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第22話「秘密のまま、並んで」

ライトな百合x成長物語です。

4話、8話、14話がキリのいいポイントです!

15話以降、甘々予定!

 五月の風は、まだ春の柔らかさを残しながら、運動会の土の匂いを連れてくる。校庭の白線が引き直され、放課後のグラウンドには、いつもより多い足音と笑い声が落ちていた。


 高校最後の運動会。


 私にとっては、去年まで「早く終わってほしい行事」だったはずなのに――今年は、胸の奥が落ち着かない。


 理由は、ひとつしかない。


 秋穂と一緒に走ることになりそうだから。


     ◇


 前日の帰り道。教室の黒板の横に貼られた種目表の前には、人だかりができていた。


「クラス対抗リレー、選手決めよー!」


 れいなが声を張る。彼女は相変わらず、何かを"決める"役が似合う。決められる側にいることが多かった私には、眩しいくらいの手際だ。


「男子四人、女子四人。女子どうする?」

「去年速かった人いない?」

「周防さん、足速いよね? 確か――」


 その名前が出た瞬間、私は反射みたいに秋穂を見た。

 秋穂は窓際の席で、さらりとノートを閉じたところだった。目線だけが一瞬こちらに向く。小さく瞬く。表情は平らなのに、目の奥だけが「やだな」と言っている。


 分かる。

 秋穂は、注目されるのが得意じゃない。

 でも――


「周防さん、出てくれない? 女子枠、必要でさ」


 れいなではなく、クラス委員の男子が恐る恐る声をかけた。押し付けじゃなく、お願いの形を選んでいるのが分かる。


 秋穂は少しだけ視線を泳がせてから、短く頷いた。


「……うん。いい」

「やった!」


 歓声が上がる。秋穂は小さく肩をすくめた。照れてる、というより、照れる前に心の扉を閉めた感じ。だけど、私は知っている。秋穂は"やると決めたらやる"人だ。

 その次の瞬間。


「結城さんも、出られない?」

「……え?」


 私は、喉の奥で声が詰まった。


「結城さん、最近走ってるって聞いたよ。朝、周防さんと公園にいるの見たって」


 やめて。見ないで。見ないでほしいのに、見られている現実はちゃんと存在する。

 胸がきゅっと縮む。視線って、目に見えないのに、刺さる。


「え、二人で朝ラン? なにそれ青春じゃん」

「仲良すぎない?」

「ふ、普通だよ!」


 反射で否定してしまって、言い終わってから、喉の奥が熱くなった。

 でも、言えない。言ったら、何が起きるか分からない。笑われるかもしれないし、変な噂になるかもしれないし、秋穂がまた、あの硬い表情に戻ってしまうかもしれない。

 私は、笑って誤魔化すしかなかった。


「えっと……ほら、喫茶店も一緒だし」


 喫茶店。

 その言葉が出た瞬間、秋穂が私を見た。

 責める目じゃない。むしろ、私の背中を支えるみたいな目。


 ――大丈夫。

 秋穂がそう言ってくれている気がして、私は深呼吸した。


「……出る。リレー、出ます」

「ほんと? 助かる!」


 勢いで引き受けた。

 勢いで引き受けたのに、胸の奥が少しだけ軽い。

 

 だって。

 秋穂にバトンを渡せる。

 "走る"という形で、同じ時間を共有できる。

 秘密のままでも――一緒に、走れる。


     ◇


 放課後の練習は、思ったよりも本格的だった。


 グラウンドの隅に並んで、バトンパスの練習。誰かの掛け声。砂を蹴る音。笑い声の裏にある、真面目な息遣い。

 私は、スタート地点に立ちながら、心臓が落ち着かないのを感じていた。


 走るのが怖いんじゃない。

 見られるのが怖い。


 秋穂が走るところを、みんなが見る。

 私が走るところも、みんなが見る。

 そして、私たちがバトンを渡す瞬間を――みんなが見る。


 ただのリレー。なのに、私は勝手に意味を盛ってしまう。

 でも――盛っているのは、私だけだ。

 だから、やるしかない。


「周防、いける?」


 男子の一人が声をかける。


「……うん」


 秋穂が前に出る。ジャージじゃなく、制服のままなのに、足元が軽く見える。助走をつけて、走り出した。

 ――速い。

 空気が変わった。音が、薄くなる。秋穂の足音だけが、規則正しく地面を叩く。腕の振りが無駄なくて、体幹がぶれない。髪が風に引かれて、背中のラインが綺麗に伸びる。

 速さって、こういうことなんだ、と一瞬で分かる。


「うわ、周防やば! 速っ!」

「クラス一じゃん!」


 歓声が上がる。秋穂はゴールラインを越えて、少しだけ息を吐いた。すぐに視線を伏せる。その仕草が、走った直後なのに静かで、逆に目を引く。

 秋穂は、走ると"目立つ"。

 本人は望んでいない形で。

 私は胸の奥がざわついた。誇らしい気持ちと、守りたい気持ちが同時に起きる。


 次は、私の番。


「結城、いける?」

「……いける」


 言いながら、足が少し震えた。去年の私なら、絶対に「無理」と言っていた。目立ちたくない。失敗したくない。笑われたくない。そういう理由をいくつも並べて、逃げていた。

 でも今年の私は、朝の公園を知っている。

 息が上がって、足が重くて、泣きそうになって、それでも秋穂の靴音に合わせて走った日々を知っている。

 

 だから――走り出した。

 最初の三歩は怖い。でも、四歩目からは体が覚えている。腕を振る。足を運ぶ。呼吸を整える。

 遅い。秋穂ほどじゃない。けど――去年よりずっと軽い。


「結城、悪くない!」

「フォームいいじゃん!」


 意外そうな声が飛んできて、私は少しだけ笑いそうになった。

 私が走って、褒められる日が来るなんて。

 走り終えて、息を切らしながら戻ると、秋穂が私の前に立っていた。


「美春」


 名前を呼ばれるだけで、胸が少しだけ熱くなる。学校で名前を呼ばれるのは普通のことなのに、秋穂が呼ぶと、違う。


「……なに?」

「腕、もっと振って」


 秋穂が、自分の腕を軽く振って見せる。真面目な顔なのに、どこか可愛い。先生みたいな、恋人みたいな。


「こう?」

「うん。そう」


 短い肯定。秋穂の肯定は、いつも淡いのに、ちゃんと芯がある。私は頷いた。


「……見てて」


 そう言ったら、秋穂が一瞬だけ目を見開いて、すぐに小さく頷いた。


「……うん。見る」


 その返事が、思ったよりも胸に残った。


     ◇


 運動会当日。

 朝の校庭は、いつもと違う匂いがした。テントの布の匂い。ラインパウダーの乾いた匂い。誰かが持ってきた日焼け止めの匂い。遠くで焼きそばの仕込みが始まったのか、ソースの甘い匂いまで混ざってくる。

 空は、五月の青。雲が薄い。太陽が近い。


 私はクラスの応援席に座りながら、頭に巻いた鉢巻きを指で押さえた。緩んでいないか確認するふりをして、周囲の視線から逃げる癖がまだ残っている。

 隣に、秋穂が座る。

 隣、といっても肩が触れるほど近くはない。教室でも、廊下でも、私たちはいつも"ちょうどいい距離"を保つ。近すぎると、誰かが気づく。遠すぎると、秋穂が少しだけ寂しそうになる。


 だから、絶妙な距離。

 それでも、秋穂の袖が風で揺れて、私の袖に触れそうになるたびに、心臓が跳ねる。


「美春、緊張してる?」

 秋穂が小声で言った。


「……うん。ちょっと」

「……大丈夫」


 秋穂はいつも、励ましの言葉が短い。短いから、嘘じゃないと分かる。


 午前の部、障害物競走。

 秋穂の出番が来た。秋穂はスタート地点に立つ。周囲の声が一段大きくなる。


 笛。

 秋穂が走り出した。


 ネットをくぐるときも、平均台に乗るときも、迷いがない。身体が"何をすべきか"を知っているみたいに動く。最後のハードルを跳ぶ瞬間、秋穂の足が地面を蹴った音が、私の耳にくっきり届いた。


 ――軽い。

 秋穂は、ゴールテープを一番に切った。

 歓声が上がる。私は立ち上がって、思い切り拍手した。


「秋穂! すごい!」


 秋穂がこちらを見て、ほんの少しだけ手を振った。微笑みは小さいけど、確かに笑っている。

 私の胸が熱い。


 次は綱引き。私の出番。

 綱を握ると、麻のざらざらが掌に刺さる。苦手。力仕事。私の腕は、筋トレを少ししただけで、まだ細い。


「美春、頑張って!」


 秋穂の声が聞こえた。いつもより少しだけ大きい。

 ――頑張る。


 私は歯を食いしばって綱を引いた。

 結果は負け。転びそうになって、膝に砂がついた。情けない。でも、逃げなかった。全力でやった。


 応援席に戻ると、秋穂が私の膝を見て眉を寄せた。


「……痛い?」

「大丈夫。砂だけ」


 私は笑って言った。秋穂は、少しだけ安心したように息を吐いた。

 その仕草が、私にはたまらなく愛しい。


     ◇


 午前の部、綱引きが終わると、応援席のあちこちで水筒の蓋が鳴った。風が砂を撫でて、鼻の奥が少しだけざらつく。私は汗を袖で拭って、秋穂の方を見た。


 秋穂は、髪を耳にかけている。頬がほんのり赤い。……その赤が妙にきれいで、見てはいけない気がして目を逸らした。


「次、二人三脚の出場者、集合ー。ペアは事前に出してもらってるから、確認してから来いよー」


 先生の声が校庭を切る。ざわ、と空気が揺れた。二人三脚。足首、結ぶやつ。腕、組むやつ。……いや、別に腕は――

 考えた瞬間、顔が熱くなる。私は慌てて水筒を開け、冷たい麦茶で思考を洗い流そうとした。


「美春~」


 背後から、妙に軽い声。振り向くと、れいなが両手を合わせていた。お願いポーズ。作りすぎの笑顔。


「お願いがあるんだけど」

「……無理」

「ひど。聞いてから断って?」


 れいなが首を傾げる。その仕草だけは無害に見えるのに、目が笑ってる。完全に何か企んでる。


「うちのペアさ、欠席」

「欠席?」

「うん。風邪で休み。朝、連絡きた」


 そう言って、れいなはスマホの画面を一瞬だけ見せた。確かに「ごめん、熱…」みたいな短い文面。


「……それは仕方ないね」

「でしょ? 仕方ないの。仕方ないから――」


 れいなが、わざとらしく胸に手を当てた。


「私も、ちょっと……具合悪いかも……」


 うそ。


 声が綺麗すぎる。顔色も良すぎる。むしろ艶がある。演技にしても雑なのに、周りが騒がしいせいで"それっぽく"見えてしまうのが腹立つ。


「れいな、絶対元気」

「え、なに。美春、私のこと分かりすぎじゃない? こわ」

「こわいのはそっち!」


 思わず声が大きくなって、私は口を押さえた。近くにいたクラスメイトがちらっと見る。心臓が一段跳ねる。


 れいなは、さらに低い声で囁いた。


「ね。代わりに、出てくれない?」

「代わりって……ペア決まってるでしょ」

「だから、ペアごと交代。先生に事情説明して"ペア変更していい?"って言うだけ」


 その"だけ"が怖い。先生の前で、理由を言う。しかも二人三脚。ペア交代。誰と出るか、見える。


「無理」

 私は反射で言った。


「じゃあさ」

 れいなはにやっと笑って、私の肩越しに視線を投げた。


「周防さん。出られるよね?」


 ……え。


 振り返ると、秋穂が少し離れたところにいた。たぶん、最初から聞いてた。静かな顔のまま。なのに、耳がうっすら赤い。


「……出る」

 秋穂が短く言った。


 え、出るの。今の流れで。断れるのに。断ってくれていいのに。


 私の喉が乾く。顔が熱い。胸が変な速さで鳴る。


「ほら、決まり!」

 れいなが勝ち誇ったように拳を握る。

「先生には私が言うね。"風邪欠席と、私も体調不良で無理そうなので、美春と周防さんが代わりに出ます"って」


「待って、れいな。体調不良、盛るな」

「盛ってない。私の心が今、風邪」

「意味わかんない!」


 れいなは笑って、私の背中をぽんと押した。


「ほらほら。練習、してないんでしょ? だから本番で頑張れ。燃えろ青春! ファイオー!!」


 元気じゃん。

 青春って、そういう使い方する言葉だったっけ。


 秋穂が、私の横に来る。距離が近い。近いだけで、さっきまで飲んでいた麦茶が喉の奥で温かくなる。


「……嫌?」

 小声。秋穂の声は落ち着いてる。私の心臓だけが騒いでる。


「嫌じゃない……けど」

 私は、言いかけて言葉を飲んだ。

 嫌じゃない、の続きが怖い。言ったら、顔が爆発しそう。


「……じゃあ、やる」

 秋穂が言う。"やる"が命令じゃなくて、確認みたいに落ちる。

 その落ち方が、妙に頼もしい。


 集合場所へ向かう途中、れいなが後ろから肩を揺らしてくる。


「いや~。二人、赤いね」

「赤くない!」

「赤い。周防さんも」

「……赤くない」

「赤いって」


 れいなの声が楽しそうで、私は悔しくて、でも否定できなくて、さらに熱くなる。最悪。


 足首に紐を巻くために座る。体育係が手際よく紐を回す。


「はい、足寄せて。あ、ペア変更? 先生に言った? ……言った。OK出た。じゃ、ここ二人ね」


 あっさり決まってしまった。逃げ道が消える音がした気がした。


「腕、組んでねー。転ぶよー」


 腕。

 私は喉が鳴った。秋穂の袖が私の肘に触れるだけで、心臓が跳ねるのに。

 秋穂が、ためらいがちに私の腕に手を置く。指先が薄い布越しに熱い。


「……転ぶと危ない」

「う、うん……分かってる」


 分かってるのに、分かってないみたいな声になった。私の声。ださい。

 秋穂が少しだけ眉を寄せた。


「……呼吸、して」

「してる……!」


 してる、のに、できてない。

 スタート位置。足首が繋がっているだけで、世界が狭くなる。歩幅が相手の歩幅になる。自分だけでは進めない。


「右、右」

 秋穂が短く言った。


「……右、右」


 私が復唱すると、秋穂の口元がほんの少しだけ上がった。笑いそうで、笑わない、あの境界線の上の顔。


 笛。

 私たちは走り出した――というより、転ばないように前へ崩れた。


「っ、待って、合わない!」

「……合わせて。大丈夫」


 秋穂の声が近い。近すぎる。息が頬に当たりそうで、頭が真っ白になる。

 でも、練習してないからこそ、頭を使うしかない。


「右!」

「右!」

「左!」

「左!」


 声を揃えるたび、心臓も揃いそうになるのが怖い。

 途中で一回だけ、私の足がもつれた。転びそうになって視界が揺れる。

 その瞬間、秋穂の腕が強く私を支えた。体がぶつかる。肩と肩。胸のあたりまで、どん、と来る。


「……美春」

 低い声で、名前。


 私は、その名前で立ち直った。秋穂の名前じゃない。私の名前。


「ごめん……!」

「……いい。起きた」


 秋穂が言う"いい"は、許可じゃなくて、事実の確認みたいで。だから、私は泣きたくならない。


 最後の直線。歓声が近づいてくる。


「一緒に、行く」

 秋穂が言った。


「……うん! 一緒に!」


 言った瞬間、恥ずかしさより先に、嬉しさが来た。秋穂と"同じ言葉"を言えた嬉しさ。

 ゴール。私たちは二位だった。転ばなかった。走れた。


 紐をほどいてもらう間、私は顔が熱すぎて、空しか見られなかった。空は、やけに青い。目に痛い青。

 横を見ると、秋穂も同じように空を見ていた。頬が真っ赤で、耳も赤い。


「……顔、赤い」

 秋穂が小声で言う。


「秋穂も」

 私は即答した。


 秋穂が、ほんの少しだけ唇を噛んで、視線を逸らす。


「……日焼け」

「日焼け、早すぎ」


 私が言うと、秋穂が一瞬だけ笑った。声は出さない。だけど確かに、笑った。

 その笑いが、胸の奥に刺さる。


 ――さっきの"ぶつかった"のが、まだ残ってる。

 肩の温度が、息の近さが、腕の力が。


 れいなが遠くからこちらを見て、完全に満足そうな顔で親指を立てていた。

 私は胸の奥を押さえたくなって、でも押さえられなくて、代わりに水筒を強く握った。


 秘密のまま、並んで走る。

 ……それだけで、こんなに顔が赤くなるなんて。


     ◇


 午後の部。


 クラス対抗リレーの時間が近づくと、校庭の空気が変わった。応援の声が増える。走者の顔が真面目になる。砂の匂いが濃くなる。

 走るために屈伸しただけで、さっき結ばれていた足首の感覚がふいに蘇って、私は理由もなく耳まで熱くなった。

 

 私は第二走者。

 秋穂は――アンカー。

 バトンを渡す相手が秋穂だと思うと、緊張が別の形になる。


 私が失敗したら、秋穂に渡る前に終わる。

 私が遅かったら、秋穂が頑張っても届かない。


 でも、逆に言えば。

 私が繋げば、秋穂が――


 スタートの笛が鳴った。

 第一走者が飛び出す。クラスは三位。悪くない位置。バトンが、私に近づいてくる。


「結城、準備!」


 誰かの声。

 私は深呼吸して、目の前の空気を掴む。

 バトンが伸びてくる。

 受け取った。


 走る。


 腕を振る。秋穂に言われた通りに。足を蹴る。朝の公園で覚えた感覚を引き出す。呼吸を整える。息が喉で熱くなる。けれど、止まらない。


 前を見る。


 二位の走者が少し前。抜けそうで抜けない。距離が縮まらない。焦る。焦った瞬間、足が重くなる。


 ――焦るな。


 心の中で秋穂の声がする。短い「大丈夫」が、胸の中心に落ちる。

 私はフォームを戻した。腕を振る。視線を前に置く。


 バトンを渡す。

 私の区間は、三位のまま。

 悔しい。

 息を切らしながら振り返ると、第三走者が走り出している。私は応援席に戻ることも忘れて、秋穂のところへ視線を走らせた。


 秋穂が、スタート位置にいる。

 アンカー。最後の走者。

 秋穂は立っているだけなのに、空気が引き締まって見える。


 バトンが近づく。秋穂の指先が準備をする。目が、前を見る。

 受け取った瞬間。

 秋穂は、走った。


 ――速い。

 練習のときより速い。迷いがない。足音が、地面を切る。風を割る音が、肌に触れる。


 二位を抜いた。

 歓声が跳ねる。私も叫んでいた。声が枯れるくらい。


「秋穂! 行け!」


 残り五十メートル。秋穂が一位に迫る。距離が縮む。並ぶ。


 残り三十メートル。


 秋穂が、前に出た。


 ゴールテープが揺れる。秋穂が飛び込む。


 一位。


 歓声が爆発した。私は気づいたら走っていた。応援席から飛び出して、砂を蹴って、秋穂のところへ。


 秋穂が息を切らしている。頬が赤い。目が潤んでいるのか、汗なのか分からない。でも、秋穂は笑っていた。隠さない笑いじゃない。大きくはないけど、ちゃんと"喜び"の形をした笑い。


「秋穂! すごい! 一位!」


 私は息を切らしながら言った。

 胸の奥が、熱い。


 秋穂が勝ったから嬉しい、だけじゃない。

 秋穂が走っている間、私は呼吸をするのも忘れていた。視線が秋穂の背中から離れなかった。心臓が、私のものじゃなくて、秋穂のものみたいに動いていた。

 秋穂の走りを、ただ"見る"だけじゃなくて――一緒に走っている気がした。

 そんなふうに誰かと時間を共有したことが、今まで一度もなかった。


 秋穂は、呼吸を整えながら、少しだけ首を振った。


「……美春が、繋いでくれたから」

「私、三位だったのに」

「でも、全力だった」


 秋穂の声が、真面目で、優しい。


「……見てた?」


 聞かれて、胸が熱くなる。


「うん。ずっと見てた」


 秋穂の目が、少しだけほどけた。


 その瞬間――私は、危うく手を伸ばしそうになった。

 抱きしめたい。

 よくやったって、言いたい。

 でも、周りには人がいる。歓声の中で、誰かがこちらを見ている。私たちは、まだ"秘密"だ。


 私は手を握りしめて、代わりに笑った。


「秋穂、かっこよかった」


 秋穂が、耳まで赤くなる。


「……恥ずかしい」

「なんで?」

「……美春に、見られてたから」


 その言葉が、私の胸の内側を甘くくすぐった。

 見られるのが怖かったはずなのに、秋穂に"見られていた"と言われるのは、嬉しい。


 矛盾してる。

 でも、それが恋なのかもしれない。


     ◇


 運動会が終わって、夕方の校舎裏は少しだけ静かだった。応援の声が消えて、代わりに風の音がよく聞こえる。遠くで片付けの金属音がする。誰かがテントを畳む布の擦れる音。


 私はベンチに座って、膝の砂を払った。秋穂が隣に座る。今日だけは、距離が少し近い。疲れた体が、無意識に寄ってしまう。


「秋穂、本当に運動得意だね」

「……中学のとき、少し」

「少しで、あれは無理だよ」


 私が言うと、秋穂が小さく息を吐いた。笑いそうで、笑わない。秋穂の笑いは、いつも境界線の上にある。


「……美春も、走れるようになった」

「秋穂のおかげ」

「……私だけじゃない」


 秋穂は少し考えてから、言葉を探すみたいに続けた。


「美春が、続けたから」


 胸が、きゅっとなる。

 続けるって、簡単じゃない。私が一番知っている。三分で息が上がって、諦めたくなって、それでも秋穂の手の熱に引っ張られて――続けた。


「ねえ、秋穂」

「なに?」

「私、運動会って……初めて楽しいって思った」


 自分で言いながら、少し驚いた。

 去年までの運動会は、早く終わってほしくて、体育着のまま教室の隅で小さくなって、次の種目まで時間を潰していた。目立たないように。失敗しないように。誰かに見られないように。


 でも、今日は違った。

 走りたいと思った。

 秋穂にバトンを渡したいと思った。

 秋穂の走る姿を見たいと思った。

 そして――それが、全部叶った。


 秋穂が、少しだけ驚いた顔をする。


「……え」

「秋穂と一緒だったから」


 言った瞬間、恥ずかしさが遅れてくる。でも、言ってしまった。

 秋穂は、目を伏せて、しばらく黙った。沈黙が長い。けれど、嫌な沈黙じゃない。秋穂が言葉を丁寧に磨いている時間だと、私はもう分かる。


「……私も」


 やっと秋穂が言った。


「運動会、嫌いじゃなかったけど」

「今日は……特別だった」

「美春が、いたから」


 その言葉を聞いた瞬間、私は息を飲んだ。


 "いたから"。

 その四文字が、未来に繋がっている気がした。


 卒業したら、別々の道。

 秋穂は専門学校。

 私は経営学部。

 それでも、"いたから"が続くように。


 私は、今日の秋穂の走りを思い出す。


 真っ直ぐで、迷いがなくて、風みたいで。

 そして、私がバトンを渡した瞬間、秋穂は確かに"受け取った"。

 あれが、私たちの形なのかもしれない。


 秘密でも、嘘でも、怖さがあっても。

 それでも、二人で走れる。


 私は、ベンチの下で、そっと指を動かした。秋穂の指先に触れるか触れないかの距離で止める。触れたい。でも、触れない。触れないけど、そこにいる。


 秋穂が、私の手の動きに気づいて、目だけで笑った。小さな、でも確かな笑い。

 その温度が、夕方の風よりも、ずっとあたたかかった。


「でも……少し、疲れた」


 秋穂がそう言って、小さく息を吐いた。

 そういえば、秋穂は午前から午後まで、何種目も出ていた。いつもは静かに座っているのに、今日は走って、跳んで、身体を動かし続けた。


「大丈夫?」

「うん。……ちょっと、だるいだけ」


 秋穂の声が、少しだけかすれている気がした。

 私は心配になって、秋穂の額に手を伸ばしそうになって――やめた。


 ここは、まだ学校だ。


 でも、秋穂の頬が少しだけ赤いのは、運動の疲れだけじゃない気がした。


     ◇


 帰り道。


 校門の外に出ると、空が少しだけ橙に染まっていた。風が汗を冷やして、肌がひやりとする。なのに、胸の奥は熱いまま。


「美春、寒くない?」

「大丈夫」

「……ほんと?」

「うん。今日、秋穂といっしょに走ったから」


 冗談みたいに言うと、秋穂が小さく息を漏らした。


「……ずるい」

「なにが?」

「そういう言い方」


 秋穂が言う"ずるい"が、最近少しだけ増えた気がする。言葉の端に、感情が乗るようになった。私は、それが嬉しい。


 運動会の写真を撮るクラスメイトの声が遠くで聞こえる。誰かが「来年はもういないんだな」と笑う声も。


 最後の一年。

 その言葉が、今までより現実味を持って胸に落ちた。


 私は、秋穂の横顔を見た。夕日で少しだけ柔らかく見える。

 この隣を、守りたい。


 秘密のままでもいい。堂々とは、まだ先でもいい。でも――"変わらない隣"を、ちゃんと続けたい。


 私は、歩幅を秋穂に合わせた。

 今日のリレーみたいに。


 バトンを渡す瞬間、秋穂の手がちゃんとそこにあった。

 それと同じように、これからも――秋穂の手が、私の隣にある。


 少し遅くても、ちゃんと繋いで。


 そして、いつか。


 手を繋ぐことを、隠さなくていい日が来るまで。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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