第25話「ふたりでひとつ」
ライトな百合x成長物語です。
高校3年生の夏休み開始!
海から戻って数日、腕の内側がふとした拍子にひりっとした。
日焼け止めは塗ったはずなのに、陽に焼かれた肌は正直で、制服の袖が擦れるたびに、あの日の白い砂と潮の匂いがよみがえる。風が吹けば、波の音の代わりに蝉の声が降ってきて――夏は、思い出を握りしめたまま、容赦なく日常へ押し戻してくる。
八月。「夏休み」って言葉は、ふわふわしていて甘い。なのに現実は、苦い。
受験勉強。
秋穂は専門学校。私は大学、経営学部。秋穂がいつか持つ店を、私は隣で支えたい。そう決めたのは私だ。だから、成績が足りないなんて言い訳はできない。
……でも、足りていない。
カバンの底に押し込んだ模試の結果。紙一枚なのに、重い。
喫茶店の開店準備をしながら、私はその重さを指先で確かめるみたいに、テーブルクロスの皺を何度も伸ばした。
「美春ちゃん、最近、眉間に線が寄ってるぞ」
カウンターの向こうで、マスターがコーヒーミルを回しながら言う。豆が砕ける音が、やけに鮮明に耳に刺さった。
「そんなことないです」
反射的に笑ってしまう。嘘が上手くなった。秋穂とのことを隠すために身についた癖は、こういう時も出る。
「夏期講習だろ。行くのか?」
「はい。週三回、午前中だけ。……そのあと、ここ来ます」
「両立、大変だな」
大変、って言葉の向こうに、心配があるのが分かった。私は頷いて、エプロンの紐を結び直す。結び目がきつい。ほどくのが怖いみたいに。
その時、厨房から食器を運んできた秋穂が、私の手元をちらっと見た。
……目が合う。
秋穂は何も言わない。ただ、ほんの少しだけ、口元が柔らかくなる。いつもより温度の高い視線。海の帰り、電車で肩にもたれて寝ていた秋穂の重さが、まだ残っている気がした。
――今は、店の中。
手は伸ばせない。指先が触れそうな距離で、触れないまま、私は息を飲んだ。
「美春」
小さく呼ばれて、肩が跳ねる。
「ん?」
「……夏期講習、私も行く」
え。
「秋穂も?」
秋穂はカップを並べながら、視線を落としたまま頷いた。
「専門学校でも、筆記……ある。基礎、落とせない」
それだけじゃないことを、私は知ってる。
秋穂は、私の「ひとり」を放っておけない。
秋穂がそういう子だって、私はもう分かってしまった。
「……ありがとう」
お礼を言うと、秋穂は少し困ったように眉を下げた。
「ありがとう、じゃない。……一緒に、行く」
"同じ"って言葉は、海みたいに広いくせに、私たちの今では狭いところを通らなきゃいけない。教室でも、塾でも、喫茶店でも。触れない、言えない、隠す。そういうルールの中で、それでも一緒にいる。
胸の奥が、少しだけ切なくなって、私は咳払いで誤魔化した。
「じゃあ、夏期講習も……一緒だね」
秋穂の睫毛が、ふわっと揺れた。
「……うん」
その一音で、私は少しだけ救われた気がした。
◇
夏期講習初日。
教室に入った瞬間、私は圧に押されて背筋が伸びた。机が並び、冷房の風が紙をめくる音を運ぶ。鉛筆の先が走る音が、遠い雨みたいに響く。
みんな、受験生の顔をしている。
「……場違いじゃないよね」
心の中で呟いて、席に座る。隣には秋穂。いつもの黒髪が、今日は少しだけ丁寧にまとめられていて、うなじが見えた。汗をかかないように、って気遣いかもしれない。
私は、見ないふりをして目を逸らす。
見たら、変な顔になる。
「最初は学力診断ね」
先生が配るプリントが、やけに白い。英語の長文。文字が多くて、目が泳ぐ。
――落ち着け。
私は深呼吸して、問題に目を落とした。
数分後。
分からない。
単語が壁になる。文法が迷路になる。意味がつながらない。
周りのページをめくる音が、焦りに油を注ぐ。自分だけ取り残されているみたいで、喉の奥が乾いた。
……秋穂は。
ちらっと隣を見る。
秋穂は、眉を少し寄せて真剣に読んでいる。ペン先が一定のリズムで動き、迷いが少ない。お菓子を作る時の秋穂みたいだ。材料を量って、温度を見て、工程を順番に積み上げていく、あの落ち着き。
私は、胸がきゅっとなる。
羨ましい、じゃなくて――焦る。
私も、頑張らなきゃ。
そう思って目を戻しても、文字はまだ踊っていた。
休憩時間。
廊下の自販機の前で、私は水を買った。冷たいペットボトルが手のひらを濡らして、夏を現実に戻す。
「美春、英語……どうだった?」
秋穂が小声で聞く。周りの子たちの目があるから、私たちは「友達の会話」をする。そこに慣れてしまったことが、また少し痛い。
「……全然。途中で迷子になった」
秋穂は頷いて、私のボトルに視線を落とした。
「後で、教える」
「え、いいの? 秋穂も自分の勉強あるのに」
「……一緒に、勉強するって言った」
それは、私が望んだことなのに、"頼ってばかりでいいのかな"って、急に自分が小さく見える。秋穂は夢に向かって進んでいる。私は、その隣に立つって決めたのに、足元がぐらぐらする。
秋穂が、私の手元のペットボトルを見て、少しだけ笑った。
「美春、困ってるの、放っておけない」
……ずるい。そんな言い方されたら、逃げられない。
私は、笑って誤魔化す。
「じゃあ……頼る。すごく頼る」
秋穂の耳が、ほんのり赤くなった。
「……うん」
その"うん"が、塾の冷房より温かかった。
◇
数日後。
採点されて戻ってきた学力診断の紙。
――C。
C判定。
「……うそ」
声が漏れて、自分で自分に驚く。手が震えて、紙がカサカサ鳴る。教室の隅で、私はその紙を折り畳めないまま固まった。
Cって、こんなに冷たいんだ。
経営学部。合格。秋穂の店。隣。未来。
その単語たちが、遠くへ滑っていくみたいで、足元が抜ける。
「美春?」
秋穂が名前を呼ぶ。私は慌てて紙を隠そうとして、逆にぎこちなくなる。
「……見せて」
小さな声。拒めない。
私は紙を渡した。
秋穂は黙って読んで、眉を少しだけ寄せた。でも、私が想像していた"がっかり"はそこになかった。
代わりに、秋穂の目は――考えている目だった。レシピを見直す時みたいに。
「……大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。Cだよ?」
口から出た言葉が尖って、自分の喉を刺す。私は唇を噛んだ。
秋穂は、私の腕を軽く引いた。廊下の端、誰もいないところ。視線が届かない位置に、そっと連れていく。
「美春、落ち着いて」
「落ち着けない……。私、秋穂の隣にいたいって言ったのに。こういうの、できないと……」
言っているうちに、涙が出そうになる。悔しいのか、怖いのか、分からない。
秋穂が、私の手を握る。制服の袖の中で、指先だけが触れる。誰にも見えない温度。
「……隣にいるのに、点数いる?」
私は息を止める。
「いるよ。現実だから」
秋穂は、少しだけ目を伏せて、でもちゃんと私を見た。
「じゃあ……現実、変える。今から」
言い切る声が、まっすぐで、胸の奥に刺さった。
秋穂は変わった。進路の時、母親の前で"なりたい"と言った秋穂と同じ声だった。
「私が、計画立てる。美春、やること、分ける」
「……秋穂、先生みたい」
「先生、じゃない。……一緒にやる」
その言葉が、私の背中を少し起こした。
私、まだ倒れてる場合じゃない。
「……うん。やる」
言った途端、心臓の奥で小さく火が灯った。
◇
放課後。
図書館の自習室。窓の外は白く眩しくて、冷房の風がページをすべらせる。
秋穂は机にテキストを広げ、私のノートに線を引きながら、淡々と説明をしてくれた。
「ここ、分からなかった?」
「うん。この単語。見たことある気がするのに、思い出せない」
「"promote"。促進する。……レモンの香り、引き立てる時みたい」
「何その例え」
思わず笑ってしまう。秋穂の説明は、いつも"味"につながっていて、頭に残る。
「美春、覚えるの、味と一緒。単語だけだと、すぐ飛ぶ。文の中で、何回も……噛む」
「噛むって」
「……咀嚼」
真面目に言うから、また笑う。自習室の静けさに、小さな笑い声が落ちて、すぐ吸い込まれた。
秋穂は私の顔を見て、少しだけ安心したみたいに眉をゆるめた。
――秋穂って、頭いいんだな。
改めて思う。
いつも目立たない。派手なことをしない。でも、必要な時に必要なだけ前へ出る。お菓子も、運動も、勉強も。自分の中に"芯"がある。
私はその芯の隣に立ちたい。
立てるように、なりたい。
「美春、次。ここ」
秋穂の指先が紙の上を滑る。私は頷いて、必死に書き写す。秋穂の字は細くて整っていて、焼き上がったクッキーみたいに無駄がない。
「……秋穂、すごい」
つい漏れる。
秋穂はペンを止めて、目を瞬いた。
「……すごくない。美春が、やるって言ったのが、すごい」
その一言で、私はまた泣きそうになった。
泣くと文字が滲むから、泣けない。
「……泣かない。私、今日は泣かない」
「……偉い」
偉いって、褒められると子どもみたいだ。恥ずかしくて、私は頬を手で隠した。
机の下で、秋穂の膝が私の膝にかすかに触れる。偶然か、わざとか分からない。でも、触れた瞬間、身体が理解してしまう。
――秋穂だ。
制服のスカートの布越しに伝わる温度。図書館の冷房で冷えていた膝が、その一点だけほんのり温かい。
私は、ページをめくる手を止めないまま、そっと膝を寄せた。秋穂の呼吸のリズムが、そこから伝わる気がした。
周りの視線がある。司書さんの目もある。
でも、机の下は、私たちだけの秘密の場所だ。
その温度が、勉強の"現実"を少しだけ柔らかくした。
◇
夏期講習は、思っていたより忙しかった。
午前は勉強。午後は喫茶店。
暑さで火照った身体のまま店のドアを押すと、アイスコーヒーの氷が鳴る音が、いきなり耳の奥を涼しくした。
外の蝉の声が、ガラス越しに薄くなっていく。
「いらっしゃいませー」
自分の声が、いつもより少しだけ擦れている気がした。
疲れている。でも、止まるわけにはいかない。
夏休みの喫茶店は、涼しさを求める人で思ったより賑わう。制服の学生、観光っぽい家族連れ、近所の常連――客層がいつもより雑多で、注文の波が途切れない。
私はホールを回しながら、頭の中で英単語を唱える。
"efficient"、"schedule"、"balance"。
いまの私に必要な言葉ばかりが、舌の裏に貼りつく。
「美春ちゃん、二番テーブル、アイス二つ追加な」
マスターの声。
私は「はい」と返し、伝票を受け取る。指先が紙を滑らせた瞬間、ふっと厨房のほうが気になった。
――秋穂が、いつもと違う動きをしている。
オーブンの前じゃない。ミキサーでもない。
カウンターの端に、小さなボウルが二つ、計量カップ、泡立て器。
それから、見慣れないプレートが、作業台の上に置かれていた。家庭用のホットプレートみたいな。
(……なに、あれ)
胸が勝手に早くなる。
秋穂の"試作モード"って、なんでこう、見てるだけで落ち着かないんだろう。
新しい何かが生まれる前の、静かな緊張。レシピの紙を見なくても、頭の中で工程が鳴ってる感じ。
「美春」
秋穂が、私の手が空くタイミングを正確に狙って、小声で呼んだ。
店の音に紛れるくらいの声なのに、私だけにはちゃんと届く。
「あとで、時間……少し、もらえる?」
「うん。閉店前に少し落ち着いたら……いける」
返した瞬間、秋穂の目尻がほんの少しだけ緩んだ。
それだけで、私はまた頑張れる気がしてしまう。
◇
夕方。客足がようやく引いて、店内の空気が少しだけ"日常の温度"へ戻った頃。
私はカウンターの内側でグラスを拭きながら、秋穂のほうを見た。
秋穂は、エプロンの紐をきゅっと結び直してから、マスターの前にまっすぐ立った。
姿勢が、いつもよりほんの少し固い。
……面談のときの秋穂に似ている。
でも、今日の秋穂は、どこか"手のひらを隠してる"みたいな落ち着かなさがあった。
「マスター、時間……いい?」
「お。めずらしいな、改まって。なんだ」
マスターが笑いながらも、ちゃんと手を止める。
"店長の顔"になるのが早い人だ。
秋穂は頷いて、作業台の上に置いていた皿を二枚、カウンターに出した。
薄い生地が、三角に折りたたまれている。表面に、ほんのり焼き色――でも、端が少しだけいびつだ。
(……あ、これ。試行錯誤したやつだ)
さっき厨房で見た、プレート。
秋穂の手元、いつもより何度も同じ動きを繰り返していた。
「今日の閉店後に……簡易試作した」
「簡易って、いまから店で出すみたいな言い方だな」
マスターが軽口を叩く。
秋穂は、冗談を受け流すみたいに一拍置いてから、淡々と言った。
「提案。新メニュー候補。……クレープ」
「ほう」
マスターの眉が上がる。
私は思わず、拭いていたグラスを持ったまま固まった。
秋穂は、私とマスターに皿を一枚ずつ渡した。
紙じゃなくて、皿。
"おやつ"じゃなくて、"試食"の出し方だ。
「海の家で食べたの、構造がシンプルで、回転も早い。持ち帰りもできる」
「……確かに、夏は持ち歩けるの強いな」
マスターが腕を組む。
秋穂は続ける――けど、その声がほんの少しだけ慎重になった。
「ただ……簡易って言ったけど、正直、まだ安定しない」
え。
秋穂が、ちゃんと"できなかった"って言った。
それだけで、胸の奥が妙にほどける。
「……一枚目、穴あいた。二枚目、端が硬くなった」
「ほう。原因は?」
マスターが、からかうんじゃなく、探るみたいに聞く。
秋穂は一瞬だけ視線を落として、でも逃げずに答えた。
「温度。あと、生地の流し方。ホットプレートだとムラが出る」
マスターが、私の皿の端を指で軽く触ってから、頷いた。
「これな。焼きは悪くない。だが"店の味"にするなら、ムラは客が先に気づく」
秋穂のまつげが、ふわっと揺れる。
叱られてるんじゃない。評価されてる。
「導入には機材が必要」
秋穂が、作業台の端のプレートを指した。
「本来は専用のクレープメーカー。温度が一定で、円形の鉄板。生地を薄く伸ばすために、トンボ(木のT字の棒)も必要」
「……トンボ?」
「薄く均一に広げる道具。海の家の人、使ってた」
「職人用語みたいに言うな……」
私がツッコミを入れると、秋穂が小さくこちらを見た。
(……正式名称)って顔。かわいい。
秋穂は"店員として"の声に戻して、マスターに向けて話を続けた。
「簡易導入なら、家庭用ホットプレートでも近い形は作れる。でも温度ムラが出やすい。提供が多い日に品質が落ちる」
「なるほど。うちで出すなら"安定"が要るか」
「うん。だから、もし本気でやるなら――」
秋穂が、指を折っていく。
「①専用機材(鉄板+温度調整)
②トンボとスパチュラ
③生地ディスペンサーか計量お玉
④保温・保管の動線」
言い切ったところで、秋穂は一瞬だけ言葉を止めた。
"動線"まで言ったのに、その先が、ふっと薄くなる。
マスターがそこを見逃さない。
「で。ピークのとき、どう回す」
「……」
秋穂の唇が、少しだけ開いて――閉じる。
分かってるのに、まだ言葉になってない顔。
マスターはふっと鼻で笑った。
「いい顔だ。そこが店の難しいとこだ」
そして、私のほうをちらっと見る。
「美春ちゃん。ホール回す側の目線で言ってみろ」
心臓が跳ねた。
急に、私が"戦力"として指名されたみたいで。
「え、私……?」
「お前、最近"回す目"ついてきた。考えろ」
マスターの言い方は乱暴なのに、ちゃんと背中を押してくる。
私は、頭の中で今日の店内を思い出した。
冷たい飲み物が続いて、注文が重なる時間帯。
厨房の音。ホールの足音。お客さんがメニューを見て悩む間の、あの"間"。
「……平日なら、提供数は読めると思います」
言いながら、言葉が自分の中で形になっていく。
「でも休日は……たぶん、注文が一気に集中します。そうしたら、焼きが追いつかない」
秋穂が、私を見る。
真剣な目。レシピを聞く目。
私は続けた。
「だから最初は、"数量限定"にしたほうがいい。あと――」
口が勝手に動く。
私がいつも店でやってることの延長だ。
「注文のタイミングを分散できるように、メニュー表に"焼き上がりに少しお時間いただきます"って添えるとか。それと、提供が遅れてもクレームになりにくいように……"平日限定"から始めるのが安全」
言い終えた瞬間、頬が熱くなる。
私、いま、店の話してる。
未来の話を、現実として。
秋穂が、ゆっくり頷いた。
「……数量限定。うん。品質、守れる」
"逃げ道"じゃなく"守る"って言い方が、秋穂らしい。
でも今の言葉は、さっきよりずっと手触りがある。
私の言葉を受け取って、自分の案にしてる。
マスターが顎に手を当てて、短く頷いた。
「よし。じゃあこうだ」
「……」
「今月は、試作をもう二回。味を二種類に増やす。選択肢があると客の満足度が上がるからな。あと、出すなら、店の味に寄せろ。海の家のコピーはうちじゃない」
秋穂の目が、少しだけ輝いた。
「……うん」
「で、機材は――中古も含めて候補調べろ。値段だけじゃなくて、熱の安定と動線な。美春ちゃん、お前も一緒に見とけ。ホールから見た"詰まり"も考えろ」
「はい」
「わかりました」
"二回"。"候補"。"動線"。
会話が、未来へ繋がっていく感じがする。
マスターが、最後にわざとらしく咳払いをした。
「ま、学生の夏は勉強も大事だが――遊びも甘いも、必要だ」
「……はい」
秋穂が言う。
私はつい、マスターの顔を見て笑ってしまった。
「……マスター、今いいこと言いました?」
「うるせえ。さっさと皿片付けろ」
「はい!」
カウンターの内側で皿を下げながら、秋穂が私の横を通り過ぎる。
肩が、ほんの少しだけ近い。
触れそうで触れない、いつもの距離。
でも今日は――秋穂の足取りが、ほんの少しだけ軽いのが分かる。
(……"一緒に回す"って、こういうことかも)
私はエプロンの紐を結び直して、心の中で小さく唱えた。
――この夏も、積み上げる。二人で。
◇
二週間後。
夏期講習の最終日。
最後の模試が終わって、教室を出た瞬間、私は空気が違うのを感じた。終わった、というだけで、胸の中の水面が少し静かになる。
結果はまだ返ってこない。けれど、前より手が動いた感覚がある。長文が"ただの壁"じゃなく、"登れる段差"に見えた瞬間があった。
秋穂が、私の横を歩く。
「美春」
「なに?」
「……アイス、食べない?」
その誘い方が、ちょっとだけ照れていて、私は笑ってしまった。
「いいね。ご褒美だ」
帰り道、コンビニに寄る。
冷房が強くて、肌が一瞬で乾く。アイスケースの前で、秋穂が真剣な顔をして悩んでいるのが可笑しかった。
「美春、何味がいい?」
「バニラ」
即答すると、秋穂は小さく頷いて、バニラのカップアイスを取った。もう一つ取るのかと思ったら、秋穂はそれだけを持ってレジに向かう。
「一個だけ?」
私が言うと、秋穂は視線を落として、ほんの少し間を置いた。
「……半分こ、しない?」
耳まで赤い。
――半分こ。
それってつまり、こういうことだ。
私は喉が鳴るのを感じて、誤魔化すように笑った。
「……うん。しよ」
レジで受け取った木のスプーンが、紙袋の中で軽く鳴った。金属の冷たさじゃなく、乾いた木の匂い。夏の湿気の中で、その匂いだけがやけに素直だった。
近くの公園へ行く。夕方の光が、遊具に長い影を落としている。蝉の声が少し弱まって、代わりに風が増えた。
ベンチに並んで座る。
秋穂がアイスの蓋を開ける。バニラの白が、夕暮れのオレンジに少しだけ染まる。
木のスプーンで一口すくって、秋穂が口に運んだ。
「……冷たい」
言い方が子どもみたいで、私は肩を揺らした。
「当たり前だよ」
秋穂はもう一度すくって、今度は私にカップを差し出す。
「美春も」
私は受け取って、秋穂が触れたスプーンを握る。木の感触が、指にやさしい。口に入れた瞬間、甘さがふわっと広がった。
――甘い。
バニラの甘さだけじゃない。
ほんの少し、秋穂の温度が混ざっている気がして、胸がざわつく。木のスプーンの端の、かすかな湿り気。舌先に残る柔らかい匂い。
間接キス、なんて言葉にしたら台無しになるのに、頭の中では大きな文字で浮かんでしまう。
何度もちゃんとキスしてるのに、こんなことで――どうしてこんなに。
「……美春、顔、赤い」
秋穂が言う。分かってるくせに、わざと。
「暑いから!」
反射で言い返すと、秋穂は少しだけ目を細めた。笑い方が、ずるい。
「……そう?」
「そう!」
私は二口目を急いで食べて、冷たさで顔を落ち着かせようとする。でも、甘さが優しくて、逆に熱が増える。
◇
【秋穂】
美春が、必死にアイスを食べている。
可愛い。
……間接キスくらいで、あんな顔をする。
私だって恥ずかしいのに、口に出したらもっと恥ずかしいから、言えない。
木のスプーンは、少しだけざらざらしていて、唇に触れる感触が柔らかい。美春が同じのを使っていると思うと、変なところが熱くなる。
美春の横顔。日焼けの跡が少しだけ残っている。海の記憶が、まだ肌の上にいるみたいだ。
――夏が終わっても、こうして隣にいたい。
それを言うのは簡単なのに、言ったら現実が重くなる気がして、私は黙って、もう一口すくった。
◇
【美春】
アイスを食べ終える頃には、空の色がゆっくり変わっていた。
蝉の声が遠くなって、風が少し涼しい。夏が、ほんの少しだけ終わりに向かっている匂いがした。
「ねえ、秋穂」
「なに?」
「夏期講習、一緒に頑張れて……よかった」
言った瞬間、声が少し震えた。C判定の紙の重さも、机の上で泣きそうになった気持ちも、全部ここに繋がっている。
秋穂は、ゆっくり頷いた。
「……私も」
「これから受験、もっと大変になるかもだけど」
私は息を吸って、ちゃんと言う。
「でも、秋穂がいるから、頑張れる」
秋穂が私の手を握る。指先だけ。人目のある公園でも、ぎりぎり"友達"に見える範囲の触れ方。
でも、私たちには分かる。
「私も。美春がいるから、頑張れる」
その言葉に、胸の奥がほどけた。
海の余韻は、もう遠い。日常はまた、隠す温度で回り始める。
それでも。
勉強して、働いて、笑って、たまに不安になって。
その全部を、二人で乗り越えていける気がした。
私は、まだCの紙を捨てられない。捨てるのが怖い。でも、あれは"終わり"じゃなく"始まり"だ。
「次の模試、結果返ってくるの、ちょっと怖い」
ぽつりと言うと、秋穂は私の手をもう少しだけ強く握った。
「……怖くても、見る」
「うん」
「一緒に」
「……うん」
夏の夕暮れが、私たちの影を長く伸ばす。
甘いアイスの余韻が、舌の奥に残っている。木のスプーンの匂いも、まだ指に残っている気がした。
夏の思い出は、いつも"甘さ"の形をしている。
海のキスの塩味。アイスのバニラ。秋穂が焼いたクッキーの温もり。
――そして、秋穂の唇。
甘さは、いつも秋穂とつながっていた。
この夏も、思い出になっていく。
でも、思い出は消えない。
私たちが、ちゃんと積み上げていけば。
二学期が来る。受験が近づく。忙しさも増える。
それでも――秋穂の隣で、私は進む。
甘さを、怖さを、温度を隠しながらでも。
二人で。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




