第29話「帰ってくる場所」
ライトな百合x成長物語です。
3年生の進路面談です!
十一月の空気は、指先からじわじわと冬に塗り替えてくる。
朝の教室は、窓の向こうの白っぽい光と、ストーブの焦げた匂いが混ざって、落ち着くはずなのに落ち着かない。
私は席に座りながら、ペンケースを開けて閉じて、また開けた。
意味のない動作で、胸の奥のざわつきを薄めようとしているのが自分で分かる。
文化祭も、ハロウィンも終わった。
行事の余韻が引き潮みたいに引いていったあとに残るのは――現実だ。
「進路」
黒板の前に立った担任が、いつもより少しだけ硬い声で言った。
「来週から、三者面談を始めます」
「生徒、保護者、担任の三者で、進路を最終確認します」
教室が一斉にざわついた。
「うわ、ついに来た」「親と先生って地獄」――小声の冗談が、笑いになりきれずに空中で止まる。
みんな、知ってるのだ。ここから先は、逃げ道の少ない時間だと。
私は手のひらに汗がにじむのを感じた。
決めた。決めている。
私は経営学部。
秋穂は製菓の専門学校。
――二人で、未来を作るために。
それなのに、不安は決意の影にしぶとく居座る。
親に説明できるのか。先生は納得するのか。母は、私の"理由"をどう受け取るのか。
授業の合間、私はスマホを握りしめて、秋穂に短いメッセージを送った。
14:25 美春 三者面談、来週からだって
14:25 秋穂 うん
14:26 秋穂 胃、縮んでる?
14:26 美春 縮んでる
14:26 秋穂 私も
画面の文字が、胸の奥に小さな湯たんぽみたいに温度を置いた。
それだけで、息が少し通る。
放課後。
喫茶店に着く頃には、街の灯りが早く点り始めていた。店のドアを開けると、コーヒーの香りと、甘いバターの匂いが迎えてくれる。外の冷たさとは別の世界。
「おう、美春ちゃん」
マスターがカウンターから声をかけた。
「模試、返ってきたんだろ。どうだった?」
私はリュックから封筒を取り出し、そっと見せた。
「……A判定、でした」
言った瞬間、自分でも信じられなくて笑いそうになる。
あの夏のC判定が、遠い昔みたいだ。
マスターが目を丸くして、「おお」と低く唸った。
「やるじゃねぇか」
「秋穂のおかげです」
「二人で積み上げた結果だろ。よかったな」
奥で作業していた秋穂が、少しだけ顔を上げた。
帽子はかぶっていないのに、目の奥が柔らかく光って見えた。
「……美春、すごい」
小さな声。
褒められると、恥ずかしくて視線が落ちる。
「すごくないよ。秋穂が、教えてくれたから」
「……でも、頑張ったのは美春」
その言葉が、胸の内側に貼りついていた冷えを、少しずつ溶かしていく。
A判定。これなら――面談で、背筋を伸ばせる。
私は深呼吸して、秋穂の方へ体を傾けた。
「秋穂。面談、来るじゃん」
「……うん」
「A判定ならさ、ちょっとだけ、強気でいける気がする」
秋穂が、ほんの少し口元を緩める。
「……強気の美春、好き」
「ちょ、そういうの今言う?」
「……今、言いたかった」
頬が熱くなる。
冬の入口なのに、心臓だけ簡単に春みたいになるの、ずるい。
◇
「よし」
マスターが急に、腕組みをした。
いつもの"仕事の顔"じゃなくて、変に偉そうな顔。
「じゃあ、予行演習だ」
「え?」
「三者面談。怖いんだろ? 練習しとけ」
「いや、そんな……」
「やる」
即決だった。止める余地がない。
マスターはカウンターの向こう側に、椅子を一脚引っ張ってきて、そこにどっかり座る。
「担任、俺」
秋穂が泡立て器を持ったまま固まる。
「……え」
「で、お母さん役。秋穂ちゃん」
「……え?」
二回目の「え」が、今度は少し裏返った。
私は笑いそうになって、慌てて口元を押さえる。
「や、やめてよ」
「やる」
「……やるの?」と秋穂が私を見る。目が丸い。
「やる……かも」
言った瞬間、マスターが指を鳴らした。
「はい、面談開始」
演技に入り込むの早すぎる。
「結城さん。志望、経営学部。理由は?」
「えっと……」
「"えっと"は禁止。先生は"えっと"が嫌いです」
「先生こわ……」
「先生はこわくない。現実がこわいんだ」
なんなんだこの人。
私は椅子に座り直して、喉を鳴らす。
「……将来、友達の事業を手伝いたいからです」
言った瞬間、秋穂が微妙に反応した。泡立て器がカップの縁にカン、と当たる。
「友達の事業?」
マスターが眉を上げる。
「その"友達"って誰だ?」
私は、言葉が詰まる。
秋穂は保護者役なのに、なぜかこちらを睨んでいる。
いや、睨んでるというより――困ってる。
"友達"って言い方の、あの距離。
「……喫茶店の、周防さん……」
「周防さん」
マスターはうんうん頷くふりをして、わざとらしくペンを走らせる仕草をした。
「なるほど。友達の店。手伝い。卒業後も。はい」
秋穂が小さく咳払いして、保護者役の声を作る。
「美春は……」
言いかけて止まる。
「……美春は、努力家で」
「急に親っぽい」
「親だから」
秋穂は真顔で言い切った。
「美春は、目標があるとちゃんと積み上げる。だから、変な方向へは行きません」
そこで秋穂は、ほんの一拍だけ考えるみたいに眉を寄せて――つい、口を滑らせた。
「……ほら、最初はゆるく混ぜて、あとでしっかり乳化させる。美春も、そういう――」
「待って。親、今"乳化"って言った?」
「……言ってない」
「言ったよ」
「……言ってない。親だから」
「親の概念、便利すぎない?」
秋穂の耳が、みるみる赤くなる。
保護者役のはずの顔が、完全に"周防秋穂"に戻っている。
「……つまり、最初に焦らないで、ちゃんと最後に形にできる子です」
「今さらまとめ直した」
「……まとめ直した」
マスターが腹の底で笑うみたいに、肩を揺らした。
「いいねえ。保護者、信用できる」
「信用できるの基準が、お菓子寄りなんだけど……」
私は言いながら、熱くなった頬を誤魔化すように手で擦った。
秋穂が小さく、でもきっぱり言う。
「美春が変な方向へ行くの、嫌だから」
最後の一言が、親の台詞ではない。
私は思わず、椅子の脚をぎし、と鳴らしてしまった。顔が熱い。
マスターがニヤッと笑う。
「おし。じゃあ次」
「結城さん。親に言われたら困る質問。いきます」
やめてよ。
「"それ、本当に自分のため?"」
胸がきゅっとなる。
私は一瞬だけ、秋穂の指先を見た。粉のついた手。お菓子を作る手。
守りたい手。
「……自分のためです」
言った瞬間、自分でも驚くくらいまっすぐだった。
「学びたい。自分で店をやるわけじゃなくても、経営って、誰かの夢を現実にする知識だから」
「……それが、私には必要です」
マスターが、珍しく真面目な顔になった。
秋穂も、泡立て器を握ったまま、じっとこちらを見る。目が揺れている。
マスターはペンを置いて、軽く頷く。
「よし。今の答え、覚えとけ。きれいな言葉にしなくていい。芯があれば伝わる」
「……芯」
「おう。あと保護者、いいツッコミだった」
「……ツッコミじゃない」
秋穂が小さく言って、目を逸らした。
私は、息を吐く。
さっきまで胸の中を暴れていたものが、少しだけ形になった気がした。
マスターがわざとらしく咳払いをする。
「はい、予行演習おしまい。美春ちゃん、今日の宿題」
「宿題?」
「"えっと"を捨てろ」
「無理」
「無理じゃねぇ。やるんだよ」
秋穂が小さく笑った。
その笑いが、今日の中でいちばん助けになる。
◇
その夜。
布団に入っても、目の裏が明るい。頭の中に、椅子が三つ並ぶ光景が勝手に再生される。
"理由は?"
"本当に自分のため?"
"友達の事業?"
喉が乾く。
水を飲んでも、口の中が砂みたいだ。枕に顔を押しつけて、深呼吸を繰り返す。
スマホが震えた。
21:45 秋穂 これ、渡し忘れた
21:46 秋穂 明日、朝ちょっとだけ来れる?
21:46 美春 行く
翌朝。
学校へ行く前に喫茶店へ寄る。まだ開店前で、店の中は薄暗い。
カウンターに秋穂がいて、紙袋を差し出してきた。
「……これ」
「なに?」
「……お守り」
紙袋の中には、小さな焼き菓子が一つ。手のひらに収まるくらいの、ひと口サイズ。
「味、見て」
秋穂が言う。目は逸らしているのに、声は逃げない。
私は包み紙を開いて、一口。
バターの香りがまず来て、次にほんの少しの塩。甘さが後から追いかけてきて、最後に、口の中にあたたかい余韻が残る。
「……おいしい」
言った瞬間、秋穂の肩の力が少し抜けた。
包み紙の裏に、小さな文字がある。
――いってらっしゃい。
――戻ってきて。
たったそれだけ。
なのに喉の奥が熱くなる。
"頑張れ"じゃないのが、秋穂らしい。
戻ってくる場所を、先に作ってくれている。
私は、紙袋を握りしめた。
「……ありがと」
秋穂が小さく頷く。
「……手」
言って、私の袖の端を、指先でちょんと触れた。
握れない。繋げない。
でも、触れてる。
それだけで、ちゃんと足が地面についた気がした。
◇
面談の日程表が配られた。
自分の名前の横に書かれた日時を見ただけで、胃の奥がきゅっと縮む。
その夜も、完全には眠れなかった。
けれど、昨日みたいに真っ暗なままじゃない。
秋穂の"戻ってきて"が、胸の中で小さな灯りになる。
怖いという言葉に逃げずに、できることを数える。
明日、何を言う。
何を言わない。
何を守る。
そして、どこで息を吐く。
眠りに落ちる直前、私は思った。
――"えっと"を捨てる。
芯だけ持って行く。
◇
面談当日。
教室の一角に、机が三つ並べられていた。担任が座り、私と母が向かい合って座る。
母は紺色のコートを膝に置き、背筋を伸ばしている。普段の家の母とは違って、"外の顔"だ。
私は、秋穂のお守り菓子の紙袋を思い出して、膝の上で手を握り直した。爪が掌に食い込む前に、そっとほどく。
「結城さん」
担任が資料を見ながら言う。
「志望は経営学部で、第一志望はこの大学。変わりありませんね」
「はい」
声は思ったよりちゃんと出た。
喉の砂が、少しだけ流れた気がする。
「理由を、改めて聞かせてもらえますか」
来た。
私は、昨日の"芯"を思い出す。
「……将来、友達の事業を手伝いたいからです」
母の視線が、横顔に刺さる。
「友達の事業?」
母が静かに聞き返した。
「喫茶店を手伝っていて」
言いながら脳裏に店の光景が浮かぶ。カウンター、焼き菓子、秋穂の横顔、マスターの声。
「そこで、卒業後も一緒に働きたいって思いました。経営の知識が必要だと思って」
担任は頷きながらメモを取る。
「なるほど。アルバイトを通じて具体的な将来像ができた、と」
私は頷いた。
母はまだ黙っている。その沈黙が、さっきより重い。
担任が封筒を開きながら言った。
「最新の模試結果、A判定ですね」
「はい」
「現状なら十分射程圏です。ただし英語は引き続き落とさないように。冬に一気に下がります」
「はい。頑張ります」
担任の口調は淡々としているのに、その言葉が妙に現実的で、背中が伸びる。
そして、担任が母の方を向いた。
「お母様としては、この進路でよろしいでしょうか」
母が少しだけ息を吸った。
私はその音で、心臓が跳ねるのを感じた。
母は私の方を見た。厳しいわけじゃない。でも、真剣だ。
「美春」
母が私の名前を呼ぶ。
「その"友達"って……周防さん?」
私は驚いて目を瞬かせた。
母は、私が秋穂の名前を口にする回数を、ちゃんと覚えていたのだ。
「……うん。周防秋穂。クラスメイト」
母は少し考えるように視線を落とし、それから言った。
「あなたが、そこまで具体的に考えてるなら……私は反対しない」
胸が、ひゅっと縮んで、それから熱くなる。
「ただ」
母は言葉を区切った。
「誰かのためだけに、自分を削らないで。あなたが幸せであることが一番だから」
その言葉が、胸の奥の固い部分にまっすぐ当たる。
私は、手のひらを握りしめたくなるのをこらえて、ゆっくり頷いた。
「うん。分かってる」
「……分かってるならいい」
担任が柔らかく笑った。
「いいですね。結城さんは目標が明確です。あとは積み上げるだけ。お母様も了承、ということで進めましょう」
面談が終わって、教室を出た瞬間。
廊下の冷たい空気に触れて、ようやく息が外へ出た。
「……緊張した」
思わず漏らすと、母が小さく笑う。
「そりゃそうでしょ」
「でも……ありがとう」
「何が?」
「来てくれて。ちゃんと聞いてくれて」
母は少しだけ目を逸らした。
「あなたのことだもの。聞くくらいするよ」
その言葉が、冬の風よりもずっと温かかった。
◇
翌日。
放課後の喫茶店は、いつもより静かだった。
秋穂はケーキの仕込みをしている。生地を混ぜる音が、一定のリズムで続く。
私はカウンターの内側に入り、そっと声をかけた。
「秋穂、今日面談だよね」
秋穂の肩が、ほんの少し跳ねた。
「……うん」
「大丈夫?」
「……多分」
私が昨日言ったのと同じ返事。
私は笑ってしまう。
「真似した?」
「……してない」
「してる」
「……してない」
秋穂は少しだけ唇を尖らせた。かわいい。
でも、目の奥に張りついた緊張は隠せていない。
「香織さん、来るんだよね」
「……うん」
「……秋穂、帰ってきたら聞かせて。何でも」
秋穂はボウルを置いて、私を見る。
「……美春」
「なに?」
「先に言っておく」
胸がきゅっとなる。
"先に言う"っていうのは、逃げないための準備だ。
秋穂は小さく息を吸って、言った。
「私、ちゃんと自分の道を言う」
「……うん」
「……逃げない」
私は即答した。
「秋穂ならできる」
「だって、秋穂は……いつも私を引っ張ってくれる」
秋穂が少しだけ目を丸くして、それから小さく頷いた。
「……じゃあ、行ってくる」
その背中を見送って、私はしばらく手を止めた。
外の空は早く暗くなる。冬が進むみたいに、時間も進む。
(頑張れ)
言葉にしたら軽くなる気がして、心の中でだけ呟いて、また仕事に戻る。
……戻ったのは、手だけだった。
身体は動いているのに、意識が何度も入口のベルに引っ張られる。
マスターが、カウンター越しに私の手元を見る。
「おい。粉、こぼれてるぞ」
「……あ」
「落ち着け。落ち着かねぇなら、手を動かせ。単純作業やれ」
私は言われた通り、洗い物を始めた。
皿を洗う。拭く。並べる。
スポンジの泡が、指先から立っては消える。
秋穂が面談でどんな顔をしているか、勝手に想像してしまう。
香織さんの目。担任の声。紙の上の文字。
秋穂の胸の中に、またあの"自分が悪い"が顔を出していないか。
(大丈夫。帰ってくる)
昨日、秋穂が私に書いたわけじゃないメモを思い出す。
"戻ってきて"は、私だけの言葉じゃない。
帰ってくる場所を先に作る。秋穂も、私も。
ベルが鳴った。
心臓が一段跳ねて、手元が滑りそうになる。
泡のついた皿を落とさないように、私は息を一度飲み込んだ。
◇
ドアベルがカラン、と鳴って、秋穂が入ってきた。
コートの裾に外の冷気をまとっている。頬が少し赤い。寒さだけじゃない赤さだと、私は分かる。
「おかえり」
私が言うと、秋穂は小さく頷いた。
「……ただいま」
目が、少しぼんやりしている。
緊張が抜けたあとの、呼吸の置き場が分からない顔。
でも、その奥に、ほんのわずかな安心が見える。
「……どうだった?」
秋穂は少し間を置いて、言った。
「お母さんが、認めてくれた」
私は思わず息をのんだ。
「ほんとに?」
「……うん」
秋穂はエプロンを掴みながら続ける。
「それで……美春のこと、言われた」
「え?」
「困ったときは、美春を頼れって」
胸の奥が熱くなる。
香織さんが、私を"頼っていい人"として見てくれた。
それは、秋穂の隣に立つ私を、少しだけ認めてくれたってことだ。
「……嬉しい」
掠れた声が出た。
秋穂は小さく笑って、でもすぐ真面目な顔になる。
「美春、ありがとう」
「え、なんで私が」
「……美春がいたから、私、前を向けた」
私は返事の代わりに、秋穂の手を取った。指先が冷たい。外の寒さのせい。
握ってしまいたい。でも、ここは店の中。人の目がある。
――その時。
マスターが、わざとらしく咳払いをした。
「おいおい、入口で立ち話すんな。裏の段ボール、片付けてこい」
「……はい」
「……行ってきます」
マスターの声が、妙に不自然で、妙に優しい。
私は秋穂の視線を見て、小さく頷いた。
◇
裏の小さなスペースは、店内より温度が低い。
段ボールの匂いと、洗剤の匂いが混ざる。
でも――ここは、誰も見ていない。
秋穂が、息を吐いた。
「……こわかった」
声が、思ったより薄い。
強がってきた薄さじゃない。全部出してしまったあとの薄さ。
私は返事より先に、腕を伸ばした。
抱きしめる、というより、包む。逃げ道を塞がない力で。
秋穂の体が一瞬固まって、それから、ほどけるみたいに私に重なる。
「うん」
私は秋穂の肩に額を寄せる。
「帰ってきた」
秋穂が、かすれた声で繰り返す。
「……帰ってきた」
それだけで、胸の奥の固いものが崩れる。
泣きそうになるのを、私は奥歯で止めた。
泣いてもいい。でも今は、秋穂の支えでいたい。
秋穂が私の背中の服を、指先で掴んだ。
強くはない。でも離さない。
「……美春」
「なに?」
「これからも……頼っていい?」
「当たり前でしょ」
私は少しだけ抱く力を強くした。
「秋穂が困ってたら、私がいる」
「これからも、ずっと」
秋穂の睫毛が揺れて、目に薄い水が浮かんだ。
「……ありがとう」
「うん」
それ以上の言葉は、今は要らない気がした。
ここで喋りすぎると、せっかくの温度が言葉に溶けてしまう。
「……戻ろ」
秋穂が小さく言う。
私は頷いて、最後にもう一度だけ、秋穂の肩を軽く押さえるように抱いた。
それは"終わり"じゃなく、"続く"の合図。
◇
店内に戻ると、マスターが何事もなかった顔でカップを拭いていた。
でも、目は一度だけこちらを見て、すぐに逸らす。
その気遣いが、ありがたくて、ちょっと可笑しい。
閉店後。
窓の外には、商店街の人たちが電飾を絡めているのが見えた。白い光が、冬の空気に冷たくきらめく。
季節は確実に、次へ進む。
「今年、早いね」
私がぽつりと言うと、秋穂がカップを拭きながら頷いた。
「……うん。早い」
少し前まで、"早い"は焦りの言葉だった。
今の"早い"は、進むことを受け入れる言葉に聞こえる。
「美春」
秋穂が私を見る。
「私、今日……言えた」
「うん」
「……言えたの、たぶん、美春がいるって分かってたから」
「私も、同じだよ」
私は笑う。
「面談、しんどかったけど……戻ってくる場所があるって思えた」
秋穂が小さく頷く。
「じゃあ、これからも」
「うん」
「戻ってきて」
秋穂が言って、少しだけ照れた。
「……私も戻る」
私は、あの包み紙の裏の文字を思い出して、胸の奥がじんわりする。
進路が決まるって、紙に丸をつけるだけじゃない。
未来を言葉にして、怖さを抱えたまま前へ進むことだ。
私は大学。経営学部。
秋穂は製菓の専門学校。
別々の場所へ行く。でも、同じ方向へ歩く。
私たちの手の中には、確かな温度がある。
それは大きな約束じゃなくて、戻ってくるという小さな約束の積み重ね。
そして私は、母の言葉をもう一度胸の中でなぞる。
――あなたが幸せであることが一番。
それは、誰かの夢を支えるために、私が私を削る免罪符じゃない。
私が私のままで、隣に立つための言葉だ。
秋穂の隣で、私も前へ進む。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




