第26話「真面目な足音」
ライトな百合x成長物語です。
夏休み終盤です。
閉店後の喫茶店。
カップを伏せる乾いた音と、布巾でテーブルを拭く擦れ、冷蔵庫の低い唸り。
それだけが、夏の夜の中で輪郭を持って残る。
私はレジ締めの数字を最後に確認して、ふう、と息を吐いた。
エプロンの胸元が、まだ少し湿っている。店の外は涼しくなってきたはずなのに、今日の暑さが体に貼りついて離れない。
そのとき、厨房の奥から秋穂が出てきた。
髪をまとめたまま、白い粉のついた指先を布巾で拭きながら――いつもの無表情に近い顔で、でも、目だけがほんの少しだけ違う。
「……美春」
「なに?」
秋穂は一瞬言い淀むみたいに、視線を落としてから、封筒を差し出した。
薄いクリーム色。角がきっちり揃っていて、秋穂の性格そのままみたいな封筒。
「これ」
「え、なにこれ……?」
「……お母さんから」
私は、反射的に封を切るのをためらってしまう。
秋穂のお母さん――香織さん。
名前を思い出しただけで、背筋が少し伸びる。今はもう、怖い人じゃないと分かっているのに。
"認めてもらった"という安心の奥に、まだ緊張が小さく残っている。
封筒の中から、紙のチケットが二枚。
そこに印刷された写真は、草の匂いがしそうな――動物園。
「……動物園?」
声が自分でも分かるくらい上ずった。
秋穂は、こくりと頷く。
「……行ってきなさい、って」
「えっ、い、行きたい。行きたいけど……いいの? 香織さん、本当に?」
「……うん。六月の……」
秋穂が小さく言って、そこで少し言葉を選ぶ。
「……私が熱出したとき。美春、来た。……助かったって」
六月。
あの、秋穂の額が熱くて、指先が冷えていて、喫茶店の匂いじゃない部屋の匂いがして――私はずっと、うまく笑えなかった日。
それを、お礼の形にしてもらうなんて。
「……ありがとう、って。お母さんが」
秋穂の声は淡いのに、その淡さが逆に胸に刺さる。
私はチケットを握った。紙が少しだけしなる。
「……嬉しい」
「……うん」
秋穂は、ほんの少しだけ口角を上げた。
それが可愛くて、私は、うっかり見惚れてしまいそうになる。
でも。
「……待って。いつ行く?」
思い出したみたいに私はスマホを取り出した。
ホーム画面には、共有カレンダーのアイコン。
春休みに二人で作って以来、"予定"が増えるたびに、胸のどこかが落ち着かなくなるやつ。
開いた瞬間、私は固まった。
「……埋まってる……」
夏期講習が終わった途端、私は空いた時間を、反射でアルバイトで埋めていた。
休みの日も、結局"入れます"って言ってしまった。
回す側の立場って、穴があると埋めたくなる。
"店が回る"ことが正義みたいに思ってしまう。
「……動物園、行ける日、ある?」
自分で言って、ちょっと情けなくなる。
せっかくのチケットなのに。
せっかく、香織さんが"行ってきなさい"って言ってくれたのに。
秋穂は、私のスマホ画面を覗き込んだ。
まつ毛が近い。
近すぎて、私は呼吸を忘れそうになる。
「……ここ」
秋穂が指差したのは、ひとつだけ空いている平日。
でも、そこにも小さく"仕込み補助"と書かれている。秋穂の予定だ。
「……私、ここ。仕込み、入れてた」
「だよね……」
沈んだ声が出た。
私が勝手に忙しくしただけなのに。
そのとき、カウンターの向こうから、マスターが顔を出した。
片手にゴミ袋。もう片手に、いつもの無愛想。
「何だ。二人して葬式みたいな顔して」
「葬式って……」
私は苦笑した。
でもマスターは、チケットを見て一瞬で察したみたいだった。
「動物園か」
「……はい。香織さんから」
「へえ。いいじゃねえか。行け」
即答。
私は目を瞬いた。
「え、でも……シフト……」
「気にすんな。回すのは俺の仕事だ。学生の夏休みなんて遊んでなんぼだろ」
言い方はぶっきらぼうなのに、そこに隙がない。
"気にすんな"の一言が、胸の真ん中にすとんと落ちた。
私は、思わず秋穂を見る。
秋穂も、ほんの少し驚いた顔でマスターを見ていた。
「……いいんですか」
「いいに決まってんだろ。お前ら、夏期講習もバイトも、よくやってる。たまには息抜きしろ」
息抜き。
春休みに秋穂が口にしたときの、ぎこちなさを思い出す。
あの頃より、私たちは忙しくて、でも、たぶん――前よりちゃんと"隣"にいる。
「……ありがとうございます」
私が言うと、秋穂も小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼は土産でいい」
「え、そこはちゃっかりしてる」
「うるせえ」
マスターはゴミ袋を持ち上げて、さっさと裏へ引っ込んでいった。
その背中が、なんだか少しだけ、いつもより優しく見えた。
私は、もう一度カレンダーを開く。
そして空いている日に、"動物園"と入力する――指が少し震える。
予定が確定する音が、小さく鳴った。
……デートだ。
頭の中で、その単語が勝手に浮かんで、勝手に赤くなる。
友達と遊ぶ、じゃなくて。
チケット二枚で。二人で。
しかも、香織さん公認みたいな形で。
胸のあたりが、落ち着かない。
「……美春」
「うん?」
「……顔、赤い」
「えっ」
私は慌てて頬を押さえた。熱い。
秋穂は目を逸らす。そっちも耳が赤い。
「……秋穂も」
「……」
沈黙。
沈黙なのに、甘い。
私は、慌てて話題をずらした。
「あっ、そうだ。服」
「……服?」
「動物園ってさ、夏だし……私、かわいい夏服、ないかも」
言った瞬間、後悔した。
かわいい、って自分で言うの、恥ずかしい。
でも秋穂は、真面目な顔で頷いた。
「……私も、ない」
同じこと言うんだ。
その"ない"が、妙に可愛くて、私は笑いそうになる。
「じゃあ……ここ、午前中。バイト前に買いに行こう」
「……うん」
秋穂が頷いた。
それだけで、予定がひとつ増えたみたいに、胸がどきんとした。
私たちの夏に、"動物園"と、"服を買いに行く"が増える。
それは、ただの予定じゃなくて。
私たちが、未来に手を伸ばす練習みたいだった。
◇
午前中の街は、日差しが鋭い。
でも、バイト前の時間ってだけで、どこか背徳感がある。
"働く前に遊ぶ"って、罪みたいに感じるのに――今日は、罪じゃないって許された気がする。
駅前で待ち合わせると、秋穂はいつもの制服じゃなく、私服だった。
白いTシャツに、薄いグレーのカーディガン。
髪もほどいていて、ふわっと肩に落ちている。
それだけで、私は胸がきゅっとなる。
「……早いね」
「美春が、早い」
「え、そう?」
私は時計を見る。
確かに、五分前。
でも、待たせたくなくて――って言うのは、まだ言えない。
「行こう」
「うん」
まず、秋穂が言った"ちょっと大人っぽい店"に入った。
ガラス張りで、店内の照明がやたら柔らかい。
入った瞬間、冷房の空気が肌にまとわりついて、私は少しだけ息を吐いた。
でも、その安心は一秒だった。
「いらっしゃいませ~。お二人でお探しですか?」
店員さんが、笑顔で近づいてくる。
私は反射で背筋が伸びた。秋穂も、目がわずかに泳ぐ。
「えっと……あの……」
「夏っぽいお出かけ用のお洋服とか?」
優しい。優しいのに、怖い。
"お出かけ"って言葉が、妙に刺さる。
「……動物園に」
秋穂が小声で言った。
店員さんがぱっと明るくなる。
「わあ、いいですね! じゃあ動きやすくて、でも写真映えする感じがいいかも」
写真。
私の脳内に、"二人で写る"が一瞬で浮かんで、勝手に赤くなる。
勧められた服を、勢いで試着することになった。
そして、試着室のカーテンを開けたとき。
私は、自分の足が出ていることに驚いた。
膝上のスカート。
布が軽い。軽すぎて、歩くたびに空気が入り込む。スースーする。
「……どう?」
勇気を出して出ると、秋穂が先に出ていた。
肩が出ている。薄い水色のブラウス。
首筋が見える。
秋穂が、そんなに肌を見せるなんて――普段の彼女からすると、事件だ。
私は、息を呑んだ。
「……秋穂、かわ……」
言いかけて止まった。
喉が熱い。
秋穂も、私を見て固まっている。
「……美春も」
そこまで言って、秋穂は視線を逸らした。
耳が赤い。
私の方も、きっと真っ赤だ。
「……や、やめよう。これ」
「……うん」
「……かわいいけど、だめ」
「……だめ?」
「私以外に、見せないで」
言ってしまってから、私は口を押さえた。
何言ってるの。
私が言う台詞じゃない。
でも秋穂は、すぐに否定しなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めて――小さく頷いた。
「……うん」
その"うん"が、甘くて危ない。
私たちは慌てて着替えて、店員さんに「また来ます」とだけ言って逃げるように外へ出た。
外の暑さが、逆に救いだった。
顔が熱いのを、夏のせいにできる。
「……大人っぽいの、無理だった」
「……無理だった」
二人で同時に言って、同時に笑ってしまう。
笑った瞬間、さっきの恥ずかしさが少しだけ溶けた。
次に入ったのは、高校生でも入りやすいショップだった。
色も柄も明るくて、鏡の前でくるくる回る女の子がたくさんいる。
ここだと、息ができた。
私は、淡いベージュのワンピースを手に取ってみる。
秋穂は、紺のシャツと白のスカートを合わせてみて――鏡の前で小さく首を傾げた。
「……変じゃない?」
「変じゃない。すごくいい」
今度は、ちゃんと言えた。
秋穂が、驚いたみたいに瞬きをする。
「……美春も、似合う」
その言葉で、胸がきゅっとなる。
誰かに言われる"似合う"じゃなく、秋穂に言われる"似合う"は、別物だ。
結局、私たちは"ちょうどいい大人っぽさ"に落ち着いた。
無理しない。背伸びしすぎない。
でも、いつもより少しだけ特別。
会計を済ませて、紙袋を持った瞬間。
私は自分でも分かるくらい、浮かれていた。
「……明日、楽しみ」
口から出たのは、素直な声。
秋穂は、紙袋を胸に抱えたまま、目を逸らして言った。
「……私も」
それだけで、今日の暑さが少し優しくなる。
私たちはそのまま喫茶店へ向かって、エプロンに着替えた。
午後はいつも通り、回して、運んで、笑って、疲れて――
でも頭の片隅に、ずっと"明日"が光っていた。
◇
翌朝。
駅前のロータリーは、まだ人が少ない。
蝉の声だけが元気で、私の心臓もそれにつられるみたいにうるさい。
私は昨日買った服を着て、鏡の前で何度も髪を整えた。
日焼け止めも塗った。
リップも少しだけ。
――何してるんだろう。
動物園に行くだけなのに。
でも。
ロータリーの端で、秋穂を見つけた瞬間。
その"だけ"が、嘘になる。
秋穂は、紺のシャツに白いスカート。
髪はいつもより少し丁寧にまとめてあって、首筋がきれいに出ている。
昨日、大人っぽい店で見た肩のラインを思い出して、私はまた赤くなりそうになる。
「……おはよう」
「おはよう。……秋穂、かわいい」
言ってしまった。
止められなかった。
秋穂が固まる。
それから、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……美春も」
短い。
でも、耳が赤い。
私もきっと赤い。
私たちは、急いで改札に向かった。
人前だと、こういう話は危険すぎる。
電車に乗る。
夏休みの平日。
学生が少なくて、座席に余裕がある。
私たちは並んで座った――肩が触れそうで触れない距離。
窓の外が流れる。
昨日の喫茶店の木の匂いじゃなく、電車の金属と冷房の匂い。
それが少しだけ、"遠くへ行く"感じを強くする。
「……昨日の服」
秋穂が、ぽつりと言った。
「うん?」
「……選ぶの、楽しかった」
その言葉が、思ったより胸に響いた。
秋穂が"楽しかった"って言うのって、貴重だ。
いつもは、楽しいことも真面目に飲み込んでしまう人だから。
「私も。……また行こうね、こういうの」
「……うん」
頷く秋穂の横顔が、窓の光で少し白く見えた。
私は、目を逸らした。見ているのがばれたら、また赤くなる。
動物園の最寄り駅に着くと、降りた瞬間に熱気がぶわっと押し寄せる。
夏の外。
空が高い。雲がでかい。
「暑い……」
私が言うと、秋穂が鞄から小さな扇子を出した。
渋い。秋穂らしい。
「……これ、使う?」
「え、いいの?」
秋穂が、扇子をこちらに向けてぱたぱた扇ぐ。
涼しい。
でも、涼しい以上に――秋穂が私を扇いでいる事実が、危険なくらい甘い。
「……ありがと」
「……うん」
その"うん"が、いつもより柔らかい。
◇
動物園の入口は、家族連れで賑わっていた。
小さい子の笑い声。ベビーカーの車輪の音。
チケット売り場の前に立つと、係のお姉さんがにこっと笑う。
「いらっしゃいませ。二名さまですね。……楽しんでくださいね、デート」
……デート。
言われた瞬間、血が顔に集まった。
秋穂も、目を丸くして固まっている。
「ち、違……」
違う、って言いそうになって、言葉が喉で止まる。
違うと言いたいのに、違わない気がしてしまう。
深い意味じゃない。分かってる。友達同士の"お出かけ"として言っただけだ。
なのに。
私たちは、二人そろって赤いまま、チケットを出した。
お姉さんは何も気にしていない顔で入園ゲートを開けてくれる。
「どうぞ~」
通り抜けた瞬間、私は秋穂を見た。
秋穂は、そっと息を吐いて、私を見ないまま言った。
「……デート、って言われた」
「言われたね……」
「……」
「……」
沈黙が続いて、二人で同時に笑ってしまった。
笑うと、少しだけ赤みが引く。
でも、胸の奥は引かない。
最初に向かったのは、草食動物のエリアだった。
日陰が少なくて、獣の匂いが濃い。
でも、その"生き物の匂い"が、妙に楽しい。
シマウマが、柵の向こうで尾を振っている。
キリンが首をゆっくり動かして、葉を食べている。
その動きが、思ったより静かで、私は少しだけ安心した。
「……キリン、でかい」
秋穂がぽつりと言った。
目が少しだけ上を向いているのが可愛い。
「秋穂、驚いてる?」
「……驚いてる」
「意外」
「……意外って言うな」
むっとする秋穂。
私は笑ってしまう。
次はライオン。
寝ている。
"百獣の王"って聞いて想像していた迫力がなくて、逆にじわじわくる。
「寝てる」
「寝てるね」
「……真面目じゃない」
「秋穂の"真面目"判定、厳しい」
「……真面目な動きが好き」
それは、秋穂が前にペンギンを評した言葉だ。
私は、そのまま口に出した。
「……ペンギンと同じ分類?」
「同じじゃない」
即答。
速い。
秋穂の目が、少しだけ鋭い。
「ペンギンは……"真面目"の種類が違う」
「種類あるの」
「ある」
真顔で言うから、私は吹き出した。
秋穂がさらにむっとする。
「笑うな」
「ごめん。……でも、秋穂のそういうところ、好き」
口に出した瞬間、私は固まった。
好き。
軽い意味で言ったつもりなのに、軽くならない。
秋穂が、ちらっと私を見て――すぐに目を逸らした。
「……禁止」
「何が?」
「……そういうの、外で言うの」
小声。
でも、その小声が、私の胸をくすぐる。
私たちは、ふれあいコーナーに向かった。
ウサギとモルモット、ヤギとヒツジ――柵の中は、もこもこした毛並みと、草の匂いと、子どもたちの弾ける笑い声で満ちている。
係のお兄さんがマイク越しに言った。
「動物たち、追いかけないでね~。抱っこは優しく。触るときは手のひらで、そっと」
私は頷いて、靴底で砂を踏みしめながら中へ入った。
……その、瞬間だった。
足元が、にぎやかに動く。
ちょこちょこ、ちょこちょこ。
気づけばモルモットが二匹、私の靴の周りを回っていて、ウサギが一羽、ぴょんと膝の前に座り込む。
さらに、ヤギまでが――まるで「ちょっと通して」みたいな顔で、鼻先を私のスカートの裾に寄せてきた。
「え、なに……? ちょ、待って……!」
笑いが漏れて、思わず一歩下がる。
下がったのに、距離が詰まる。
ウサギの耳がぴくりと動き、モルモットが「ここです」みたいに足首にぴたりと寄る。
ヤギにいたっては、私の手の匂いを嗅ぐように、鼻息をふすふすさせた。
……なんで。
なんで私だけ、こんなに。
振り向くと、柵の外側で秋穂が立っていた。
腕を組むでもなく、スマホをいじるでもなく、ただ真面目な顔で私を見ている。
目だけが、少し冷たい――というか。
「……美春、モテてる」
ぽつり。
低い声。
淡々としているのに、妙に刺さる。
「モテてないって! これ、たぶん偶然!」
言い訳している間にも、モルモットが増える。
いつの間にか三匹。
私の足元が、もふもふの渋滞だ。
秋穂が、少しだけ目を細めた。
「……甘い匂い、するから」
「は?」
秋穂は真面目に続ける。
「喫茶店の匂い。……焼き菓子の残り香。動物、砂糖っぽいの、好き」
「なにそれ! ていうか、それなら秋穂にも寄るはずじゃん!」
私がツッコむと、秋穂の口角がほんの少しだけ上がった。
……笑った。
ずるい。
――なのに。
秋穂の足元には、動物が一匹もいない。
秋穂は、ゆっくり柵の中に入ってきた。
足取りはいつも通り慎重で、手のひらもきちんと体の前。
優しく触ろうとしているのが、見ただけで分かるのに。
ウサギは、私の方にぴったり。
モルモットは、私の靴の横で丸くなる。
ヤギまで、私に鼻先を寄せる。
……秋穂の周りだけ、すっきりしている。
見事なくらい、何もいない。
秋穂は、その場で小さく立ち尽くした。
そして、ほんの少しだけ肩を落とす。
「……」
「秋穂……?」
秋穂が、ものすごく小さい声で言った。
「……ずるい」
「え」
「……なんで、美春ばっかり」
その言い方が、拗ねていて――
拗ね方まで真面目で――
私は、笑っていいのか分からなくなって、結局、苦笑いになった。
「ご、ごめん。私、何もしてないんだけど……」
秋穂は、私を見ない。
見ないのに、言う。
「……美春、動物に好かれる。……私、好かれない」
「秋穂、かわいい嫉妬してる」
「……かわいくない」
言い切るのに、耳だけ赤い。
その赤さが、余計にかわいい。
私は胸の奥がくすぐったくなって、動物たちに囲まれたまま、そっと秋穂の方へ手を伸ばした。
「ほら。こっちおいで」
手のひらを差し出すと、秋穂が一瞬固まった。
周りに人もいる。
ふれあいコーナーで手をつなぐのは、別に変じゃない。
友達同士でもやる。
……そう分かっているのに、秋穂の指が、少しだけ迷う。
それから、控えめに――でも確かに。
秋穂の指が、私の指先に触れた。
その瞬間、私は不思議なくらい落ち着いた。
握るんじゃない。絡めるんじゃない。
ただ、触れているだけ。
――触れられるだけで、こんなに安心する。
私はそのまま、秋穂を自分の近くへ引いた。
すると。
もふもふの渋滞が、動き出した。
ウサギが、ぴょん、と秋穂の足元へ。
モルモットが二匹、ちょこちょこと秋穂の靴の周りを回る。
さっきまで私のスカートばかり狙っていたヤギが、今度は秋穂の手のひらの匂いを嗅ぎにくる。
「……え」
秋穂の声が、掠れた。
秋穂は動かない。
驚いているのに、逃げない。
それが、秋穂らしい。
私は小声で言った。
「ゆっくりでいいよ。……手、出してみて」
秋穂が、恐る恐る手のひらを下に向ける。
モルモットが、その手の甲に鼻先をちょんと当てた。
ウサギが、秋穂の指先に耳を寄せるみたいに近づいた。
秋穂の目が、ふっと丸くなる。
まるで、雪が溶ける瞬間みたいに。
「……あ」
声にならない声。
それから、秋穂は一度だけ私を見た。
その目が、きらきらしている。
――見たことのない光り方。
秋穂は、ほんの少しだけ頬を緩めて、そして、私に言った。
「……美春、すごい」
「いや、私がすごいというか、動物が気まぐれというか……」
「……すごい」
言い直すみたいに、もう一回。
その言い方が、妙に真剣で――
私は、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
秋穂は、ウサギの背中を指先でそっと撫でる。
ゆっくり、ゆっくり。
まるで、生地を潰さないように空気だけを整えるみたいな手つきで。
「……柔らかい」
「ね」
「……あったかい」
秋穂の声が、少しだけ弾んでいた。
それだけで、今日ここに来た意味が、ぎゅっと詰まる。
私は、秋穂の隣で、モルモットの背中を撫でながら思った。
秋穂がこうやって「楽しい」を言葉にする瞬間は、ほんの短い。
だから、見逃したくない。
秋穂がもう一度、私の方へ顔を向ける。
そして、誰にも聞こえないくらい小さく――拗ねた声で言った。
「……ずるいけど。……ありがとう」
「ずるくない。……一緒がいいだけ」
言った瞬間、秋穂が一瞬だけ固まって、
それから、目を逸らしたまま小さく頷いた。
動物たちの気配と、夏の匂いと、私たちの指先の距離。
その全部が、胸の中で甘く溶けていく。
しばらくして係のお兄さんの「そろそろ交代でお願いしまーす」という声が響き、私たちは名残惜しく柵の外に出た。
秋穂は手のひらをそっと見下ろして、指先を小さく擦る。さっきまでの温もりが、まだ残っているみたいに。
「……毛、ついた」
「ついてる。ほら、ここ」
私が指を伸ばすと、秋穂は反射的に身を引きかけて――やめた。
代わりに、耳の赤いまま私の方へ少しだけ近づいて、じっと待つ。
私は笑いをこらえて、指先でふわりと毛を取った。
「……美春、慣れてる」
「慣れてないよ。今日だけだよ」
秋穂は否定しない。
その代わり、ほんの少しだけ口元を緩めて、私の袖を控えめにつまんだ。
さっきまでの拗ねた声は消えていて、代わりに――小さな機嫌のよさが残っている。
そのとき、少し先から「ギャッ」と甲高い鳴き声がして、秋穂の肩がびくっと跳ねた。
……油断してる。かわいい。
「鳥のところ、行く?」
私が聞くと、秋穂は一拍置いてから、きゅっと袖をつまむ力を強めた。
「……行く。……でも、近いのは、やめて」
「了解。じゃあ、真面目な距離で」
「……それ、なに」
ふっと吹き出しながら、私たちは鳥のエリアの方へ歩き出した。
次は、鳥のエリア。
大きな鳴き声が響いて、私は肩をすくめた。
秋穂も、一瞬びくっとする。
「秋穂、驚いた」
「驚いてない」
「驚いた顔してる」
「してない」
秋穂は頑固だ。
でも、さっきの鳥が急に羽を広げてこっちに向かってきた瞬間、秋穂が私の袖を掴んだ。
ぎゅっと。
ほんの一瞬。
でも確かに、掴んだ。
私は、その感触で頭が真っ白になる。
「秋穂……?」
秋穂は、掴んだことに気づいたみたいに、すぐに手を離した。
そして、耳まで赤い。
「……今のは、びっくりしただけ」
「うん、びっくりしただけだね」
私が笑うと、秋穂がまたむっとする。
「笑うな」
「ごめん。でも、かわいい」
「……禁止」
禁止が増える。
でも、その禁止が、どれも甘い。
◇
昼が近づくと、暑さが本気を出してきた。
アスファルトが熱を返して、足元からじりじりする。私たちは日陰のベンチに座って、水を飲んだ。
「お腹すいた」
「……うん」
動物園の中にあるバーガーショップは、想像以上に混んでいた。
メニューの看板には、動物の顔が描かれたバーガーが並んでいる。
「ライオンバーガー」
「……ミーアキャットバーガー」
「ミーアキャット、バーガーになるんだ……」
秋穂が真面目な顔で頷く。
「……なる」
「何が"なる"なの」
結局、私はライオン、秋穂はミーアキャットにした。
受け取ったトレーには、紙でできた小さな動物ピックが刺さっている。
ライオンのピックは、たてがみが誇らしげ。
ミーアキャットのピックは、背筋を伸ばして、きっちり立っている――やっぱり真面目だ。
「……秋穂の、似合う」
「……美春のも」
私たちは、同時に笑ってしまった。
バーガーは、意外と本格的で、肉汁がじゅわっと出た。
ポテトは熱くて、口の中が少し痛い。
その痛さが、なんだか楽しい。
「……美味しい」
秋穂が言った。
外で食べるものって、なんでこう美味しいんだろう。
「秋穂、これ……"真面目"?」
「……真面目じゃない。でも、好き」
好き。
その言葉が、また胸に落ちる。
食べ終わって、紙コップの氷をかりかり噛んでいると――秋穂が小さく息を吸った。
「……あれ」
視線の先。
日陰の通路に、人だかりができている。
「なんだろ」
「……ミーアキャット」
秋穂の足が、自然にそっちへ向かう。
早い。真面目な足音。
そこは、ミーアキャットの展示の前だった。
ガラス越しに見える砂場の丘の上で、小さな体が――まるで見張りみたいに、ぴん、と立っている。
近くの札には「当番交代しながら見張ります」と書かれていた。
「当番……」
秋穂が、声に出さないくらいの小ささで繰り返す。
ちょうど飼育員さんがマイクで説明を始めた。
「今、上に立っている子が"見張り役"です。仲間の安全確認をしていて、数分おきに交代するんですよ~」
説明が終わるより早く、見張り役のミーアキャットが、すっと降りた。
入れ替わるみたいに、別の子が、同じ場所に――同じ角度で、同じ姿勢で、ぴん、と立つ。
……ちゃんとしてる。
さっきのライオンの"寝姿"を思い出して、私は笑いそうになった。
「さっきのライオン、ずっと寝てたのにね」
秋穂が、即座に返す。
「……だから、真面目じゃない」
「判定、厳しい」
「……でも、ミーアキャットは、真面目で、かわいい」
秋穂の目が、ほんの少しきらきらしている。
私はその横顔が嬉しくて、わざと軽く言ってしまう。
「秋穂が言う"真面目でかわいい"って、最高評価じゃない?」
「……最高」
「即答!?」
秋穂は、照れたみたいに少しだけ目を逸らして――それでも、ガラスの向こうから目を離さない。
ミーアキャットたちは、忙しなく走り回るわけでもない。
けれど、ふざけてもいない。
遊んでいるように見える瞬間があっても、誰かが必ず、ぴんと立って、周りを見ている。
交代のたびに、動きが無駄なくて、迷いがない。
まるで「決めたことを、ちゃんとやる」って体で教えてくるみたいで――私は不意に、胸の奥があたたかくなった。
「……秋穂も、こういうの好きだよね」
「……うん。好き」
その"好き"は、動物の話のはずなのに。
なぜか、私の心臓の方が反応してしまう。
ガラスに近づきすぎた子どもを見て、見張り役が一瞬だけ首を傾げた。
危険じゃないって分かると、また、ぴん、と前を向く。
……真面目だ。
真面目で、かわいい。
そして、その"真面目さ"に目を細める秋穂も、同じくらいかわいい。
「……美春」
「ん?」
「……あれ、見て」
秋穂が指差す。
見張り役が、交代の合図みたいに、仲間に鼻先を寄せた。
そのあと、すっと身を引いて、次の子に場所を譲る。
譲るのが当たり前みたいに。
待つのが当たり前みたいに。
私は、ふと考えてしまう。
秋穂も、たぶんずっと――こうやって順番を守って、待って、譲ってきた。
だからこそ、今、私の隣に来てくれていることが、たまらなく嬉しい。
私が何か言いそうになったとき、秋穂が先に小さく言った。
「……真面目って、安心する」
それが、動物の感想で。
なのに、私の胸の奥に、別の意味でも落ちてきた。
「……うん。安心するね」
私はそう返して、秋穂を見た。
秋穂はまだガラスの向こうを見ている。
でも、その横顔は、いつもより少し柔らかい。
その柔らかさが、今日の"お出かけ"を、ただ楽しいだけじゃなくて――
私たちの夏を、ちゃんとした形で残していくみたいに思えた。
◇
午後。
園内を歩いていると、急に空が暗くなった。
遠くで雷の音がする。
夏の夕立の気配。
「降りそう」
「……うん」
私たちは急いで屋内展示の方へ向かった。
その途中で――
「あれ……?」
秋穂が立ち止まった。
鞄を探る指が、少しだけ速い。
「……財布、ない」
その一言で、私の心臓が跳ねる。
一気に血の気が引く。
「えっ、どこで……?」
秋穂は、目を閉じて考えるみたいに静かになった。
こういうとき、秋穂はパニックにならない。
真面目に、順番に、可能性を潰していく。
「……バーガーのところで、出した。……そのあと、しまった」
「落としたのかも……!」
私は慌てて周りを見る。
人が多い。
この中で落ちた財布なんて、見つかるの?
でも。
「美春」
秋穂が私の名前を呼んだ。
声がいつもより強い。
「……一回、落ち着いて。……探し方、決める」
その言葉で、私は息を吸い直した。
そうだ。
回す目。
今は、"回す側"の練習だ。
「うん。まず、最後に財布を見た場所に戻る」
「……うん」
「それで、なかったらインフォメーション。落とし物」
私は、喫茶店で覚えた"段取り"を、そのまま口に出した。
秋穂が小さく頷く。
「……ありがとう」
「当たり前だよ」
私たちはバーガーショップへ戻った。
テーブルの下。椅子の隙間。
店員さんにも聞く。
「すみません、財布、落とし物で……」
店員さんがすぐにケースを確認してくれた。
「あ、ありましたよ。紺色の……これですか?」
「……それ」
秋穂の声が、ほんの少し震えた。
私は、思わず笑ってしまいそうになる。
よかった。
本当によかった。
秋穂が財布を受け取る指先が、少しだけ震えていて――私は、ふと、喉の奥が熱くなった。
「……よかったね」
「……うん」
秋穂が、私を見て、短く言う。
「……美春がいたから、早かった」
その言葉が、胸の奥に残った。
私が隣にいることが、役に立った。
嬉しい。
でも同時に、もっと役に立ちたいと思ってしまう。
外へ出ると、雨が降り始めていた。
小粒。
すぐに大粒になりそうな匂い。
「帰ろうか」
「……うん」
帰り道、私たちは屋根のある通路を歩きながら、さっきまでの動物たちを思い出す。
真面目なミーアキャット。
甘い匂いに寄ってきたヤギ。
驚いて袖を掴んだ秋穂。
どれも、今日しかない。
◇
動物園を出た頃には、雨は本降りになっていた。
傘を開くタイミングが同時になって、私たちは一瞬だけ目を合わせる。
「……濡れる」
「濡れるね」
言ってから、二人で小さく笑った。
夏の雨は冷たすぎなくて、むしろ肌に落ちる粒が気持ちいい。駅までの道を小走りで進むうち、靴底が水たまりを跳ね、秋穂のスカートの裾が少しだけ揺れた。
並んで歩く。
夕立のあとの空気はひんやりしていて、アスファルトの匂いが少しだけ甘い。
私は、その甘さに紛れて――隣の音を聴いていた。
秋穂の足音。
一定のリズムで、迷いがなくて、きちんとしていて。歩幅も、私の呼吸に合わせるみたいに揃っていく。
真面目な足音が、今日は少しだけ軽い。
その軽さが嬉しくて、私はつい口元が緩んでしまう。
「……なに笑ってるの」
「ううん。秋穂の歩き方、好きだなって」
言った瞬間、秋穂が小さく瞬きをして、それから視線を前に戻した。
でも、耳だけが、ゆっくり赤くなっていく。
「……真面目?」
「真面目。かわいい」
秋穂が、歩幅をほんの少しだけ私に合わせた。
足音が近づく。それだけで、胸の奥がほどけていくのが分かった。
「……楽しかった」
秋穂が言った。
その言葉が、今日の全部みたいに思える。
「うん。すごく」
駅に着く直前、私たちはお土産屋に寄った。
マスターへの礼。
"土産でいい"と言われた約束。
棚の端に、変なものがいた。
白い毛がもさもさで、口元にちょっとだけヒゲっぽい模様。目つきが妙に無愛想で、しかも小さく腕組みしてるみたいな体勢。
「……これ、マスターに似てない?」
「似てる」
秋穂が即答した。迷いがない。
私は思わず袋を持ったまま肩をすくめる。
「即答!?」
「……似てる。無愛想」
「無愛想って言うな」
でも秋穂の目が、少しだけ笑っている。
そういう笑い方を、私は見逃せない。
私たちは"ウケ狙い"をひとつ。
それとは別に、ちゃんとした焼き菓子のお土産も選んだ。動物の形のクッキー。喫茶店の人間が渡すお土産として、ちょうどいい。
会計を済ませて袋を持った瞬間、私は思った。
マスターにお礼を言いたいのはもちろんだけど――香織さんにも、ちゃんと伝えたい。
"ありがとうございます"って。
その言葉には、きっと"秋穂を大事にします"みたいな意味が混ざってしまうから。まだうまく言えないけど。
電車に乗って、座席に座ると、私たちは同時に息を吐いた。
疲れた。
でも、それが心地いい。
窓の外が流れる。
雨で滲んだ街灯が、遠くの景色をやわらかくする。
私は、共有カレンダーを開いた。今日の"動物園"の文字が、やけに誇らしげに見える。
「……ねえ、秋穂」
「……なに」
「今日、楽しかったって、もう一回言って」
自分でも意味が分からない要求に、言ってから恥ずかしくなる。
秋穂は一拍置いて、私を見ないまま――でも、ちゃんと聞こえる声で言った。
「……楽しかった」
胸が、じんと温かくなる。
「……よし」
「……なにが」
「チャージ完了」
「……意味わからない」
秋穂の声が少しだけ柔らかい。
その柔らかさが、今日の余韻をちゃんと形にするみたいだった。
喫茶店に着く頃には、雨は少し弱まっていた。
鍵を開けて中に入ると、昼間のざわめきの代わりに、珈琲の残り香と、木の匂いが迎えてくる。
マスターは奥で片付けをしていて、私たちの足音に気づくと、顔だけこちらに向けた。
「おう。戻ったか」
「ただいま、です」
「……ただいま」
私が袋を掲げると、マスターが眉を寄せた。
「なんだそれ。買い物でもしてきたのか」
「土産です。約束だったので」
「……礼は土産でいい、って言ったのは俺だが、別に本当に――」
言い終える前に、私はクッキーの箱を先に差し出した。
「これは、ちゃんとしたやつ。動物園の」
「ほう」
マスターは箱の表を見て、ふん、と短く鼻を鳴らした。
照れ隠し。たぶん。
そして、問題の袋。
私は、わざと最後にそれを出した。
「で、こっちは……ウケ狙い」
「……嫌な予感しかしねえな」
袋から白いもさもさが覗いた瞬間、マスターの目が露骨に細くなった。
「……おい」
「似てるでしょ」
「似てねえ」
即答。
秋穂が、淡々と追撃する。
「……似てる」
「お前まで言うな」
マスターはぬいぐるみを受け取ると、腕を伸ばして距離を取るみたいに眺めた。
それから、ぬいぐるみの口元の"ヒゲっぽい模様"を指でつまんで、妙に真剣な顔をする。
「……ヒゲは生えてねえ」
「生えてるじゃん、心のヒゲ」
「そんな概念あるか」
私が笑うと、秋穂も小さく息を漏らした。
マスターの視線がこちらに刺さる。
「笑うな」
「だって……」
「だって、じゃねえ」
でも、怒っている声じゃない。
マスターは、ぬいぐるみをカウンターの端にぽんと置いて――置いたあとに、ちょっとだけ位置を直した。
まっすぐに。きっちりと。
……真面目。
秋穂が、私の袖を小さくつまむ。
「……マスターも、真面目」
「え、今の、マスターに聞こえた?」
「聞こえてない」
「絶対聞こえてる」
マスターは、背中を向けたまま言った。
「聞こえてる」
「ほら!」
「……うるせえ。閉店後に騒ぐな」
言いながら、マスターはぬいぐるみの頭を一回だけ、乱暴に撫でた。
……乱暴なようで、雑じゃない。
それがなんだか可笑しくて、私はまた笑ってしまう。
「……ありがとな」
小さく、短く。
それだけ言って、マスターは奥へ戻っていった。
背中が、少しだけ丸い。いつもより。
私は、秋穂の方を見る。
秋穂も私を見て――すぐに目を逸らした。
でも、さっきより耳が赤いのは、雨のせいじゃない。
「……美春」
「うん?」
「……今日、また行こうね。どこか」
秋穂が、今度は私の言葉を真似するみたいに言った。
胸が、きゅっとなる。
「うん。今度は、空白も入れる」
「……うん」
秋穂が頷いた。
その頷きが、"約束"に見えた。
私は、カウンターの端に置かれたぬいぐるみを見た。
白いもさもさが、無愛想な顔でこちらを見ている。
……マスターに似てる。やっぱり。
そして、ふと足元を見る。
隣にいる秋穂の靴先。
私の歩幅に寄り添うみたいに、少しだけ角度が揃っている。
秋穂の真面目な足音が、今日も、私の隣で鳴る。
動物園でも、雨の帰り道でも、喫茶店の床でも。
その足音がある限り――私は迷わない気がした。
夏が終わっても。忙しくなっても。
きっと、変わらない。
そう思ったら、胸の奥が、静かに温かくなった。
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