第22話「秘密のまま、並んで」
ライトな百合x成長物語です。
4話、8話、14話がキリのいいポイントです!
15話以降、甘々予定!
五月の風は、まだ春の柔らかさを残しながら、運動会の土の匂いを連れてくる。校庭の白線が引き直され、放課後のグラウンドには、いつもより多い足音と笑い声が落ちていた。
高校最後の運動会。
私にとっては、去年まで「早く終わってほしい行事」だったはずなのに――今年は、胸の奥が落ち着かない。
理由は、ひとつしかない。
秋穂と一緒に走ることになりそうだから。
◇
前日の帰り道。教室の黒板の横に貼られた種目表の前には、人だかりができていた。
「クラス対抗リレー、選手決めよー!」
れいなが声を張る。彼女は相変わらず、何かを"決める"役が似合う。決められる側にいることが多かった私には、眩しいくらいの手際だ。
「男子四人、女子四人。女子どうする?」
「去年速かった人いない?」
「周防さん、足速いよね? 確か――」
その名前が出た瞬間、私は反射みたいに秋穂を見た。
秋穂は窓際の席で、さらりとノートを閉じたところだった。目線だけが一瞬こちらに向く。小さく瞬く。表情は平らなのに、目の奥だけが「やだな」と言っている。
分かる。
秋穂は、注目されるのが得意じゃない。
でも――
「周防さん、出てくれない? 女子枠、必要でさ」
れいなではなく、クラス委員の男子が恐る恐る声をかけた。押し付けじゃなく、お願いの形を選んでいるのが分かる。
秋穂は少しだけ視線を泳がせてから、短く頷いた。
「……うん。いい」
「やった!」
歓声が上がる。秋穂は小さく肩をすくめた。照れてる、というより、照れる前に心の扉を閉めた感じ。だけど、私は知っている。秋穂は"やると決めたらやる"人だ。
その次の瞬間。
「結城さんも、出られない?」
「……え?」
私は、喉の奥で声が詰まった。
「結城さん、最近走ってるって聞いたよ。朝、周防さんと公園にいるの見たって」
やめて。見ないで。見ないでほしいのに、見られている現実はちゃんと存在する。
胸がきゅっと縮む。視線って、目に見えないのに、刺さる。
「え、二人で朝ラン? なにそれ青春じゃん」
「仲良すぎない?」
「ふ、普通だよ!」
反射で否定してしまって、言い終わってから、喉の奥が熱くなった。
でも、言えない。言ったら、何が起きるか分からない。笑われるかもしれないし、変な噂になるかもしれないし、秋穂がまた、あの硬い表情に戻ってしまうかもしれない。
私は、笑って誤魔化すしかなかった。
「えっと……ほら、喫茶店も一緒だし」
喫茶店。
その言葉が出た瞬間、秋穂が私を見た。
責める目じゃない。むしろ、私の背中を支えるみたいな目。
――大丈夫。
秋穂がそう言ってくれている気がして、私は深呼吸した。
「……出る。リレー、出ます」
「ほんと? 助かる!」
勢いで引き受けた。
勢いで引き受けたのに、胸の奥が少しだけ軽い。
だって。
秋穂にバトンを渡せる。
"走る"という形で、同じ時間を共有できる。
秘密のままでも――一緒に、走れる。
◇
放課後の練習は、思ったよりも本格的だった。
グラウンドの隅に並んで、バトンパスの練習。誰かの掛け声。砂を蹴る音。笑い声の裏にある、真面目な息遣い。
私は、スタート地点に立ちながら、心臓が落ち着かないのを感じていた。
走るのが怖いんじゃない。
見られるのが怖い。
秋穂が走るところを、みんなが見る。
私が走るところも、みんなが見る。
そして、私たちがバトンを渡す瞬間を――みんなが見る。
ただのリレー。なのに、私は勝手に意味を盛ってしまう。
でも――盛っているのは、私だけだ。
だから、やるしかない。
「周防、いける?」
男子の一人が声をかける。
「……うん」
秋穂が前に出る。ジャージじゃなく、制服のままなのに、足元が軽く見える。助走をつけて、走り出した。
――速い。
空気が変わった。音が、薄くなる。秋穂の足音だけが、規則正しく地面を叩く。腕の振りが無駄なくて、体幹がぶれない。髪が風に引かれて、背中のラインが綺麗に伸びる。
速さって、こういうことなんだ、と一瞬で分かる。
「うわ、周防やば! 速っ!」
「クラス一じゃん!」
歓声が上がる。秋穂はゴールラインを越えて、少しだけ息を吐いた。すぐに視線を伏せる。その仕草が、走った直後なのに静かで、逆に目を引く。
秋穂は、走ると"目立つ"。
本人は望んでいない形で。
私は胸の奥がざわついた。誇らしい気持ちと、守りたい気持ちが同時に起きる。
次は、私の番。
「結城、いける?」
「……いける」
言いながら、足が少し震えた。去年の私なら、絶対に「無理」と言っていた。目立ちたくない。失敗したくない。笑われたくない。そういう理由をいくつも並べて、逃げていた。
でも今年の私は、朝の公園を知っている。
息が上がって、足が重くて、泣きそうになって、それでも秋穂の靴音に合わせて走った日々を知っている。
だから――走り出した。
最初の三歩は怖い。でも、四歩目からは体が覚えている。腕を振る。足を運ぶ。呼吸を整える。
遅い。秋穂ほどじゃない。けど――去年よりずっと軽い。
「結城、悪くない!」
「フォームいいじゃん!」
意外そうな声が飛んできて、私は少しだけ笑いそうになった。
私が走って、褒められる日が来るなんて。
走り終えて、息を切らしながら戻ると、秋穂が私の前に立っていた。
「美春」
名前を呼ばれるだけで、胸が少しだけ熱くなる。学校で名前を呼ばれるのは普通のことなのに、秋穂が呼ぶと、違う。
「……なに?」
「腕、もっと振って」
秋穂が、自分の腕を軽く振って見せる。真面目な顔なのに、どこか可愛い。先生みたいな、恋人みたいな。
「こう?」
「うん。そう」
短い肯定。秋穂の肯定は、いつも淡いのに、ちゃんと芯がある。私は頷いた。
「……見てて」
そう言ったら、秋穂が一瞬だけ目を見開いて、すぐに小さく頷いた。
「……うん。見る」
その返事が、思ったよりも胸に残った。
◇
運動会当日。
朝の校庭は、いつもと違う匂いがした。テントの布の匂い。ラインパウダーの乾いた匂い。誰かが持ってきた日焼け止めの匂い。遠くで焼きそばの仕込みが始まったのか、ソースの甘い匂いまで混ざってくる。
空は、五月の青。雲が薄い。太陽が近い。
私はクラスの応援席に座りながら、頭に巻いた鉢巻きを指で押さえた。緩んでいないか確認するふりをして、周囲の視線から逃げる癖がまだ残っている。
隣に、秋穂が座る。
隣、といっても肩が触れるほど近くはない。教室でも、廊下でも、私たちはいつも"ちょうどいい距離"を保つ。近すぎると、誰かが気づく。遠すぎると、秋穂が少しだけ寂しそうになる。
だから、絶妙な距離。
それでも、秋穂の袖が風で揺れて、私の袖に触れそうになるたびに、心臓が跳ねる。
「美春、緊張してる?」
秋穂が小声で言った。
「……うん。ちょっと」
「……大丈夫」
秋穂はいつも、励ましの言葉が短い。短いから、嘘じゃないと分かる。
午前の部、障害物競走。
秋穂の出番が来た。秋穂はスタート地点に立つ。周囲の声が一段大きくなる。
笛。
秋穂が走り出した。
ネットをくぐるときも、平均台に乗るときも、迷いがない。身体が"何をすべきか"を知っているみたいに動く。最後のハードルを跳ぶ瞬間、秋穂の足が地面を蹴った音が、私の耳にくっきり届いた。
――軽い。
秋穂は、ゴールテープを一番に切った。
歓声が上がる。私は立ち上がって、思い切り拍手した。
「秋穂! すごい!」
秋穂がこちらを見て、ほんの少しだけ手を振った。微笑みは小さいけど、確かに笑っている。
私の胸が熱い。
次は綱引き。私の出番。
綱を握ると、麻のざらざらが掌に刺さる。苦手。力仕事。私の腕は、筋トレを少ししただけで、まだ細い。
「美春、頑張って!」
秋穂の声が聞こえた。いつもより少しだけ大きい。
――頑張る。
私は歯を食いしばって綱を引いた。
結果は負け。転びそうになって、膝に砂がついた。情けない。でも、逃げなかった。全力でやった。
応援席に戻ると、秋穂が私の膝を見て眉を寄せた。
「……痛い?」
「大丈夫。砂だけ」
私は笑って言った。秋穂は、少しだけ安心したように息を吐いた。
その仕草が、私にはたまらなく愛しい。
◇
午前の部、綱引きが終わると、応援席のあちこちで水筒の蓋が鳴った。風が砂を撫でて、鼻の奥が少しだけざらつく。私は汗を袖で拭って、秋穂の方を見た。
秋穂は、髪を耳にかけている。頬がほんのり赤い。……その赤が妙にきれいで、見てはいけない気がして目を逸らした。
「次、二人三脚の出場者、集合ー。ペアは事前に出してもらってるから、確認してから来いよー」
先生の声が校庭を切る。ざわ、と空気が揺れた。二人三脚。足首、結ぶやつ。腕、組むやつ。……いや、別に腕は――
考えた瞬間、顔が熱くなる。私は慌てて水筒を開け、冷たい麦茶で思考を洗い流そうとした。
「美春~」
背後から、妙に軽い声。振り向くと、れいなが両手を合わせていた。お願いポーズ。作りすぎの笑顔。
「お願いがあるんだけど」
「……無理」
「ひど。聞いてから断って?」
れいなが首を傾げる。その仕草だけは無害に見えるのに、目が笑ってる。完全に何か企んでる。
「うちのペアさ、欠席」
「欠席?」
「うん。風邪で休み。朝、連絡きた」
そう言って、れいなはスマホの画面を一瞬だけ見せた。確かに「ごめん、熱…」みたいな短い文面。
「……それは仕方ないね」
「でしょ? 仕方ないの。仕方ないから――」
れいなが、わざとらしく胸に手を当てた。
「私も、ちょっと……具合悪いかも……」
うそ。
声が綺麗すぎる。顔色も良すぎる。むしろ艶がある。演技にしても雑なのに、周りが騒がしいせいで"それっぽく"見えてしまうのが腹立つ。
「れいな、絶対元気」
「え、なに。美春、私のこと分かりすぎじゃない? こわ」
「こわいのはそっち!」
思わず声が大きくなって、私は口を押さえた。近くにいたクラスメイトがちらっと見る。心臓が一段跳ねる。
れいなは、さらに低い声で囁いた。
「ね。代わりに、出てくれない?」
「代わりって……ペア決まってるでしょ」
「だから、ペアごと交代。先生に事情説明して"ペア変更していい?"って言うだけ」
その"だけ"が怖い。先生の前で、理由を言う。しかも二人三脚。ペア交代。誰と出るか、見える。
「無理」
私は反射で言った。
「じゃあさ」
れいなはにやっと笑って、私の肩越しに視線を投げた。
「周防さん。出られるよね?」
……え。
振り返ると、秋穂が少し離れたところにいた。たぶん、最初から聞いてた。静かな顔のまま。なのに、耳がうっすら赤い。
「……出る」
秋穂が短く言った。
え、出るの。今の流れで。断れるのに。断ってくれていいのに。
私の喉が乾く。顔が熱い。胸が変な速さで鳴る。
「ほら、決まり!」
れいなが勝ち誇ったように拳を握る。
「先生には私が言うね。"風邪欠席と、私も体調不良で無理そうなので、美春と周防さんが代わりに出ます"って」
「待って、れいな。体調不良、盛るな」
「盛ってない。私の心が今、風邪」
「意味わかんない!」
れいなは笑って、私の背中をぽんと押した。
「ほらほら。練習、してないんでしょ? だから本番で頑張れ。燃えろ青春! ファイオー!!」
元気じゃん。
青春って、そういう使い方する言葉だったっけ。
秋穂が、私の横に来る。距離が近い。近いだけで、さっきまで飲んでいた麦茶が喉の奥で温かくなる。
「……嫌?」
小声。秋穂の声は落ち着いてる。私の心臓だけが騒いでる。
「嫌じゃない……けど」
私は、言いかけて言葉を飲んだ。
嫌じゃない、の続きが怖い。言ったら、顔が爆発しそう。
「……じゃあ、やる」
秋穂が言う。"やる"が命令じゃなくて、確認みたいに落ちる。
その落ち方が、妙に頼もしい。
集合場所へ向かう途中、れいなが後ろから肩を揺らしてくる。
「いや~。二人、赤いね」
「赤くない!」
「赤い。周防さんも」
「……赤くない」
「赤いって」
れいなの声が楽しそうで、私は悔しくて、でも否定できなくて、さらに熱くなる。最悪。
足首に紐を巻くために座る。体育係が手際よく紐を回す。
「はい、足寄せて。あ、ペア変更? 先生に言った? ……言った。OK出た。じゃ、ここ二人ね」
あっさり決まってしまった。逃げ道が消える音がした気がした。
「腕、組んでねー。転ぶよー」
腕。
私は喉が鳴った。秋穂の袖が私の肘に触れるだけで、心臓が跳ねるのに。
秋穂が、ためらいがちに私の腕に手を置く。指先が薄い布越しに熱い。
「……転ぶと危ない」
「う、うん……分かってる」
分かってるのに、分かってないみたいな声になった。私の声。ださい。
秋穂が少しだけ眉を寄せた。
「……呼吸、して」
「してる……!」
してる、のに、できてない。
スタート位置。足首が繋がっているだけで、世界が狭くなる。歩幅が相手の歩幅になる。自分だけでは進めない。
「右、右」
秋穂が短く言った。
「……右、右」
私が復唱すると、秋穂の口元がほんの少しだけ上がった。笑いそうで、笑わない、あの境界線の上の顔。
笛。
私たちは走り出した――というより、転ばないように前へ崩れた。
「っ、待って、合わない!」
「……合わせて。大丈夫」
秋穂の声が近い。近すぎる。息が頬に当たりそうで、頭が真っ白になる。
でも、練習してないからこそ、頭を使うしかない。
「右!」
「右!」
「左!」
「左!」
声を揃えるたび、心臓も揃いそうになるのが怖い。
途中で一回だけ、私の足がもつれた。転びそうになって視界が揺れる。
その瞬間、秋穂の腕が強く私を支えた。体がぶつかる。肩と肩。胸のあたりまで、どん、と来る。
「……美春」
低い声で、名前。
私は、その名前で立ち直った。秋穂の名前じゃない。私の名前。
「ごめん……!」
「……いい。起きた」
秋穂が言う"いい"は、許可じゃなくて、事実の確認みたいで。だから、私は泣きたくならない。
最後の直線。歓声が近づいてくる。
「一緒に、行く」
秋穂が言った。
「……うん! 一緒に!」
言った瞬間、恥ずかしさより先に、嬉しさが来た。秋穂と"同じ言葉"を言えた嬉しさ。
ゴール。私たちは二位だった。転ばなかった。走れた。
紐をほどいてもらう間、私は顔が熱すぎて、空しか見られなかった。空は、やけに青い。目に痛い青。
横を見ると、秋穂も同じように空を見ていた。頬が真っ赤で、耳も赤い。
「……顔、赤い」
秋穂が小声で言う。
「秋穂も」
私は即答した。
秋穂が、ほんの少しだけ唇を噛んで、視線を逸らす。
「……日焼け」
「日焼け、早すぎ」
私が言うと、秋穂が一瞬だけ笑った。声は出さない。だけど確かに、笑った。
その笑いが、胸の奥に刺さる。
――さっきの"ぶつかった"のが、まだ残ってる。
肩の温度が、息の近さが、腕の力が。
れいなが遠くからこちらを見て、完全に満足そうな顔で親指を立てていた。
私は胸の奥を押さえたくなって、でも押さえられなくて、代わりに水筒を強く握った。
秘密のまま、並んで走る。
……それだけで、こんなに顔が赤くなるなんて。
◇
午後の部。
クラス対抗リレーの時間が近づくと、校庭の空気が変わった。応援の声が増える。走者の顔が真面目になる。砂の匂いが濃くなる。
走るために屈伸しただけで、さっき結ばれていた足首の感覚がふいに蘇って、私は理由もなく耳まで熱くなった。
私は第二走者。
秋穂は――アンカー。
バトンを渡す相手が秋穂だと思うと、緊張が別の形になる。
私が失敗したら、秋穂に渡る前に終わる。
私が遅かったら、秋穂が頑張っても届かない。
でも、逆に言えば。
私が繋げば、秋穂が――
スタートの笛が鳴った。
第一走者が飛び出す。クラスは三位。悪くない位置。バトンが、私に近づいてくる。
「結城、準備!」
誰かの声。
私は深呼吸して、目の前の空気を掴む。
バトンが伸びてくる。
受け取った。
走る。
腕を振る。秋穂に言われた通りに。足を蹴る。朝の公園で覚えた感覚を引き出す。呼吸を整える。息が喉で熱くなる。けれど、止まらない。
前を見る。
二位の走者が少し前。抜けそうで抜けない。距離が縮まらない。焦る。焦った瞬間、足が重くなる。
――焦るな。
心の中で秋穂の声がする。短い「大丈夫」が、胸の中心に落ちる。
私はフォームを戻した。腕を振る。視線を前に置く。
バトンを渡す。
私の区間は、三位のまま。
悔しい。
息を切らしながら振り返ると、第三走者が走り出している。私は応援席に戻ることも忘れて、秋穂のところへ視線を走らせた。
秋穂が、スタート位置にいる。
アンカー。最後の走者。
秋穂は立っているだけなのに、空気が引き締まって見える。
バトンが近づく。秋穂の指先が準備をする。目が、前を見る。
受け取った瞬間。
秋穂は、走った。
――速い。
練習のときより速い。迷いがない。足音が、地面を切る。風を割る音が、肌に触れる。
二位を抜いた。
歓声が跳ねる。私も叫んでいた。声が枯れるくらい。
「秋穂! 行け!」
残り五十メートル。秋穂が一位に迫る。距離が縮む。並ぶ。
残り三十メートル。
秋穂が、前に出た。
ゴールテープが揺れる。秋穂が飛び込む。
一位。
歓声が爆発した。私は気づいたら走っていた。応援席から飛び出して、砂を蹴って、秋穂のところへ。
秋穂が息を切らしている。頬が赤い。目が潤んでいるのか、汗なのか分からない。でも、秋穂は笑っていた。隠さない笑いじゃない。大きくはないけど、ちゃんと"喜び"の形をした笑い。
「秋穂! すごい! 一位!」
私は息を切らしながら言った。
胸の奥が、熱い。
秋穂が勝ったから嬉しい、だけじゃない。
秋穂が走っている間、私は呼吸をするのも忘れていた。視線が秋穂の背中から離れなかった。心臓が、私のものじゃなくて、秋穂のものみたいに動いていた。
秋穂の走りを、ただ"見る"だけじゃなくて――一緒に走っている気がした。
そんなふうに誰かと時間を共有したことが、今まで一度もなかった。
秋穂は、呼吸を整えながら、少しだけ首を振った。
「……美春が、繋いでくれたから」
「私、三位だったのに」
「でも、全力だった」
秋穂の声が、真面目で、優しい。
「……見てた?」
聞かれて、胸が熱くなる。
「うん。ずっと見てた」
秋穂の目が、少しだけほどけた。
その瞬間――私は、危うく手を伸ばしそうになった。
抱きしめたい。
よくやったって、言いたい。
でも、周りには人がいる。歓声の中で、誰かがこちらを見ている。私たちは、まだ"秘密"だ。
私は手を握りしめて、代わりに笑った。
「秋穂、かっこよかった」
秋穂が、耳まで赤くなる。
「……恥ずかしい」
「なんで?」
「……美春に、見られてたから」
その言葉が、私の胸の内側を甘くくすぐった。
見られるのが怖かったはずなのに、秋穂に"見られていた"と言われるのは、嬉しい。
矛盾してる。
でも、それが恋なのかもしれない。
◇
運動会が終わって、夕方の校舎裏は少しだけ静かだった。応援の声が消えて、代わりに風の音がよく聞こえる。遠くで片付けの金属音がする。誰かがテントを畳む布の擦れる音。
私はベンチに座って、膝の砂を払った。秋穂が隣に座る。今日だけは、距離が少し近い。疲れた体が、無意識に寄ってしまう。
「秋穂、本当に運動得意だね」
「……中学のとき、少し」
「少しで、あれは無理だよ」
私が言うと、秋穂が小さく息を吐いた。笑いそうで、笑わない。秋穂の笑いは、いつも境界線の上にある。
「……美春も、走れるようになった」
「秋穂のおかげ」
「……私だけじゃない」
秋穂は少し考えてから、言葉を探すみたいに続けた。
「美春が、続けたから」
胸が、きゅっとなる。
続けるって、簡単じゃない。私が一番知っている。三分で息が上がって、諦めたくなって、それでも秋穂の手の熱に引っ張られて――続けた。
「ねえ、秋穂」
「なに?」
「私、運動会って……初めて楽しいって思った」
自分で言いながら、少し驚いた。
去年までの運動会は、早く終わってほしくて、体育着のまま教室の隅で小さくなって、次の種目まで時間を潰していた。目立たないように。失敗しないように。誰かに見られないように。
でも、今日は違った。
走りたいと思った。
秋穂にバトンを渡したいと思った。
秋穂の走る姿を見たいと思った。
そして――それが、全部叶った。
秋穂が、少しだけ驚いた顔をする。
「……え」
「秋穂と一緒だったから」
言った瞬間、恥ずかしさが遅れてくる。でも、言ってしまった。
秋穂は、目を伏せて、しばらく黙った。沈黙が長い。けれど、嫌な沈黙じゃない。秋穂が言葉を丁寧に磨いている時間だと、私はもう分かる。
「……私も」
やっと秋穂が言った。
「運動会、嫌いじゃなかったけど」
「今日は……特別だった」
「美春が、いたから」
その言葉を聞いた瞬間、私は息を飲んだ。
"いたから"。
その四文字が、未来に繋がっている気がした。
卒業したら、別々の道。
秋穂は専門学校。
私は経営学部。
それでも、"いたから"が続くように。
私は、今日の秋穂の走りを思い出す。
真っ直ぐで、迷いがなくて、風みたいで。
そして、私がバトンを渡した瞬間、秋穂は確かに"受け取った"。
あれが、私たちの形なのかもしれない。
秘密でも、嘘でも、怖さがあっても。
それでも、二人で走れる。
私は、ベンチの下で、そっと指を動かした。秋穂の指先に触れるか触れないかの距離で止める。触れたい。でも、触れない。触れないけど、そこにいる。
秋穂が、私の手の動きに気づいて、目だけで笑った。小さな、でも確かな笑い。
その温度が、夕方の風よりも、ずっとあたたかかった。
「でも……少し、疲れた」
秋穂がそう言って、小さく息を吐いた。
そういえば、秋穂は午前から午後まで、何種目も出ていた。いつもは静かに座っているのに、今日は走って、跳んで、身体を動かし続けた。
「大丈夫?」
「うん。……ちょっと、だるいだけ」
秋穂の声が、少しだけかすれている気がした。
私は心配になって、秋穂の額に手を伸ばしそうになって――やめた。
ここは、まだ学校だ。
でも、秋穂の頬が少しだけ赤いのは、運動の疲れだけじゃない気がした。
◇
帰り道。
校門の外に出ると、空が少しだけ橙に染まっていた。風が汗を冷やして、肌がひやりとする。なのに、胸の奥は熱いまま。
「美春、寒くない?」
「大丈夫」
「……ほんと?」
「うん。今日、秋穂といっしょに走ったから」
冗談みたいに言うと、秋穂が小さく息を漏らした。
「……ずるい」
「なにが?」
「そういう言い方」
秋穂が言う"ずるい"が、最近少しだけ増えた気がする。言葉の端に、感情が乗るようになった。私は、それが嬉しい。
運動会の写真を撮るクラスメイトの声が遠くで聞こえる。誰かが「来年はもういないんだな」と笑う声も。
最後の一年。
その言葉が、今までより現実味を持って胸に落ちた。
私は、秋穂の横顔を見た。夕日で少しだけ柔らかく見える。
この隣を、守りたい。
秘密のままでもいい。堂々とは、まだ先でもいい。でも――"変わらない隣"を、ちゃんと続けたい。
私は、歩幅を秋穂に合わせた。
今日のリレーみたいに。
バトンを渡す瞬間、秋穂の手がちゃんとそこにあった。
それと同じように、これからも――秋穂の手が、私の隣にある。
少し遅くても、ちゃんと繋いで。
そして、いつか。
手を繋ぐことを、隠さなくていい日が来るまで。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




