第30話「溶ける輪郭」
ライトな百合x成長物語です。
クリスマスお泊り会!
十二月の空気は、吸い込むたびに肺の奥がきゅっと縮む。
吐く息だけが白くて、私の焦りまで形にしてしまいそうだった。
クリスマス。
世の中は浮かれているのに、私の頭の中は赤本と単語帳で埋め尽くされている。
――でも、勉強だけじゃない。
この冬は、秋穂の手の温度も一緒に持ち歩いている。
それが、救いで。
同時に、少しだけ怖い。
秘密のまま、温度だけが増していくことが。
◇
閉店の札を裏返すと、店内の音が一段小さくなる。
クリスマスのBGMも、さっきまでのざわめきが消えると、妙に照れくさく聞こえた。
「ふう。お疲れさん」
カウンターの向こうで、マスターがエプロンの紐を解きながら言う。
秋穂はいつものように黙々と片付けを進めていて、私はレジの締めを終えたところだった。
「明日さ」
マスターが、さらっと言った。
「臨時休業にする」
「えっ」
私の声が裏返る。
秋穂の手も、ほんの一瞬だけ止まった。
「クリスマスイブに店開けて、二人にずっと働かせるのは俺の趣味じゃねぇ。……お前ら、受験生だろ」
言い方はぶっきらぼうなのに、目だけが妙に優しい。
私は胸の奥がじん、と熱くなるのをごまかすみたいに笑った。
「ありがとうございます。でも、マスター……売上、大丈夫なんですか」
「明後日稼げ。常連がケーキ買いに来るからな」
「こわい」
「怖がるな。ほら、さっさと帰れ。俺も帰る」
マスターは照れ隠しみたいに手を振って、倉庫の灯りを落とした。
出入り口の鍵を閉める音が、冬の夜に小さく響く。
店の前に出ると、冷えた空が頬を撫でた。
街の端っこにある喫茶店でも、遠くの商店街のイルミネーションがちらちら見えて、色が滲んでいる。
「……美春」
秋穂が、私の袖をちょん、と引く。
「なに?」
「明日……うちで、一緒に勉強しない? ……泊まりで」
言い方は、いつもの秋穂のまま。
なのに、その言葉だけが綿菓子みたいにふわっと甘くて、心臓の上に落ちてきた。
「え、秋穂の家で?」
「うん。最近、美春が必死にやってるの見てると……私も手伝いたくなる」
秋穂は視線を少し泳がせて、言葉を続けた。
「……それに。イブ、ひとりで勉強って……寂しい」
最後の一言が、私の中の全部を溶かしそうになる。
――お泊り。秋穂の部屋。二人きり。
いや、違う。勉強会。勉強会だから。
「……うん。行く」
返事はすぐ出たのに、次の問題がすぐ襲ってくる。
「でも、うち……どう言おう」
秋穂が眉を少し下げる。
「嘘じゃなくていい。勉強会、だし」
「……確かに。全部は言わないけどね」
秋穂は小さく頷いた。
その頷きが、私の背中を押す。
家に帰って、玄関でコートを脱ぐと、台所から味噌汁の匂いがした。
母が顔を出して、「寒かったでしょう」と言う。
私は靴下のままリビングに入り、勇気を出して口を開いた。
「明日、秋穂ちゃんの家で……勉強会することになった」
母は一瞬だけ私を見て、それから「そう」と頷いた。
「いいじゃない。あの子、真面目だし。……遅くなるなら連絡してね」
遅くなる、の中に泊まるが含まれているかどうかは、私の心の中だけの話。
私は「うん」と答えて、スマホを握りしめた。
画面に秋穂の名前が光る。
22:18 美春 明日、行くね。
22:19 秋穂 うん
22:19 秋穂 ……嬉しい
22:20 美春 私も
たったそれだけなのに、頬があったかくなる。
冬なのに、体温だけは隠せない。
◇
翌日の午後、秋穂の家の前に立つと、空の色が薄い水色だった。
寒いのに、日差しが少しだけ優しい。クリスマスって、こういう光だ。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
「美春」
秋穂が、マフラーを巻いたまま立っていた。
そのままの姿が、なぜだか嬉しくて、私は笑ってしまう。
「こんにちは。お邪魔します」
「うん。……寒かった?」
「寒かったけど、来たら平気になった」
言ってから気づく。言い方が、恋人っぽい。
秋穂は少しだけ目を丸くして、でもすぐに小さく笑った。
廊下には家の匂いがする。洗剤と、温かいお茶の匂い。
香織さんが「いらっしゃい、美春さん」と丁寧に言って、私にスリッパを出してくれた。
「勉強、頑張ってね。夕方になったら温かいもの入れるわ」
「ありがとうございます」
秋穂の部屋に入ると、空気がふっと静かになる。
あの日――風邪のときに見た部屋と同じだ。余計なものがなくて、机の上が整っている。
枕元には水のボトル。間接灯が琥珀みたいな薄い色を床に落としている。本棚には料理本と参考書が肩を並べていた。
でも今日は、ひとつだけ"増えているもの"がある。
机の横の壁に、小さなコルクボード。
メモやレシピの切り抜きが几帳面に並んでいて、真ん中に――写真が一枚、押しピンで留められていた。
猫耳の私と、魔女帽子の秋穂。
ふざけた格好なのに、距離だけは嘘みたいに近い。
店のカウンター前で撮った、二人だけの"あの写真"。
写真の端には小さな付箋が貼られていて、丸い字で「10/31」とだけ書かれていた。
(……飾って、る)
胸の奥が、きゅっと縮む。
そのすぐ横に、もう一つ。
少し端が折れた、紙の半券――動物園のチケットの切れ端が、同じように押しピンで留められていた。
日付のスタンプが薄く残っていて、インクのかすれまで妙に愛おしい。「8/—」みたいに、最後の数字が少し潰れて読めない。
誰にも見せないはずの秘密が、秋穂の日常の壁に、当たり前みたいに刺さっている。
それが嬉しくて、同時に、顔が熱い。
秋穂らしく、短い。短いのに、逃げない。
「……見た?」
背後から、秋穂の声。
私は慌てて視線をそらすふりをして、でも、うまくできない。
「見た……。だって、そこ、目に入る……」
「……うん」
「……飾ってるの、ずるい」
「ずるくない」
「ずるいよ。心臓が……落ち着かない」
「……落ち着かなくて、いい」
さらっと言われて、私は言葉が詰まった。
秋穂は照れてないふりをして、でも耳が少し赤い。
私はその赤さに救われるみたいに、息を吐いた。
部屋は相変わらず整っていて、きれいで――それなのに、あの写真一枚で、ここが"秋穂の生活"なんだって、急に現実味を持って迫ってくる。
「座って」
秋穂が椅子を引いてくれる。
私たちは机に向かい、教材を並べた。英語、現代文、数学のプリント。
クリスマスっぽさがどこにもないのに、秋穂と同じ机を挟んでいるだけで、今日は特別に見える。
「まず英語」
秋穂が、私の長文プリントを指でトントン叩く。
「美春、ここ。最初の段落で焦ってる。最後まで読まずに選択肢に飛んでる」
「……うっ」
図星すぎて声が詰まる。
「でも、悪い癖が分かってるなら直せる」
秋穂の言い方は、いつも責めない。
注意はするのに、私が倒れないように支えたまま指を差してくれる。
「この単語、覚えてる?」
「えっと……"infuse"?」
「うん。注入する、浸透させる」
秋穂は一瞬考えて、私の顔を見た。
「……紅茶を淹れるときみたい」
「あー、それ秋穂らしい」
「茶葉をお湯に入れると、ゆっくり色と香りが広がる。infuseは、"液体の中に何かを満たしていく"感じ」
私は笑いながら、でもちゃんとメモを取る。
秋穂の説明は、頭の中で映像になる。湯気、琥珀色、広がっていく香り。
英語の文字が、急に生活の匂いを持ち始める。
「秋穂に教えてもらうと、なんでこんなに入るんだろ」
独り言のつもりが、声に出ていた。
秋穂は、視線を落としたまま小さく言う。
「……それは、私が教えてるから」
「聞こえた」
「聞こえないと思った」
「聞こえるよ。秋穂の声、私、拾うの得意だし」
秋穂の耳が赤くなる。
その反応が、答え合わせみたいで、私の胸が軽く跳ねた。
英語の設問を二つ進めて、赤ペンのチェックが増えるころ。
秋穂が、私の答案の端を指で押さえて、ふっと息を吐いた。
「……ここまで。いったん、切り替え」
「え、もう? まだいける」
「美春の"まだいける"は、だいたい後から崩れる」
「こわ……」
秋穂は小さく頷いて、次のプリントを引き寄せた。現代文。
文字の海が、急に重く見えて、私は肩をすくめる。
「国語、苦手……」
「苦手だから、やる」
秋穂の正論が刺さる。
「……でも、どうやって読めばいいか分かんない」
秋穂は少しだけ考えて、私のプリントにペン先を落とした。
「ここ。"筆者が一番言いたいこと"を探す。……最初に、"違和感"のある言葉に印をつけて」
「違和感?」
「強い言い方とか、繰り返しとか。甘すぎる、とか」
「甘……?」
「……甘すぎるって言われたら、どこが甘いか探すでしょ」
(するけど)
私は思わず笑ってしまう。こんなところでも菓子職人なの!?って言いたいのに、ちょっと納得してしまうのが悔しい。
秋穂は"設問に答えるため"じゃなく、"文章の癖を見抜くため"みたいに淡々と線を引く。
私はその真面目さに引っ張られて、いつの間にか、文章の輪郭が少しずつ見えてくる。
「……あ、ここだ。さっきの段落、同じ言葉がまた出てる」
「うん。そこが"焼き目"みたいなところ」
「焼き目?」
「……ここ、印がつく。目立つ。作者が焦げ目をつけてる」
「いや、焦げ目はやばいよ!」
「大丈夫。……"焦がす"んじゃなくて、"香りを立てる"」
秋穂がさらっと言って、私はもう一度笑った。
笑いながら読むと、さっきまでの"文字の圧"が少し軽くなる。
現代文を一区切り。
次は数学のプリントを引っ張り出すと、私は反射的にうめいた。
「数学……現実。でも、これは工程がはっきりしてるから好き」
「そう、工程。……手順。分解。順番を間違えない」
秋穂は、私が途中式を飛ばした箇所をすぐ見つけた。
「ここ、秤を使ってない」
「秤?」
「途中式。……材料を目分量で入れると、味がぶれる」
「うわ、刺さる……」
確かに私は"答えだけ当てたい"みたいに端折ってしまう。
秋穂はそこを責めず、私の手元の余白に、小さく□を作っていく。
「この□を埋めて。……"何を求めるか"を先に置く」
「先に置く……」
「ボウルを用意してから材料入れるのと同じ」
秋穂は真顔だ。
私は悔しいのに、□が埋まっていくと気持ちが落ち着く。
数学の"怖さ"が、少しずつ"手触り"に変わっていく。
しばらくして、香織さんが温かいココアを持ってきてくれた。
湯気が部屋に広がると、机の上の紙まで柔らかくなる。
「美春さん、甘いの大丈夫? 砂糖控えめにしたけど」
「大丈夫です。ありがとうございます」
秋穂が「……お母さん、ありがとう」と短く言う。
香織さんは「うん」とだけ返して、そっと扉を閉めた。
私はココアを一口飲んで、ふっと息を吐く。
甘さが控えめなのに、胸の奥は妙に満たされる。
「……ねえ、秋穂」
「なに?」
「秋穂に教えてもらうと、なんか……頭が散らからない」
秋穂は視線を落としたまま、小さく言う。
「……散らかっても、戻せばいい」
その言い方が、妙に優しい。
休憩が終わると、秋穂が社会のノートを出した。
日本史らしい、びっしりした文字。
「最後に、ここだけ。暗記、少し」
「うえ……」
「一問ずつ。……"短時間で回す"」
回す、という言葉が、喫茶店のホール担当の私に刺さる。
秋穂は淡々と、でもテンポよく質問してくる。
「ここ。出来事と年。セット」
「えっと……」
「迷ったら、"前後の流れ"で考える。……いきなり正解を掴まない」
それは、どこかお菓子作りにも似ていた。
いきなり完成形を掴もうとしないで、順に温度を上げていくみたいに。
気づけば、机の上のプリントに、赤と黒の線が増えている。
増えているのに、怖さは少し減っていた。
◇
時計が八時を過ぎるころ、廊下から声がした。
「お風呂、入っていいわよ」
「……はーい」
秋穂が立ち上がり、私を見た。
「美春、先に入って」
「は、はい……!」
勢いで答えてしまい、次の瞬間、胸がどきどきしてきた。
秋穂の家でお風呂。私は何を言っているんだ。勉強会なのに。
でも秋穂は平然としている。
その平然さが逆に私を慌てさせる。
――温度、隠せない。
◇
脱衣所で服を脱ぐとき、心臓の音がやけに大きく感じた。
秋穂の家。秋穂のお風呂。秋穂が毎日ここで髪を洗って、湯船に浸かって、眠る前の一日の疲れを溶かしている場所。
――私、今、何してるんだろ。
勉強会。そう、勉強会。受験生の正しい行動。
なのに、下着を整えるだけで頬が熱くなるのは、正しさと関係ないところが勝手に反応しているせいだ。
私は深呼吸して、浴室のドアの前で一度だけ立ち止まった。
――大丈夫。お風呂だよ。お風呂。
――ただ、温まるだけ。ちゃんと温まって、落ち着いて、戻って……勉強、もする。
言い聞かせてから、ドアを開ける。
湯気がふわっと顔に触れて、視界が一瞬ぼやけた。
石鹸の匂いが柔らかく鼻をくすぐり、タイルの白さが冬の夜の光を反射している。
小さめだけど、清潔で、どこか「静かな場所」って感じがした。声を大きく出すのがもったいないみたいな。
体を洗う音が、やけに丁寧になってしまう。
泡を立てる手つきまで慎重になって、いつもより髪を流すのに時間がかかる。
こういうときに限って、シャワーの温度がちょうどよくて、安心してしまうのが腹立たしい。
湯船の蓋を開けると、湯気がもう一段立ち上がった。
湯面が小さく揺れて、そこに自分の指先が触れる。
温かい。
湯船に浸かった瞬間、肩の力が抜けた。
冬の冷たさが、指先からゆっくり溶けていく。
その温度が、胸の奥まで届いたところで――ふいに、英語の単語が浮かぶ。
infuse。
(注入する。浸透させる。液体の中に、何かを満たしていく感じ)
湯の熱が、肌の表面を撫でるんじゃなくて――私の輪郭そのものを、ゆっくりほどいていく。
美春、という形が少しずつ溶けて、透明な温度に混ざりながら、秋穂の家の「当たり前」の中へ滲んでいくみたいに。
湯の中で、私の境目がふっと曖昧になる。
溶けた私が、湯気と一緒にこの家に広がって、秋穂の毎日の隙間にそっと入り込んでいく――そんな想像をしてしまって、可笑しくて、苦しくて。
(……やだ。こんなところで復習しないでよ)
私は湯の中で、小さく笑ってしまった。
秋穂に感化されてきたなあ、って。
でも、記憶に残るって、たぶんいいことだ。受験生としては正しい。……たぶん。
目を閉じると、今日一日の光景が浮かぶ。
机に並んだプリント。秋穂の指がトントンと指した行。赤ペンの印。
「焦ってる」って言われて、図星で、悔しくて。
それでも、秋穂の言い方が優しくて、嬉しくて。
――そして、このあと。
(……同じ布団で、寝るんだ)
それが現実として湯の上に浮かび上がってきて、胸がどきん、と鳴った。
湯気のせいじゃない。のぼせでもない。もっと別の、心のやつ。
(私、ちゃんと眠れる? 眠れるわけなくない?)
と、そのタイミングを見計らったみたいに、ドアの向こうから小さな声がした。
「美春?」
秋穂だ。
「……な、なに?」
返事が情けなく裏返って、自分で自分が恥ずかしい。
ドア越しなのに、秋穂に顔を見られている気がする。
少し間があって、秋穂が言う。
「……お湯、熱くない?」
「だ、大丈夫。ちょうどいい」
「……ほんと?」
疑っているわけじゃなく、確認する声音。
看病のときに、私の額に手を当てたときの声に似ている。
「うん。秋穂の家のお風呂、落ち着く……」
言ってから、しまった、と思う。
落ち着くって、言い方がなんか……生活に入り込むみたいで。
ドアの向こうが静かになって、次に聞こえた声が少しだけ柔らかかった。
「……よかった」
たったそれだけで、胸の奥が温まる。
「……あのさ」
私が言うと、すぐ返事が来る。
「なに?」
(近い。ドア一枚しかない)
その事実に、また変な緊張が走る。
でも、言ってしまう。言わないと、ずっと湯船の中でどきどきし続ける。
「秋穂って……家でも、こうやって人のこと気にしてるの?」
「……普通」
「普通じゃないよ。……優しすぎる」
「……優しくない」
「優しい」
言い切ったら、向こうが少し黙った。
それから、布が擦れる音がして、秋穂が小さく言った。
「……美春が、頑張ってるから」
(ずるい)
胸がきゅっとなる。
頑張ってるから、って言い方は、褒めてるみたいで、守ってるみたいで。
私は湯船の縁を指でなぞった。
水面がゆらりと揺れて、湯気が天井へ逃げていく。
「……ねえ、秋穂」
「うん」
「今日……このあと、一緒の布団で寝るの、さ」
言った瞬間、喉が熱くなる。
私、何を言っている。勉強会。勉強会なんだってば。
でも、言葉は止まらなかった。
「想像しただけで、心臓が忙しい……」
沈黙。
ドアの向こうが、静かすぎて怖い。
――言い過ぎた? 引かれた?
慌てて取り繕おうとした、その瞬間。
「……私も」
秋穂の声が、ほんの少し震えていた。
「……忙しい」
(……秋穂も?)
胸の奥に、甘い熱がぱっと広がる。
湯船の温度とは違う、もっと柔らかい温かさ。
「……でも」
秋穂が続ける。
「……美春が、来てくれたから。忙しくても、いい」
もうだめだ。
湯気のせいにしたいくらい、顔が熱い。
「……秋穂、ずるい」
「ずるくない」
「ずるいよ……」
私が小さく言うと、向こうで秋穂が息を吐く音がした。
笑ったのか、照れたのか分からない音。
「……のぼせないで。長く浸かりすぎないで」
急に現実に戻すみたいに言われて、私は思わず笑ってしまった。
「今さら……看病モード?」
「……癖」
「可愛い癖」
「……言わないで」
いつものやりとり。
ドア一枚隔ててるのに、距離が縮まる感じがする。
「……バスタオル、置いとくね。脱衣所の棚の上。あと、飲み物も」
「飲み物?」
「……水。脱水する」
「受験生の管理じゃなくて、アスリートの管理だよ」
「……美春、すぐのぼせる」
「そこだけ過去データが強い!」
軽口を叩きながら、でも私は湯船の中で、そっと息を吸った。
嬉しい。
こんな風に、秋穂と日常の端っこを共有しているのが。
「……美春」
最後に、秋穂が名前を呼ぶ。
「なに?」
「……出たら、教えて」
「うん。……教える」
向こうの足音が遠ざかって、廊下の空気が少し冷たくなる気配がした。
私は湯面を見つめたまま、ぼんやり思う。
(秋穂の家の中に、私の声がある)
それだけで、特別だ。
湯船から上がり、体を拭いて、脱衣所へ戻る。
棚の上には、言われた通りバスタオルと、小さなペットボトルの水。
きちんとラベルがこちら向きに置いてある。几帳面すぎる。
タオルを手に取ると、洗剤の匂いがふわっとした。
秋穂の家の匂い。
私の中にゆっくり満ちていく――また、infuseが浮かびそうになって、私は口元を押さえた。
鏡に映る自分の顔が、妙に赤い。
湯のせいだけじゃない。
ドア越しの会話のせい。
「私も忙しい」って言われたせい。
(……今日、眠れるかな)
眠れない気がするのに、楽しみで仕方ない自分がいる。
私は水を一口飲んで、深呼吸して、部屋へ戻るために廊下へ出た。
◇
廊下の先、秋穂の部屋の前。
間接灯の淡い光の中に、秋穂が立っていた。
「……のぼせてない?」
第一声がそれで、私は吹き出しそうになる。
「相変わらず管理が徹底してる……」
「……美春が、放っておくと無理するから」
その言い方が真面目で、優しくて。
私は一瞬だけ言葉を失って、誤魔化すみたいに笑った。
「……はいはい。ちゃんと戻りました。秋穂先生」
「先生じゃない」
秋穂が小さく眉を寄せる。その顔が、湯気よりも近い。
私は、ほんの少しだけ声を落とした。
「……じゃあ、秋穂。いつも通りでいい」
秋穂は一瞬だけ目を伏せて、それから短く頷いた。
「……うん」
部屋に入ると、空気がふわっと柔らかい。
机の上は片付けられていて、参考書が綺麗に積まれ、ベッドの上には枕が2つ、きちんと並んでいた。
「……準備、してたんだ」
私が言うと、秋穂は一瞬だけ視線をそらして、枕を抱え直した。
「……当たり前」
「当たり前、が照れる……」
「……照れなくていい」
「秋穂が照れてるから私も照れるんだよ」
「……照れてない」
言い切るくせに、耳が赤い。
その赤さが、今日の"勉強会"の正しさを、いとも簡単に甘くしてしまう。
秋穂が私に部屋着を差し出した。
「これ、貸す」
「え、いいの?」
「うん。美春、寒がりだし」
受け取った布は少し大きくて、袖が手の甲を隠した。
洗剤の匂いに、ほんのり混じる紅茶みたいな甘さ。
――秋穂の生活の匂い。
「……だめだ、これ。落ち着かない」
「何が?」
「秋穂の匂いがする……」
言った瞬間、秋穂が固まった。
次の瞬間、枕を盾みたいに抱えて、顔を半分隠す。
「言わないで……」
「言う。だって本当だもん」
「……ほんとに、言わないで」
"言わないで"の語尾が小さく震えていて、ずるい。
可愛い、って思った瞬間、私の方が負ける。
「じゃあ……心の中で言う」
「……それも、だめ」
「え、心の中も禁止?」
「……禁止」
秋穂が真顔で言うから、余計に笑ってしまう。
笑い声が部屋に落ちると、冬の夜が少しだけ温まった。
私は髪をタオルで拭きながら、ふと机の上を見た。
閉じた参考書の角が揃っている。鉛筆がちゃんと削ってある。消しゴムのカスひとつない。
秋穂らしい。
「……ドライヤー、借りてもいい?」
「うん。ここ」
秋穂が引き出しからドライヤーを出して、コードを伸ばしてくれる。
その手つきまで丁寧で、なんだか胸がくすぐったい。
ドライヤーの温風が髪を撫でる音の中で、秋穂が小さく言った。
「……美春、さっき」
「さっき?」
「……ドアの向こうで。忙しい、って」
言いながら、秋穂が自分の前髪を指で整える。
視線が合わない。
でも、声だけが真っ直ぐ。
「……私も、同じ」
その一言が、温風より熱かった。
私はドライヤーを止める。
「……私、ちゃんと寝れるかな」
「……寝れる」
「根拠は?」
「……私が、いる」
秋穂が言い切ったあと、ようやく私を見る。
そこに"当たり前"の顔があって、私はそれに、ひどく救われてしまう。
「……ずるい」
「ずるくない」
「ずるいよ……」
言ったら、秋穂の口元がほんの少しだけ緩んだ。
それが笑顔だと分かった瞬間、私はまた負ける。
――寝る前なのに、心臓だけはずっと起きている。
そんな私を見透かしたみたいに、秋穂が机の端を指で叩いた。
「……寝る前に、五分だけ」
「ご、五分……?」
「五分。……短い。けど、残る」
秋穂は付箋を三枚ちぎって、私のプリントに貼る。
英語の長文、現代文の"違和感"チェック、数学の途中式。
「今日やった"ここだけ"を、もう一回」
「秋穂、寝る前まで管理が徹底してる……」
「……明日、楽になる」
その"明日"が、ちゃんと私の未来につながっている気がして。
私は頷いて、ペンを持ち直した。
英語の段落を一つ、息を整えて読み直す。
現代文の同じ語を探して、線を引き直す。
数学は□を埋めて、途中式の"秤"を置く。
たった五分。
なのに、私の中の散らかったものが少しだけ揃う。
秋穂は満足そうに頷いて、私の指先を見た。
「……よし」
「"よし"って言い方、先生みたい」
「先生じゃない」
「秋穂先生……」
「……言うなら、助手」
「助手?」
「……美春の」
その一言が、五分の復習よりずっと心に残ってしまって。
私は、また負けた。
机の上を片付けて、明日の朝用にプリントを一枚だけ残す。
"今日はここまで"の線を引くみたいに。
それなのに、線を引いた途端、別の緊張が始まった。
ベッドが、そこにある。
秋穂のベッドは一つ。
そして今夜、私たちは二人。
秋穂が布団の端を持ち上げて、少しだけ間を空けた。
「……ここ。美春」
「……うん」
返事はできる。
足も動く。
なのに、胸だけが妙に重い。
布団に入ると、空気がふわっと柔らかい。
洗いたての匂い。
秋穂の生活の匂い。
そして、隣の体温。
「寒くない?」
「……秋穂が、温かいから」
私が言うと、秋穂がほんの少しだけ身じろぎした。
それから、そっと手を探ってくる。
指が触れた瞬間、心臓が跳ねた。
握られる。
たったそれだけで、世界が静かになる。
「……メリークリスマス」
秋穂が言う。
暗闇の中の声は、いつもより柔らかい。
「……メリークリスマス」
返すと、秋穂の指が少しだけ強くなる。
「美春」
「なに?」
しばらく間があって、秋穂が小さく息を吸った。
「……来年も、ずっと一緒にいたい」
布団の中の言葉は、外に漏れないからこそ、真実みたいだった。
私は喉が熱くなって、少しだけ息を吸う。
「……私も。秋穂がいない未来、もう考えられない」
秋穂の指が、ぎゅっと強くなる。
秘密はまだ消えない。
でも、秘密のせいで温度まで嘘になる必要はない。
私たちの温度は、ここにある。
「ねえ、秋穂」
「うん?」
「……来年は、もう少し、ちゃんと言えるようになりたい」
「ちゃんと?」
「秋穂のこと、好きだって。自信持って」
暗闇の中で、秋穂が息を飲むのが分かった。
それから、少し間を置いて――
「……私も。美春のこと、もっと堂々と大事にしたい」
その言葉が、布団の中であったかく広がる。
私は胸の奥がきゅっとして、でもその痛みが、嫌じゃない。
「……ねえ」
「うん」
「明日も、勉強しようね」
「……うん。受験生だから」
「ふふ」
笑い声が、耳元でくすぐったい。
私はそのまま、秋穂の温度に包まれて目を閉じた。
――眠れるわけない、って思ってたのに。
気づいたら、指を握ったまま、意識がほどけていった。
◇
目が覚めたとき、窓の外が薄い銀色だった。
冬の朝は、静かで、音が少ない。
隣を見ると、秋穂が眠っていた。
まつ毛が影を落としていて、寝息が小さくて、少しだけ子どもみたいだ。
――起こしたくない。
私はそっと身を起こして、間接灯のスイッチに触れないように気をつけた。
でも、その気配で秋穂が目を開ける。
「……おはよう」
かすれた声。
胸がくすぐったくなる。
「おはよう、秋穂」
秋穂は少しだけ目を細めて、笑った。
「……美春、寝癖」
「えっ、うそ」
慌てて髪を触ると、指先にふわふわした感じがある。
秋穂が小さく笑う。
「可愛い」
「言わないで……!」
「……昨日は言ってたのに」
「昨日は……昨日の私が強気だっただけ!」
「……ふふ」
笑われると悔しい。
でも、その悔しさが甘い。
廊下から朝食の匂いが漂ってきて、私たちはリビングへ行った。
テーブルの上にはホットケーキ。湯気。バター。
ミルクティーの色が、冬の朝の光に溶けている。
香織さんが丁寧に「どうぞ」と言って、私の前にも皿を置いてくれる。
この"家の中の当たり前"に、私はまた胸が熱くなる。
「ありがとうございます……!」
ホットケーキはふわふわで、口の中でほどけた。
昨日のココアより少しだけ優しい甘さ。
それが、今の私の不安の角を丸くしてくれる。
食後、秋穂が小さな封筒を持ってきた。
「……これ」
「なに?」
「プレゼント」
封筒の中には、細長い栞が入っていた。
手作りのブックマーク。端の処理が丁寧で、秋穂らしい。
小さく書かれた文字。
――「美春、合格するから」
胸が熱くなって、私は栞を握りしめた。
「……秋穂、ずるい」
「ずるくない」
「泣きそう」
秋穂は少し困った顔をして、それから小さく言う。
「泣かないで。……私も、頑張るから」
私はバッグから、用意していたものを取り出した。
紅茶のセット。秋穂が好きな香りのやつ。
秋穂の目が少しだけ大きくなる。
「……嬉しい」
短い。
でも、その短さが一番嬉しいって、私は知っている。
そして、少しだけ現実に戻るみたいに、秋穂が私の参考書を指差した。
「……食べたら、少しだけやろう」
「うっ……現実!」
「現実。……でも、手伝う」
テーブルの端で、短い復習をする。
昨日チェックした長文の段落。私が焦りそうになる場所で、秋穂が指を置く。
「ここ。……息、整えてから」
「秋穂、呼吸まで管理するの」
「……必要」
その"必要"が冷たくないのが、ずるい。
英語を一段落読み終えると、秋穂が私のノートをひっくり返した。
「次、数学。……朝の方が頭が固いから、ほぐす」
「ほぐす……パン生地みたいに?」
「……先に言われた」
秋穂はほんの少し口元を緩めて、私の途中式の空白を指差した。
「昨日の□。……ここ、今日も置ける?」
「置く、置く……」
私は□を書き、何を求めるか先に置いてから式を進める。
すると、昨日より手が止まらない。
「……できた」
言った瞬間、秋穂が小さく頷いた。
「うん。……安定した」
その"安定"が、嬉しい。
秋穂の"合格するから"が、机の上で少しずつ現実になっていく気がする。
次に、秋穂が現代文のプリントを一枚だけ差し出した。
「国語、これだけ。……"違和感"探し」
「朝から違和感……」
「朝は、敏感」
「なにその理屈!」
そう言いながらも、私は線を引く。
繰り返しの語。強い断定。やけに目立つ比喩。
「……あ。ここ、また同じ言葉」
「うん。そこ。……"香り"が立ってる」
「またお菓子……!」
「……でも、覚えやすいでしょ」
悔しい。
でも、覚えやすい。
机の上に、英語と数学と国語の"できた"が小さく積まれていく。
それだけで、帰るのが少しだけ惜しくなってしまう。
◇
帰る時間が近づくと、現実が玄関まで迎えに来る。
コートを着て、マフラーを巻き直して、靴を履く。
それだけで"また日常"に戻るスイッチみたいだ。
「送る」
秋穂が言う。
「家の前まででいいよ。寒いし」
「……寒いのは、平気」
秋穂はそう言って、扉を開けた。
外の空気は冷たい。
でも昨日より少し透明で、息が白いのも楽しい。
家の前で立ち止まると、秋穂が私の袖をつかんだ。
「美春」
「なに?」
秋穂は周りを一瞬だけ見て、それから、素早く私の頬に顔を寄せた。
唇が、ほんの少しだけ触れる。
短い。
でも、その短さが、かえって胸に残る。
「……受験、頑張ろうね」
秋穂が小さく言った。
「私も、美春の未来を……一緒に作りたいから」
私は頷いて、秋穂の手を握り返す。
「うん。私も。来年は――もう少し、堂々と秋穂の隣にいたい」
秋穂は少しだけ目を伏せて、それから頷いた。
「……うん。私も」
手を離して、私は一歩下がる。
秋穂が見えなくなるのが惜しい。
でも、見えなくなっても温度は消えない。
クリスマスは一日で終わる。
でも、私たちの勉強は終わらないし、秘密もまだ続く。
それでも。
この冬は、寒さの中にちゃんと温かい場所がある。
それを知っているだけで、私はまた机に向かえる。
私は胸の奥で、もう一度、栞の文字をなぞった。
「合格するから」
その言葉は、秋穂からの願いで。
私からの誓いでもある。
――来年は、もっとちゃんと言えるように。
秋穂のことが好きだって。
隠すためじゃなく、守るために温度を抱えたまま、私は進む。
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