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第25話「ふたりでひとつ」

ライトな百合x成長物語です。

高校3年生の夏休み開始!

 海から戻って数日、腕の内側がふとした拍子にひりっとした。

 日焼け止めは塗ったはずなのに、陽に焼かれた肌は正直で、制服の袖が擦れるたびに、あの日の白い砂と潮の匂いがよみがえる。風が吹けば、波の音の代わりに蝉の声が降ってきて――夏は、思い出を握りしめたまま、容赦なく日常へ押し戻してくる。


 八月。「夏休み」って言葉は、ふわふわしていて甘い。なのに現実は、苦い。


 受験勉強。

 秋穂は専門学校。私は大学、経営学部。秋穂がいつか持つ店を、私は隣で支えたい。そう決めたのは私だ。だから、成績が足りないなんて言い訳はできない。


 ……でも、足りていない。

 カバンの底に押し込んだ模試の結果。紙一枚なのに、重い。

 喫茶店の開店準備をしながら、私はその重さを指先で確かめるみたいに、テーブルクロスの皺を何度も伸ばした。


「美春ちゃん、最近、眉間に線が寄ってるぞ」


 カウンターの向こうで、マスターがコーヒーミルを回しながら言う。豆が砕ける音が、やけに鮮明に耳に刺さった。


「そんなことないです」


 反射的に笑ってしまう。嘘が上手くなった。秋穂とのことを隠すために身についた癖は、こういう時も出る。


「夏期講習だろ。行くのか?」

「はい。週三回、午前中だけ。……そのあと、ここ来ます」

「両立、大変だな」


 大変、って言葉の向こうに、心配があるのが分かった。私は頷いて、エプロンの紐を結び直す。結び目がきつい。ほどくのが怖いみたいに。

 その時、厨房から食器を運んできた秋穂が、私の手元をちらっと見た。


 ……目が合う。

 秋穂は何も言わない。ただ、ほんの少しだけ、口元が柔らかくなる。いつもより温度の高い視線。海の帰り、電車で肩にもたれて寝ていた秋穂の重さが、まだ残っている気がした。


 ――今は、店の中。

 手は伸ばせない。指先が触れそうな距離で、触れないまま、私は息を飲んだ。


「美春」


 小さく呼ばれて、肩が跳ねる。


「ん?」

「……夏期講習、私も行く」


 え。


「秋穂も?」


 秋穂はカップを並べながら、視線を落としたまま頷いた。


「専門学校でも、筆記……ある。基礎、落とせない」


 それだけじゃないことを、私は知ってる。

 秋穂は、私の「ひとり」を放っておけない。

 秋穂がそういう子だって、私はもう分かってしまった。


「……ありがとう」


 お礼を言うと、秋穂は少し困ったように眉を下げた。


「ありがとう、じゃない。……一緒に、行く」


 "同じ"って言葉は、海みたいに広いくせに、私たちの今では狭いところを通らなきゃいけない。教室でも、塾でも、喫茶店でも。触れない、言えない、隠す。そういうルールの中で、それでも一緒にいる。

 胸の奥が、少しだけ切なくなって、私は咳払いで誤魔化した。


「じゃあ、夏期講習も……一緒だね」


 秋穂の睫毛が、ふわっと揺れた。


「……うん」


 その一音で、私は少しだけ救われた気がした。


     ◇


 夏期講習初日。


 教室に入った瞬間、私は圧に押されて背筋が伸びた。机が並び、冷房の風が紙をめくる音を運ぶ。鉛筆の先が走る音が、遠い雨みたいに響く。

 みんな、受験生の顔をしている。


「……場違いじゃないよね」


 心の中で呟いて、席に座る。隣には秋穂。いつもの黒髪が、今日は少しだけ丁寧にまとめられていて、うなじが見えた。汗をかかないように、って気遣いかもしれない。

 私は、見ないふりをして目を逸らす。

 見たら、変な顔になる。


「最初は学力診断ね」


 先生が配るプリントが、やけに白い。英語の長文。文字が多くて、目が泳ぐ。


 ――落ち着け。

 私は深呼吸して、問題に目を落とした。


 数分後。


 分からない。

 単語が壁になる。文法が迷路になる。意味がつながらない。

 周りのページをめくる音が、焦りに油を注ぐ。自分だけ取り残されているみたいで、喉の奥が乾いた。


 ……秋穂は。

 ちらっと隣を見る。

 秋穂は、眉を少し寄せて真剣に読んでいる。ペン先が一定のリズムで動き、迷いが少ない。お菓子を作る時の秋穂みたいだ。材料を量って、温度を見て、工程を順番に積み上げていく、あの落ち着き。


 私は、胸がきゅっとなる。

 羨ましい、じゃなくて――焦る。

 私も、頑張らなきゃ。

 そう思って目を戻しても、文字はまだ踊っていた。


 休憩時間。

 廊下の自販機の前で、私は水を買った。冷たいペットボトルが手のひらを濡らして、夏を現実に戻す。


「美春、英語……どうだった?」


 秋穂が小声で聞く。周りの子たちの目があるから、私たちは「友達の会話」をする。そこに慣れてしまったことが、また少し痛い。


「……全然。途中で迷子になった」


 秋穂は頷いて、私のボトルに視線を落とした。


「後で、教える」

「え、いいの? 秋穂も自分の勉強あるのに」

「……一緒に、勉強するって言った」


 それは、私が望んだことなのに、"頼ってばかりでいいのかな"って、急に自分が小さく見える。秋穂は夢に向かって進んでいる。私は、その隣に立つって決めたのに、足元がぐらぐらする。

 秋穂が、私の手元のペットボトルを見て、少しだけ笑った。


「美春、困ってるの、放っておけない」


 ……ずるい。そんな言い方されたら、逃げられない。

 私は、笑って誤魔化す。


「じゃあ……頼る。すごく頼る」


 秋穂の耳が、ほんのり赤くなった。


「……うん」


 その"うん"が、塾の冷房より温かかった。


     ◇


 数日後。

 採点されて戻ってきた学力診断の紙。


 ――C。


 C判定。


「……うそ」


 声が漏れて、自分で自分に驚く。手が震えて、紙がカサカサ鳴る。教室の隅で、私はその紙を折り畳めないまま固まった。


 Cって、こんなに冷たいんだ。

 経営学部。合格。秋穂の店。隣。未来。

 その単語たちが、遠くへ滑っていくみたいで、足元が抜ける。


「美春?」


 秋穂が名前を呼ぶ。私は慌てて紙を隠そうとして、逆にぎこちなくなる。


「……見せて」


 小さな声。拒めない。


 私は紙を渡した。

 秋穂は黙って読んで、眉を少しだけ寄せた。でも、私が想像していた"がっかり"はそこになかった。

 代わりに、秋穂の目は――考えている目だった。レシピを見直す時みたいに。


「……大丈夫」

「大丈夫じゃないよ。Cだよ?」


 口から出た言葉が尖って、自分の喉を刺す。私は唇を噛んだ。

 秋穂は、私の腕を軽く引いた。廊下の端、誰もいないところ。視線が届かない位置に、そっと連れていく。


「美春、落ち着いて」

「落ち着けない……。私、秋穂の隣にいたいって言ったのに。こういうの、できないと……」


 言っているうちに、涙が出そうになる。悔しいのか、怖いのか、分からない。

 秋穂が、私の手を握る。制服の袖の中で、指先だけが触れる。誰にも見えない温度。


「……隣にいるのに、点数いる?」


 私は息を止める。


「いるよ。現実だから」


 秋穂は、少しだけ目を伏せて、でもちゃんと私を見た。


「じゃあ……現実、変える。今から」


 言い切る声が、まっすぐで、胸の奥に刺さった。

 秋穂は変わった。進路の時、母親の前で"なりたい"と言った秋穂と同じ声だった。


「私が、計画立てる。美春、やること、分ける」

「……秋穂、先生みたい」

「先生、じゃない。……一緒にやる」


 その言葉が、私の背中を少し起こした。

 私、まだ倒れてる場合じゃない。


「……うん。やる」


 言った途端、心臓の奥で小さく火が灯った。


     ◇


 放課後。


 図書館の自習室。窓の外は白く眩しくて、冷房の風がページをすべらせる。

 秋穂は机にテキストを広げ、私のノートに線を引きながら、淡々と説明をしてくれた。


「ここ、分からなかった?」

「うん。この単語。見たことある気がするのに、思い出せない」

「"promote"。促進する。……レモンの香り、引き立てる時みたい」

「何その例え」


 思わず笑ってしまう。秋穂の説明は、いつも"味"につながっていて、頭に残る。


「美春、覚えるの、味と一緒。単語だけだと、すぐ飛ぶ。文の中で、何回も……噛む」

「噛むって」

「……咀嚼」


 真面目に言うから、また笑う。自習室の静けさに、小さな笑い声が落ちて、すぐ吸い込まれた。

 秋穂は私の顔を見て、少しだけ安心したみたいに眉をゆるめた。


 ――秋穂って、頭いいんだな。

 改めて思う。

 いつも目立たない。派手なことをしない。でも、必要な時に必要なだけ前へ出る。お菓子も、運動も、勉強も。自分の中に"芯"がある。


 私はその芯の隣に立ちたい。

 立てるように、なりたい。


「美春、次。ここ」


 秋穂の指先が紙の上を滑る。私は頷いて、必死に書き写す。秋穂の字は細くて整っていて、焼き上がったクッキーみたいに無駄がない。


「……秋穂、すごい」


 つい漏れる。

 秋穂はペンを止めて、目を瞬いた。


「……すごくない。美春が、やるって言ったのが、すごい」


 その一言で、私はまた泣きそうになった。

 泣くと文字が滲むから、泣けない。


「……泣かない。私、今日は泣かない」

「……偉い」


 偉いって、褒められると子どもみたいだ。恥ずかしくて、私は頬を手で隠した。

 机の下で、秋穂の膝が私の膝にかすかに触れる。偶然か、わざとか分からない。でも、触れた瞬間、身体が理解してしまう。


 ――秋穂だ。

 制服のスカートの布越しに伝わる温度。図書館の冷房で冷えていた膝が、その一点だけほんのり温かい。

 私は、ページをめくる手を止めないまま、そっと膝を寄せた。秋穂の呼吸のリズムが、そこから伝わる気がした。


 周りの視線がある。司書さんの目もある。

 でも、机の下は、私たちだけの秘密の場所だ。

 その温度が、勉強の"現実"を少しだけ柔らかくした。


     ◇


 夏期講習は、思っていたより忙しかった。

 午前は勉強。午後は喫茶店。


 暑さで火照った身体のまま店のドアを押すと、アイスコーヒーの氷が鳴る音が、いきなり耳の奥を涼しくした。

 外の蝉の声が、ガラス越しに薄くなっていく。


「いらっしゃいませー」


 自分の声が、いつもより少しだけ擦れている気がした。

 疲れている。でも、止まるわけにはいかない。

 夏休みの喫茶店は、涼しさを求める人で思ったより賑わう。制服の学生、観光っぽい家族連れ、近所の常連――客層がいつもより雑多で、注文の波が途切れない。


 私はホールを回しながら、頭の中で英単語を唱える。

 "efficient"、"schedule"、"balance"。

 いまの私に必要な言葉ばかりが、舌の裏に貼りつく。


「美春ちゃん、二番テーブル、アイス二つ追加な」


 マスターの声。

 私は「はい」と返し、伝票を受け取る。指先が紙を滑らせた瞬間、ふっと厨房のほうが気になった。


 ――秋穂が、いつもと違う動きをしている。


 オーブンの前じゃない。ミキサーでもない。

 カウンターの端に、小さなボウルが二つ、計量カップ、泡立て器。

 それから、見慣れないプレートが、作業台の上に置かれていた。家庭用のホットプレートみたいな。


(……なに、あれ)


 胸が勝手に早くなる。

 秋穂の"試作モード"って、なんでこう、見てるだけで落ち着かないんだろう。

 新しい何かが生まれる前の、静かな緊張。レシピの紙を見なくても、頭の中で工程が鳴ってる感じ。


「美春」


 秋穂が、私の手が空くタイミングを正確に狙って、小声で呼んだ。

 店の音に紛れるくらいの声なのに、私だけにはちゃんと届く。


「あとで、時間……少し、もらえる?」

「うん。閉店前に少し落ち着いたら……いける」


 返した瞬間、秋穂の目尻がほんの少しだけ緩んだ。

 それだけで、私はまた頑張れる気がしてしまう。


     ◇


 夕方。客足がようやく引いて、店内の空気が少しだけ"日常の温度"へ戻った頃。

 私はカウンターの内側でグラスを拭きながら、秋穂のほうを見た。


 秋穂は、エプロンの紐をきゅっと結び直してから、マスターの前にまっすぐ立った。

 姿勢が、いつもよりほんの少し固い。


 ……面談のときの秋穂に似ている。

 でも、今日の秋穂は、どこか"手のひらを隠してる"みたいな落ち着かなさがあった。


「マスター、時間……いい?」

「お。めずらしいな、改まって。なんだ」


 マスターが笑いながらも、ちゃんと手を止める。

 "店長の顔"になるのが早い人だ。


 秋穂は頷いて、作業台の上に置いていた皿を二枚、カウンターに出した。

 薄い生地が、三角に折りたたまれている。表面に、ほんのり焼き色――でも、端が少しだけいびつだ。


(……あ、これ。試行錯誤したやつだ)


 さっき厨房で見た、プレート。

 秋穂の手元、いつもより何度も同じ動きを繰り返していた。


「今日の閉店後に……簡易試作した」

「簡易って、いまから店で出すみたいな言い方だな」


 マスターが軽口を叩く。

 秋穂は、冗談を受け流すみたいに一拍置いてから、淡々と言った。


「提案。新メニュー候補。……クレープ」

「ほう」


 マスターの眉が上がる。

 私は思わず、拭いていたグラスを持ったまま固まった。


 秋穂は、私とマスターに皿を一枚ずつ渡した。

 紙じゃなくて、皿。

 "おやつ"じゃなくて、"試食"の出し方だ。


「海の家で食べたの、構造がシンプルで、回転も早い。持ち帰りもできる」

「……確かに、夏は持ち歩けるの強いな」


 マスターが腕を組む。

 秋穂は続ける――けど、その声がほんの少しだけ慎重になった。


「ただ……簡易って言ったけど、正直、まだ安定しない」


 え。

 秋穂が、ちゃんと"できなかった"って言った。

 それだけで、胸の奥が妙にほどける。


「……一枚目、穴あいた。二枚目、端が硬くなった」

「ほう。原因は?」


 マスターが、からかうんじゃなく、探るみたいに聞く。

 秋穂は一瞬だけ視線を落として、でも逃げずに答えた。


「温度。あと、生地の流し方。ホットプレートだとムラが出る」


 マスターが、私の皿の端を指で軽く触ってから、頷いた。


「これな。焼きは悪くない。だが"店の味"にするなら、ムラは客が先に気づく」


 秋穂のまつげが、ふわっと揺れる。

 叱られてるんじゃない。評価されてる。


「導入には機材が必要」


 秋穂が、作業台の端のプレートを指した。


「本来は専用のクレープメーカー。温度が一定で、円形の鉄板。生地を薄く伸ばすために、トンボ(木のT字の棒)も必要」

「……トンボ?」

「薄く均一に広げる道具。海の家の人、使ってた」

「職人用語みたいに言うな……」


 私がツッコミを入れると、秋穂が小さくこちらを見た。

 (……正式名称)って顔。かわいい。


 秋穂は"店員として"の声に戻して、マスターに向けて話を続けた。


「簡易導入なら、家庭用ホットプレートでも近い形は作れる。でも温度ムラが出やすい。提供が多い日に品質が落ちる」

「なるほど。うちで出すなら"安定"が要るか」

「うん。だから、もし本気でやるなら――」


 秋穂が、指を折っていく。


「①専用機材(鉄板+温度調整)

 ②トンボとスパチュラ

 ③生地ディスペンサーか計量お玉

 ④保温・保管の動線」


 言い切ったところで、秋穂は一瞬だけ言葉を止めた。

 "動線"まで言ったのに、その先が、ふっと薄くなる。


 マスターがそこを見逃さない。


「で。ピークのとき、どう回す」

「……」


 秋穂の唇が、少しだけ開いて――閉じる。

 分かってるのに、まだ言葉になってない顔。


 マスターはふっと鼻で笑った。


「いい顔だ。そこが店の難しいとこだ」


 そして、私のほうをちらっと見る。


「美春ちゃん。ホール回す側の目線で言ってみろ」


 心臓が跳ねた。

 急に、私が"戦力"として指名されたみたいで。


「え、私……?」

「お前、最近"回す目"ついてきた。考えろ」


 マスターの言い方は乱暴なのに、ちゃんと背中を押してくる。

 私は、頭の中で今日の店内を思い出した。

 冷たい飲み物が続いて、注文が重なる時間帯。

 厨房の音。ホールの足音。お客さんがメニューを見て悩む間の、あの"間"。


「……平日なら、提供数は読めると思います」


 言いながら、言葉が自分の中で形になっていく。


「でも休日は……たぶん、注文が一気に集中します。そうしたら、焼きが追いつかない」


 秋穂が、私を見る。

 真剣な目。レシピを聞く目。


 私は続けた。


「だから最初は、"数量限定"にしたほうがいい。あと――」


 口が勝手に動く。

 私がいつも店でやってることの延長だ。


「注文のタイミングを分散できるように、メニュー表に"焼き上がりに少しお時間いただきます"って添えるとか。それと、提供が遅れてもクレームになりにくいように……"平日限定"から始めるのが安全」


 言い終えた瞬間、頬が熱くなる。

 私、いま、店の話してる。

 未来の話を、現実として。


 秋穂が、ゆっくり頷いた。


「……数量限定。うん。品質、守れる」


 "逃げ道"じゃなく"守る"って言い方が、秋穂らしい。

 でも今の言葉は、さっきよりずっと手触りがある。

 私の言葉を受け取って、自分の案にしてる。


 マスターが顎に手を当てて、短く頷いた。


「よし。じゃあこうだ」

「……」

「今月は、試作をもう二回。味を二種類に増やす。選択肢があると客の満足度が上がるからな。あと、出すなら、店の味に寄せろ。海の家のコピーはうちじゃない」


 秋穂の目が、少しだけ輝いた。


「……うん」

「で、機材は――中古も含めて候補調べろ。値段だけじゃなくて、熱の安定と動線な。美春ちゃん、お前も一緒に見とけ。ホールから見た"詰まり"も考えろ」

「はい」

「わかりました」


 "二回"。"候補"。"動線"。

 会話が、未来へ繋がっていく感じがする。


 マスターが、最後にわざとらしく咳払いをした。


「ま、学生の夏は勉強も大事だが――遊びも甘いも、必要だ」

「……はい」


 秋穂が言う。

 私はつい、マスターの顔を見て笑ってしまった。


「……マスター、今いいこと言いました?」

「うるせえ。さっさと皿片付けろ」

「はい!」


 カウンターの内側で皿を下げながら、秋穂が私の横を通り過ぎる。

 肩が、ほんの少しだけ近い。


 触れそうで触れない、いつもの距離。

 でも今日は――秋穂の足取りが、ほんの少しだけ軽いのが分かる。


(……"一緒に回す"って、こういうことかも)


 私はエプロンの紐を結び直して、心の中で小さく唱えた。


 ――この夏も、積み上げる。二人で。


     ◇


 二週間後。

 夏期講習の最終日。


 最後の模試が終わって、教室を出た瞬間、私は空気が違うのを感じた。終わった、というだけで、胸の中の水面が少し静かになる。

 結果はまだ返ってこない。けれど、前より手が動いた感覚がある。長文が"ただの壁"じゃなく、"登れる段差"に見えた瞬間があった。


 秋穂が、私の横を歩く。


「美春」

「なに?」

「……アイス、食べない?」


 その誘い方が、ちょっとだけ照れていて、私は笑ってしまった。


「いいね。ご褒美だ」


 帰り道、コンビニに寄る。

 冷房が強くて、肌が一瞬で乾く。アイスケースの前で、秋穂が真剣な顔をして悩んでいるのが可笑しかった。


「美春、何味がいい?」

「バニラ」


 即答すると、秋穂は小さく頷いて、バニラのカップアイスを取った。もう一つ取るのかと思ったら、秋穂はそれだけを持ってレジに向かう。


「一個だけ?」


 私が言うと、秋穂は視線を落として、ほんの少し間を置いた。


「……半分こ、しない?」


 耳まで赤い。


 ――半分こ。


 それってつまり、こういうことだ。

 私は喉が鳴るのを感じて、誤魔化すように笑った。


「……うん。しよ」


 レジで受け取った木のスプーンが、紙袋の中で軽く鳴った。金属の冷たさじゃなく、乾いた木の匂い。夏の湿気の中で、その匂いだけがやけに素直だった。


 近くの公園へ行く。夕方の光が、遊具に長い影を落としている。蝉の声が少し弱まって、代わりに風が増えた。


 ベンチに並んで座る。

 秋穂がアイスの蓋を開ける。バニラの白が、夕暮れのオレンジに少しだけ染まる。

 木のスプーンで一口すくって、秋穂が口に運んだ。


「……冷たい」


 言い方が子どもみたいで、私は肩を揺らした。


「当たり前だよ」


 秋穂はもう一度すくって、今度は私にカップを差し出す。


「美春も」


 私は受け取って、秋穂が触れたスプーンを握る。木の感触が、指にやさしい。口に入れた瞬間、甘さがふわっと広がった。


 ――甘い。


 バニラの甘さだけじゃない。

 ほんの少し、秋穂の温度が混ざっている気がして、胸がざわつく。木のスプーンの端の、かすかな湿り気。舌先に残る柔らかい匂い。


 間接キス、なんて言葉にしたら台無しになるのに、頭の中では大きな文字で浮かんでしまう。

 何度もちゃんとキスしてるのに、こんなことで――どうしてこんなに。


「……美春、顔、赤い」


 秋穂が言う。分かってるくせに、わざと。


「暑いから!」


 反射で言い返すと、秋穂は少しだけ目を細めた。笑い方が、ずるい。


「……そう?」

「そう!」


 私は二口目を急いで食べて、冷たさで顔を落ち着かせようとする。でも、甘さが優しくて、逆に熱が増える。


     ◇


【秋穂】


 美春が、必死にアイスを食べている。


 可愛い。


 ……間接キスくらいで、あんな顔をする。


 私だって恥ずかしいのに、口に出したらもっと恥ずかしいから、言えない。


 木のスプーンは、少しだけざらざらしていて、唇に触れる感触が柔らかい。美春が同じのを使っていると思うと、変なところが熱くなる。


 美春の横顔。日焼けの跡が少しだけ残っている。海の記憶が、まだ肌の上にいるみたいだ。


 ――夏が終わっても、こうして隣にいたい。


 それを言うのは簡単なのに、言ったら現実が重くなる気がして、私は黙って、もう一口すくった。


     ◇


【美春】


 アイスを食べ終える頃には、空の色がゆっくり変わっていた。

 蝉の声が遠くなって、風が少し涼しい。夏が、ほんの少しだけ終わりに向かっている匂いがした。


「ねえ、秋穂」

「なに?」

「夏期講習、一緒に頑張れて……よかった」


 言った瞬間、声が少し震えた。C判定の紙の重さも、机の上で泣きそうになった気持ちも、全部ここに繋がっている。

 秋穂は、ゆっくり頷いた。


「……私も」

「これから受験、もっと大変になるかもだけど」


 私は息を吸って、ちゃんと言う。


「でも、秋穂がいるから、頑張れる」


 秋穂が私の手を握る。指先だけ。人目のある公園でも、ぎりぎり"友達"に見える範囲の触れ方。

 でも、私たちには分かる。


「私も。美春がいるから、頑張れる」


 その言葉に、胸の奥がほどけた。

 海の余韻は、もう遠い。日常はまた、隠す温度で回り始める。


 それでも。

 勉強して、働いて、笑って、たまに不安になって。

 その全部を、二人で乗り越えていける気がした。


 私は、まだCの紙を捨てられない。捨てるのが怖い。でも、あれは"終わり"じゃなく"始まり"だ。


「次の模試、結果返ってくるの、ちょっと怖い」


 ぽつりと言うと、秋穂は私の手をもう少しだけ強く握った。


「……怖くても、見る」

「うん」

「一緒に」

「……うん」


 夏の夕暮れが、私たちの影を長く伸ばす。

 甘いアイスの余韻が、舌の奥に残っている。木のスプーンの匂いも、まだ指に残っている気がした。


 夏の思い出は、いつも"甘さ"の形をしている。

 海のキスの塩味。アイスのバニラ。秋穂が焼いたクッキーの温もり。


 ――そして、秋穂の唇。


 甘さは、いつも秋穂とつながっていた。

 この夏も、思い出になっていく。

 でも、思い出は消えない。

 私たちが、ちゃんと積み上げていけば。


 二学期が来る。受験が近づく。忙しさも増える。


 それでも――秋穂の隣で、私は進む。


 甘さを、怖さを、温度を隠しながらでも。


 二人で。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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