第28話「誰にも否定させない」
ライトな百合x成長物語です。
ハロウィンです!
十月の終わり。
店のドアを開けた瞬間、冷たい風が背中を押して、すぐに焙煎豆の香りと焼き菓子の甘さがそれを追い払った。私はいつものようにエプロンを掴み、紐を結ぶ。指先が少しだけかじかんでいるのは、季節のせいだけじゃない。
文化祭が終わって、息をつく暇もなく、受験の数字とシフト表と試作のメモが生活に並んだ。
秋穂と一緒の時間は増えたのに――胸の奥の、言葉にできない棘がまだ抜けきらない。
廊下で聞いた、あの声。
「きもい」「病気」――軽い笑い声に乗せた、刃物みたいな言葉。
(私は……ちゃんと、秋穂を守れてるのかな)
そんなことを考えていると、カウンターの向こうから、マスターが唐突に言った。
「もうすぐハロウィンだな」
私は顔を上げる。
「ハロウィン……?」
秋穂も、同じタイミングで視線を上げた。いつもより少し警戒した目。動物が物音を察知したみたいに。
マスターは、いかにも"思いついた"顔で続ける。
「店で、ハロウィンイベントやろうか」
「イベント?」
秋穂が小さく繰り返す。
マスターは、さらっと言った。
「仮装して接客する。特別メニューも出してさ。写真とか撮りたがる客もいるだろ」
特別メニュー、という単語に、私の胸が勝手に跳ねる。
――楽しいやつだ。絶対。
その時、秋穂の視線がほんの一瞬だけ、厨房の奥に置かれた棚へ流れた。
見慣れた場所。なのに、最近そこに増えたものがある。
丸い鉄板。
木のT字の棒。
それから、見慣れない長いヘラ。
(……あ)
夏の終わりの、あの「新メニュー候補」の夜。
海の家で食べたクレープを、秋穂が真面目な顔で"提案"して。
マスターが「ピークのとき、どう回す」って聞いて。
私が必死に"回す側の目線"で「最初は数量限定」って言った、あの日。
秋穂が小さく息を吸って、言った。
「……限定メニュー。クレープ、出せるかも」
私は思わず、目を見開く。
「え、ほんと!?」
秋穂は、うなずいた。うなずき方が、いつもより少しだけ固い。
"できる"って言い切るのが、まだ怖いみたいに。
「夏は……間に合わなかった。機材も、練習も」
「そりゃ夏は無理だろ。うちは海の家じゃねぇ」
マスターは笑いながら言って、でも、秋穂の目をまっすぐ見た。
「で。いまは?」
秋穂は、一拍置いてから、静かに答える。
「焼きのムラ、減った。……均一に、できるようになった」
「ほう」
「でも、忙しい時に回せるかは、別。だから――」
秋穂の言葉の続きが、私の中で先に形になる。
(ここ、私の出番……!)
「数量限定、だよね」
私が言うと、秋穂がこちらを見る。驚いたみたいに目を瞬かせて、それから、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「……うん。数量限定。あと、メニュー表に」
「"焼き上がりに少しお時間いただきます"って書く」
私が重ねると、今度はマスターが鼻で笑った。
「お前ら、店の人間みたいな顔してきたな」
「店の人間です!」
私は即答してしまって、あとから恥ずかしくなる。
秋穂は、耳の端だけ赤くしたまま、真面目に続けた。
「味は、ハロウィン仕様」
「ほう?」
「……かぼちゃと、ビター。色も、ちょっと……黒っぽい生地」
「黒?」
「ココア。甘すぎないようにする」
秋穂の"甘さ"へのこだわりが出る。私はそれが嬉しくて、胸の奥が温かくなる。
マスターが顎に手を当てる。
「……じゃあ、決まりだな。ハロウィン限定でやってみろ」
「……いいの?」
秋穂が小さく聞く。
マスターは、いつもの乱暴さで返す。
「限定だからいいんだ。失敗しても、客は"イベントの味"で許す。ただし――」
視線が私に飛ぶ。
「ホール。言えよ。待つってことを」
「はい。口頭でも言います」
「よし」
秋穂が、すこしだけ息を吐いた。
その横顔が、いつもより頼もしく見えた。
(……秋穂、進んでる)
(私も、置いていかれたくない)
そんなことを思っていたら、マスターが、いかにも"思いついた"顔で付け足した。
「じゃあ仮装も決まりだ。秋穂ちゃん、魔女。美春ちゃん、猫」
「なんとなくで決めないでください!」
私は勢いよく突っ込んで、秋穂は「……」のまま、口を小さく結んでいる。
けれど、その沈黙の奥にあるのは嫌悪じゃない。
照れと、目立つことへの怖さと、たぶん――"見られる"ことへの弱さ。
私は秋穂の横顔を盗み見て、胸の中でそっと言った。
(大丈夫。私が隣にいる)
◇
その日の帰り道、秋穂は珍しく口数が少なかった。
いつもなら、今日焼いたクッキーの焼き色の話とか、タルトの生地の湿度の話とか、そういう"小さな世界"を静かに語ってくれるのに。
「秋穂、嫌?」
私は歩幅を合わせて聞いた。
「……嫌じゃない」
秋穂は視線を前に向けたまま言う。
「ただ……」
「ただ?」
「……恥ずかしい」
それだけで、私は笑ってしまった。
秋穂はむっとして私を見る。
「笑わないで」
「ごめん。でも、秋穂のそういうところ、かわいい」
「……言わなくていい」
口ではそう言いながら、秋穂の耳が赤い。
夕方の冷たい風のせいにできない赤。
(あぁ、ずるい)
かわいすぎて、こっちの心臓が忙しい。
◇
週末。私と秋穂は、駅前の雑貨屋を覗いた。
店内はもうすっかりハロウィン仕様で、オレンジと黒と紫が、目に入るもの全部を賑やかに染めている。
魔女の帽子、猫耳、吸血鬼のマント、骸骨のタイツ、謎に本格的な鎧まで。
「秋穂、何がいい?」
私は棚の前でわくわくしながら聞いた。
秋穂は、真剣な顔で一番端の地味なコーナーを指した。
「……目立たないやつ」
「そんなの、ハロウィンじゃないよ」
私は即座に反論した。
「目立たない仮装って、ただの普段着じゃん……」
「……普段着でいい」
「よくない!」
言い合いになりかけたところで、私は棚の上にあった猫耳を手に取って、秋穂の頭の上にそっと乗せた。
「ほら。秋穂、猫」
「……違う」
秋穂は眉間にしわを寄せながらも、猫耳を外さない。
鏡をチラッと見て、すぐに目を逸らす。
(似合ってるのに)
私は笑いながら、今度は自分の頭に別の猫耳をつけた。
尻尾も、ちゃっかり手に取る。
「私はこれにする」
「……美春、目立つ」
「目立ってなんぼだよ」
秋穂は、棚の前をふらふらと移動して――結局、魔女の帽子と黒いマントを手に取った。
「……これなら、顔、隠せる」
「隠す方向で選ぶのやめて」
「……でも、魔女なら、まだ」
"まだ"って何。
私が笑うと、秋穂はほんの少しだけ口元を緩めた。
その日の夜、家で試着した私は、鏡の前で猫耳を調整して、尻尾を腰に巻き付けた。
――恥ずかしい。
でも、かわいい……かも?
胸がそわそわして、私は勢いでスマホを構え、写真を撮って、LINEで秋穂に送った。
22:25 美春 どう?
22:26 秋穂 可愛い
22:26 美春 ほんと!?
22:26 秋穂 うん
22:27 秋穂 ずるい
22:27 美春 何が?
22:28 秋穂 そんな可愛いの、私にしか見せないで
22:28 美春 っ……!
22:29 美春 秋穂も送って!見たい!
22:29 秋穂 ……恥ずかしい
22:29 美春 お願い
22:31 秋穂 ……(写真送信)
通知が鳴った瞬間、私は呼吸を忘れた。
画面に映った秋穂は、魔女の帽子をかぶり、黒いマントを羽織って、少しだけ肩をすぼめるようにして立っていた。
カメラ目線ができないのか、ほんの少し視線が斜め。
それが逆に――破壊力。
(……かわいい、じゃ足りない)
胸がどくどくする。
私は布団の上で転がりそうになりながら、必死に返信した。
22:32 美春 やばい……似合いすぎ……
22:32 秋穂 ……やばいって何
22:33 美春 綺麗
22:33 秋穂 ……やめて
22:33 美春 やめない
22:35 美春 ……秋穂も、私にしか見せないで
22:35 秋穂 え
22:36 美春 さっきの、魔女
22:36 秋穂 ……うん
文字だけのやりとりなのに、頬が熱い。
画面の向こうで秋穂も同じ顔をしてるんじゃないかと思うと、さらに落ち着かない。
◇
ハロウィン前夜。
私は布団に入っても、なぜか眠れなかった。
猫耳の感触も、秋穂の写真も、全部が浮かんでは消える。
その隙間に――あの廊下の声が入り込む。
いつの間にか眠りに落ちて、夢を見た。
教室。
文化祭のときみたいに、人がたくさんいる。
でも、みんなの顔はぼやけていて、口だけがはっきり動いている。
「きもい」
「病気」
「普通じゃない」
笑い声が、床から響くみたいに増幅して、私の耳に突き刺さる。
指を差される。
私と秋穂が、真ん中に立っている。
秋穂が、泣いている。
帽子もマントもない、ただの秋穂が、肩を震わせている。
(やだ……)
声をかけようとしても、喉が動かない。
足が鉛みたいに重い。
私はただ立ち尽くして――
はっと目を覚ました。
暗い天井。
息が乱れて、背中が冷たい。
冷や汗が首筋を伝って、パジャマが張り付く。
(……もう限界だ)
私は、枕を抱きしめた。
自分の中だけで抱えて、秋穂に優しいふりをして、笑って――それで守ってるつもりになっていた。
違う。
守るって、黙ることじゃない。
(秋穂に……話さなきゃ)
怖いのは、言葉そのものじゃない。
"秋穂を傷つけるかもしれない"という私の想像が、一番怖かった。
でも、秋穂は私の恋人だ。
私の恐怖も、私の弱さも、隣に置いていい人。
そう思った瞬間、胸の奥で、決意が小さく灯った。
◇
十月三十一日。
喫茶店の扉を開けると、店内はいつもより明るく、どこかお祭りの匂いがした。
カウンターの上には小さなかぼちゃの飾り。壁には紙のコウモリ。
そして――
マスターが、かぼちゃの被り物をしていた。
「マスター、それ……」
言葉が詰まる。
「可愛いだろ?」
ドヤ顔で言うから、私は苦笑した。
「……はい」
「だろ?」
秋穂は帽子をかぶり、マントの前をぎゅっと握って固まっている。
私は猫耳を付け、尻尾を揺らしながら(揺らすな)と心の中で突っ込みつつ、接客の準備をした。
開店すると、常連さんが一人、また一人と入ってくる。
雨の日の静けさとは違う、軽い浮き立ちが店に満ちた。
「おお! 美春ちゃん、猫じゃん!」
「秋穂ちゃん、魔女似合ってるねえ」
秋穂は「……」のまま、耳まで赤い。
でも注文を取るときの声はいつも通り丁寧で、動きは落ち着いている。
(恥ずかしくても、ちゃんとやるんだ)
帽子のつばが少し揺れるたびに、秋穂の白い首筋が見え隠れする。
マントが華奢な肩を包んでいて、そこだけ別の世界みたいに見えた。
――守りたい。
急に、そう思った。
特別メニューは、秋穂のかぼちゃプリン。
それから――ハロウィン限定の、クレープ。
黒っぽい生地に、かぼちゃクリーム。
上にはビターなチョコソースを細く垂らして、オレンジ色のナッツを散らす。
"かわいい"のに、"甘すぎない"。秋穂の味。
メニュー表の端には、小さく、でもはっきり書いてある。
――※焼き上がりに少しお時間いただきます
――※数量限定(本日20食)
(……ちゃんと、書いてある)
それだけで、私は少し安心してしまう。
"おいしい"だけじゃ、店は回らない。
秋穂が作る。私が回す。
それを、私たちは夏からずっと練習してきた。
注文が入った。
「限定クレープ、ひとつください」
私は、笑顔のまま、ちゃんと伝える。
「ありがとうございます。クレープは焼き上がりに少しお時間いただきますが、よろしいでしょうか」
「あ、はい。大丈夫です」
「ありがとうございます。出来立てでお持ちしますね」
口に出すと、少しだけ誇らしい。
"言える私"になれている。
それも秋穂とマスターに鍛えられた成果だ。
カウンターの向こうで、秋穂が動く。
鉄板の上に生地を落とす。
丸く広がる。
すぐに、木のT字――トンボで、くるり、と薄く伸ばす。
(……ムラ、ない)
前は、端が厚くなったり、穴が空いたりしていたのに。
今は、まるで最初から"そういう形"だったみたいに、均一に丸い。
秋穂の手元は静かで、真面目で、迷いがない。
あの"真面目さ"が、こういうところに出るんだと思う。
ふざけた仮装をしていても、仕事の手はぶれない。
焼ける匂いが、店内にふっと混ざる。
ココアの香り。
その奥に、バター。
待っているお客さんが、思わず言った。
「わ、いい匂い……」
私は、胸の奥がくすぐったくなる。
それはたぶん、"秋穂が褒められてる"から。
秋穂が生地を返す。
薄い生地がふわっと持ち上がって、鉄板の上で表情を変える。
焦げない。乾かない。
ちゃんと"しっとり"のまま、焼き色だけが付く。
(……練習したんだ)
私の知らないところでも。
たぶん、私が塾で英単語に溺れていた夜にも。
秋穂は、静かに鉄板の前に立って、焼きムラと向き合っていた。
クレープが出来上がる。
くるっと巻いて、包み紙に入れて、ハロウィンのシールを貼る。
秋穂が一度だけ、目を上げて私を見た。
「……美春、渡して」
「了解」
私はそれを受け取る。
指先が、ほんの少しだけ触れる。
店の中だから、たったそれだけ。
でも、それだけで――胸が熱い。
「お待たせしました。ハロウィン限定クレープです」
お客さんが受け取って、目を輝かせた。
「かわいい……!写真撮っていいですか?」
「どうぞ。ありがとうございます」
"かわいい"って言われるたびに、秋穂の耳が赤くなる。
魔女の帽子の影で、誤魔化すみたいに俯くのに、手は止めない。
(秋穂、すごい)
私の中で、その言葉が何度も繰り返される。
"すごい"は、憧れじゃなくて、隣にいる現実になっていく。
注文の波が来ても、私たちは崩れない。
私はホールで時間を作る。
秋穂は焼きでムラを作らない。
マスターは、必要なタイミングでだけ短く指示を飛ばす。
「美春ちゃん、次の注文、先に待ち時間言っとけ」
「はい!」
「秋穂ちゃん、鉄板温度、落とすなよ」
「……うん」
忙しいのに、胸の奥が軽い。
文化祭のときと似ているのに、今日は違う。
――"二人の成果"が、ちゃんと形になってる。
私はふと、メニュー表の「数量限定(残りわずか)」の札を見る。
あと少しで、完売。
その札の端が、風でふるりと揺れた。
レジ横の小さなメモ――「クレープ:残り2」。私が書いた数字。自分の字なのに、落ち着かない。
「限定クレープ、ふたつお願い」
お客さんの声が飛んできて、私は一瞬だけ息を止めた。
「ありがとうございます。クレープは焼き上がりに少しお時間いただきますが、よろしいでしょうか」
「大丈夫。待つのもイベントだしね」
"待つのもイベント"。その言い方が、救いみたいに優しくて、胸の奥がじわっと熱くなる。
私は厨房へ視線を送る。
秋穂が、いつも通りの静かな顔で頷いた。
鉄板の上に生地が落ちる。トンボがくるり。薄い円が、迷いなく広がっていく。
――ムラがない。
忙しいのに、手がぶれない。
注文を受けた瞬間、私はレジ横の小さな札を手に取った。
"数量限定(本日20食)"の横に貼ってある、控えめな「残りわずか」。
それを、ゆっくり剥がして――
用意しておいた赤い札に貼り替える。
《完売》
指先で押さえた瞬間、紙がぴたりと馴染んで、世界が一拍、静かになった気がした。
私は思わず、厨房の奥を見る。
秋穂が、鉄板の前で一度だけ手を止める。
帽子の影で表情は全部見えないのに――口元が、ほんの少しだけほどけた。
「できた」って言わない代わりに、目だけが、静かに光った。
その"ちいさな達成"の顔が、私の胸の奥を熱くする。
文化祭のときの完売とは違う。
これは――私たちが考えて、練習して、回して、焼いて、手に入れた完売だ。
私は喉の奥で笑ってしまいそうになって、でも接客の顔のまま、こっそり息を吐いた。
(……秋穂、やったね)
言えないのに、胸が勝手に言っていた。
忙しいのに、楽しい。
文化祭のときと似ているのに、どこか違う。
「美春、次、タルトの皿」
「はい!」
「プリンのソース、こっち」
「了解!」
息が合う。
それだけで胸が軽い。
お客さんが言った。
「写真撮っていい? 今日の記念に」
私は笑って「どうぞ」と言いかけて、秋穂を見た。
秋穂の顔が、ほんの少しだけ硬い。
笑顔を作っているのに、目が揺れている。
(……見られるの、苦手なんだよね)
私は小さく耳打ちした。
「秋穂、大丈夫?」
「……恥ずかしい」
「じゃあ、私が前に出る。秋穂、後ろでいいよ」
「……でも」
「いいの。魔女は影にいる方がかっこいい」
秋穂が小さく息を漏らして、ほんの一瞬だけ笑った。
それだけで、私は救われる。
写真を撮るとき、私は猫耳を少し傾けて、秋穂の帽子の影に寄った。
秋穂の肩が、ほんの少しだけ私に近づく。
シャッター音。
その一瞬の光の中で、私たちは"仲のいい店員さん"として写った。
でも、私の胸の中では――もっと深い名前がずっと鳴っている。
◇
閉店。
最後のお客さんを見送り、札を「CLOSE」に返す。店内の灯りが少し落ち着いて、急に静かになる。
秋穂が、鉄板の余熱を確かめながら、小さく息を吐いた。
私はケースの端に残っていた"試作用の端っこ"――巻ききれなかった生地の切れ端を見つける。
「……これ、食べる?」
「……うん」
ふたりで半分ずつ。
まだ少し温かい生地に、ココアとバターの匂いが残っていて、そこにかぼちゃの甘さがふわっと立つ。
甘いのに、甘すぎない。
秋穂の"こだわり"の輪郭が、ちゃんと舌に残る。
秋穂が、少しだけ眉を寄せて、真面目に言った。
「……海の家の、コピーじゃない」
その言い方が、妙に可愛くて、私は吹き出しそうになるのを堪えた。
秋穂は私を見て、続ける。
「……うちの、味になった」
その一言が、胸の奥に落ちた。
"うち"。
喫茶店のこと。マスターの店のこと。
――そして、私たちの場所のこと。
私は思わず、頷くしかできなかった。
言葉にしたら、きっと声が震える。
「……うん。なった」
秋穂が、帽子の影で小さく笑う。
その笑みが、さっきの完売札よりも、私を熱くした。
マスターはかぼちゃを外し、肩を回した。
「お疲れ。片付けは任せた」
「はい」
「若いのは元気でいいなぁ」
茶化すように言って、マスターは先に帰っていった。
ドアが閉まる音。
店には、私と秋穂だけ。
まだ仮装のまま。
猫と魔女。
真夜中じゃないのに、秘密の舞台みたいだ。
私は食器を拭きながら、横でタルトのケースを整理している秋穂を見た。
帽子の影から見える横顔が、いつもより少し幼い。
「お疲れさま」
「……疲れた」
「でも、楽しかったね」
「……うん」
秋穂は短く答えて、手を止めた。
私の方を見て、眉を寄せる。
「美春」
「なに?」
「……今日、笑ってた」
「そりゃ、楽しかったもん」
「……でも」
秋穂は言い淀む。
「最近、ずっと元気なかった」
心臓が、跳ねた。
秋穂は、気づいていた。私が隠していた温度に。
私は布巾を握りしめて、息を吸った。
「あのね、秋穂……聞いてほしいことがある」
秋穂は何も言わず、ただ頷いた。
その目が、まっすぐで、逃げ道がないくらい優しい。
私は、言った。
文化祭準備中に聞いてしまった、廊下の会話。
男の子たちの軽い笑いと、刺さる言葉。
"きもい""病気""ありえない"――。
「……私たち、周りからそう思われてるのかなって」
声が震える。
「秋穂に迷惑かけてるんじゃないかって……怖くて」
「言ったら、秋穂が傷つくと思って……言えなかった」
言い終えた途端、涙が溜まった。
こらえるつもりだったのに、視界が滲む。
秋穂は一瞬、沈黙した。
そして――珍しく、秋穂の眉がきつく寄った。
怒り。外側に向いた怒り。
秋穂がそんな表情をするのを、私はほとんど見たことがない。
静かな秋穂が怒るとき、それは自分のためじゃない。
誰かを守りたいときだけだ。
――今、秋穂は、私を守ろうとしている。
「美春」
低い声。
「そんなこと、言わないで」
私は息を止めた。
秋穂は言った。
一つ一つ、噛みしめるみたいに。
「私は、美春と一緒にいることを恥じたことなんて、一度もない」
「他の人がなんて言おうと……私たちの関係は私たちのもの」
「誰にも否定させない」
その言葉が、胸の中の釘を叩き割るみたいに響いた。
涙が、ぽろっと落ちる。
「秋穂……」
秋穂は私の手首を掴んで、引き寄せた。
帽子が少しずれて、マントが私の肩に触れる。
布の匂いと、秋穂の体温。
抱きしめられた。
「一人で抱え込まないで」
耳元で、秋穂が言う。
「私は、いつも美春の味方だから」
私は秋穂のマントを握りしめた。
声が出ない代わりに、何度も頷いた。
(あぁ……私、怖かったんだ)
怖いのは、世界じゃなくて。
世界の言葉で、秋穂が傷つくことだった。
でも秋穂は、私よりずっと強かった。
強いというより、揺るがない芯があった。
しばらく抱きしめ合って、落ち着いたころ。
秋穂がふっと顔を離して言った。
「ねえ、美春」
「なに?」
「写真、撮ろう」
「……さっき撮ったでしょ」
「二人だけの、写真」
秋穂の声は、まだ少し震えていた。
でも、その震えが、可愛いと思ってしまう自分がいる。
私たちはカウンター前に並んで、スマホを構えた。
猫耳の私と、魔女帽子の秋穂。
顔が近い。
シャッターを押す。
「……もう一枚」
秋穂が言う。
「はいはい」
私は笑いながら構え直した。
今度は、秋穂が私の肩に頭を乗せた。
「この、距離で」
――心臓が、うるさい。
静かな店内に、私の鼓動が聞こえてしまいそうだ。
シャッター音。
画面の中の私たちは、誰にも見せたくないくらい幸せそうに見えた。
写真を撮り終えても、秋穂は離れない。
帽子の影から、秋穂の瞳が私を見上げる。
「……もう少しだけ」
声が、甘い。
「秋穂?」
「……美春」
「なに?」
秋穂は、まっすぐ言った。
「キス、したい」
私は一瞬、固まってから、顔が熱くなるのを止められなかった。
「い、今?」
「……だめ?」
「だめじゃないけど……心の準備が」
秋穂が、微笑んだ。
そして、帽子の影が近づく。マントの布が触れる。
唇が、そっと重なった。
柔らかい。
温かい。
ハロウィンの夜。
猫と魔女。
ふざけた格好なのに、触れ合った瞬間だけは真剣で、胸の奥が静かに満たされていく。
離れたあと、秋穂は小さく息を吐いて言った。
「……美春、かわいい」
「秋穂も……かわいい」
「……言い返さないで」
「言い返すよ」
私たちは、笑った。
笑える。
怖さが消えたわけじゃない。世界は変わらない。
でも、秋穂が隣にいてくれるなら――私は、もう一人じゃない。
◇
ハロウィンは終わった。
店の飾りは片付けられて、かぼちゃの被り物は棚の奥にしまわれて、いつもの喫茶店に戻っていく。
でも、私の中の何かが、少し変わった。
仮装したまま、キスをした。
ふざけた格好なのに、あれは本物だった。
秋穂が見せる、いろんな顔を私は知っていく。
静かな秋穂。
恥ずかしがる秋穂。
怒りを滲ませる秋穂。
甘える秋穂。
全部、愛おしい。
片付けの最後、秋穂が私の手を握ったまま言った。
「美春、約束して」
「……うん」
「もしまた辛いことがあったら、すぐに私に言って」
「……ごめんね、心配かけて」
秋穂が首を振る。
「謝らないで。美春が辛いときは……私も辛いんだから」
私は、胸の奥がじんとした。
言葉が追いつかなくて、代わりに強く頷いた。
(秋穂がいれば、私は大丈夫)
世界がどう思おうと。
誰かがどんな言葉を投げても。
私たちの関係は、私たちのもの。
怖さはまだ残っている。
でもそれは、もう私を止める鎖じゃない。
"守りたい"の形が変わっただけだ。
――ずっと、一緒にいたい。
その気持ちが、また少し強くなる。
私はきっと、もっとまっすぐになれる。
その予感を胸に抱きながら、私は秋穂の隣で、静かに笑った。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




