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第30話「溶ける輪郭」

ライトな百合x成長物語です。

クリスマスお泊り会!

 十二月の空気は、吸い込むたびに肺の奥がきゅっと縮む。

 吐く息だけが白くて、私の焦りまで形にしてしまいそうだった。


 クリスマス。

 世の中は浮かれているのに、私の頭の中は赤本と単語帳で埋め尽くされている。


 ――でも、勉強だけじゃない。

 この冬は、秋穂の手の温度も一緒に持ち歩いている。


 それが、救いで。

 同時に、少しだけ怖い。


 秘密のまま、温度だけが増していくことが。


     ◇


 閉店の札を裏返すと、店内の音が一段小さくなる。

 クリスマスのBGMも、さっきまでのざわめきが消えると、妙に照れくさく聞こえた。


「ふう。お疲れさん」


 カウンターの向こうで、マスターがエプロンの紐を解きながら言う。

 秋穂はいつものように黙々と片付けを進めていて、私はレジの締めを終えたところだった。


「明日さ」


 マスターが、さらっと言った。


「臨時休業にする」

「えっ」


 私の声が裏返る。

 秋穂の手も、ほんの一瞬だけ止まった。


「クリスマスイブに店開けて、二人にずっと働かせるのは俺の趣味じゃねぇ。……お前ら、受験生だろ」


 言い方はぶっきらぼうなのに、目だけが妙に優しい。

 私は胸の奥がじん、と熱くなるのをごまかすみたいに笑った。


「ありがとうございます。でも、マスター……売上、大丈夫なんですか」

「明後日稼げ。常連がケーキ買いに来るからな」

「こわい」

「怖がるな。ほら、さっさと帰れ。俺も帰る」


 マスターは照れ隠しみたいに手を振って、倉庫の灯りを落とした。

 出入り口の鍵を閉める音が、冬の夜に小さく響く。


 店の前に出ると、冷えた空が頬を撫でた。

 街の端っこにある喫茶店でも、遠くの商店街のイルミネーションがちらちら見えて、色が滲んでいる。


「……美春」


 秋穂が、私の袖をちょん、と引く。


「なに?」

「明日……うちで、一緒に勉強しない? ……泊まりで」


 言い方は、いつもの秋穂のまま。

 なのに、その言葉だけが綿菓子みたいにふわっと甘くて、心臓の上に落ちてきた。


「え、秋穂の家で?」

「うん。最近、美春が必死にやってるの見てると……私も手伝いたくなる」


 秋穂は視線を少し泳がせて、言葉を続けた。


「……それに。イブ、ひとりで勉強って……寂しい」


 最後の一言が、私の中の全部を溶かしそうになる。

 ――お泊り。秋穂の部屋。二人きり。

 いや、違う。勉強会。勉強会だから。


「……うん。行く」


 返事はすぐ出たのに、次の問題がすぐ襲ってくる。


「でも、うち……どう言おう」


 秋穂が眉を少し下げる。


「嘘じゃなくていい。勉強会、だし」

「……確かに。全部は言わないけどね」


 秋穂は小さく頷いた。

 その頷きが、私の背中を押す。


 家に帰って、玄関でコートを脱ぐと、台所から味噌汁の匂いがした。

 母が顔を出して、「寒かったでしょう」と言う。


 私は靴下のままリビングに入り、勇気を出して口を開いた。


「明日、秋穂ちゃんの家で……勉強会することになった」


 母は一瞬だけ私を見て、それから「そう」と頷いた。


「いいじゃない。あの子、真面目だし。……遅くなるなら連絡してね」


 遅くなる、の中に泊まるが含まれているかどうかは、私の心の中だけの話。

 私は「うん」と答えて、スマホを握りしめた。


 画面に秋穂の名前が光る。


 22:18 美春 明日、行くね。

 22:19 秋穂 うん

 22:19 秋穂 ……嬉しい

 22:20 美春 私も


 たったそれだけなのに、頬があったかくなる。

 冬なのに、体温だけは隠せない。


     ◇


 翌日の午後、秋穂の家の前に立つと、空の色が薄い水色だった。

 寒いのに、日差しが少しだけ優しい。クリスマスって、こういう光だ。


 インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。


「美春」


 秋穂が、マフラーを巻いたまま立っていた。

 そのままの姿が、なぜだか嬉しくて、私は笑ってしまう。


「こんにちは。お邪魔します」

「うん。……寒かった?」

「寒かったけど、来たら平気になった」


 言ってから気づく。言い方が、恋人っぽい。

 秋穂は少しだけ目を丸くして、でもすぐに小さく笑った。


 廊下には家の匂いがする。洗剤と、温かいお茶の匂い。

 香織さんが「いらっしゃい、美春さん」と丁寧に言って、私にスリッパを出してくれた。


「勉強、頑張ってね。夕方になったら温かいもの入れるわ」

「ありがとうございます」


 秋穂の部屋に入ると、空気がふっと静かになる。

 あの日――風邪のときに見た部屋と同じだ。余計なものがなくて、机の上が整っている。

 枕元には水のボトル。間接灯が琥珀みたいな薄い色を床に落としている。本棚には料理本と参考書が肩を並べていた。


 でも今日は、ひとつだけ"増えているもの"がある。


 机の横の壁に、小さなコルクボード。

 メモやレシピの切り抜きが几帳面に並んでいて、真ん中に――写真が一枚、押しピンで留められていた。


 猫耳の私と、魔女帽子の秋穂。

 ふざけた格好なのに、距離だけは嘘みたいに近い。

 店のカウンター前で撮った、二人だけの"あの写真"。


 写真の端には小さな付箋が貼られていて、丸い字で「10/31」とだけ書かれていた。


(……飾って、る)


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 そのすぐ横に、もう一つ。

 少し端が折れた、紙の半券――動物園のチケットの切れ端が、同じように押しピンで留められていた。

 日付のスタンプが薄く残っていて、インクのかすれまで妙に愛おしい。「8/—」みたいに、最後の数字が少し潰れて読めない。


 誰にも見せないはずの秘密が、秋穂の日常の壁に、当たり前みたいに刺さっている。

 それが嬉しくて、同時に、顔が熱い。


 秋穂らしく、短い。短いのに、逃げない。


「……見た?」


 背後から、秋穂の声。

 私は慌てて視線をそらすふりをして、でも、うまくできない。


「見た……。だって、そこ、目に入る……」

「……うん」

「……飾ってるの、ずるい」

「ずるくない」

「ずるいよ。心臓が……落ち着かない」

「……落ち着かなくて、いい」


 さらっと言われて、私は言葉が詰まった。

 秋穂は照れてないふりをして、でも耳が少し赤い。

 私はその赤さに救われるみたいに、息を吐いた。


 部屋は相変わらず整っていて、きれいで――それなのに、あの写真一枚で、ここが"秋穂の生活"なんだって、急に現実味を持って迫ってくる。


「座って」


 秋穂が椅子を引いてくれる。

 私たちは机に向かい、教材を並べた。英語、現代文、数学のプリント。

 クリスマスっぽさがどこにもないのに、秋穂と同じ机を挟んでいるだけで、今日は特別に見える。


「まず英語」


 秋穂が、私の長文プリントを指でトントン叩く。


「美春、ここ。最初の段落で焦ってる。最後まで読まずに選択肢に飛んでる」

「……うっ」


 図星すぎて声が詰まる。


「でも、悪い癖が分かってるなら直せる」


 秋穂の言い方は、いつも責めない。

 注意はするのに、私が倒れないように支えたまま指を差してくれる。


「この単語、覚えてる?」

「えっと……"infuse"?」

「うん。注入する、浸透させる」


 秋穂は一瞬考えて、私の顔を見た。


「……紅茶を淹れるときみたい」

「あー、それ秋穂らしい」

「茶葉をお湯に入れると、ゆっくり色と香りが広がる。infuseは、"液体の中に何かを満たしていく"感じ」


 私は笑いながら、でもちゃんとメモを取る。

 秋穂の説明は、頭の中で映像になる。湯気、琥珀色、広がっていく香り。

 英語の文字が、急に生活の匂いを持ち始める。


「秋穂に教えてもらうと、なんでこんなに入るんだろ」


 独り言のつもりが、声に出ていた。

 秋穂は、視線を落としたまま小さく言う。


「……それは、私が教えてるから」

「聞こえた」

「聞こえないと思った」

「聞こえるよ。秋穂の声、私、拾うの得意だし」


 秋穂の耳が赤くなる。

 その反応が、答え合わせみたいで、私の胸が軽く跳ねた。


 英語の設問を二つ進めて、赤ペンのチェックが増えるころ。

 秋穂が、私の答案の端を指で押さえて、ふっと息を吐いた。


「……ここまで。いったん、切り替え」

「え、もう? まだいける」

「美春の"まだいける"は、だいたい後から崩れる」

「こわ……」


 秋穂は小さく頷いて、次のプリントを引き寄せた。現代文。

 文字の海が、急に重く見えて、私は肩をすくめる。


「国語、苦手……」

「苦手だから、やる」


 秋穂の正論が刺さる。


「……でも、どうやって読めばいいか分かんない」


 秋穂は少しだけ考えて、私のプリントにペン先を落とした。


「ここ。"筆者が一番言いたいこと"を探す。……最初に、"違和感"のある言葉に印をつけて」

「違和感?」

「強い言い方とか、繰り返しとか。甘すぎる、とか」

「甘……?」

「……甘すぎるって言われたら、どこが甘いか探すでしょ」


(するけど)


 私は思わず笑ってしまう。こんなところでも菓子職人なの!?って言いたいのに、ちょっと納得してしまうのが悔しい。


 秋穂は"設問に答えるため"じゃなく、"文章の癖を見抜くため"みたいに淡々と線を引く。

 私はその真面目さに引っ張られて、いつの間にか、文章の輪郭が少しずつ見えてくる。


「……あ、ここだ。さっきの段落、同じ言葉がまた出てる」

「うん。そこが"焼き目"みたいなところ」

「焼き目?」

「……ここ、印がつく。目立つ。作者が焦げ目をつけてる」

「いや、焦げ目はやばいよ!」

「大丈夫。……"焦がす"んじゃなくて、"香りを立てる"」


 秋穂がさらっと言って、私はもう一度笑った。

 笑いながら読むと、さっきまでの"文字の圧"が少し軽くなる。


 現代文を一区切り。

 次は数学のプリントを引っ張り出すと、私は反射的にうめいた。


「数学……現実。でも、これは工程がはっきりしてるから好き」

「そう、工程。……手順。分解。順番を間違えない」


 秋穂は、私が途中式を飛ばした箇所をすぐ見つけた。


「ここ、秤を使ってない」

「秤?」

「途中式。……材料を目分量で入れると、味がぶれる」

「うわ、刺さる……」


 確かに私は"答えだけ当てたい"みたいに端折ってしまう。

 秋穂はそこを責めず、私の手元の余白に、小さく□を作っていく。


「この□を埋めて。……"何を求めるか"を先に置く」

「先に置く……」

「ボウルを用意してから材料入れるのと同じ」


 秋穂は真顔だ。

 私は悔しいのに、□が埋まっていくと気持ちが落ち着く。

 数学の"怖さ"が、少しずつ"手触り"に変わっていく。


 しばらくして、香織さんが温かいココアを持ってきてくれた。

 湯気が部屋に広がると、机の上の紙まで柔らかくなる。


「美春さん、甘いの大丈夫? 砂糖控えめにしたけど」

「大丈夫です。ありがとうございます」


 秋穂が「……お母さん、ありがとう」と短く言う。

 香織さんは「うん」とだけ返して、そっと扉を閉めた。


 私はココアを一口飲んで、ふっと息を吐く。

 甘さが控えめなのに、胸の奥は妙に満たされる。


「……ねえ、秋穂」

「なに?」

「秋穂に教えてもらうと、なんか……頭が散らからない」


 秋穂は視線を落としたまま、小さく言う。


「……散らかっても、戻せばいい」


 その言い方が、妙に優しい。


 休憩が終わると、秋穂が社会のノートを出した。

 日本史らしい、びっしりした文字。


「最後に、ここだけ。暗記、少し」

「うえ……」

「一問ずつ。……"短時間で回す"」


 回す、という言葉が、喫茶店のホール担当の私に刺さる。

 秋穂は淡々と、でもテンポよく質問してくる。


「ここ。出来事と年。セット」

「えっと……」

「迷ったら、"前後の流れ"で考える。……いきなり正解を掴まない」


 それは、どこかお菓子作りにも似ていた。

 いきなり完成形を掴もうとしないで、順に温度を上げていくみたいに。


 気づけば、机の上のプリントに、赤と黒の線が増えている。

 増えているのに、怖さは少し減っていた。


     ◇


 時計が八時を過ぎるころ、廊下から声がした。


「お風呂、入っていいわよ」

「……はーい」


 秋穂が立ち上がり、私を見た。


「美春、先に入って」

「は、はい……!」


 勢いで答えてしまい、次の瞬間、胸がどきどきしてきた。

 秋穂の家でお風呂。私は何を言っているんだ。勉強会なのに。


 でも秋穂は平然としている。

 その平然さが逆に私を慌てさせる。


 ――温度、隠せない。


     ◇


 脱衣所で服を脱ぐとき、心臓の音がやけに大きく感じた。

 秋穂の家。秋穂のお風呂。秋穂が毎日ここで髪を洗って、湯船に浸かって、眠る前の一日の疲れを溶かしている場所。


 ――私、今、何してるんだろ。


 勉強会。そう、勉強会。受験生の正しい行動。

 なのに、下着を整えるだけで頬が熱くなるのは、正しさと関係ないところが勝手に反応しているせいだ。


 私は深呼吸して、浴室のドアの前で一度だけ立ち止まった。


 ――大丈夫。お風呂だよ。お風呂。

 ――ただ、温まるだけ。ちゃんと温まって、落ち着いて、戻って……勉強、もする。


 言い聞かせてから、ドアを開ける。


 湯気がふわっと顔に触れて、視界が一瞬ぼやけた。

 石鹸の匂いが柔らかく鼻をくすぐり、タイルの白さが冬の夜の光を反射している。

 小さめだけど、清潔で、どこか「静かな場所」って感じがした。声を大きく出すのがもったいないみたいな。


 体を洗う音が、やけに丁寧になってしまう。

 泡を立てる手つきまで慎重になって、いつもより髪を流すのに時間がかかる。

 こういうときに限って、シャワーの温度がちょうどよくて、安心してしまうのが腹立たしい。


 湯船の蓋を開けると、湯気がもう一段立ち上がった。

 湯面が小さく揺れて、そこに自分の指先が触れる。


 温かい。


 湯船に浸かった瞬間、肩の力が抜けた。

 冬の冷たさが、指先からゆっくり溶けていく。


 その温度が、胸の奥まで届いたところで――ふいに、英語の単語が浮かぶ。


 infuse。


(注入する。浸透させる。液体の中に、何かを満たしていく感じ)


 湯の熱が、肌の表面を撫でるんじゃなくて――私の輪郭そのものを、ゆっくりほどいていく。

 美春、という形が少しずつ溶けて、透明な温度に混ざりながら、秋穂の家の「当たり前」の中へ滲んでいくみたいに。


 湯の中で、私の境目がふっと曖昧になる。

 溶けた私が、湯気と一緒にこの家に広がって、秋穂の毎日の隙間にそっと入り込んでいく――そんな想像をしてしまって、可笑しくて、苦しくて。


(……やだ。こんなところで復習しないでよ)


 私は湯の中で、小さく笑ってしまった。

 秋穂に感化されてきたなあ、って。

 でも、記憶に残るって、たぶんいいことだ。受験生としては正しい。……たぶん。


 目を閉じると、今日一日の光景が浮かぶ。

 机に並んだプリント。秋穂の指がトントンと指した行。赤ペンの印。

「焦ってる」って言われて、図星で、悔しくて。

 それでも、秋穂の言い方が優しくて、嬉しくて。


 ――そして、このあと。


(……同じ布団で、寝るんだ)


 それが現実として湯の上に浮かび上がってきて、胸がどきん、と鳴った。

 湯気のせいじゃない。のぼせでもない。もっと別の、心のやつ。


(私、ちゃんと眠れる? 眠れるわけなくない?)


 と、そのタイミングを見計らったみたいに、ドアの向こうから小さな声がした。


「美春?」


 秋穂だ。


「……な、なに?」


 返事が情けなく裏返って、自分で自分が恥ずかしい。

 ドア越しなのに、秋穂に顔を見られている気がする。


 少し間があって、秋穂が言う。


「……お湯、熱くない?」

「だ、大丈夫。ちょうどいい」

「……ほんと?」


 疑っているわけじゃなく、確認する声音。

 看病のときに、私の額に手を当てたときの声に似ている。


「うん。秋穂の家のお風呂、落ち着く……」


 言ってから、しまった、と思う。

 落ち着くって、言い方がなんか……生活に入り込むみたいで。


 ドアの向こうが静かになって、次に聞こえた声が少しだけ柔らかかった。


「……よかった」


 たったそれだけで、胸の奥が温まる。


「……あのさ」


 私が言うと、すぐ返事が来る。


「なに?」


(近い。ドア一枚しかない)


 その事実に、また変な緊張が走る。

 でも、言ってしまう。言わないと、ずっと湯船の中でどきどきし続ける。


「秋穂って……家でも、こうやって人のこと気にしてるの?」

「……普通」

「普通じゃないよ。……優しすぎる」

「……優しくない」

「優しい」


 言い切ったら、向こうが少し黙った。

 それから、布が擦れる音がして、秋穂が小さく言った。


「……美春が、頑張ってるから」


(ずるい)


 胸がきゅっとなる。

 頑張ってるから、って言い方は、褒めてるみたいで、守ってるみたいで。


 私は湯船の縁を指でなぞった。

 水面がゆらりと揺れて、湯気が天井へ逃げていく。


「……ねえ、秋穂」

「うん」

「今日……このあと、一緒の布団で寝るの、さ」


 言った瞬間、喉が熱くなる。

 私、何を言っている。勉強会。勉強会なんだってば。


 でも、言葉は止まらなかった。


「想像しただけで、心臓が忙しい……」


 沈黙。

 ドアの向こうが、静かすぎて怖い。


 ――言い過ぎた? 引かれた?


 慌てて取り繕おうとした、その瞬間。


「……私も」


 秋穂の声が、ほんの少し震えていた。


「……忙しい」


(……秋穂も?)


 胸の奥に、甘い熱がぱっと広がる。

 湯船の温度とは違う、もっと柔らかい温かさ。


「……でも」


 秋穂が続ける。


「……美春が、来てくれたから。忙しくても、いい」


 もうだめだ。

 湯気のせいにしたいくらい、顔が熱い。


「……秋穂、ずるい」

「ずるくない」

「ずるいよ……」


 私が小さく言うと、向こうで秋穂が息を吐く音がした。

 笑ったのか、照れたのか分からない音。


「……のぼせないで。長く浸かりすぎないで」


 急に現実に戻すみたいに言われて、私は思わず笑ってしまった。


「今さら……看病モード?」

「……癖」

「可愛い癖」

「……言わないで」


 いつものやりとり。

 ドア一枚隔ててるのに、距離が縮まる感じがする。


「……バスタオル、置いとくね。脱衣所の棚の上。あと、飲み物も」

「飲み物?」

「……水。脱水する」

「受験生の管理じゃなくて、アスリートの管理だよ」

「……美春、すぐのぼせる」

「そこだけ過去データが強い!」


 軽口を叩きながら、でも私は湯船の中で、そっと息を吸った。

 嬉しい。

 こんな風に、秋穂と日常の端っこを共有しているのが。


「……美春」


 最後に、秋穂が名前を呼ぶ。


「なに?」

「……出たら、教えて」

「うん。……教える」


 向こうの足音が遠ざかって、廊下の空気が少し冷たくなる気配がした。

 私は湯面を見つめたまま、ぼんやり思う。


(秋穂の家の中に、私の声がある)


 それだけで、特別だ。


 湯船から上がり、体を拭いて、脱衣所へ戻る。

 棚の上には、言われた通りバスタオルと、小さなペットボトルの水。

 きちんとラベルがこちら向きに置いてある。几帳面すぎる。


 タオルを手に取ると、洗剤の匂いがふわっとした。

 秋穂の家の匂い。

 私の中にゆっくり満ちていく――また、infuseが浮かびそうになって、私は口元を押さえた。


 鏡に映る自分の顔が、妙に赤い。

 湯のせいだけじゃない。

 ドア越しの会話のせい。

「私も忙しい」って言われたせい。


(……今日、眠れるかな)


 眠れない気がするのに、楽しみで仕方ない自分がいる。

 私は水を一口飲んで、深呼吸して、部屋へ戻るために廊下へ出た。


     ◇


 廊下の先、秋穂の部屋の前。

 間接灯の淡い光の中に、秋穂が立っていた。


「……のぼせてない?」


 第一声がそれで、私は吹き出しそうになる。


「相変わらず管理が徹底してる……」

「……美春が、放っておくと無理するから」


 その言い方が真面目で、優しくて。

 私は一瞬だけ言葉を失って、誤魔化すみたいに笑った。


「……はいはい。ちゃんと戻りました。秋穂先生」

「先生じゃない」


 秋穂が小さく眉を寄せる。その顔が、湯気よりも近い。

 私は、ほんの少しだけ声を落とした。


「……じゃあ、秋穂。いつも通りでいい」


 秋穂は一瞬だけ目を伏せて、それから短く頷いた。


「……うん」


 部屋に入ると、空気がふわっと柔らかい。

 机の上は片付けられていて、参考書が綺麗に積まれ、ベッドの上には枕が2つ、きちんと並んでいた。


「……準備、してたんだ」


 私が言うと、秋穂は一瞬だけ視線をそらして、枕を抱え直した。


「……当たり前」

「当たり前、が照れる……」

「……照れなくていい」

「秋穂が照れてるから私も照れるんだよ」

「……照れてない」


 言い切るくせに、耳が赤い。

 その赤さが、今日の"勉強会"の正しさを、いとも簡単に甘くしてしまう。


 秋穂が私に部屋着を差し出した。


「これ、貸す」

「え、いいの?」

「うん。美春、寒がりだし」


 受け取った布は少し大きくて、袖が手の甲を隠した。

 洗剤の匂いに、ほんのり混じる紅茶みたいな甘さ。

 ――秋穂の生活の匂い。


「……だめだ、これ。落ち着かない」

「何が?」

「秋穂の匂いがする……」


 言った瞬間、秋穂が固まった。

 次の瞬間、枕を盾みたいに抱えて、顔を半分隠す。


「言わないで……」

「言う。だって本当だもん」

「……ほんとに、言わないで」


 "言わないで"の語尾が小さく震えていて、ずるい。

 可愛い、って思った瞬間、私の方が負ける。


「じゃあ……心の中で言う」

「……それも、だめ」

「え、心の中も禁止?」

「……禁止」


 秋穂が真顔で言うから、余計に笑ってしまう。

 笑い声が部屋に落ちると、冬の夜が少しだけ温まった。


 私は髪をタオルで拭きながら、ふと机の上を見た。

 閉じた参考書の角が揃っている。鉛筆がちゃんと削ってある。消しゴムのカスひとつない。

 秋穂らしい。


「……ドライヤー、借りてもいい?」

「うん。ここ」


 秋穂が引き出しからドライヤーを出して、コードを伸ばしてくれる。

 その手つきまで丁寧で、なんだか胸がくすぐったい。


 ドライヤーの温風が髪を撫でる音の中で、秋穂が小さく言った。


「……美春、さっき」

「さっき?」

「……ドアの向こうで。忙しい、って」


 言いながら、秋穂が自分の前髪を指で整える。

 視線が合わない。

 でも、声だけが真っ直ぐ。


「……私も、同じ」


 その一言が、温風より熱かった。

 私はドライヤーを止める。


「……私、ちゃんと寝れるかな」

「……寝れる」

「根拠は?」

「……私が、いる」


 秋穂が言い切ったあと、ようやく私を見る。

 そこに"当たり前"の顔があって、私はそれに、ひどく救われてしまう。


「……ずるい」

「ずるくない」

「ずるいよ……」


 言ったら、秋穂の口元がほんの少しだけ緩んだ。

 それが笑顔だと分かった瞬間、私はまた負ける。


 ――寝る前なのに、心臓だけはずっと起きている。

 そんな私を見透かしたみたいに、秋穂が机の端を指で叩いた。


「……寝る前に、五分だけ」

「ご、五分……?」

「五分。……短い。けど、残る」


 秋穂は付箋を三枚ちぎって、私のプリントに貼る。

 英語の長文、現代文の"違和感"チェック、数学の途中式。


「今日やった"ここだけ"を、もう一回」

「秋穂、寝る前まで管理が徹底してる……」

「……明日、楽になる」


 その"明日"が、ちゃんと私の未来につながっている気がして。

 私は頷いて、ペンを持ち直した。


 英語の段落を一つ、息を整えて読み直す。

 現代文の同じ語を探して、線を引き直す。

 数学は□を埋めて、途中式の"秤"を置く。


 たった五分。

 なのに、私の中の散らかったものが少しだけ揃う。


 秋穂は満足そうに頷いて、私の指先を見た。


「……よし」

「"よし"って言い方、先生みたい」

「先生じゃない」

「秋穂先生……」

「……言うなら、助手」

「助手?」

「……美春の」


 その一言が、五分の復習よりずっと心に残ってしまって。

 私は、また負けた。


 机の上を片付けて、明日の朝用にプリントを一枚だけ残す。

 "今日はここまで"の線を引くみたいに。

 それなのに、線を引いた途端、別の緊張が始まった。


 ベッドが、そこにある。

 秋穂のベッドは一つ。

 そして今夜、私たちは二人。


 秋穂が布団の端を持ち上げて、少しだけ間を空けた。


「……ここ。美春」

「……うん」


 返事はできる。

 足も動く。

 なのに、胸だけが妙に重い。


 布団に入ると、空気がふわっと柔らかい。

 洗いたての匂い。

 秋穂の生活の匂い。

 そして、隣の体温。


「寒くない?」

「……秋穂が、温かいから」


 私が言うと、秋穂がほんの少しだけ身じろぎした。

 それから、そっと手を探ってくる。


 指が触れた瞬間、心臓が跳ねた。

 握られる。

 たったそれだけで、世界が静かになる。


「……メリークリスマス」


 秋穂が言う。

 暗闇の中の声は、いつもより柔らかい。


「……メリークリスマス」


 返すと、秋穂の指が少しだけ強くなる。


「美春」

「なに?」


 しばらく間があって、秋穂が小さく息を吸った。


「……来年も、ずっと一緒にいたい」


 布団の中の言葉は、外に漏れないからこそ、真実みたいだった。

 私は喉が熱くなって、少しだけ息を吸う。


「……私も。秋穂がいない未来、もう考えられない」


 秋穂の指が、ぎゅっと強くなる。


 秘密はまだ消えない。

 でも、秘密のせいで温度まで嘘になる必要はない。

 私たちの温度は、ここにある。


「ねえ、秋穂」

「うん?」

「……来年は、もう少し、ちゃんと言えるようになりたい」

「ちゃんと?」

「秋穂のこと、好きだって。自信持って」


 暗闇の中で、秋穂が息を飲むのが分かった。

 それから、少し間を置いて――


「……私も。美春のこと、もっと堂々と大事にしたい」


 その言葉が、布団の中であったかく広がる。

 私は胸の奥がきゅっとして、でもその痛みが、嫌じゃない。


「……ねえ」

「うん」

「明日も、勉強しようね」

「……うん。受験生だから」

「ふふ」


 笑い声が、耳元でくすぐったい。

 私はそのまま、秋穂の温度に包まれて目を閉じた。


 ――眠れるわけない、って思ってたのに。

 気づいたら、指を握ったまま、意識がほどけていった。


     ◇


 目が覚めたとき、窓の外が薄い銀色だった。

 冬の朝は、静かで、音が少ない。


 隣を見ると、秋穂が眠っていた。

 まつ毛が影を落としていて、寝息が小さくて、少しだけ子どもみたいだ。


 ――起こしたくない。


 私はそっと身を起こして、間接灯のスイッチに触れないように気をつけた。

 でも、その気配で秋穂が目を開ける。


「……おはよう」


 かすれた声。

 胸がくすぐったくなる。


「おはよう、秋穂」


 秋穂は少しだけ目を細めて、笑った。


「……美春、寝癖」

「えっ、うそ」


 慌てて髪を触ると、指先にふわふわした感じがある。

 秋穂が小さく笑う。


「可愛い」

「言わないで……!」

「……昨日は言ってたのに」

「昨日は……昨日の私が強気だっただけ!」

「……ふふ」


 笑われると悔しい。

 でも、その悔しさが甘い。


 廊下から朝食の匂いが漂ってきて、私たちはリビングへ行った。

 テーブルの上にはホットケーキ。湯気。バター。

 ミルクティーの色が、冬の朝の光に溶けている。


 香織さんが丁寧に「どうぞ」と言って、私の前にも皿を置いてくれる。

 この"家の中の当たり前"に、私はまた胸が熱くなる。


「ありがとうございます……!」


 ホットケーキはふわふわで、口の中でほどけた。

 昨日のココアより少しだけ優しい甘さ。

 それが、今の私の不安の角を丸くしてくれる。


 食後、秋穂が小さな封筒を持ってきた。


「……これ」

「なに?」

「プレゼント」


 封筒の中には、細長い栞が入っていた。

 手作りのブックマーク。端の処理が丁寧で、秋穂らしい。


 小さく書かれた文字。


 ――「美春、合格するから」


 胸が熱くなって、私は栞を握りしめた。


「……秋穂、ずるい」

「ずるくない」

「泣きそう」


 秋穂は少し困った顔をして、それから小さく言う。


「泣かないで。……私も、頑張るから」


 私はバッグから、用意していたものを取り出した。

 紅茶のセット。秋穂が好きな香りのやつ。


 秋穂の目が少しだけ大きくなる。


「……嬉しい」


 短い。

 でも、その短さが一番嬉しいって、私は知っている。


 そして、少しだけ現実に戻るみたいに、秋穂が私の参考書を指差した。


「……食べたら、少しだけやろう」

「うっ……現実!」

「現実。……でも、手伝う」


 テーブルの端で、短い復習をする。

 昨日チェックした長文の段落。私が焦りそうになる場所で、秋穂が指を置く。


「ここ。……息、整えてから」

「秋穂、呼吸まで管理するの」

「……必要」


 その"必要"が冷たくないのが、ずるい。


 英語を一段落読み終えると、秋穂が私のノートをひっくり返した。


「次、数学。……朝の方が頭が固いから、ほぐす」

「ほぐす……パン生地みたいに?」

「……先に言われた」


 秋穂はほんの少し口元を緩めて、私の途中式の空白を指差した。


「昨日の□。……ここ、今日も置ける?」

「置く、置く……」


 私は□を書き、何を求めるか先に置いてから式を進める。

 すると、昨日より手が止まらない。


「……できた」


 言った瞬間、秋穂が小さく頷いた。


「うん。……安定した」


 その"安定"が、嬉しい。

 秋穂の"合格するから"が、机の上で少しずつ現実になっていく気がする。


 次に、秋穂が現代文のプリントを一枚だけ差し出した。


「国語、これだけ。……"違和感"探し」

「朝から違和感……」

「朝は、敏感」

「なにその理屈!」


 そう言いながらも、私は線を引く。

 繰り返しの語。強い断定。やけに目立つ比喩。


「……あ。ここ、また同じ言葉」

「うん。そこ。……"香り"が立ってる」

「またお菓子……!」

「……でも、覚えやすいでしょ」


 悔しい。

 でも、覚えやすい。


 机の上に、英語と数学と国語の"できた"が小さく積まれていく。

 それだけで、帰るのが少しだけ惜しくなってしまう。


     ◇


 帰る時間が近づくと、現実が玄関まで迎えに来る。

 コートを着て、マフラーを巻き直して、靴を履く。

 それだけで"また日常"に戻るスイッチみたいだ。


「送る」


 秋穂が言う。


「家の前まででいいよ。寒いし」

「……寒いのは、平気」


 秋穂はそう言って、扉を開けた。

 外の空気は冷たい。

 でも昨日より少し透明で、息が白いのも楽しい。


 家の前で立ち止まると、秋穂が私の袖をつかんだ。


「美春」

「なに?」


 秋穂は周りを一瞬だけ見て、それから、素早く私の頬に顔を寄せた。

 唇が、ほんの少しだけ触れる。

 短い。

 でも、その短さが、かえって胸に残る。


「……受験、頑張ろうね」


 秋穂が小さく言った。


「私も、美春の未来を……一緒に作りたいから」


 私は頷いて、秋穂の手を握り返す。


「うん。私も。来年は――もう少し、堂々と秋穂の隣にいたい」


 秋穂は少しだけ目を伏せて、それから頷いた。


「……うん。私も」


 手を離して、私は一歩下がる。

 秋穂が見えなくなるのが惜しい。

 でも、見えなくなっても温度は消えない。


 クリスマスは一日で終わる。

 でも、私たちの勉強は終わらないし、秘密もまだ続く。

 それでも。


 この冬は、寒さの中にちゃんと温かい場所がある。

 それを知っているだけで、私はまた机に向かえる。


 私は胸の奥で、もう一度、栞の文字をなぞった。


「合格するから」


 その言葉は、秋穂からの願いで。

 私からの誓いでもある。


 ――来年は、もっとちゃんと言えるように。

 秋穂のことが好きだって。

 隠すためじゃなく、守るために温度を抱えたまま、私は進む。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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