第27話「名乗れない恋人」
ライトな百合x成長物語です。
2回目の文化祭です!
九月。
二学期の初日、教室に入った瞬間、蒸し暑さが肌にまとわりついた。窓は全開なのに、風は生ぬるくて、汗が首筋を伝う。制服のブラウスが肌に張り付いて、夏がまだ終わらないことを体が覚えている。
夏休み明けの空気はまだ緩い。
それでも、教卓に置かれたプリントの束と、担任の真剣な顔が、現実を連れてくる。
――二学期。受験の季節。
朝のホームルームで、担任が配られたプリントを掲げた。
「はい、まずは模試の返却。……それと、今年も文化祭をやります」
教室が、一瞬でざわめく。
私は机の下でこっそり拳を握った。模試。返却。判定。
夏期講習の最後の模試結果。
封筒を開けたとき、指先が妙に乾いていて、紙が張り付いた。
――B判定。
胸の中に、固く結んだ糸が一本できたみたいに、ぐっと締まる。C判定だったあの初回から、確かに上がっていた。
嬉しい、っていう単純な言葉で片付けられない。安堵と、もっと上へという焦りが、同時に押し寄せる。
(よかった……でも、まだ足りない)
経営学部。秋穂の未来。
秋穂の店を一緒に作る、って決めたあの日から、点数一つで夢が遠のくのが怖くなった。だから――A判定を取る。今度は、逃げない。
そんな私の心の中を知らないまま、教室の熱は文化祭へ向かっていく。
「去年、喫茶店コラボやってめっちゃ人気だったよね」
れいなが真っ先に声を上げ、周りも「またやろう!」と盛り上がった。
そして、視線が集まる。
私と――秋穂に。
私の斜め後ろ、いつもの席。秋穂が小さく肩をすくめるように目を伏せるのが見えた。
去年も、こうだった。視線の渦。期待。お願い。
その中に、私たちは立っていた。
去年の文化祭は、成功した。列ができた。売れた。褒められた。
でも、私の胸の中は空っぽだった。秋穂と、すれ違っていたから。笑うふりをして、温度だけ隠していた。
今年は――違う。
夏を一緒に越えて、雨の日の看病を交換して、海で笑って、木のスプーンで半分こして、甘さを分け合った。
私はもう、秋穂の隣で、逃げたくない。
「……やります」
声が、思ったよりはっきり出た。
教室が「おお!」と湧く。
「ただし」
私は慌てて付け足す。
「秋穂と相談してから。無理させたくないから」
その瞬間、秋穂が小さく私を見上げた。
まるで、私の言葉の裏側――"一緒にやりたい"と"守りたい"の両方を、同時に受け取ったみたいに。
「……私は」
秋穂が言う。声は控えめなのに、教室が静かになる。
「美春が決めるなら」
そこだけ、温度が上がる。
誰にも気づかれない程度に、私の心だけが熱くなる。
「決まり!」
誰かが笑って手を叩く。
秋穂と目が合った。
私は、ほんの少しだけ口角を上げた。秋穂も、ほんの少しだけ目を柔らかくした。
――もう一度。
今度は、ちゃんと"楽しい"文化祭にする。
◇
その日の放課後、喫茶店の裏口から入ると、豆の匂いと、焼き菓子の甘い残り香が混ざって鼻の奥をくすぐった。
カウンターの向こうでマスターが新聞を畳みながら、私たちを見る。
「今年もやるのか」
「はい」
私はエプロンの紐を結ぶ。
「去年と同じ感じで……いいですか?」
マスターは眉を上げた。
「同じじゃつまらんだろ。客は"去年"を見に来るんじゃない。今のお前らを見に来る」
その言い方が、店長というより、私たちの背中を押す大人のそれで。
私は思わず背筋を伸ばした。
秋穂が、カウンターの端で小さく頷く。
「……新作、作る」
「新作?」
私は聞き返した。
秋穂は指を折りながら、去年の文化祭を思い出すみたいに言う。
「去年は、クッキーと寒天とレモンケーキ。……今年は、タルト、入れる」
「タルトって……手間かかるよ?」
言った瞬間、私は自分の中の"去年の私"が顔を出すのを感じた。段取りを考えて、不安を先に並べて、諦める理由を作る私。
でも秋穂は、淡々と、だけど確信を持って言った。
「大丈夫。美春が、手伝ってくれるから」
心臓が、小さく跳ねる。
それは命令でも、期待でもなくて、信頼の形だった。
「……うん」
私は頷いた。
「手伝う。ちゃんと」
マスターがニヤリと笑う。
「いいじゃねぇか。去年より、厨房が賑やかになりそうだ」
去年は私は、表に立って、指示を出すだけだった。
今年は――違う。
春休みに初めて教わったクッキーの計量。閉店後の厨房で、秋穂の手が私の手に重なったタルトの生地。
あの時間は、ただの練習じゃなくて、私が秋穂の隣に立つための準備だった。
◇
文化祭準備は、思った以上に忙しかった。
学校では企画書、発注表、衛生管理のチェックリスト。
店では試作、仕込み、ラッピング資材の確認。
秋穂は厨房で、静かな火を燃やし続けるみたいに集中していた。
タルト生地の厚みを揃えるために麺棒を転がし、アーモンドクリームの配合を微調整して、フルーツの酸味と甘みのバランスを探る。
私は隣で、計量器とにらめっこしながらメモを取る。
数字を学ぶと決めた自分が、いまはグラム単位の数字に救われているのが可笑しかった。
「美春、バター、もうちょい」
「うん、あと……五グラム?」
「……それくらい」
秋穂の"それくらい"は、ほとんど誤差がない。
私は内心で笑って、でも真剣に手を動かした。
二人で作業しているとき、距離はいつもより近い。
エプロンの布が擦れる音。オーブンの熱。秋穂の髪からふわっと漂う石鹸の匂い。
その全部が、日常の中に隠した"好き"を刺激する。
教室では温度を隠す。
厨房では、隠しきれない。
――けれど、それもまた怖い。
誰かの視線が、いつかここにも届くかもしれないから。
◇
その不安は、九月のある放課後に、形になって私の耳に入ってきた。
文化祭準備の休憩中。教室で私は一人、資料をまとめていた。
外はまだ明るく、廊下からは他クラスの笑い声が流れてくる。
その中に、男子二人の声が混じった。
「最近さ、うちのクラスのさ……あいつら、怪しくね?」
「女同士でベタベタしてるやつ? なんかさ、見てて――」
耳が勝手に拾ってしまう。
自分の意思じゃないのに、音が脳に刺さる。
「……マジ無理。きもいって」
「それ、病気とかじゃね? 治療した方がいいんじゃねーの」
――紙が、手から落ちた。
机に落ちる音が、やけに大きく響いて、心臓が冷たくなった。
"きもい"。"病気"。
言葉が、釘みたいに頭の中に打ち込まれる。
(……私と秋穂も、そう見られるの?)
息が浅くなる。
廊下の二人は、楽しそうに笑って、そのまま遠ざかった。
私は、言い返せなかった。
その場で立ち尽くして、指先が震えるのを、必死に握りしめて止めるだけだった。
(秋穂に言ったら、心配する)
秋穂は、繊細で、真面目で、たぶん私よりも視線に敏感だ。
私がこの話をしたら、きっと笑えなくなる。
文化祭が、また去年みたいに苦くなってしまう。
だから――言えない。
"守るための嘘"を、私はまた一つ増やした。
◇
【秋穂】
九月の終わり。
文化祭準備が佳境に入ったころ、私は放課後、先生に呼ばれて資料室へ行き、少し遅れて教室へ戻る途中だった。
体育館裏の通路は、夕方の影が長く伸びていて、校舎の喧騒が少し遠い。
そこで、見知らぬ男子に呼び止められた。
「周防さん」
知らない。隣のクラスか、他の学年か。
でも、目が真っ直ぐで、手が少し震えている。
嫌な予感、というより、胸の中で小さな警鐘が鳴る感じ。
「……何?」
男子は息を吸って、言った。
「好きです。付き合ってください」
一瞬、頭が真っ白になった。
私に、告白?
そんなこと、今までほとんどなかった。私は目立つタイプじゃないし、声も小さいし、いつも端っこで、本を読んでいるだけなのに。
でも――すぐに浮かんだ顔がある。
美春。
夏期講習の机の隣で、眉を寄せて英文と格闘していた美春。
海で、波に飲まれた私を抱き起こしてくれた美春。
文化祭の仕込みで、粉まみれになっても笑っていた美春。
私の好きな人。
私の隣。
「ごめんなさい」
私は、できるだけはっきり言った。
男子が目を見開く。
「……え、でも。誰か、いるんですか?」
「……好きな人が、います」
"美春"と名前を言うだけで、たぶん全部が変わる。
私の学校生活も、喫茶店も、私たちの"温度を隠す日常"も。
だから――言えない。
「誰……ですか」
「……言えません」
胸の奥が、少し痛む。
隠すことは、守ること。
でも、守るために、私はいつも少しだけ削れていく。
名前を言えない。手を繋げない。笑顔の裏に、言葉を隠す。
――いつか、削れ切ってしまう前に。
美春と、ちゃんと並んで歩きたい。
男子は、困ったように笑って、頭を下げた。
「そっか……すみませんでした」
去っていく背中を見送りながら、私は息を吐いた。
(美春に……言った方がいいのかな)
でも、美春は受験でいっぱいいっぱいだ。
文化祭もある。
これ以上、心配を増やしたくない。
私は、自分の中にしまい込んで、歩き出した。
――そのとき、物陰に、気配があったことに気づかないまま。
◇
【美春】
体育館裏で、私は偶然、見てしまった。
見ないふりをしたかったのに、足が止まってしまった。
秋穂が、男子と二人で話している。
男子の声が、風に乗って届く。
「好きです。付き合ってください」
喉が、きゅっと縮む。
胸の奥が、痛いくらい熱くなる。
(……秋穂が、告白された)
頭の中がぐらぐらする。
私は秋穂の恋人。
でも周りは知らない。
言えない。言ったら、どうなるか分からない。
秋穂は――どう答えるんだろう。
数秒。
世界が止まったみたいに長い時間のあと、秋穂の声が聞こえた。
「ごめんなさい。好きな人がいます」
その瞬間、身体の中から力が抜けた。
息が、戻る。
(……私のことだ)
嬉しい。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
でも、同時に怖かった。
秋穂に告白する人が増えたら?
秋穂が"好きな人がいる"と言い続けるたびに、私はその"好きな人"なのに、名乗れないまま?
秘密だから。
同性だから。
女の子同士だから。
――もどかしい。
その夜、喫茶店の厨房で秋穂がタルトの焼き色を確認している横顔を見ながら、私は言葉を飲み込んだ。
「美春、今日元気ない。準備、疲れた?」
秋穂が振り向いて、心配そうに眉を寄せる。
私は笑顔を作った。慣れたやつ。温度を隠すやつ。
「うん。ちょっとだけ、疲れたかも」
秋穂は安心したように頷いて、オーブンの前に戻る。
「無理しないで。美春が笑ってないと……私、寂しいから」
その優しさが、今日聞いた廊下の言葉を、より鋭く刺した。
(誰かに、こんなの"きもい"なんて言わせたくない)
私は、ぐっと歯を噛みしめた。
秋穂を守りたい。
だからこそ、秋穂を傷つける言葉を、秋穂の耳に入れたくない。
でも、胸の中のもやもやは消えない。
「……秋穂」
「なに?」
私は、視線を落としたまま、言った。
「今日……告白、されてた?」
秋穂の手が止まる。
一瞬、厨房の音が遠くなる。
「……見てたの?」
「偶然、通りかかっただけ。ごめん」
「謝らないで」
秋穂が小さく息を吐いて、私の手元を見た。
私は勇気を出して、秋穂の指先に触れた。熱いオーブンのそばじゃなくても、秋穂の体温はちゃんとそこにあった。
「断ってくれたの、聞こえた」
「……うん」
「好きな人がいるって」
私は、喉の奥が熱くなるのを感じながら、言った。
「それ……私のこと?」
秋穂の耳が、分かりやすいくらい赤くなる。
「……当たり前でしょ」
その言葉で、胸がきゅっと縮む。
嬉しい。嬉しいのに、悔しい。
「嬉しい。でも――」
「でも?」
私は、唇を噛んだ。
「私、秋穂の恋人だって……言えなかった。秘密だから。周りに、言えないから」
秋穂の目が、揺れる。
責める色じゃない。むしろ、痛みを分けようとする色。
「それが、悔しい」
私は続けた。
「秋穂が、他の人に取られるかもって……そう思ったら、怖かった」
秋穂が、私の手を握り返す。
指先が、少し震えている。
「大丈夫」
秋穂は、まっすぐに言った。逃げ道を作らない声。
「私は、美春しか見てない。他の誰が告白してきても、変わらない」
胸の奥が、じわっと濡れるみたいに熱くなる。
私は笑おうとして、うまく笑えなくて、代わりに目が潤んだ。
(ずるい……)
そんなこと言われたら、泣きそうになる。
抱きしめたくなる。
でも、厨房の中。マスターもいる。私たちは、今日も温度を隠す。
私は、深呼吸して、頷いた。
「……うん。信じる」
秋穂が、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔に、廊下の言葉の釘が、ほんの少しだけ抜けた気がした。
――でも、全部じゃない。
偏見の言葉は、まだ私の中に残っている。
それを、私はまだ言えないまま。
◇
十月上旬。文化祭当日。
去年と、同じ景色が広がる。
廊下に貼られた装飾、校庭の屋台、校舎のあちこちから聞こえる笑い声。
でも――去年とは違う。
私は秋穂と肩を並べて、臨時の厨房スペースへ入った。
段ボールの箱の中には、タルト台。焼き菓子。寒天。クッキー。
それらが、私たちの夏と秋の時間の結晶みたいに見えた。
「準備、いける?」
秋穂が私を見る。今日はいつもより口数がある。緊張しているのが分かる。
「うん。いける」
私は笑った。「秋穂と作ったから」
開店。
人が流れ込む。列ができる。
「去年と同じじゃん!」
「タルトある!」
「すごい!」
歓声みたいな声が、次々に飛び込んでくる。
私は手を止めない。クリームを絞り、フルーツを並べ、包装を整える。
「美春、クリーム」
「はい!」
「次、カットしたやつ」
「こっち!」
息が合う。
去年より、ずっと。
私が"段取りだけの人"じゃなくなったから。
秋穂が"全部抱える人"じゃなくなったから。
マスターが様子を見に来て、腕を組んで言った。
「二人とも、いい顔してるな」
「秋穂に教わったから!」
私が言うと、秋穂が恥ずかしそうに目を逸らす。
「いいコンビだ」
マスターは軽く頷いた。
「この店の未来が見える」
その言葉が、喉の奥に甘く残った。
未来。秋穂の店。私の夢。
忙しさの合間に、少しだけ休憩が取れた。
教室の隅。人の波から外れた場所で、秋穂と並んで座る。
「美春、疲れてない?」
「大丈夫。秋穂は?」
「……平気」
秋穂が微笑む。汗で前髪が少し額に貼り付いているのが、妙に幼く見えた。
私はそっと手を伸ばして、それを直してやりたい衝動を飲み込む。
「去年より、楽しい」
秋穂がぽつりと言う。
「え?」
「美春が、一緒だから」
胸が熱くなる。
去年の虚しさが、遠い別の季節のものみたいに思えた。
「私も」
私は小さく答えた。
「去年は……なんか、空っぽだったけど。今年はちゃんと、楽しい。秋穂と一緒だから」
秋穂が、私の手を握った。
人目があるのに。
握り方が、少しだけ強い。
「……もう少しだけ、このまま」
囁くみたいな声。
私は頷く。
"温度を隠す"ために、私たちはいつも手を離していた。
でも、ほんの短い時間だけ、隠さなくていい場所がある。
その温かさが、私の中の冷たい釘を溶かしていく。
文化祭は、成功した。
今年も、列ができた。売れた。褒められた。
でも、それ以上に――私は初めて、心から満たされていた。
秋穂と、同じ場所に立てたから。
秋穂が、"私しか見てない"と言ってくれたから。
片付けが終わって、夕方。
校舎の外に出ると、空は薄い橙色に染まっていた。風が涼しい。
「美春、ありがとう」
秋穂が言う。
その言葉だけで、今日の疲れが報われるみたいだった。
「何が?」
私はわざと軽く返す。
「私の……隣にいてくれて」
私は、笑った。
笑えた。
でも胸の奥には、まだ言えない重さが残っている。
廊下で聞いた言葉。
あの"きもい"と"病気"の釘。
告白を見たときの、名乗れない悔しさ。
それらは、消えたわけじゃない。ただ、今は笑っていられる場所を、秋穂が作ってくれている。
(いつか――)
卒業したら。
秘密じゃなくなる日が来たら。
ちゃんと言えるようになりたい。
秋穂は、私の恋人だって。
胸を張って。
文化祭の灯りが、遠ざかっていく。
秋の風が、頬を撫でた。
私は秋穂の隣を歩きながら、そっと心の中で誓った。
次は、隠すためじゃなく――守りながら、ちゃんと前へ進むために。
秘密だから。同性だから。女の子同士だから。
その言葉の重さを、いつか笑顔に変えられる日まで。
秋の風が、私たちの影を長く伸ばす。
並んで歩く影は、離れない。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




