたあと、私はノートを開いた。
ペンを持つ指が、少しだけ温かい。
秋穂が向かいに座って、私の問題集を覗き込む。
「ここ……主語、これ」
「え、ほんとだ……」
「……美春、前より見えてる」
褒め方が静かで、確信だけがある。
私は笑って頷いた。
「秋穂がいると、落ち着く」
「……私も」
店内にはもう客はいない。
聞こえるのは紙の音と、遠くの車の音と、時々、ストーブの小さな鳴き声。
甘い湯気の余韻だけがまだ残っていて、それが"今年の始まり"の味になった。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




