表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/34

第24話「波打ち際の約束」

ライトな百合x成長物語です。

水着回!

 六月の雨がやっと細くなり始めたころ、体育の授業はプールになった。

 梅雨明けにはまだ早いのに、コンクリートの床はぬるく、塩素の匂いが鼻の奥に残る。水面は蛍光灯を映してきらきらして、そこだけ別の季節みたいだった。


 笛の音が短く鳴って、先生がいつもの調子で言う。


「今日はペアでやるよー。泳ぎが苦手な人は、うまい子と組んでー。サボり厳禁ー!」


 ざわっと空気が動く。水着姿のクラスメイトたちが、視線と足を同時に泳がせる。

 いつもは教室のざわめきに紛れる音が、今日は水しぶきと裸足のぺたぺたで、やけに直接届く。


 れいなは「はいはーい」と軽く手を挙げて、すぐ別の子に捕まった。笑い声が弾ける。

 

 その輪から少し離れたところに、秋穂がいた。

 腕を抱えるみたいにして、プールの青を見ている。顔は平気そうにしてるのに、指先だけが落ち着かなくて、爪の先でタオルの端をくしゃっと握っていた。


 ――そういえば、秋穂は「泳げない」って、前に。


 胸の奥がちいさく鳴った。守るとか守られるとか、そんな大げさな言葉じゃなくて。ただ、今は。

 私は秋穂のところへ歩いていって、声をかける。


「秋穂。私と組も」


 秋穂がびくっと顔を上げた。すぐに、困ったみたいに笑う。


「……いいの? 私、ほんとに……」

「いいよ。むしろ、私がやりたい」


 自分で言って、少しだけ恥ずかしくなる。秋穂のまつ毛が一瞬だけ揺れて、頬に薄い赤が差した。


「……じゃあ、お願いします」


 そう言って頭を下げるのが、秋穂らしい。私は笑って、秋穂のタオルを指でつんとつついた。


「こっちこそ。ほら」


 先生が配ったビート板を一枚受け取って、秋穂に渡す。秋穂は受け取りながら、板の角をやたら丁寧に撫でた。緊張すると、いつも几帳面になる。


 プールに入ると、水が太ももを冷たく抱いた。肌にまとわりつく感触に、秋穂が小さく息を飲む。私は秋穂の隣に立って、ビート板の端を押さえる。


「まず、顔はつけなくていい。板をぎゅって持って……そう。肩の力、抜ける?」


「……うん。たぶん」

「たぶん、じゃなくて」


 言い返すと、秋穂がほんの少しだけ口角を上げる。


「……できる。やる」


 その「やる」が、真面目すぎて可愛い。私は一回だけ目を逸らして、気持ちを整えるふりをした。


「じゃあ、バタ足。膝じゃなくて、足首から。水を切る感じ」

「足首……」

「そう。……うん、それ」


 秋穂は真面目に、ほんとに真面目に、脚を動かす。だけど最初は、力が入りすぎて水しぶきが大きくなる。周りの笑い声が少しだけ遠くなる。


「秋穂、速いとか遅いとかじゃなくて、リズム。いち、に、いち、に」


 私が声に出すと、秋穂の足の動きが少しずつ揃っていく。水面の跳ね方が、暴れる感じから、細かい波に変わる。


「……あ、ちょっと……分かる」

「うん、分かってきてる。今の、すごくいい」


 褒めた瞬間、秋穂が照れたみたいに唇を結ぶ。顔の赤さは水のせいにできる。でも、私の心臓のうるささは、水じゃ誤魔化せない。


 先生の笛がまた鳴って、クラスが少し移動する。水音が重なり、遠くの歓声が揺れる。


「次、顔つける練習しよ。いきなり泳がなくていい。泡ぶく、だけ」

「……泡ぶく」

「そう。息を吐けるようになると、怖さが減るから」


 秋穂の喉がこくんと動く。怖い、って言わない代わりに、目が少しだけ固くなる。私はビート板を持ったまま、秋穂の正面に回ってしゃがんだ。


「私、ここにいる。見える?」


 秋穂がこくんと頷く。


「……見える」

「じゃあ、いける」


 秋穂はビート板を抱えたまま、ゆっくり膝を曲げて、水面に顔を近づける。髪の先が水に触れた瞬間、肩がきゅっと上がる。


 私は反射で手を伸ばして、秋穂の手首に触れた。

 ぴたり。

 水の中なのに、触れたところだけ熱い。秋穂も同じだったみたいで、指が一瞬固まる。目が合う。


 ――まずい。可愛い。あと、近い。

 私は慌てて手を離し、何事もなかったふりをして笑う。


「大丈夫。板、離さなければ沈まない。ほんとに」

「……うん」


 秋穂が小さく息を吸って、そっと顔を水に沈めた。

 ぷく。ぷく。

 控えめな泡が浮かぶ。大げさじゃなく、丁寧で、やさしい泡。

 顔を上げた秋穂が、ぱちぱちと瞬きをして、息を吐いた。口元が、少しだけ上がる。


「……できた」

「うん。できた。えらい」


 秋穂が、濡れた前髪を指で払って、ぽつりと言った。


「……泡、なんか……メレンゲみたい」


 その一言に、私は吹き出しそうになる。


「……泡の大きさが。……きれいだったから」


 言い訳みたいなのに、真剣で、余計に可愛い。私は笑いを噛み殺しながら頷いた。


「じゃあ次は、泡をもっと均一に。……メレンゲ職人さん」


 秋穂がむっとする。でも耳の先が赤い。私の方が赤いかもしれない。


 先生が「じゃ、次は板で五メートル、行ける子から!」と声を張る。周りが一斉に動き、プールの水面がざわざわと大きく揺れた。

 秋穂はビート板を抱えて、私を見た。


「……もう一回、やる」

「うん。二回目は、絶対もっと楽になる」

「……うん」


 秋穂が水に入る。私は横に並ぶ。さっきより、手が少しだけ近い気がして、また胸が落ち着かない。

 五メートルだけ進む。途中で足が止まりそうになって、秋穂が慌てる。私は小声で「息、吐いて」と言う。秋穂が頷いて、泡を吐きながら進む。

 到達した瞬間、秋穂が小さく息を吐いて笑った。


「……今の、ちょっと……できた」

「できた。ちゃんとできた」


 それだけのことなのに、世界が少し明るくなる。秋穂が"できた"を積み上げていくのを見るのは、私の胸の奥を温かくする。

 笛が長く鳴って、授業終了の合図が来た。


「はい、上がってー! タオル、ちゃんと拭いてー! 風邪ひかないようにー!」


 水面のきらめきが、ばしゃばしゃと乱れて、みんなが一斉に梯子へ向かう。秋穂もビート板を返しに行き、私はその後ろを追った。

 更衣室へ向かう廊下は、足の裏に冷たさが残っている。髪から落ちる水が、床に点々と続いていく。タオルを首にかけて歩きながら、私は横目で秋穂を見る。

 秋穂は、少しだけ顔が明るい。自分でも気づいてないみたいな、淡い表情。


 ――可愛い。

 それだけで胸がいっぱいになって、私は息を吸った。


     ◇


 更衣室の扉を開けると、女子の声が一気に跳ね返ってくる。ドライヤーの音、笑い声、タオルを絞る音。いつもの教室に近いざわめき。

 私はロッカーの前でタオルを広げた。その瞬間、背中側から、弾む声がした。


「ねえねえ、美春!」


 れいなが、濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら腕を絡めてくる。


「夏休み前にさ、海行かない? みんなで!」

「……海?」


 言葉の端がひっくり返った。自分で自分の声にびっくりする。


 海。秋穂と海。水着姿の秋穂。

 想像が勝手に走って、頬に熱が集まる。塩素じゃなくて、私のほうが濃くなっていく。


「いいじゃん! このメンバーでさ。周防さんも来よ。ね?」


 れいなが視線を投げる先で、秋穂がプールサイドに立っていた。髪を低い位置で結んでいて、首筋が少しだけ見えている。いつもは制服の襟に隠れる場所だ。

 その首筋を見ただけで、心臓が変な音を立てる。


「……私、泳げないけど」


 秋穂は困ったみたいに笑った。笑うと目尻がやわらかくなるのが、私は好きだ。


「浮き輪あるし! 砂浜だけでも楽しいって!」

「美春も来るよね? ね?」

「……え、うん……」


 返事はしたのに、胸の中で小さな警報が鳴る。


 "見られる"ってこと。

 水着って、布の面積が少ないから、肌が多いから、それだけで目立つ。目立つと、余計な言葉が寄ってくる。私は、去年の文化祭のときに感じた視線の温度をまだ覚えている。

 仲がいいね、って言われるだけなら笑ってやり過ごせる。でも、もしもそこから一歩踏み込まれたら。

 私たちの秘密に、指が触れるような形になったら。


 ――怖い。


 隣の秋穂を盗み見ると、秋穂もまた、少しだけ唇を噛んでいた。

 私の不安が伝染したみたいで、嫌になる。

 守りたいのは秋穂なのに。怖がらせたくないのに。


 授業が終わって、タオルを肩にかけたまま廊下を歩く。湿った空気がまとわりつく。雨上がりの匂い。


「秋穂」


 呼ぶと、秋穂が小さく振り向いた。


「海……行く?」

「……行く」


 短い返事。でも、そのあと少しだけ、私の袖をつまんだ。


「……美春がいるなら」


 その一言で、胸の奥がほどける。

 ずるい。そういう言い方、ずるい。


「うん。いるよ。ずっと」


 私はわざと軽く言って、笑った。軽くしないと、声が震えそうだった。


 ――"治ったら、ね"。


 あの雨の夜、そう言って、キスを我慢させたときの顔がふっとよぎる。熱に浮かされたみたいに赤くて、でも真面目で、まっすぐで。

 私の体調が戻ったら、って。

 約束。

 その言葉が、胸の奥で静かに灯っていた。


     ◇


 海に行くことが決まった週末、私たちはデパートの水着売り場にいた。

 そこは別世界だった。ピンクや水色、ラメやフリル、見ただけで眩しくなる色が並び、鏡が多くて、光が増幅されているみたいにきらきらしている。


「……すごいね」


 秋穂が呟く。声が小さい。いつもの喫茶店だと、秋穂は落ち着いているのに、ここでは背中が少し固い。


「人、いっぱい」

「うん……でも、見るだけなら……」


 私も平気なふりをする。でも、視線は泳ぐ。水着のラックを眺めながら、自分の体のことばかり考えてしまう。

 春から始めた朝ランのおかげで、スカートのホックはすんなり留まるようになった。鏡の前でため息をつく日も減った。

 それでも、水着は別だ。布が少ない分、気持ちの逃げ場がない。


「秋穂、どんなのがいい?」

「……シンプルなの」


 秋穂は迷いなく言った。

 似合うんだろうな、と確信できてしまうのが悔しい。シンプルなものほど、着る人の輪郭が出る。


「じゃあ、ワンピース型、見よう」


 いくつか手に取って、色を当ててみる。秋穂の肌に近づけると、どれも絵になる。ネイビー、ボルドー、グレー。


「ネイビー、いい」


 私が言うと、秋穂が小さく頷いた。


「……美春が選ぶと、安心する」

「なにそれ」


 笑ってごまかしながら、胸の中でほんの少しだけ痛い。私は秋穂に頼られて嬉しい。でも、本当は私も秋穂に頼りたい。

 水着を抱えて、秋穂が試着室へ入っていく。私は外で待つ。カーテンの向こうから、布の擦れる音が聞こえて、落ち着かない。


 しばらくして――


「美春」


 呼ばれて、息が止まる。

 カーテンが少しだけ開き、秋穂が顔だけ出した。


「……見て」


 そこから先は、早送りみたいに記憶が飛ぶ。

 カーテンが開く。秋穂が立っている。ネイビーのワンピース型。肩が出ていて、鎖骨の線が浮かぶ。日差しじゃない照明の光でも、肌が白く見える。

 綺麗。

 可愛い、より先に、綺麗が来た。


「……どう?」


 秋穂は視線を落としがちで、指先がカーテンの端を握っている。緊張してるのが分かる。

 私は、真面目に答えた。


「似合ってる。すごく。秋穂、……そのまま海のポスターになれる」

「……大げさ」


 そう言いつつ、秋穂の頬が少しだけ色づく。

 胸がぎゅっとなる。言い足りない。もっと言いたい。でも言いすぎると、空気が変わりそうで怖い。


 次は私の番だ。

 私はシンプルな黒のワンピースを選び、試着室の中で深呼吸する。布を伸ばして着る。鏡を見る。

 思ったより、悪くない。

 ダイエットの成果が、こういうところで不意に見える。少しだけ、肩の線がすっきりしている。腹のあたりも以前ほど気にならない。


 ……でも、恥ずかしいのは変わらない。

 カーテンを開ける。


「秋穂、どう……?」


 秋穂が、じっと私を見る。視線が一瞬、首元から肩へ、そして私の顔に戻る。顔が熱くなる。


「……可愛い」


 秋穂は小さく言って、視線を逸らした。逸らし方が不器用で、私のほうが余計に意識してしまう。


「秋穂のほうが可愛い」

「……比べなくていい」


 秋穂がぼそっと言う。

 比べてない。比べてないのに。秋穂の隣に立つと、私はどうしても自分を測ってしまう。見た目とか、才能とか、勇気とか。

 でも秋穂は、そういう私の悪い癖を、そっと止めてくれる。


 水着を買い、レジ袋を持ってデパートを出ると、外の風が生暖かくて、急に現実に戻る。


「海、楽しみ?」


 私が聞くと、秋穂は少し迷ってから頷いた。


「……楽しみ。……怖いけど」

「怖い?」

「……見られるの」


 秋穂の声が、いつもより低い。真剣だ。

 私は息を飲む。

 同じことを、私も思っていた。


「……私も、ちょっと」


 正直に言うと、秋穂が少しだけ笑った。


「……一緒だね」


 一緒。

 その言葉が、今はお守りみたいだった。


     ◇


 七月最後の週末。蝉の声がぎりぎりまで張り上げた日の朝、私たちはれいなたちと駅前で集合した。

 夏休み直前の空気は、どこか浮ついている。制服じゃない私服の集団は、それだけで少し大人っぽく見えた。

 電車に揺られて、海水浴場に到着する。改札を出た瞬間、潮の匂いが鼻を刺す。風が髪を持っていく。


 青。


 空も海も、青の種類が多い。白い砂浜が目を眩ませる。波の音はずっと続いていて、胸の内側を揺らす。

 更衣室で水着に着替え、パーカーを羽織って砂浜に出る。女子たちは早い。歓声を上げて走っていく。


 私は、隣を見た。

 秋穂がパーカーのフードを指でいじっている。いつもより表情が硬い。


「秋穂」

「……うん」

「大丈夫?」

「……美春がいるから」


 また。

 私は笑いながら、秋穂の手首を軽くつかんだ。


「じゃあ、私も大丈夫」


 パーカーを脱ぐ。

 砂浜の日差しが肌に落ちて、熱い。水着の布が体に沿う感覚が、妙にくすぐったい。


 秋穂も、ゆっくりパーカーを脱いだ。

 ネイビーの水着。

 それだけで、周りの景色が一瞬ぼやける。秋穂の輪郭だけがくっきりする。

 髪を後ろで結んでいて、首筋が見える。プールで見た首筋より、もっと夏の光を浴びていた。


 私は、見とれてしまった。


「美春……見すぎ」


 秋穂が小さく言う。目は私を見ないで、砂を見ている。


「ご、ごめん」

「……怒ってない」


 秋穂は言いながら、私の腕をちょん、と指で触れた。その触れ方が、逆に心臓に悪い。


     ◇


【秋穂】


 美春が水着で立っている。

 いつも制服の中に隠れていた肩が出ている。肌は少し日焼けしていて、健康的で、夏の匂いがする気がした。


 可愛い。

 可愛い、のに。

 "見られる"が頭をよぎる。

 クラスメイトの視線。知らない人の視線。冗談みたいな言葉が、刃物に変わる瞬間。


 でも、美春が隣にいる。

 美春が「大丈夫」って言った。

 それだけで、足が前に出る。


 波打ち際に近づく。潮風が強くなる。白い泡が砂を撫でて、引いていく。


「秋穂、入る?」


 美春が手を差し出した。

 私はその手を取る。

 温かい。

 海は冷たいのに、美春の手はいつも通りだった。


 ――約束。

 梅雨の夜の、あの約束が胸の奥で揺れる。

 "治ったら、ね"。


 美春の風邪はもう治っている。元気だ。笑っている。

 なのに、まだ言い出せない。

 場所が悪い。人がいる。見られる。

 でも、波の音がうるさくて、世界が少しだけ私たちを隠してくれる気もした。


     ◇


【美春】


 秋穂と手を繋いで、波打ち際に足を入れる。水が足首に触れた瞬間、冷たさで声が出そうになる。


「つめたっ」

「……冷たい」


 秋穂の指が私の手をぎゅっと握る。普段より強い。


「大丈夫。いきなり深く行かない」


 膝まで。腰まで。

 波が来るたび、秋穂の肩がぴくっと揺れる。可愛い。可愛いけど、真面目に支えないと。


「怖い?」

「……少し」

「じゃあ、私のほう見て」


 秋穂が私を見る。視線が合う。波の音が一瞬遠のく。

 そのとき、大きな波が来た。


「秋穂、気をつけて――!」


 言い切る前に、波が秋穂を押し上げる。秋穂がバランスを崩して、身体がぐらりと傾いた。


「きゃっ……!」

「秋穂!」


 私は反射的に腕を伸ばし、秋穂の肩を抱き起こした。濡れた肌が触れ合う。海の冷たさと、秋穂の体温が混ざる。

 近い。

 近すぎて、呼吸の熱まで分かる。


「大丈夫!? 飲んでない?」


 秋穂が咳き込みながら頷く。


「……うん、だいじょうぶ」


 秋穂の髪から水が落ちて、私の腕を伝う。塩の匂い。秋穂のシャンプーの匂い。混ざって、胸の奥がくすぐったい。


「もう……びっくりした」


 怒ったふりをする私に、秋穂が小さく笑った。笑えるなら大丈夫だ。

 その瞬間。


「ねえねえ、二人さ、仲良すぎじゃない?」


 クラスの女子が波の向こうから叫んだ。周りの女子も笑う。


 空気が一瞬、硬くなる。

 私は、息が止まる。

 心臓が嫌な音を立てる。笑って流せ。笑って流せ。分かっているのに、顔が固まる。


 秋穂が、私の腕の中で顔を上げた。濡れた前髪の隙間から私を見る。

 そして、いつもより自然に、軽く笑った。


「……そんなこと、ないよ」


 否定の言葉なのに、棘がない。笑い話みたいに言う。


「美春は、私の命綱なだけ」

「命綱ってなにそれ!」


 れいなが爆笑する。


「溺れそうだったもんね!」


 女子たちが笑って、波の音に溶けていく。


 私は、胸の奥がじん、とする。

 秋穂は平気そうに見せた。でも、きっと平気じゃない。私も平気じゃない。

 なのに秋穂は、その場を壊さない形で守ってくれた。


 私も、もっと堂々としなきゃ。

 守りたいって言うなら、震えるだけじゃだめだ。


     ◇


 砂浜の熱がいったん落ち着くころ、れいなが手をぶんぶん振った。


「ねえ、海の家行こ! お腹すいた! 命綱コンビも!」

「命綱って……まだ言うの、それ」


 笑いながら歩き出すと、海の家の屋根の下だけ空気が少し冷たい。木の床がじんわり湿っていて、潮と日焼け止めと、揚げ物の匂いが混ざっていた。

 焼きそば、フランク、かき氷――定番の文字が並ぶ中で、秋穂がぴたりと足を止めた。


「……クレープ」


 手書きのメニュー板の端に、ちょっと場違いなくらい可愛い文字。

 その横、鉄板の上で薄い生地が丸く広がって、じゅわっと音を立てている。


 ……あ。秋穂の目が、完全に"仕事の目"になってる。


「秋穂、食べたいの?」

「……食べたい。というか……作り方、気になる」

「そっち!?」


 私は思わず笑ってしまった。海に来ても、秋穂は秋穂だ。


 店員さんが生地を流して、お玉の背で円を描くようにする。薄く、均一に伸びていく生地。表面の気泡が小さく弾けて、焼けた甘い香りがふわっと立った。

 焼き色を確かめてから、手際よくひっくり返す。ヘラの角度が迷いなくて、見てるだけで気持ちいい。


「……鉄板、温度が安定してる。あと、あの……生地の粘度」


 秋穂が小声で、真剣に分析している。

 私はクレープの列に並びながら、横目で秋穂の横顔を盗み見た。真面目すぎて、可愛い。


「喫茶店で出したこと、ないよね」

「……ない。あれは……道具が違う」


 秋穂の視線が、鉄板の奥の機材に移る。丸い鉄板、温度つまみ、ヘラ、あの木の棒みたいなやつ――。


「……生地、寝かせてるのかも。今日、伸びがいい」

「秋穂、もうメモ取りたい顔してる」

「……してない」


 否定が遅い。

 私が笑うと、秋穂の耳がほんの少し赤くなった。


 先に受け取ったれいなが、紙に包まれたクレープを振って見せた。


「私はバナナチョコ~! 見て、映え~!」

「れいな、口の周りにつくよ」

「え、マジ? 見ないで!? ……てか二人も食べなよ! 絶対!」


 れいなが私たちを押すみたいに背中を叩く。

 秋穂が一瞬だけ迷ってから、メニュー板を指した。


「……バターシュガー。いちばん、構造が分かる」

「研究対象なんだ……」

「……うん」


 真顔で頷くの、ずるい。


 出来上がったクレープは、紙の中でふわっと温かくて、持つだけで指先が嬉しい。

 焼けた生地の香りに、バターの甘い匂い。砂糖のざらりとした粒が、表面にきらっと残っている。


 秋穂は一口かじって、目を細めた。

 噛むたびに薄い生地がほどけて、バターと砂糖がじわっと広がる。


「……おいしい」


 その一言が、普段の「……うん」よりずっと柔らかい。

 私はそれだけで、なぜか胸がふわっとした。


「どうやって作るんだろう、って顔してる」

「……してない」


 また遅い。

 秋穂はクレープを見下ろしながら、ぽつりと付け足した。


「……喫茶店でやるなら、鉄板じゃなくても……ホットプレート? でも温度ムラが……」

「やめて、海の家が一瞬で研究室になる」


 れいなが私の肩を抱いて、にやにやする。


「周防さん、ほんと職人だな~。美春は? 美春も食べてみて。ほら、あーん」

「れ、れいな!?」


 冗談の"あーん"に、私は反射で頬が熱くなる。

 横で秋穂が、そのやりとりを見て、一瞬だけ視線を落とした。……むっとしたみたいに。


「……れいな、楽しそう」

「え、なに? 嫉妬? 嫉妬? かわい~」

「ちがう」


 否定が速い。

 でも、その速さが逆に怪しい。


 私は自分のクレープを一口食べて、思わず息を吐いた。


「……あ、これ。思ったより軽い」

「……うん。外は少し香ばしくて、中は……やわらかい」


 秋穂がそう言うと、なんだか"味"が言葉になって、きちんと形になる気がした。

 私は秋穂の横顔を見て、笑ってしまう。


「秋穂、海の家でもちゃんと"作る人"だね」

「……美春は、ちゃんと……食べる人」

「それ役割固定!?」


 れいなが大笑いして、私の背中を叩く。

 笑い声に混ざって、波の音がずっと鳴っていた。


 ――夏の一日って、こういうふうに、甘くて、あっという間に溶ける。


 クレープの温度が、紙越しに指に残る。

 その熱を、私はこっそり大事に握ったまま、もう一度砂浜へ戻った。


 砂浜に戻って、パラソルの下で休憩する。砂が熱い。足の裏がじりじりする。冷えた麦茶を飲むと、喉の奥が生き返る。

 秋穂が隣に座る。肩と肩が触れそうな距離。でも、触れない。触れたら、今度は私が波みたいに崩れそうだから。


「秋穂、楽しい?」

「……うん」


 短い返事のあと、秋穂が海を見た。横顔が綺麗で、見ているだけで落ち着く。


「最初は怖かったけど……美春がいると、平気」


 また。ずるい。

 私は麦茶の紙コップを握りしめる。言葉の代わりに。


 れいなが走ってくる。


「ビーチバレーやろ! 人数足りない!」

「え、私たちも?」

「もちろん! 運動会であんな走ったんだからいけるいける!」


 運動会。春の熱。秋穂がゴールテープを切った瞬間。私はそれを思い出して、少しだけ笑えた。


 ビーチバレーは想像以上にきつかった。砂が足を取る。ジャンプができない。ボールが変な方向へ飛ぶ。


「ごめん、秋穂!」

「大丈夫。次、取れる」


 秋穂は意外と上手い。受け方が綺麗で、動きに迷いがない。中学の陸上部、あれはただの過去じゃなくて、ちゃんと身体に残っているんだ。

 私が転びそうになると、秋穂がすっと支えてくれる。手が触れて、体温が流れ込む。

 この人は、走るときも、支えるときも、まっすぐだ。


 遊んで、笑って、波に足を浸して、アイスを食べて。時間が砂みたいに指の間から落ちていく。


     ◇


 夕方。太陽が海に沈み始めると、空がオレンジになった。波の白が金色を含む。

 女子たちは写真を撮りに行ったり、貝殻を拾いに行ったりして散っていく。


 私と秋穂は、波打ち際を歩いた。

 さっきより波は穏やかで、足首を撫でる程度だ。濡れた砂が冷たく、気持ちいい。


「綺麗だね」

「……うん」


 秋穂が立ち止まって、私を見た。


「美春」

「なに?」

「今日、ありがとう」

「何が?」

「一緒に来てくれて」


 言い方が、いつもより真剣だ。夕日の色のせいで、秋穂の瞳が少し琥珀みたいに見える。

 胸が苦しい。


「私、海、苦手だったけど」

「うん」

「今日は、……楽しかった」


 秋穂が、言葉を選ぶみたいに息を吸う。


「美春がいたから」


 私は笑ってしまう。泣きそうなのをごまかす笑い。


「それ、ずるいって何回言ったら分かるの」

「……何回でも言う」


 秋穂の声が小さくなる。

 その次に、秋穂がぽつりと言った。


「……ねえ」

「うん?」

「……約束、覚えてる?」


 胸が跳ねる。

 梅雨。風邪。看病。キスを我慢した秋穂。


「……うん」


 私の声が、少しだけ震えた。

 秋穂が、波の音に紛れそうな声で言う。


「美春、もう……本当に元気?」


 確認。

 優しさ。

 私は頷く。


「うん。完全に。もう咳もしないし、熱もない」

「……よかった」


 秋穂が少しだけ笑う。でもすぐ、真面目な顔に戻る。


「……じゃあ」


 秋穂が一歩近づく。潮風が強くなって、私の髪が頬に貼りつく。

 秋穂の指が、私の髪をそっと払った。指先が頬に触れる。そこだけ熱い。


 波が寄せて、引く。

 世界が呼吸しているみたいだ。


 秋穂が、ゆっくり顔を近づける。

 私は目を閉じる。


 唇に、柔らかい感触。

 塩の味がほんの少しだけ混ざる。秋穂の体温が伝わって、胸の奥があふれそうになる。

 ほんの一瞬。

 でも、確かに"約束"の形だった。


 秋穂が離れて、息を吐く。


「……メリークリスマス、じゃないけど」


 秋穂が小さく言って、私が笑う。


「なにそれ」

「……言いたくなった」


 秋穂の耳が赤い。私の顔もきっと赤い。

 私たちは、波の音に隠れるように、並んで歩き出した。


 手は繋げない。でも、指先が時々触れる。触れては離れて、また触れる。

 それだけで、世界が少しだけ優しくなる。


     ◇


 帰りの電車は混んでいた。海帰りの人たちで、車内に砂の匂いが混ざっている。

 座れなくて、私たちは吊り革の近くに立った。れいなたちは少し離れたところで話している。


 秋穂が、私の肩にもたれかかってきた。


「秋穂?」

「……ちょっと、眠い」


 声が幼い。海では頑張っていた分、疲れが一気に来たんだろう。


「寝ていいよ」


 私が言うと、秋穂は遠慮するみたいに少しだけ首を振った。


「……重い?」

「全然。むしろ……」


 むしろ嬉しい、って言いそうになって飲み込む。言うと、また顔が熱くなる。

 秋穂の髪が私の肩に触れる。潮の匂いと、汗と、いつものシャンプーの匂いがする。

 私は、窓に映る自分たちを見ないようにした。


 見られるのが怖いから、じゃない。

 見たら、幸せだって顔に書いてあるのが分かって.

 それを誰かに読まれるのが、まだ怖い。


 でも。

 今日の秋穂の笑い方を思い出す。

 「命綱」なんて言って、冗談みたいに守ってくれた。

 秋穂は、少しずつ強くなっている。

 私も、強くならなきゃ。


 夏休み。きっと夏期講習がある。受験が近づく。喫茶店も忙しくなる。文化祭の準備だって始まる。

 いろんなものが、私たちに向かってくる。

 それでも。


 秋穂が私の肩で眠っている。

 その重みが、現実だ。


 私の隣にいる人が、秋穂だってこと。

 波みたいに押して引いてを繰り返しても、約束が残るなら、大丈夫。


     ◇


 駅に着いて、夜風が肌を撫でた。昼間の熱は少しだけ落ち着いていて、夏が次のページをめくろうとしている匂いがした。


 秋穂が目をこすりながら言う。


「……美春、今日は……」

「うん?」

「……忘れない」


 私は笑う。


「私も。絶対忘れない」


 約束のキス。

 海の青。

 波の音。

 隠すみたいに触れた指先。


 高校生活、残り半年ちょっと。

 その中で、こんな日があと何回あるんだろう。


 ――ある。作る。秋穂と、作る。

 そう思いながら、私は秋穂の隣を歩いた。


 夜風が髪を撫でる。潮の匂いがまだ残っている。

 秋穂の足音が、私の足音と重なる。


 波打ち際で交わした約束は、もう言葉じゃなくて、温度だ。

 いつか、この温度を隠さなくていい日が来るまで――。

 私たちは、並んで歩き続ける。


 波みたいに、何度も何度も、繰り返し寄せては返す、この気持ちを抱いて。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ