第23話「治ったら、ね」
ライトな百合x成長物語です。
4話、8話、14話がキリのいいポイントです!
15話以降、甘々予定!
【美春】
六月。梅雨の雨は、空から落ちてくるというより、街の輪郭をじわじわ溶かしていくみたいだった。アスファルトは濡れて黒く光り、傘の骨の音がどこか遠くで鳴っている。
喫茶店の窓ガラスには、小さな水滴が列を作って、ゆっくり下へ滑っていった。
その日も雨だった。
そして――秋穂が、咳をした。
ほんの一度。こらえるみたいに口元を押さえて、なかったことにするみたいに視線を逸らす。
私が見ているのを分かっているのに、分からないふりをする時の癖だ。
「秋穂、大丈夫?」
「……うん。平気」
言葉は短い。でも、声がいつもよりかすれている。
運動会のあと、少しだけだるいって言っていた。あれからも、店の仕込みも、学校も、バイトも、全部いつも通りにやっていた。やりすぎると壊れるって、本人が一番知っているはずなのに。
私は、カウンターの内側からそっと手を伸ばして、秋穂の額に触れた。
――熱い。
「秋穂、熱あるよ。これ、平気じゃない」
秋穂が、目を丸くした。触られるのに慣れてきたはずなのに、まだ少し驚く顔をする。
「……美春」
「呼ぶな、って言わないでね。今日は呼ぶ。帰るよ」
「でも、仕込み――」
「私がいる」
言い切った瞬間、背中の方から低い声がした。
「はいはい、話は終わり。秋穂ちゃん、今日は帰りな」
マスターだった。いつの間にか近くに来ていて、コーヒーカップを乾いた布で拭いている。目は笑っているのに、声には店長の硬さがある。
「無理して倒れたら、店にも美春ちゃんにも迷惑だ。……それに」
マスターは言いかけて、少しだけ間を置いた。
「"続ける"ってのは、頑張り続けることじゃない。休むのも、技術だ」
秋穂は唇を噛んだ。反論したいのに、できない時の顔。
私はその横顔を見て、指先を握りしめた。
「秋穂、お願い。今日だけは、休んで」
秋穂は、しばらく黙っていた。雨の音が、やけに大きく感じた。
「……ごめん」
「謝らないで。帰って、寝て。すぐ」
秋穂は小さく頷いて、エプロンの紐をほどいた。
その手つきがいつもより遅くて、胸がきゅっと締まる。
店のドアが開いて、冷たい雨の匂いが入り込む。
秋穂は傘を差しても、肩が少し震えて見えた。
私は、背中に向かって言った。
「あとで行くから」
秋穂は振り返らずに、でも確かに、ほんの少しだけ手を上げた。
◇
秋穂が帰ったあと、店の中は妙に広くなった。
いつもなら、厨房から聞こえる器具の小さな音とか、秋穂の足音とか、そういう"生活の気配"があるのに、それが抜け落ちたみたいに空気が軽い。
「美春ちゃん」
マスターが言った。
「今日、ホール回せるか?」
喉が鳴った。
怖い、って思ってしまう自分が情けない。でも、逃げないって決めた。春休みに、秋穂に教わった。お菓子のことも、接客のことも、店の流れも。私は"見てるだけの人"じゃないって、あの子が信じさせてくれた。
「……やります」
「よし」
マスターは短く頷いて、いつもより丁寧に鍵束を机に置いた。
雨の日の店は静かだ。客足は少ない。だからこそ、今日みたいな日が"試験"になる。
午後、来たのは三組だけだった。
濡れたコートの匂いを運んでくる人、傘を畳むのに手間取って照れる人、窓の外ばかり見ている人。
「いらっしゃいませ」
声が震えないように息を整える。
メニューを差し出して、注文を聞いて、伝票を書いて、カップを温めて、コーヒーを落とす。
ぽたり、ぽたり。
ドリップの音は雨の音に似ている。
でも、雨と違って、私はこの音を"自分で作っている"。
秋穂が昨日焼いたクッキーを皿に盛る。
並べ方ひとつで、見た目の温度が変わる。秋穂はいつも、そういうところまで気にしていた。私は真似して、少しだけ角度を変えた。
「……美味しそう」
お客さんが、ぽつりと呟いた。
その一言が、胸の奥を明るくした。
閉店時間。
最後の椅子をテーブルに上げて、床を拭いて、手を洗って。
できた。
今日は、秋穂がいないのに、店がちゃんと回った。
マスターが、カウンター越しにこちらを見た。
「上手くなったな」
「秋穂に……教えてもらったから」
「それもあるけど、やったのは美春ちゃんだ」
そう言われると、嬉しいのに、同時に胸がちくりとする。
秋穂がいなくても大丈夫。
その言葉は、秋穂が今日口にしそうな弱さに似ている気がした。
私は、エプロンを畳んで鞄に入れた。
そして、もう一度スマホを見た。秋穂からは、何も来ていない。
「……行ってきます」
「気をつけてな」
マスターの声は、いつもより少しだけ優しかった。
私は傘を差して、雨の中へ出た。店の明かりが背中で小さくなる。
胸の中では、秋穂の熱がまだ冷めない。
◇
秋穂の家の前に着いた時、雨は細くなっていた。細いのに、しつこい。
インターホンを押す指が、少しだけ迷った。
私は"恋人"として来たわけじゃない。――来られない。
でも、"大切な人"としてなら、来てもいいはずだ。
ピンポーン。
ドアが開いて、香織さんが出てきた。
きちんとした服、きちんとした髪。だけど、目の下に薄い疲れがある。心配していたのは、私だけじゃない。
「美春さん?」
「あの……秋穂、大丈夫ですか」
「熱はまだあるけど、さっきよりは落ち着いたわ。……来てくれてありがとう」
"ありがとう"が出てきたことに、私の方が少し驚いた。
香織さんは、言葉を正しく使う人だ。必要な言葉だけを選ぶ。でも今日は、その選び方が少し柔らかい。
「秋穂ね、あなたのこと心配してたの」
「え……?」
「店、大丈夫かって。無理しないで帰れって言っても、最後までそれだけは聞いてた」
香織さんは、少しだけ目を細めた。
その表情が、何かを見透かしているようで――でも、責めてはいない。
「……あの子にとって、あなたは大切な人なのね」
その言葉が、"友達"以上の何かを含んでいる気がした。
私は、何も言えなくて、ただ頷いた。
香織さんは、それ以上は踏み込まなかった。
代わりに、短く言う。
「ありがとう。……それと、無理はしないで。あなたも」
「……はい」
香織さんは私を秋穂の部屋へ通してくれた。
胸がじんわり熱くなる。
"敵"じゃない。守り方が硬いだけで、ちゃんと温度がある。
「上がって。静かにね」
「はい」
廊下の明かりは、家の匂いを照らしていた。柔軟剤と、少しだけ薬の匂い。
香織さんに案内されて、秋穂の部屋の前に立つ。
ノックする。
「……入って」
声が、やっぱりかすれている。
ドアを開けると、秋穂がベッドの中にいた。
布団から出ている髪が少し乱れていて、枕元に水と体温計、読みかけのノートが置いてある。机の上は整っていて、余計なものが少ない。けれど、冷たくはない。小さな間接灯が、部屋に薄い琥珀色を落としていた。
「美春……来たの」
その一言で、私はやっと息を吐けた。
「来た。来るに決まってるでしょ」
秋穂は少し笑おうとして、咳き込んだ。
私は慌てて枕元の水を取って、ストローを差す。
「ほら。ゆっくり」
秋穂が飲む。喉が鳴る音が小さい。
いつもは、お菓子の香りがする口元が、今日は薬っぽい匂いをしている。
それが、やけに現実だった。
「店……大丈夫だった?」
「大丈夫。雨だったし、お客さん少なかった。……それに、私、ちゃんとできた」
秋穂の目が、少しだけ丸くなる。
「……すごい」
「すごくない。秋穂が教えてくれたから」
言ったら、秋穂は視線を落として、布団の端を指でつまんだ。
弱気になる前の、予備動作。
「……良かった」
「うん」
秋穂が、もう一度、ぽつりと言った。
「私がいなくても、大丈夫」
胸が、きゅっと縮む。
「秋穂、それは――」
「でも」
秋穂は、目を上げた。熱で少し潤んだ瞳。普段より、感情が表に出ている。
その瞬間、秋穂の肩が小さく震えた。寒いのか、不安なのか。
秋穂の唇が、何か言いかけて、止まる。
言葉を選んでいる。
それとも、言えないことがある?
息が、少しだけ浅い。
熱のせいだけじゃない気がした。
「……ちょっと、寂しい」
その言葉は、雨粒みたいに静かに落ちてきて、私の中で跳ねた。
可愛い、とか思う余裕がないくらい、愛しい。
そして――気づく。
秋穂は、もっと言いたいことがあるんだ。
「寂しい」の奥に、隠れている言葉。
――いなくなるのが、怖い。
そんな声が、聞こえる気がした。
「なに弱気になってるの」
「……弱気、だめ?」
声が、いつもより高い。
子供みたいに頼りない。
秋穂の目が、私の顔を探っている。答えを待っている。
「だめじゃない。でも、秋穂は……頑張りすぎ」
私は、布団の上に出ている秋穂の手を握った。
熱い。
手の温度だけで、体調が分かるのが、少し怖い。
「何か食べた?」
「……お粥、少し」
「じゃあ、あとでスポーツドリンク買ってくる。あと、ゼリー」
「……」
秋穂が、私の手を握り返す。弱いけど、確かに。
「美春が、いてくれるだけでいい」
今度は私の方が、言葉を失った。
「……ずるい」
「何が」
「そんなこと言われたら、ずっといたくなる」
秋穂が、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑顔というより、"安心"の形。
その表情を見た瞬間、私は思った。
今日は、私が秋穂を支える番だ。
秋穂がいつも、私に"決めさせて"くれるみたいに。
◇
しばらくして、秋穂の呼吸が少しずつ落ち着いていった。
雨音が、窓の外で一定のリズムを刻んでいる。部屋の明かりが柔らかくて、時間の境目が曖昧になる。
「眠い?」
「……うん。でも、寝たら……」
「起きたら、私がいないと思う?」
秋穂が、少しだけ黙る。
答えなくても、答えは分かる。
「……寝て」
私は言った。
秋穂は、小さく頷いて、もう一度目を閉じた。
握っている手から力が抜けていって、それでも、繋がりは残る。
呼吸が、少しだけ深くなる。
眠りに落ちていく。
私は、秋穂の手を握ったまま、動けなかった。
秋穂の「寂しい」が、まだ耳に残っている。
あの声。
いつもは隠している弱さを、熱が溶かして、零れてきた。
私は思った。
秋穂も、怖いんだ。私と同じように。
卒業が近づいて、別々の道が見えてきて。
そんな未来を、秋穂も怖がってる。
――いなくなるのが、怖い。
秋穂が言わなかった言葉を、私が代わりに思う。
大丈夫。いなくならない。
別々の道でも、繋がっていられる。
そう言いたいけど、言えない。
まだ、確信が持てないから。
でも――今日、ここで、秋穂の弱さを見られたことが、嬉しかった。
秋穂が、私に頼ってくれたことが。
私は、秋穂の額の髪をそっと払って、小さく囁いた。
「秋穂、大丈夫。私、ちゃんとここにいるから」
それは、秋穂への約束であり、自分自身への誓いだった。
寝顔は、穏やかだった。
いつもより無防備で、少し幼い。
胸の奥が、熱くなる。
秋穂はいつも、私にキスをする。軽く触れるだけの、温度の確認みたいなやつ。
それが、当たり前になりつつあるのが怖かった。
当たり前になると、ありがたさを忘れそうで。
だから――今日は。
私から、したい。
風邪がうつるとか、そういう理屈が頭をよぎる。
でも、理屈より先に、手が動いた。
私は、顔を近づけた。
秋穂の唇に、そっと触れる。
柔らかい。
熱があるせいか、いつもより温かい。
ほんの数秒。触れて、離れる。
心臓がうるさい。
雨音が遠くなる。
秋穂は、眠っている。
気づいていない、はず。
それでいい。
これは、私からの「ありがとう」だ。
言葉じゃなく、温度で渡すやつ。
私は、秋穂の手をもう一度握って、額の髪をそっと払った。
「早く元気になって」
返事はない。
でも、秋穂の呼吸が少しだけ深くなった気がした。
◇
【秋穂】
――今、何か。
唇に、あたたかいものが触れた。
夢じゃない。雨音とも違う。もっと近い、もっと柔らかい。
私は目を薄く開けそうになって、やめた。
見てしまったら、終わってしまう気がした。
美春が、私に。
美春からのキス。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
熱のせいじゃない。
私は、寝たふりを続けた。
美春の"初めて"を、邪魔したくなかった。
それに――。
美春の顔が、少しだけ泣きそうに見えたから。
嬉しいのに、必死で、優しい顔。
私は、目を閉じたまま、指先だけ動かして、美春の手をほんの少しだけ握り返した。
――弱いところ、見せちゃった。
私は目を閉じたまま、胸の奥で小さく呟いた。
いつもなら、見せない。隠す。「大丈夫」って言う。
でも、今日は――熱のせいで、言葉が勝手に出た。
「寂しい」って。
「弱気、だめ?」って。
本当は、もっと言いたかった。
――いなくなるのが、怖い。
――一人になるのが、怖い。
――美春のいない毎日が、想像できない。
でも、言えなかった。
言ったら、美春を困らせる。不安にさせる。
私が弱くなったら、美春はどうなる?
――そんなふうに思ってた。
でも、美春は言った。
「頑張りすぎ」って。
頑張りすぎ、か。
たぶん、そうなのかもしれない。
私は、美春の手の温かさを感じながら、思った。
弱くてもいい。
たまには、頼ってもいい。
美春が、受け止めてくれるから。
そう思えたのが――少しだけ、嬉しかった。
◇
【美春】
翌朝、スマホが震えた。
私は布団の中で画面を見て、息を止めた。
10:12 秋穂 おはよう
10:13 美春 秋穂、体調どう?
10:13 秋穂 だいぶ良くなった
10:13 秋穂 昨日、ありがとう
10:14 美春 当たり前だよ
10:14 秋穂 ……昨日、キスした?
心臓が跳ねた。
指が固まる。
画面の文字が、急に別の意味を帯びて見える。
10:15 美春 っ!?
10:15 美春 気づいてた!?
10:16 秋穂 起きてた
10:16 美春 うそ……恥ずかしい……
10:17 秋穂 嬉しかった
10:17 秋穂 美春からのキス、初めてだったから
ずるい。
画面越しなのに、顔が熱くなる。
私は布団の中で呻いて、枕に顔を押し付けた。
◇
そして数日後。
――あれ?
喉が痛い。体がだるい。微熱。
まさかと思って体温計を見たら、ちゃんと数字が並んでいた。
「うつった……」
最悪だ、と思うのに、どこかで嬉しいと思ってしまう自分がいる。
秋穂の風邪が、私にうつった。
秋穂が触れたもの、秋穂が吸った空気、秋穂の温度。
それが、今、私の中にある。
繋がっている、と思った。
離れていても、同じ症状を共有している。
お揃いの風邪。
ほんとに最悪。
でも――すごく、嬉しい。
夕方、インターホンが鳴った。
母が出て、少し驚いた声がした。
「美春のお友達?」
「……周防です。美春、大丈夫ですか」
私の部屋のドアが開いて、秋穂が入ってきた。
マスクをして、手には紙袋。目が真剣で、でも優しい。
「秋穂……来たの」
「当たり前」
秋穂は紙袋から、スポーツドリンクとゼリーと、のど飴を出した。
それから、小さな保冷剤をタオルで包んで、私の額に当てる。
「冷たい……」
「我慢」
言い方はいつも通り短いのに、手つきが丁寧だった。
私はそれだけで、胸がいっぱいになる。
「お揃い、だね」
「……うん」
秋穂は、私の手を握った。
前みたいに熱くない。秋穂の熱が下がった証拠。
それが安心で、少しだけ寂しい。
「早く治して」
「なんで」
「……来週、また一緒に走る」
秋穂の言葉の選び方が、少しだけ照れている。
私は笑いたいのに、咳が出て笑えなかった。
「……うん。治す」
「それと」
秋穂が少し間を置いて、視線を逸らした。
「……夏、プールとかあるし」
「え?」
言った瞬間、自分で恥ずかしくなったのか、耳が赤くなる。
「美春、ダイエットしてたし。……私も、ちゃんとしないと」
「秋穂は細いじゃん」
「……でも」
秋穂は言いかけて、やめた。
何か気にしているのが分かる。見られるのが苦手な秋穂にとって、プールは特別な場所なのかもしれない。
私は熱のせいにできる顔の赤さで、笑った。
「秋穂、そういうの気にするんだ」
「……する」
その一言が、甘くて、雨粒みたいに胸に落ちた。
私は、秋穂の指を握り返した。
今度は私が、温度で伝える番。
「じゃあ、ちゃんと治して。……私も、ちゃんと元気になる」
「……約束」
秋穂は、私の手を握ったまま、少しだけ視線を泳がせた。
何か言いたそうなのに、言わない。
「なに?」
「……ううん」
「秋穂」
私が名前を呼ぶと、秋穂は少しだけ唇を尖らせた。
その仕草が、やけに幼い。
「……キス、したい」
「え」
「でも、風邪うつるから。……我慢する」
言い終わってから、秋穂は自分で恥ずかしくなったのか、耳まで赤くなった。
顔を背けて、小さく「言わなきゃよかった」と呟く。
私は、胸の奥が甘くとろけそうになるのを感じながら、秋穂の頭に手を伸ばした。
「えらい」
「……え」
「秋穂、えらい。ちゃんと我慢できて」
秋穂が、目を丸くする。
褒められると思っていなかったみたいに、ぽかんとした顔。
「……子供みたい」
「そうだね。今の秋穂、すごく可愛い」
「……美春」
秋穂が抗議するみたいに私の名前を呼ぶけど、声に力がない。
むしろ、嬉しそうに見える。
私は、秋穂の頭をもう一度撫でた。
髪が柔らかくて、指の間をすり抜ける。
「治ったら、ね」
「……うん」
秋穂は、小さく頷いた。
その返事は、約束の形をしていた。
外では雨が降っていた。
でも、部屋の中の温度は、雨よりずっとやわらかい。
お揃いの風邪。
お揃いの看病。
それもきっと、二人の"並走"の形だと思った。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




