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第26話「真面目な足音」

ライトな百合x成長物語です。

夏休み終盤です。

 閉店後の喫茶店。

 カップを伏せる乾いた音と、布巾でテーブルを拭く擦れ、冷蔵庫の低い唸り。

 それだけが、夏の夜の中で輪郭を持って残る。


 私はレジ締めの数字を最後に確認して、ふう、と息を吐いた。

 エプロンの胸元が、まだ少し湿っている。店の外は涼しくなってきたはずなのに、今日の暑さが体に貼りついて離れない。


 そのとき、厨房の奥から秋穂が出てきた。

 髪をまとめたまま、白い粉のついた指先を布巾で拭きながら――いつもの無表情に近い顔で、でも、目だけがほんの少しだけ違う。


「……美春」

「なに?」


 秋穂は一瞬言い淀むみたいに、視線を落としてから、封筒を差し出した。

 薄いクリーム色。角がきっちり揃っていて、秋穂の性格そのままみたいな封筒。


「これ」

「え、なにこれ……?」

「……お母さんから」


 私は、反射的に封を切るのをためらってしまう。

 秋穂のお母さん――香織さん。

 名前を思い出しただけで、背筋が少し伸びる。今はもう、怖い人じゃないと分かっているのに。

 "認めてもらった"という安心の奥に、まだ緊張が小さく残っている。


 封筒の中から、紙のチケットが二枚。

 そこに印刷された写真は、草の匂いがしそうな――動物園。


「……動物園?」


 声が自分でも分かるくらい上ずった。

 秋穂は、こくりと頷く。


「……行ってきなさい、って」

「えっ、い、行きたい。行きたいけど……いいの? 香織さん、本当に?」

「……うん。六月の……」


 秋穂が小さく言って、そこで少し言葉を選ぶ。


「……私が熱出したとき。美春、来た。……助かったって」


 六月。

 あの、秋穂の額が熱くて、指先が冷えていて、喫茶店の匂いじゃない部屋の匂いがして――私はずっと、うまく笑えなかった日。

 それを、お礼の形にしてもらうなんて。


「……ありがとう、って。お母さんが」


 秋穂の声は淡いのに、その淡さが逆に胸に刺さる。

 私はチケットを握った。紙が少しだけしなる。


「……嬉しい」

「……うん」


 秋穂は、ほんの少しだけ口角を上げた。

 それが可愛くて、私は、うっかり見惚れてしまいそうになる。


 でも。


「……待って。いつ行く?」


 思い出したみたいに私はスマホを取り出した。

 ホーム画面には、共有カレンダーのアイコン。

 春休みに二人で作って以来、"予定"が増えるたびに、胸のどこかが落ち着かなくなるやつ。


 開いた瞬間、私は固まった。


「……埋まってる……」


 夏期講習が終わった途端、私は空いた時間を、反射でアルバイトで埋めていた。

 休みの日も、結局"入れます"って言ってしまった。

 回す側の立場って、穴があると埋めたくなる。

 "店が回る"ことが正義みたいに思ってしまう。


「……動物園、行ける日、ある?」


 自分で言って、ちょっと情けなくなる。

 せっかくのチケットなのに。

 せっかく、香織さんが"行ってきなさい"って言ってくれたのに。


 秋穂は、私のスマホ画面を覗き込んだ。

 まつ毛が近い。

 近すぎて、私は呼吸を忘れそうになる。


「……ここ」


 秋穂が指差したのは、ひとつだけ空いている平日。

 でも、そこにも小さく"仕込み補助"と書かれている。秋穂の予定だ。


「……私、ここ。仕込み、入れてた」

「だよね……」


 沈んだ声が出た。

 私が勝手に忙しくしただけなのに。


 そのとき、カウンターの向こうから、マスターが顔を出した。

 片手にゴミ袋。もう片手に、いつもの無愛想。


「何だ。二人して葬式みたいな顔して」

「葬式って……」


 私は苦笑した。

 でもマスターは、チケットを見て一瞬で察したみたいだった。


「動物園か」

「……はい。香織さんから」

「へえ。いいじゃねえか。行け」


 即答。

 私は目を瞬いた。


「え、でも……シフト……」

「気にすんな。回すのは俺の仕事だ。学生の夏休みなんて遊んでなんぼだろ」


 言い方はぶっきらぼうなのに、そこに隙がない。

 "気にすんな"の一言が、胸の真ん中にすとんと落ちた。


 私は、思わず秋穂を見る。

 秋穂も、ほんの少し驚いた顔でマスターを見ていた。


「……いいんですか」

「いいに決まってんだろ。お前ら、夏期講習もバイトも、よくやってる。たまには息抜きしろ」


 息抜き。

 春休みに秋穂が口にしたときの、ぎこちなさを思い出す。

 あの頃より、私たちは忙しくて、でも、たぶん――前よりちゃんと"隣"にいる。


「……ありがとうございます」


 私が言うと、秋穂も小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」

「礼は土産でいい」

「え、そこはちゃっかりしてる」

「うるせえ」


 マスターはゴミ袋を持ち上げて、さっさと裏へ引っ込んでいった。

 その背中が、なんだか少しだけ、いつもより優しく見えた。


 私は、もう一度カレンダーを開く。

 そして空いている日に、"動物園"と入力する――指が少し震える。


 予定が確定する音が、小さく鳴った。


 ……デートだ。


 頭の中で、その単語が勝手に浮かんで、勝手に赤くなる。

 友達と遊ぶ、じゃなくて。

 チケット二枚で。二人で。

 しかも、香織さん公認みたいな形で。


 胸のあたりが、落ち着かない。


「……美春」

「うん?」

「……顔、赤い」

「えっ」


 私は慌てて頬を押さえた。熱い。

 秋穂は目を逸らす。そっちも耳が赤い。


「……秋穂も」

「……」


 沈黙。

 沈黙なのに、甘い。


 私は、慌てて話題をずらした。


「あっ、そうだ。服」

「……服?」

「動物園ってさ、夏だし……私、かわいい夏服、ないかも」


 言った瞬間、後悔した。

 かわいい、って自分で言うの、恥ずかしい。

 でも秋穂は、真面目な顔で頷いた。


「……私も、ない」


 同じこと言うんだ。

 その"ない"が、妙に可愛くて、私は笑いそうになる。


「じゃあ……ここ、午前中。バイト前に買いに行こう」

「……うん」


 秋穂が頷いた。

 それだけで、予定がひとつ増えたみたいに、胸がどきんとした。


 私たちの夏に、"動物園"と、"服を買いに行く"が増える。


 それは、ただの予定じゃなくて。

 私たちが、未来に手を伸ばす練習みたいだった。


     ◇


 午前中の街は、日差しが鋭い。

 でも、バイト前の時間ってだけで、どこか背徳感がある。

 "働く前に遊ぶ"って、罪みたいに感じるのに――今日は、罪じゃないって許された気がする。


 駅前で待ち合わせると、秋穂はいつもの制服じゃなく、私服だった。

 白いTシャツに、薄いグレーのカーディガン。

 髪もほどいていて、ふわっと肩に落ちている。


 それだけで、私は胸がきゅっとなる。


「……早いね」

「美春が、早い」

「え、そう?」


 私は時計を見る。

 確かに、五分前。

 でも、待たせたくなくて――って言うのは、まだ言えない。


「行こう」

「うん」


 まず、秋穂が言った"ちょっと大人っぽい店"に入った。

 ガラス張りで、店内の照明がやたら柔らかい。

 入った瞬間、冷房の空気が肌にまとわりついて、私は少しだけ息を吐いた。


 でも、その安心は一秒だった。


「いらっしゃいませ~。お二人でお探しですか?」


 店員さんが、笑顔で近づいてくる。

 私は反射で背筋が伸びた。秋穂も、目がわずかに泳ぐ。


「えっと……あの……」

「夏っぽいお出かけ用のお洋服とか?」


 優しい。優しいのに、怖い。

 "お出かけ"って言葉が、妙に刺さる。


「……動物園に」


 秋穂が小声で言った。

 店員さんがぱっと明るくなる。


「わあ、いいですね! じゃあ動きやすくて、でも写真映えする感じがいいかも」


 写真。

 私の脳内に、"二人で写る"が一瞬で浮かんで、勝手に赤くなる。


 勧められた服を、勢いで試着することになった。


 そして、試着室のカーテンを開けたとき。


 私は、自分の足が出ていることに驚いた。

 膝上のスカート。

 布が軽い。軽すぎて、歩くたびに空気が入り込む。スースーする。


「……どう?」


 勇気を出して出ると、秋穂が先に出ていた。

 肩が出ている。薄い水色のブラウス。

 首筋が見える。

 秋穂が、そんなに肌を見せるなんて――普段の彼女からすると、事件だ。


 私は、息を呑んだ。


「……秋穂、かわ……」


 言いかけて止まった。

 喉が熱い。

 秋穂も、私を見て固まっている。


「……美春も」


 そこまで言って、秋穂は視線を逸らした。

 耳が赤い。

 私の方も、きっと真っ赤だ。


「……や、やめよう。これ」

「……うん」

「……かわいいけど、だめ」

「……だめ?」

「私以外に、見せないで」


 言ってしまってから、私は口を押さえた。

 何言ってるの。

 私が言う台詞じゃない。


 でも秋穂は、すぐに否定しなかった。

 ただ、ほんの少しだけ目を細めて――小さく頷いた。


「……うん」


 その"うん"が、甘くて危ない。

 私たちは慌てて着替えて、店員さんに「また来ます」とだけ言って逃げるように外へ出た。


 外の暑さが、逆に救いだった。

 顔が熱いのを、夏のせいにできる。


「……大人っぽいの、無理だった」

「……無理だった」


 二人で同時に言って、同時に笑ってしまう。

 笑った瞬間、さっきの恥ずかしさが少しだけ溶けた。


 次に入ったのは、高校生でも入りやすいショップだった。

 色も柄も明るくて、鏡の前でくるくる回る女の子がたくさんいる。


 ここだと、息ができた。


 私は、淡いベージュのワンピースを手に取ってみる。

 秋穂は、紺のシャツと白のスカートを合わせてみて――鏡の前で小さく首を傾げた。


「……変じゃない?」

「変じゃない。すごくいい」


 今度は、ちゃんと言えた。

 秋穂が、驚いたみたいに瞬きをする。


「……美春も、似合う」


 その言葉で、胸がきゅっとなる。

 誰かに言われる"似合う"じゃなく、秋穂に言われる"似合う"は、別物だ。


 結局、私たちは"ちょうどいい大人っぽさ"に落ち着いた。

 無理しない。背伸びしすぎない。

 でも、いつもより少しだけ特別。


 会計を済ませて、紙袋を持った瞬間。

 私は自分でも分かるくらい、浮かれていた。


「……明日、楽しみ」


 口から出たのは、素直な声。


 秋穂は、紙袋を胸に抱えたまま、目を逸らして言った。


「……私も」


 それだけで、今日の暑さが少し優しくなる。


 私たちはそのまま喫茶店へ向かって、エプロンに着替えた。

 午後はいつも通り、回して、運んで、笑って、疲れて――

 でも頭の片隅に、ずっと"明日"が光っていた。


     ◇


 翌朝。

 駅前のロータリーは、まだ人が少ない。

 蝉の声だけが元気で、私の心臓もそれにつられるみたいにうるさい。


 私は昨日買った服を着て、鏡の前で何度も髪を整えた。

 日焼け止めも塗った。

 リップも少しだけ。


 ――何してるんだろう。

 動物園に行くだけなのに。


 でも。


 ロータリーの端で、秋穂を見つけた瞬間。

 その"だけ"が、嘘になる。


 秋穂は、紺のシャツに白いスカート。

 髪はいつもより少し丁寧にまとめてあって、首筋がきれいに出ている。

 昨日、大人っぽい店で見た肩のラインを思い出して、私はまた赤くなりそうになる。


「……おはよう」

「おはよう。……秋穂、かわいい」


 言ってしまった。

 止められなかった。


 秋穂が固まる。

 それから、ほんの少しだけ眉を寄せた。


「……美春も」


 短い。

 でも、耳が赤い。

 私もきっと赤い。


 私たちは、急いで改札に向かった。

 人前だと、こういう話は危険すぎる。


 電車に乗る。

 夏休みの平日。

 学生が少なくて、座席に余裕がある。

 私たちは並んで座った――肩が触れそうで触れない距離。


 窓の外が流れる。

 昨日の喫茶店の木の匂いじゃなく、電車の金属と冷房の匂い。

 それが少しだけ、"遠くへ行く"感じを強くする。


「……昨日の服」


 秋穂が、ぽつりと言った。


「うん?」

「……選ぶの、楽しかった」


 その言葉が、思ったより胸に響いた。

 秋穂が"楽しかった"って言うのって、貴重だ。

 いつもは、楽しいことも真面目に飲み込んでしまう人だから。


「私も。……また行こうね、こういうの」

「……うん」


 頷く秋穂の横顔が、窓の光で少し白く見えた。

 私は、目を逸らした。見ているのがばれたら、また赤くなる。


 動物園の最寄り駅に着くと、降りた瞬間に熱気がぶわっと押し寄せる。

 夏の外。

 空が高い。雲がでかい。


「暑い……」


 私が言うと、秋穂が鞄から小さな扇子を出した。

 渋い。秋穂らしい。


「……これ、使う?」

「え、いいの?」


 秋穂が、扇子をこちらに向けてぱたぱた扇ぐ。

 涼しい。

 でも、涼しい以上に――秋穂が私を扇いでいる事実が、危険なくらい甘い。


「……ありがと」

「……うん」


 その"うん"が、いつもより柔らかい。


     ◇


 動物園の入口は、家族連れで賑わっていた。

 小さい子の笑い声。ベビーカーの車輪の音。

 チケット売り場の前に立つと、係のお姉さんがにこっと笑う。


「いらっしゃいませ。二名さまですね。……楽しんでくださいね、デート」


 ……デート。


 言われた瞬間、血が顔に集まった。

 秋穂も、目を丸くして固まっている。


「ち、違……」


 違う、って言いそうになって、言葉が喉で止まる。

 違うと言いたいのに、違わない気がしてしまう。

 深い意味じゃない。分かってる。友達同士の"お出かけ"として言っただけだ。


 なのに。


 私たちは、二人そろって赤いまま、チケットを出した。

 お姉さんは何も気にしていない顔で入園ゲートを開けてくれる。


「どうぞ~」


 通り抜けた瞬間、私は秋穂を見た。

 秋穂は、そっと息を吐いて、私を見ないまま言った。


「……デート、って言われた」

「言われたね……」

「……」

「……」


 沈黙が続いて、二人で同時に笑ってしまった。

 笑うと、少しだけ赤みが引く。

 でも、胸の奥は引かない。


 最初に向かったのは、草食動物のエリアだった。

 日陰が少なくて、獣の匂いが濃い。

 でも、その"生き物の匂い"が、妙に楽しい。


 シマウマが、柵の向こうで尾を振っている。

 キリンが首をゆっくり動かして、葉を食べている。

 その動きが、思ったより静かで、私は少しだけ安心した。


「……キリン、でかい」


 秋穂がぽつりと言った。

 目が少しだけ上を向いているのが可愛い。


「秋穂、驚いてる?」

「……驚いてる」

「意外」

「……意外って言うな」


 むっとする秋穂。

 私は笑ってしまう。


 次はライオン。

 寝ている。

 "百獣の王"って聞いて想像していた迫力がなくて、逆にじわじわくる。


「寝てる」

「寝てるね」

「……真面目じゃない」

「秋穂の"真面目"判定、厳しい」

「……真面目な動きが好き」


 それは、秋穂が前にペンギンを評した言葉だ。

 私は、そのまま口に出した。


「……ペンギンと同じ分類?」

「同じじゃない」


 即答。

 速い。

 秋穂の目が、少しだけ鋭い。


「ペンギンは……"真面目"の種類が違う」

「種類あるの」

「ある」


 真顔で言うから、私は吹き出した。

 秋穂がさらにむっとする。


「笑うな」

「ごめん。……でも、秋穂のそういうところ、好き」


 口に出した瞬間、私は固まった。

 好き。

 軽い意味で言ったつもりなのに、軽くならない。


 秋穂が、ちらっと私を見て――すぐに目を逸らした。


「……禁止」

「何が?」

「……そういうの、外で言うの」


 小声。

 でも、その小声が、私の胸をくすぐる。


 私たちは、ふれあいコーナーに向かった。

 ウサギとモルモット、ヤギとヒツジ――柵の中は、もこもこした毛並みと、草の匂いと、子どもたちの弾ける笑い声で満ちている。

 係のお兄さんがマイク越しに言った。


「動物たち、追いかけないでね~。抱っこは優しく。触るときは手のひらで、そっと」


 私は頷いて、靴底で砂を踏みしめながら中へ入った。

 ……その、瞬間だった。


 足元が、にぎやかに動く。

 ちょこちょこ、ちょこちょこ。

 気づけばモルモットが二匹、私の靴の周りを回っていて、ウサギが一羽、ぴょんと膝の前に座り込む。

 さらに、ヤギまでが――まるで「ちょっと通して」みたいな顔で、鼻先を私のスカートの裾に寄せてきた。


「え、なに……? ちょ、待って……!」


 笑いが漏れて、思わず一歩下がる。

 下がったのに、距離が詰まる。

 ウサギの耳がぴくりと動き、モルモットが「ここです」みたいに足首にぴたりと寄る。

 ヤギにいたっては、私の手の匂いを嗅ぐように、鼻息をふすふすさせた。


 ……なんで。

 なんで私だけ、こんなに。


 振り向くと、柵の外側で秋穂が立っていた。

 腕を組むでもなく、スマホをいじるでもなく、ただ真面目な顔で私を見ている。

 目だけが、少し冷たい――というか。


「……美春、モテてる」


 ぽつり。

 低い声。

 淡々としているのに、妙に刺さる。


「モテてないって! これ、たぶん偶然!」


 言い訳している間にも、モルモットが増える。

 いつの間にか三匹。

 私の足元が、もふもふの渋滞だ。


 秋穂が、少しだけ目を細めた。


「……甘い匂い、するから」

「は?」


 秋穂は真面目に続ける。


「喫茶店の匂い。……焼き菓子の残り香。動物、砂糖っぽいの、好き」

「なにそれ! ていうか、それなら秋穂にも寄るはずじゃん!」


 私がツッコむと、秋穂の口角がほんの少しだけ上がった。

 ……笑った。

 ずるい。


 ――なのに。


 秋穂の足元には、動物が一匹もいない。


 秋穂は、ゆっくり柵の中に入ってきた。

 足取りはいつも通り慎重で、手のひらもきちんと体の前。

 優しく触ろうとしているのが、見ただけで分かるのに。


 ウサギは、私の方にぴったり。

 モルモットは、私の靴の横で丸くなる。

 ヤギまで、私に鼻先を寄せる。


 ……秋穂の周りだけ、すっきりしている。

 見事なくらい、何もいない。


 秋穂は、その場で小さく立ち尽くした。

 そして、ほんの少しだけ肩を落とす。


「……」

「秋穂……?」


 秋穂が、ものすごく小さい声で言った。


「……ずるい」

「え」

「……なんで、美春ばっかり」


 その言い方が、拗ねていて――

 拗ね方まで真面目で――

 私は、笑っていいのか分からなくなって、結局、苦笑いになった。


「ご、ごめん。私、何もしてないんだけど……」


 秋穂は、私を見ない。

 見ないのに、言う。


「……美春、動物に好かれる。……私、好かれない」

「秋穂、かわいい嫉妬してる」

「……かわいくない」


 言い切るのに、耳だけ赤い。

 その赤さが、余計にかわいい。


 私は胸の奥がくすぐったくなって、動物たちに囲まれたまま、そっと秋穂の方へ手を伸ばした。


「ほら。こっちおいで」


 手のひらを差し出すと、秋穂が一瞬固まった。

 周りに人もいる。

 ふれあいコーナーで手をつなぐのは、別に変じゃない。

 友達同士でもやる。

 ……そう分かっているのに、秋穂の指が、少しだけ迷う。


 それから、控えめに――でも確かに。

 秋穂の指が、私の指先に触れた。


 その瞬間、私は不思議なくらい落ち着いた。

 握るんじゃない。絡めるんじゃない。

 ただ、触れているだけ。


 ――触れられるだけで、こんなに安心する。


 私はそのまま、秋穂を自分の近くへ引いた。

 すると。


 もふもふの渋滞が、動き出した。


 ウサギが、ぴょん、と秋穂の足元へ。

 モルモットが二匹、ちょこちょこと秋穂の靴の周りを回る。

 さっきまで私のスカートばかり狙っていたヤギが、今度は秋穂の手のひらの匂いを嗅ぎにくる。


「……え」


 秋穂の声が、掠れた。


 秋穂は動かない。

 驚いているのに、逃げない。

 それが、秋穂らしい。


 私は小声で言った。


「ゆっくりでいいよ。……手、出してみて」


 秋穂が、恐る恐る手のひらを下に向ける。

 モルモットが、その手の甲に鼻先をちょんと当てた。

 ウサギが、秋穂の指先に耳を寄せるみたいに近づいた。


 秋穂の目が、ふっと丸くなる。

 まるで、雪が溶ける瞬間みたいに。


「……あ」


 声にならない声。

 それから、秋穂は一度だけ私を見た。

 その目が、きらきらしている。


 ――見たことのない光り方。


 秋穂は、ほんの少しだけ頬を緩めて、そして、私に言った。


「……美春、すごい」

「いや、私がすごいというか、動物が気まぐれというか……」

「……すごい」


 言い直すみたいに、もう一回。

 その言い方が、妙に真剣で――

 私は、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。


 秋穂は、ウサギの背中を指先でそっと撫でる。

 ゆっくり、ゆっくり。

 まるで、生地を潰さないように空気だけを整えるみたいな手つきで。


「……柔らかい」

「ね」

「……あったかい」


 秋穂の声が、少しだけ弾んでいた。

 それだけで、今日ここに来た意味が、ぎゅっと詰まる。


 私は、秋穂の隣で、モルモットの背中を撫でながら思った。

 秋穂がこうやって「楽しい」を言葉にする瞬間は、ほんの短い。

 だから、見逃したくない。


 秋穂がもう一度、私の方へ顔を向ける。

 そして、誰にも聞こえないくらい小さく――拗ねた声で言った。


「……ずるいけど。……ありがとう」

「ずるくない。……一緒がいいだけ」


 言った瞬間、秋穂が一瞬だけ固まって、

 それから、目を逸らしたまま小さく頷いた。


 動物たちの気配と、夏の匂いと、私たちの指先の距離。

 その全部が、胸の中で甘く溶けていく。


 しばらくして係のお兄さんの「そろそろ交代でお願いしまーす」という声が響き、私たちは名残惜しく柵の外に出た。

 秋穂は手のひらをそっと見下ろして、指先を小さく擦る。さっきまでの温もりが、まだ残っているみたいに。


「……毛、ついた」

「ついてる。ほら、ここ」


 私が指を伸ばすと、秋穂は反射的に身を引きかけて――やめた。

 代わりに、耳の赤いまま私の方へ少しだけ近づいて、じっと待つ。

 私は笑いをこらえて、指先でふわりと毛を取った。


「……美春、慣れてる」

「慣れてないよ。今日だけだよ」


 秋穂は否定しない。

 その代わり、ほんの少しだけ口元を緩めて、私の袖を控えめにつまんだ。

 さっきまでの拗ねた声は消えていて、代わりに――小さな機嫌のよさが残っている。


 そのとき、少し先から「ギャッ」と甲高い鳴き声がして、秋穂の肩がびくっと跳ねた。

 ……油断してる。かわいい。


「鳥のところ、行く?」


 私が聞くと、秋穂は一拍置いてから、きゅっと袖をつまむ力を強めた。


「……行く。……でも、近いのは、やめて」

「了解。じゃあ、真面目な距離で」

「……それ、なに」


 ふっと吹き出しながら、私たちは鳥のエリアの方へ歩き出した。


 次は、鳥のエリア。

 大きな鳴き声が響いて、私は肩をすくめた。

 秋穂も、一瞬びくっとする。


「秋穂、驚いた」

「驚いてない」

「驚いた顔してる」

「してない」


 秋穂は頑固だ。

 でも、さっきの鳥が急に羽を広げてこっちに向かってきた瞬間、秋穂が私の袖を掴んだ。


 ぎゅっと。


 ほんの一瞬。

 でも確かに、掴んだ。


 私は、その感触で頭が真っ白になる。


「秋穂……?」


 秋穂は、掴んだことに気づいたみたいに、すぐに手を離した。

 そして、耳まで赤い。


「……今のは、びっくりしただけ」

「うん、びっくりしただけだね」


 私が笑うと、秋穂がまたむっとする。


「笑うな」

「ごめん。でも、かわいい」

「……禁止」


 禁止が増える。

 でも、その禁止が、どれも甘い。


     ◇


 昼が近づくと、暑さが本気を出してきた。

 アスファルトが熱を返して、足元からじりじりする。私たちは日陰のベンチに座って、水を飲んだ。


「お腹すいた」

「……うん」


 動物園の中にあるバーガーショップは、想像以上に混んでいた。

 メニューの看板には、動物の顔が描かれたバーガーが並んでいる。


「ライオンバーガー」

「……ミーアキャットバーガー」

「ミーアキャット、バーガーになるんだ……」


 秋穂が真面目な顔で頷く。


「……なる」

「何が"なる"なの」


 結局、私はライオン、秋穂はミーアキャットにした。

 受け取ったトレーには、紙でできた小さな動物ピックが刺さっている。


 ライオンのピックは、たてがみが誇らしげ。

 ミーアキャットのピックは、背筋を伸ばして、きっちり立っている――やっぱり真面目だ。


「……秋穂の、似合う」

「……美春のも」


 私たちは、同時に笑ってしまった。


 バーガーは、意外と本格的で、肉汁がじゅわっと出た。

 ポテトは熱くて、口の中が少し痛い。

 その痛さが、なんだか楽しい。


「……美味しい」


 秋穂が言った。

 外で食べるものって、なんでこう美味しいんだろう。


「秋穂、これ……"真面目"?」

「……真面目じゃない。でも、好き」


 好き。

 その言葉が、また胸に落ちる。


 食べ終わって、紙コップの氷をかりかり噛んでいると――秋穂が小さく息を吸った。


「……あれ」


 視線の先。

 日陰の通路に、人だかりができている。


「なんだろ」

「……ミーアキャット」


 秋穂の足が、自然にそっちへ向かう。

 早い。真面目な足音。


 そこは、ミーアキャットの展示の前だった。

 ガラス越しに見える砂場の丘の上で、小さな体が――まるで見張りみたいに、ぴん、と立っている。

 近くの札には「当番交代しながら見張ります」と書かれていた。


「当番……」


 秋穂が、声に出さないくらいの小ささで繰り返す。


 ちょうど飼育員さんがマイクで説明を始めた。


「今、上に立っている子が"見張り役"です。仲間の安全確認をしていて、数分おきに交代するんですよ~」


 説明が終わるより早く、見張り役のミーアキャットが、すっと降りた。

 入れ替わるみたいに、別の子が、同じ場所に――同じ角度で、同じ姿勢で、ぴん、と立つ。


 ……ちゃんとしてる。

 さっきのライオンの"寝姿"を思い出して、私は笑いそうになった。


「さっきのライオン、ずっと寝てたのにね」


 秋穂が、即座に返す。


「……だから、真面目じゃない」

「判定、厳しい」

「……でも、ミーアキャットは、真面目で、かわいい」


 秋穂の目が、ほんの少しきらきらしている。

 私はその横顔が嬉しくて、わざと軽く言ってしまう。


「秋穂が言う"真面目でかわいい"って、最高評価じゃない?」

「……最高」

「即答!?」


 秋穂は、照れたみたいに少しだけ目を逸らして――それでも、ガラスの向こうから目を離さない。


 ミーアキャットたちは、忙しなく走り回るわけでもない。

 けれど、ふざけてもいない。

 遊んでいるように見える瞬間があっても、誰かが必ず、ぴんと立って、周りを見ている。


 交代のたびに、動きが無駄なくて、迷いがない。

 まるで「決めたことを、ちゃんとやる」って体で教えてくるみたいで――私は不意に、胸の奥があたたかくなった。


「……秋穂も、こういうの好きだよね」

「……うん。好き」


 その"好き"は、動物の話のはずなのに。

 なぜか、私の心臓の方が反応してしまう。


 ガラスに近づきすぎた子どもを見て、見張り役が一瞬だけ首を傾げた。

 危険じゃないって分かると、また、ぴん、と前を向く。


 ……真面目だ。

 真面目で、かわいい。

 そして、その"真面目さ"に目を細める秋穂も、同じくらいかわいい。


「……美春」

「ん?」

「……あれ、見て」


 秋穂が指差す。

 見張り役が、交代の合図みたいに、仲間に鼻先を寄せた。

 そのあと、すっと身を引いて、次の子に場所を譲る。


 譲るのが当たり前みたいに。

 待つのが当たり前みたいに。


 私は、ふと考えてしまう。

 秋穂も、たぶんずっと――こうやって順番を守って、待って、譲ってきた。

 だからこそ、今、私の隣に来てくれていることが、たまらなく嬉しい。


 私が何か言いそうになったとき、秋穂が先に小さく言った。


「……真面目って、安心する」


 それが、動物の感想で。

 なのに、私の胸の奥に、別の意味でも落ちてきた。


「……うん。安心するね」


 私はそう返して、秋穂を見た。

 秋穂はまだガラスの向こうを見ている。

 でも、その横顔は、いつもより少し柔らかい。


 その柔らかさが、今日の"お出かけ"を、ただ楽しいだけじゃなくて――

 私たちの夏を、ちゃんとした形で残していくみたいに思えた。


     ◇


 午後。

 園内を歩いていると、急に空が暗くなった。

 遠くで雷の音がする。

 夏の夕立の気配。


「降りそう」

「……うん」


 私たちは急いで屋内展示の方へ向かった。

 その途中で――


「あれ……?」


 秋穂が立ち止まった。

 鞄を探る指が、少しだけ速い。


「……財布、ない」


 その一言で、私の心臓が跳ねる。

 一気に血の気が引く。


「えっ、どこで……?」


 秋穂は、目を閉じて考えるみたいに静かになった。

 こういうとき、秋穂はパニックにならない。

 真面目に、順番に、可能性を潰していく。


「……バーガーのところで、出した。……そのあと、しまった」

「落としたのかも……!」


 私は慌てて周りを見る。

 人が多い。

 この中で落ちた財布なんて、見つかるの?


 でも。


「美春」


 秋穂が私の名前を呼んだ。

 声がいつもより強い。


「……一回、落ち着いて。……探し方、決める」


 その言葉で、私は息を吸い直した。

 そうだ。

 回す目。

 今は、"回す側"の練習だ。


「うん。まず、最後に財布を見た場所に戻る」

「……うん」

「それで、なかったらインフォメーション。落とし物」


 私は、喫茶店で覚えた"段取り"を、そのまま口に出した。

 秋穂が小さく頷く。


「……ありがとう」

「当たり前だよ」


 私たちはバーガーショップへ戻った。

 テーブルの下。椅子の隙間。

 店員さんにも聞く。


「すみません、財布、落とし物で……」


 店員さんがすぐにケースを確認してくれた。


「あ、ありましたよ。紺色の……これですか?」

「……それ」


 秋穂の声が、ほんの少し震えた。


 私は、思わず笑ってしまいそうになる。

 よかった。

 本当によかった。


 秋穂が財布を受け取る指先が、少しだけ震えていて――私は、ふと、喉の奥が熱くなった。


「……よかったね」

「……うん」


 秋穂が、私を見て、短く言う。


「……美春がいたから、早かった」


 その言葉が、胸の奥に残った。

 私が隣にいることが、役に立った。

 嬉しい。

 でも同時に、もっと役に立ちたいと思ってしまう。


 外へ出ると、雨が降り始めていた。

 小粒。

 すぐに大粒になりそうな匂い。


「帰ろうか」

「……うん」


 帰り道、私たちは屋根のある通路を歩きながら、さっきまでの動物たちを思い出す。

 真面目なミーアキャット。

 甘い匂いに寄ってきたヤギ。

 驚いて袖を掴んだ秋穂。


 どれも、今日しかない。


     ◇


 動物園を出た頃には、雨は本降りになっていた。

 傘を開くタイミングが同時になって、私たちは一瞬だけ目を合わせる。


「……濡れる」

「濡れるね」


 言ってから、二人で小さく笑った。

 夏の雨は冷たすぎなくて、むしろ肌に落ちる粒が気持ちいい。駅までの道を小走りで進むうち、靴底が水たまりを跳ね、秋穂のスカートの裾が少しだけ揺れた。


 並んで歩く。

 夕立のあとの空気はひんやりしていて、アスファルトの匂いが少しだけ甘い。

 私は、その甘さに紛れて――隣の音を聴いていた。


 秋穂の足音。

 一定のリズムで、迷いがなくて、きちんとしていて。歩幅も、私の呼吸に合わせるみたいに揃っていく。

 真面目な足音が、今日は少しだけ軽い。


 その軽さが嬉しくて、私はつい口元が緩んでしまう。


「……なに笑ってるの」

「ううん。秋穂の歩き方、好きだなって」


 言った瞬間、秋穂が小さく瞬きをして、それから視線を前に戻した。

 でも、耳だけが、ゆっくり赤くなっていく。


「……真面目?」

「真面目。かわいい」


 秋穂が、歩幅をほんの少しだけ私に合わせた。

 足音が近づく。それだけで、胸の奥がほどけていくのが分かった。


「……楽しかった」


 秋穂が言った。

 その言葉が、今日の全部みたいに思える。


「うん。すごく」


 駅に着く直前、私たちはお土産屋に寄った。

 マスターへの礼。

 "土産でいい"と言われた約束。


 棚の端に、変なものがいた。

 白い毛がもさもさで、口元にちょっとだけヒゲっぽい模様。目つきが妙に無愛想で、しかも小さく腕組みしてるみたいな体勢。


「……これ、マスターに似てない?」

「似てる」


 秋穂が即答した。迷いがない。

 私は思わず袋を持ったまま肩をすくめる。


「即答!?」

「……似てる。無愛想」

「無愛想って言うな」


 でも秋穂の目が、少しだけ笑っている。

 そういう笑い方を、私は見逃せない。


 私たちは"ウケ狙い"をひとつ。

 それとは別に、ちゃんとした焼き菓子のお土産も選んだ。動物の形のクッキー。喫茶店の人間が渡すお土産として、ちょうどいい。


 会計を済ませて袋を持った瞬間、私は思った。

 マスターにお礼を言いたいのはもちろんだけど――香織さんにも、ちゃんと伝えたい。

 "ありがとうございます"って。

 その言葉には、きっと"秋穂を大事にします"みたいな意味が混ざってしまうから。まだうまく言えないけど。


 電車に乗って、座席に座ると、私たちは同時に息を吐いた。

 疲れた。

 でも、それが心地いい。


 窓の外が流れる。

 雨で滲んだ街灯が、遠くの景色をやわらかくする。

 私は、共有カレンダーを開いた。今日の"動物園"の文字が、やけに誇らしげに見える。


「……ねえ、秋穂」

「……なに」

「今日、楽しかったって、もう一回言って」


 自分でも意味が分からない要求に、言ってから恥ずかしくなる。

 秋穂は一拍置いて、私を見ないまま――でも、ちゃんと聞こえる声で言った。


「……楽しかった」


 胸が、じんと温かくなる。


「……よし」

「……なにが」

「チャージ完了」

「……意味わからない」


 秋穂の声が少しだけ柔らかい。

 その柔らかさが、今日の余韻をちゃんと形にするみたいだった。


 喫茶店に着く頃には、雨は少し弱まっていた。

 鍵を開けて中に入ると、昼間のざわめきの代わりに、珈琲の残り香と、木の匂いが迎えてくる。

 マスターは奥で片付けをしていて、私たちの足音に気づくと、顔だけこちらに向けた。


「おう。戻ったか」

「ただいま、です」

「……ただいま」


 私が袋を掲げると、マスターが眉を寄せた。


「なんだそれ。買い物でもしてきたのか」

「土産です。約束だったので」

「……礼は土産でいい、って言ったのは俺だが、別に本当に――」


 言い終える前に、私はクッキーの箱を先に差し出した。


「これは、ちゃんとしたやつ。動物園の」

「ほう」


 マスターは箱の表を見て、ふん、と短く鼻を鳴らした。

 照れ隠し。たぶん。


 そして、問題の袋。

 私は、わざと最後にそれを出した。


「で、こっちは……ウケ狙い」

「……嫌な予感しかしねえな」


 袋から白いもさもさが覗いた瞬間、マスターの目が露骨に細くなった。


「……おい」

「似てるでしょ」

「似てねえ」


 即答。

 秋穂が、淡々と追撃する。


「……似てる」

「お前まで言うな」


 マスターはぬいぐるみを受け取ると、腕を伸ばして距離を取るみたいに眺めた。

 それから、ぬいぐるみの口元の"ヒゲっぽい模様"を指でつまんで、妙に真剣な顔をする。


「……ヒゲは生えてねえ」

「生えてるじゃん、心のヒゲ」

「そんな概念あるか」


 私が笑うと、秋穂も小さく息を漏らした。

 マスターの視線がこちらに刺さる。


「笑うな」

「だって……」

「だって、じゃねえ」


 でも、怒っている声じゃない。

 マスターは、ぬいぐるみをカウンターの端にぽんと置いて――置いたあとに、ちょっとだけ位置を直した。

 まっすぐに。きっちりと。

 ……真面目。


 秋穂が、私の袖を小さくつまむ。


「……マスターも、真面目」

「え、今の、マスターに聞こえた?」

「聞こえてない」

「絶対聞こえてる」


 マスターは、背中を向けたまま言った。


「聞こえてる」

「ほら!」

「……うるせえ。閉店後に騒ぐな」


 言いながら、マスターはぬいぐるみの頭を一回だけ、乱暴に撫でた。

 ……乱暴なようで、雑じゃない。

 それがなんだか可笑しくて、私はまた笑ってしまう。


「……ありがとな」


 小さく、短く。

 それだけ言って、マスターは奥へ戻っていった。

 背中が、少しだけ丸い。いつもより。


 私は、秋穂の方を見る。

 秋穂も私を見て――すぐに目を逸らした。

 でも、さっきより耳が赤いのは、雨のせいじゃない。


「……美春」

「うん?」

「……今日、また行こうね。どこか」


 秋穂が、今度は私の言葉を真似するみたいに言った。

 胸が、きゅっとなる。


「うん。今度は、空白も入れる」

「……うん」


 秋穂が頷いた。

 その頷きが、"約束"に見えた。


 私は、カウンターの端に置かれたぬいぐるみを見た。

 白いもさもさが、無愛想な顔でこちらを見ている。

 ……マスターに似てる。やっぱり。


 そして、ふと足元を見る。

 隣にいる秋穂の靴先。

 私の歩幅に寄り添うみたいに、少しだけ角度が揃っている。


 秋穂の真面目な足音が、今日も、私の隣で鳴る。

 動物園でも、雨の帰り道でも、喫茶店の床でも。


 その足音がある限り――私は迷わない気がした。

 夏が終わっても。忙しくなっても。

 きっと、変わらない。


 そう思ったら、胸の奥が、静かに温かくなった。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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