第20話「変わらない隣」
ライトな百合x成長物語です。
4話、8話、14話がキリのいいポイントです!
15話以降、甘々予定!
【美春】
改札を抜けた瞬間、駅の空気が少しだけ違った。
春休みの終わりの匂い。冷たさの奥に、もう芽みたいなものが混じっている。
私はスマホを見て、時間を確認するふりをした。
本当は確認したかったのは、時間じゃない。――秋穂の姿だ。
人の波の向こうから、秋穂がこちらに近づいてくる。
制服じゃない。喫茶店のエプロンでもない。
少し長めのコートに、淡い色のマフラー。髪はいつもよりふわっとしていて、頬が外の冷気でわずかに赤い。
可愛い。
思った瞬間、胸が熱くなって、私は慌てて視線を逸らした。
"可愛い"って、言葉にすると何かが壊れる気がする。なのに、頭の中では何度も繰り返してしまう。
「……美春」
名前を呼ばれて、私は顔を上げる。
秋穂が、私の上から下まで一瞬だけ見て、すぐ目を逸らした。
その動きが、妙に早い。
今日の私は、いつもより少しだけ頑張った。
白っぽいニットに、膝丈のスカート。コートは母のを借りた。
髪も、寝ぐせを整えて、少しだけ巻いてきた。
――秋穂に、見てほしかった。
「おはよ」
なるべく普通の声を出す。
「……おはよう」
秋穂の返事は短い。でも、最後の音がほんの少し柔らかい。
その柔らかさに、私はまた照れそうになる。
「……寒くない?」
秋穂が聞いてくる。
「平気。秋穂は?」
「……平気」
嘘だ。
マフラーの下で、耳が少し赤い。
それを指摘したら、きっと秋穂は"平気"をもう1回言う。だから私は言わない。
代わりに、私は手袋をはめた指を軽く握った。
握り直す動作で、胸の中の浮つきが少しだけ落ち着く。
「行こ」
私が言う。
秋穂が頷く。
その頷きが、今日が"予定"じゃなくて"約束"になった合図みたいに見えた。
◇
【秋穂】
水族館へ向かう電車の中で、私は窓の外を見ていた。
見ているふりをしていた、が正しい。
隣の席に座る美春が、今日は少し違う。
制服じゃないから、形が違う。
いつも教室で見る"輪郭"が、柔らかい布に包まれている。
可愛い。
その言葉が浮かんで、私は心の中で慌てて消そうとした。
でも消えない。消すほど濃くなる。
私は喉の奥が熱くなるのを感じて、視線を窓へ逃がす。
逃がしたのに、窓ガラスに映る自分の顔が赤い。
最悪だ。見られたら終わる。
美春は、たぶん気づいていない。
いや、気づいてないふりをしてくれているのかもしれない。
"そういうところ"が、優しい。
私はポケットの中で小さな紙袋を指で触る。
水族館のあと、もし余裕があったら渡そうと思っている。
限定のお菓子じゃない。高いものでもない。
ただ、渡したい。
でも、渡すって行為は、私たちにとってまだ少しだけ危険だ。
"恋人みたい"って見られるのが怖い。
怖いのに、やめたくない。
この矛盾が、胸の奥で小さく軋む。
「……美春」
私は声を出して、矛盾を外へ逃がす。
「なに?」
美春がこちらを見る。目が少し丸い。
その目が、今日はいつもより澄んで見える。
いや、私が勝手に澄ませて見ているだけだ。
「……混むかもしれない。はぐれないように」
私は言った。
言った瞬間、また顔が熱くなる。
"はぐれないように"って、何だそれ。小学生か。
でも、美春は笑わなかった。
真面目に頷いた。
「うん。はぐれない」
その言い方が、まるで誓いみたいで、私は胸の奥が少し痛くなる。
痛いのに、嬉しい。
◇
【美春】
水族館の入口は、外より少し暗くて、ひんやりしていた。
ガラス越しの水が、光を揺らしている。
暗いのに怖くない。
喫茶店の落ち着きと、少し似ている。
でも匂いは違う。コーヒーの香りじゃなくて、水と、塩と、消毒液の薄い匂い。
「……わ」
思わず声が出る。
「……すごい」
秋穂が、いつもより小さい声で言った。
その"すごい"が、感動なのか、緊張なのか分からない。
分からないから、私は勝手に嬉しくなる。
最初に入ったクラゲの部屋は、まるで別の星みたいだった。
青い光。ゆっくり揺れる透明。
一匹一匹が、息をしているみたいに脈打つ。
「……綺麗」
秋穂が呟く。
私は、その横顔を見てしまう。
秋穂の睫毛が、青い光で少しだけ銀色になる。
唇が、ほんの少し開いている。
美味しいものを見つけたときの顔に似ている。
「秋穂も……」
言いかけて、私は飲み込んだ。
ここで言ったら、たぶん私は燃える。
秋穂が少し首を傾げた。
「……なに?」って目。
「なんでもない」
私は笑って誤魔化す。
誤魔化すのが上手になったのが、嬉しくない。
クラゲが、光の中でゆっくりほどける。
そのほどけ方が、私たちの距離にも似ている気がした。
ほどけたい。ほどけるのが怖い。
でも、ほどけないと苦しい。
私は、秋穂の袖の端をほんの少しだけ引っ張った。
指先で触れるだけ。
"手を繋ぐ"まではいかない、でもゼロでもない距離。
秋穂が一瞬だけこちらを見て、目を逸らした。
その耳が、また赤い。
可愛い。
私の心の中で、その言葉がまた増える。
◇
【秋穂】
クラゲの部屋は、暗さが優しい。
誰も大声を出さない。
水槽の前では、みんなが勝手に静かになる。
美春が袖を引っ張った。
たったそれだけなのに、胸の奥が跳ねる。
私は手を伸ばして、その袖の端を軽く摘んだ。
同じことを返すみたいに。
握るわけじゃない。繋ぐわけじゃない。
でも、同じ方向へ進んでいる合図。
"これでいい"と思う。
"これじゃ足りない"とも思う。
どっちも本当で、どっちも言えない。
次の通路に進むと、人が増えた。
休日の終わりの水族館は、春休みの最後の焦りみたいに混んでいる。
トンネル水槽の入口で、背中を押される。
美春がよろけた。
私は反射で腕を伸ばして、美春の肩を支えた。
支えた瞬間、体温が伝わる。
外の冷たさの中で、その温度は強すぎる。
「大丈夫?」
私は言う。
「うん……ありがとう」
美春の声が、少しだけ震えている。
押し流されるように進む人の波。
私たちの距離が、勝手に近づく。
肩が触れる。息が近い。
危ない。――でも、離れたくない。
私は、美春の手がどこにあるかを確認するみたいに視線を落とし、そのまま指先が触れた。
触れたまま、一拍止まる。
美春が、ぎゅっと息を吸ったのが分かった。
そのとき、少し後ろから、聞き覚えのある声がした気がした。
はっきり名前を呼ばれたわけじゃない。
でも、学校の廊下で聞く笑い声に似ている。
次の瞬間、美春が反射で手を離した。
離した。
私は胸の奥が、ほんの少しだけ冷える。
理屈では分かる。
怖い。見られたくない。
私たちのことを、勝手に嘲られたくない。
でも――離されるのも、怖い。
「……今、離した?」
言ってから気づく。
私、責めたみたいな言い方をした。
美春が慌ててこちらを見る。
目の奥が、痛そうだ。
「ごめん……見られたら、って」
その言葉で、胸の冷えが、別の形に変わる。
怒りじゃない。
悲しさでもない。
"現実"だ。
「……うん」
私は頷いた。
頷くしかない。
頷かないと、美春が自分を責めるのが分かる。
私は、小さく息を吐く。
そして、わざと話題を変える。
「……魚、でかい」
自分でも下手だと思う。
でも、美春が小さく笑った。
「現実逃避?」
「……そうかも」
「じゃあ、一緒に逃避しよ」
その言葉が、救いだった。
◇
【美春】
トンネルを抜けたところで、私はようやく肩の力が戻った。
魚の群れが銀色にひらめいて、まるで空みたいに広がっている。
さっきの"手"のことが、胸に残っている。
離した瞬間の、自分の反射。
守りたい。隠したい。
でも、隠すたびに、秋穂を傷つけている気がする。
「……さっき、ごめん」
私は小声で言った。
秋穂は少しだけ目を細める。
怒ってない。
でも、どこか考えている顔。
「……分かる」
秋穂が言った。
"分かる"の言い方が、優しいのに少しだけ寂しい。
私は、その寂しさが怖くて、次の展示へ引っ張るみたいに歩いた。
ペンギンのエリアに入ると、空気が少し明るくなる。
水の匂いが強くなって、子どもの歓声が混じる。
ペンギンが列になって歩いている。
よちよちじゃない。
意外と速い。
しかも、乱れない。
ちゃんと前の子に合わせて、一定のテンポで進む。
「……真面目」
私が呟くと、秋穂が横で頷いた。
「動きが、真面目で好き」
秋穂が言う。
いつもより感情が出ている声。
私は思わず秋穂を見る。
秋穂の目が、ペンギンを追っている。
その目が、厨房で計量してるときの目に似ている。
「分かる……なんか、仕事してるみたい」
私が言うと、秋穂が小さく笑った。
「……ちゃんと、やる。って感じ」
「うん。サボらない感じ」
「……でも、焦ってない」
秋穂が言う。
その一言が、胸に刺さる。
焦ってない。
焦ってないのに、ちゃんと進む。
それって、秋穂がいま欲しいものじゃない?
香織さんに成果を示すときも、受験のときも、恋のときも。
私はペンギンの背中を見ながら、"私も、焦ってる"と自覚する。
焦って、手を離して。焦って、嘘をついて。焦って、言えない。
ペンギンは、言えないとか関係なく、ただ進む。
それが、羨ましい。
「……私も、ペンギンみたいに進めたらいいのに」
つい口に出してしまった。
秋穂がこちらを見る。
目が、真っすぐ。
「美春は……美春の速さでいい」
秋穂が言う。
「でも、止まらないで」
その言葉で、胸の奥が少しだけ暖かくなる。
喫茶店の紅茶みたいに。
「止まらない」
私は頷く。
小さく、でも確かに。
◇
【秋穂】
ペンギンの前で美春が見せた顔が、少しだけ大人びて見えた。
笑っているのに、泣きそうな目。
それを隠さずに言葉にする勇気。
私は、"止まらないで"と言った。
言ったあとで思う。
それは美春にだけじゃなく、自分にも言った。
止まったら、怖さに飲まれる。
怖さに飲まれたら、また全部を"友達"に戻してしまう。
戻したくない。
イルカショーの会場に入ると、歓声が広がって、空気が少し軽くなる。
水しぶきが飛んできて、美春が「わっ」と小さく声を上げた。
私は反射で笑ってしまう。
美春も笑う。
同時に笑う。
それだけで、世界が少しだけ平和になる。
"秘密"とか"視線"とか、重たい単語が一瞬だけ遠のく。
ショーが終わって席を立つと、出口の近くにお土産コーナーがあった。
ぬいぐるみ、キーホルダー、ガラス細工。
光る飴。青いラムネ。クラゲの形のグミ。
美春が、ペンギンのキーホルダーの前で立ち止まる。
手に取って、戻して、また取って。
迷っている。
私は、胸の奥がくすぐったくなる。
"贈りたい"って気持ちは、隠しきれないんだな、と。
私も同じだった。
だから私は、わざと別の棚へ行って、クラゲのキーホルダーを取った。
水色の透明が、光を拾う。
美春に似合う気がする。
似合う理由を言語化したら、たぶん私はまた赤くなる。
会計の列で、美春の手元を見ると、結局ペンギンのキーホルダーを持っている。
目が合う。
美春が一瞬固まり、すぐ視線を逸らした。
私も逸らす。
お互い、分かってる。
"贈り物"の意味を。
でも、言わない。
言うのは、まだ早い。
早いけれど、やめない。
◇
【美春】
外へ出ると、空が少しだけ夕方に傾いていた。
冷たい風が頬を撫でる。
さっきの水槽の暗さが、急に恋しくなる。
駅へ向かう道は、人が少なくて、歩く音がよく聞こえた。
靴底がアスファルトを擦る音。
秋穂のマフラーが少し揺れる音。
私はさっき買ったキーホルダーを、紙袋の中で指で触った。
渡したい。
でも、"ここ"で渡したら、恋人っぽい。
恋人っぽいのに、恋人じゃないわけじゃない。
この言葉遊びみたいな現実に、私はむずむずする。
「……秋穂」
私は小さく言った。
「……なに」
秋穂も小さく返す。
夜に近づく声。
「さっき、手……離したの、ほんとにごめん」
もう一度言う。
一度じゃ足りないと思った。
秋穂は少しだけ歩く速度を落とした。
それで私も自然に歩調を合わせる。
「……分かってる」
秋穂が言う。
「怖いの、分かる」
一拍。
それから、秋穂が続ける。
「でも……離されるのも、ちょっと怖い」
その言葉は小さくて、でもちゃんと刺さった。
私は胸の奥が痛くなって、同時に"よかった"とも思った。
秋穂が弱さを言葉にしてくれたことが、よかった。
「……じゃあ」
私は息を吸う。
「次は、離す前に……目で聞く」
言うと、少しだけ笑ってしまう。
変な約束だ。でも、私たちには必要だ。
秋穂が、目を細めた。
「……うん」
その"うん"が、柔らかい。
柔らかいのに、決めてる音。
駅が近づく。
明日、始業式。
クラス替え。
思い出すだけで、胃のあたりがきゅっとなる。
「同じクラス……がいい」
私は、つい言った。
秋穂の足がほんの少しだけ止まりかけて、すぐにまた動く。
「……私も」
秋穂が言う。
「同じなら、息できる」
息できる。
その言葉が、嬉しいのに少し怖い。
私たちは、まだ"息をする場所"を選ばなきゃいけない。
「もし違っても……」
私が言いかけると、秋穂が首を振る。
「……今は、先に不安を増やさない」
秋穂が言う。
「明日、見てから」
秋穂らしい。
真面目で、焦らなくて、順番を守る。
私は頷く。
「うん。明日、見てから」
改札が見える。
人の流れがまた増えて、現実が近づく。
私は紙袋を握りしめる。
渡したいものがある。
言いたい言葉もある。
でも、今日の最後は――言葉じゃなくてもいい気がした。
改札の前で立ち止まって、私たちは一瞬だけ、お互いを見る。
秋穂の頬はまだ少し赤い。
私もたぶん赤い。
「……じゃ」
秋穂が言う。
「うん……また明日」
私が言う。
その"また明日"が、いつもより重い。
明日が、私たちの一年を決める入口になるから。
秋穂が改札を通る直前、ほんの少しだけ身を寄せて、声を落とした。
「……今日の服、可愛い」
私は一瞬、世界が止まったみたいに固まった。
心臓が跳ねて、言葉が追いつかない。
「……秋穂も……可愛い」
やっと返すと、秋穂が目を見開いて、すぐに視線を逸らした。
耳が、真っ赤だ。
「……言わないで」
秋穂が小さく言う。
「言ったの、秋穂じゃん」
私は笑ってしまう。
笑ったら、緊張が少しだけ溶けた。
秋穂は、困ったみたいな顔をして、でも口元がほんの少しだけ上がっていた。
「……じゃあ、明日」
秋穂がもう一度言って、改札を抜ける。
私はその背中を見送って、紙袋の中のクラゲを指でそっと押した。
明日、同じクラスだったら。
明日、隣に座れたら。
そのときに――渡そう。
"焦らず待て"。
おみくじの言葉みたいに、心のどこかで反芻してしまう。
ホームへ向かう人の波の中で、私は小さく息を吸った。
止まらない。
ペンギンみたいに。
真面目に、でも焦らず。
そして、明日――掲示板の前で、また息をする。
◇
【美春】
春の校舎は、まだ冬の名残みたいに冷たかった。
掲示板の前だけ、人の熱で空気がぬるくて、息がしづらい。
廊下の窓から差し込む光が眩しくて、紙の白さがやけに強調される。
――クラス替え。
分かってる。見るだけだ。自分の名前を探して、番号を確認して、それで終わり。
そう思ったのに。
私は、いちばん上の段に目を走らせた瞬間、自分の名前より先に――秋穂を探してしまった。
文字の列の中で、彼女の名前だけが妙に輪郭を持つ。
黒インクなのに、そこだけ濃いみたいに見える。
見つけた瞬間、胸の内側がゆるむ。肺の奥に、やっと空気が流れた気がした。
……私、いま、何してるんだろ。
自分のことより先に。未来のことより先に。
"同じクラスかどうか"で、こんなに息の通り道が変わるなんて。
気づいた途端、恥ずかしさが遅れて追いかけてくる。頬が熱い。
誰にも見られたくなくて、私は視線を紙に貼りつけたまま、平静を装った。
そのとき、背中の方で、誰かが小さく笑った気がした。
れいなかもしれない。違うかもしれない。どっちでもいい。今は――落ち着け。
秋穂の名前の横にあるクラスを確認して、私はそこで初めて自分の名前に視線を移した。
指先で文字をなぞりそうになるのを堪えて、行を追う。自分の名前を見つけて、同じ記号を見つけた瞬間、心臓が1回だけ強く跳ねた。
同じ、だ。
言葉にすると軽いのに、身体の方が先に反応する。
足の裏が床にちゃんとついた感じがして、肩の力がほどける。
今まで固まっていた鼓動が、ようやく"普通の速さ"に戻っていく。
顔を上げたら、少し離れたところに秋穂がいた。
きちんとした横顔。いつもみたいに静かで、でも――こちらを見ている。
目が合う。
ほんの一瞬。ほんの一瞬だけ、秋穂の視線が私の顔をなぞった。まるで、私が先に彼女を見つけたことまで、もう分かっているみたいに。
秋穂の耳が、わずかに赤い。
それを見た瞬間、私の胸の奥が甘く痛んだ。
私は口角を上げようとして、うまくできなくて、代わりに小さく頷いた。
秋穂も、ほとんど分からないくらいの頷きを返す。
――同じクラス。
その事実だけで、世界の色が、少しだけ戻った。
◇
【美春】
教室の扉を開けた瞬間、春休みの終わりが音を立てた気がした。
ざわざわした声、机を引く音、窓の外の明るさ。全部が「新学期」の匂いをしている。
私は名簿を握りしめたまま、教室の中を見渡して、すぐに自分の席を探した。
前から――三列目、窓側。見つけた瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
椅子を引いて座り、机の天板を指先でなぞる。つるりとした冷たさ。
この机で、また一年分の時間が増える。
「美春ー」
背後じゃなく、斜め横から声が飛んできた。
振り向くと、れいながいた。同じ制服、同じ軽い笑い。なのに目がやけに鋭い。
「いるじゃん。おめでと。同じクラス」
「れいな……!」
「なにその声。いま名簿、見直した?」
からかう言い方のくせに、どこか嬉しそうだ。
「ほんとに同じだった」
私がそう言うと、れいなは「へえ」と言って、わざとらしく視線を私の背中の方へ滑らせた。
「で?」
「で、って何」
「うしろ」
言われて、私は息を止めた。
背後の席。椅子の脚が鳴る。
そこに、秋穂がいた。
机の上にカバンを置く動作が丁寧で、無駄がない。髪も、きっちり。
なのに、視線が一瞬こちらに向いたときだけ、春みたいに柔らかい。
「……美春」
秋穂が小さく呼ぶ。
名前が、教室の雑音の中で、ちゃんと私のところに届く。
「秋穂……」
声が変になりそうで、私は喉の奥で一度言い直した。
「おはよう」
秋穂は頷いた。
「……おはよう」
たったそれだけのやり取りなのに、れいなが横で口元を押さえている。
目が、にやにやしている。隠す気がない。
「なに」
私が睨むと、れいなは肩をすくめた。
「いやー。背中の空気、甘いなって」
「甘くない!」
「はいはい。……てかさ、美春の後ろが周防さんって、もう席替えしなくていいじゃん」
「勝手に決めないで」
「決めないで、って言いながら、顔赤い」
「赤くない!」
言い返しながら、私は自分の頬が熱いのを自覚してしまって、余計に焦った。
秋穂の方を見るのが怖くて、机の上の筆箱の角を直す。直す場所なんて、最初から整ってるのに。
背後から、秋穂の小さな声が落ちてくる。
「……れいな、うるさい」
「え、周防さんに怒られた。こわー」
れいなは笑いながらも、どこか満足そうだ。
たぶんこの人は、"分かってる"のが楽しいんだ。
担任が入ってくるまでの数分、教室は小さな話題がいくつも跳ねる。
春休み、宿題、部活、髪型、スマホの機種。
その中に、ひとつ、私の耳を刺す言葉が混ざった。
「ねえ、もうすぐ運動会だよね? 五月!」
「え、早くない? 新学期始まったばっかじゃん」
「毎年この時期に言ってる気がする。うちの学校、気が早い」
「リレー誰走るんだろ」
「去年、結城さん走ってなかった?」
「え、美春、走るの?」
れいながこちらに振ってくる。
「走らない……と思う」
「"と思う"って何」
「まだ分かんないし」
言いながら、私は心の中で別のことを思っていた。
運動会。
体操服。
走って、汗をかいて、人の目が集まる。
秋穂の進路のことで、今までずっと"数字"とか"段取り"とか、そういう現実の重さを抱えてきたのに。
今度は、身体の重さの話がくる。
逃げ場のない、別の種類の現実。
背後で、秋穂が教科書を机に揃える音がした。
その音が、なぜか落ち着く。
紙の角を揃えるみたいに、私の中のざわめきも一度整えられる。
――大丈夫。
まだ先だ。五月は、まだ先。
そう思ったのに、別の話題が追い打ちみたいに聞こえてきた。
「そういえばさ、体育ってさ、もうすぐプールも始まるよね?」
「うわ、最悪。日焼けする」
「いや、まだまだ先でしょ。だる」
「今年もペアあるのかな」
「あるでしょ。溺れたら困るし」
「ペアってさ、誰と組む?」
「好きな人と組めたら勝ちじゃん」
「はい出たー」
笑い声が起きる。
でも、その笑いが遠くなる。
ペア。プール。水着。
体の線。
――見える。見られる。
私は、無意識に制服のスカートの上から太ももを押さえていた。
触れる布の感触だけで、自分の輪郭が気になる。
去年の私は、プールの授業が来るたびに、なるべく目立たないようにしていた。
笑われないように。変に見られないように。
誰と組むかなんて、決まるまで息ができないみたいだった。
なのに今年は、もっと怖い。
だって――
背後から、秋穂の声がした。私にだけ聞こえるくらいの小ささで。
「……美春」
「なに」
「……大丈夫?」
心配の仕方が、秋穂らしい。
"今の顔"で判断して、必要な言葉だけ置く。
私は、咄嗟に平気なふりをした。
「大丈夫」
でも、声が少しだけ弱い。
秋穂は一拍置いたあと、机の端を指先で軽く叩く。トン、と控えめな音。
合図みたいに。
「……ペア、もし決めるなら」
そこで秋穂が言い淀む。教室だから。人がいるから。
その"言い淀み"が、逆に胸を熱くする。
私は、振り向かずに小さく聞いた。
「……なに」
「……美春と」
秋穂の声が、ほんの少しだけ震えた。
「組みたい」
その言葉が、私の背中を軽く押したみたいに、呼吸が戻る。
嬉しい。
でも、同時に怖い。
私はやっと振り向いて、秋穂の目を見る。
秋穂はまっすぐ見返してきて、ほんの少しだけ耳が赤い。
れいなが、そのやり取りを逃さない。
「おーい。今の何。もう決まった感じ?」
「決まってない!」
私が慌てると、れいなはニヤニヤを隠さないまま言った。
「だってさ、後ろの席が周防さんでしょ? さっきから、二人だけで会話してる感じ出てる」
「出てない」
「出てる。ねえ周防さん?」
秋穂は、れいなを一瞬だけ見て、それから淡々と言った。
「……ない」
それだけ。
でも、その短さの中に"守る"が入っている気がして、私はまた落ち着けなくなる。
私は、声を落として秋穂に言った。
「……私、プール、苦手」
秋穂が眉をわずかに動かす。理由を待ってる顔。
「体の線、見えるのが……」
言いかけて、喉が詰まる。
"見られる"が怖い。太ったとか、そういうのじゃなくて、輪郭が露わになるのが怖い。
私が私であることが、急に"外側"に出てしまう感じが怖い。
秋穂はすぐに結論を言わなかった。
代わりに、少しだけ声を柔らかくした。
「……見ない」
「え」
「見るのは……私だけど」
言ってから、秋穂自身が「しまった」という顔をする。
そして、さらに小さく付け足す。
「……嫌なら、見ない。美春が嫌なこと、しない」
その言葉が、胸の奥に落ちて、静かに温まる。
私は、変な笑いをこぼしそうになって、必死で堪えた。
「……ありがとう」
「……うん」
れいなが、机に頬杖をついて、幸せそうにため息をついた。
「青春かよ……」
「青春って言うな」
私が小声で言うと、れいなは「言いたくもなるでしょ」と肩をすくめる。
担任が教卓の前で咳払いをして、教室が少し静まった。
出席、提出物、係、委員。
新学期の儀式が淡々と始まる。
私は前を向いてメモを取りながら、背中の気配を意識してしまう。
秋穂がそこにいる。
距離は一席分。
でも、たぶん心は、去年よりずっと近い。
そして、その近さが、嬉しいのに怖い。
仲が良いと言われる。
ペアの話が出る。
水着の線が見えることを想像して不安になる。
それでも、秋穂と並ぶ未来を、私はもう手放したくないと思ってしまっている。
黒板の文字が目に入らない一瞬がある。
その一瞬で、私は自分の中の小さな決意を拾う。
――ちゃんと、整えよう。
見られるのが怖いなら、怖くない自分に近づけばいい。
秋穂の隣に並ぶのが不安なら、"並べる私"を作ればいい。
それは、誰かのためだけじゃなくて。
私が、私を嫌いにならないためのやり方だ。
背後で、秋穂が小さく息を吐く。
その呼吸が、私の背中をそっと支える。
私は、前を向いたまま、指先で机の端を軽く叩いた。
秋穂がさっきやったみたいに。合図みたいに。
すると、背後から、同じ音が返ってきた。
トン。
たったそれだけで、春の教室が少しだけ安心できる場所になる。
窓の外は明るい。
もうすぐ運動会が来る。
そのあとに、プールも来る。
怖い未来が、ちゃんと順番に並んでいる。
でも、今日は――同じクラスだと分かった日だ。
私は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ばれない程度に。
自分だけ分かる程度に。
◇
【美春】
放課後、私たちは喫茶店へと足を向けた。
校門を出た瞬間、教室のざわめきが背中から剥がれていく。代わりに、春の風が制服の裾を揺らして、シャツの中にひやりと入り込む。
――今日から、いつも通りじゃない。
"同じクラス"が始まった。
それだけで胸の奥が忙しいのに、私にはもうひとつ、始まったものがある。
喫茶店のベルが、カラン、と鳴った。
「ただいま……じゃなくて、こんにちは」
言い直した自分に、少し笑ってしまう。客として入るときと、働くために入るときじゃ、呼吸の仕方が違う。
奥からマスターの声。
「おう、二人とも。早いね。制服のまま突っ込むと疲れるぞー」
「先に着替えます」
カウンターの内側に回り、奥の小さな更衣スペースでエプロンを広げる。
紺色の布。洗剤の匂いと、ほんのりコーヒーの香りが混ざっている。
紐を腰で結ぶと、制服が"学校"から"店"に切り替わる感じがした。
鏡に映る自分は、まだちょっとだけ緊張している。
でも、胸の奥に「やること」があると、不思議と姿勢が整う。
――回す。
私は"作る"側じゃなくて、"回す"側。
注文が滞らないように、席が詰まらないように、カップが切れないように。
お客さんの機嫌と、時間と、店の呼吸を見て、先に動く。
ホールのチェックを始める。
テーブルの拭き残し、砂糖の補充、メニュー表の角度。
レジの釣り銭、伝票、ペン。
水のピッチャーを満たして、グラスの口を指でなぞって曇りがないか確認する。
「……美春、結び目、いつもより丁寧」
背後から声がして、私は反射で肩が跳ねた。
秋穂が立っていた。
新しいエプロンを結ぶ動作が、確かにいつもより丁寧だ。
きゅっと紐を締めて、余った先を指で揃えて、結び目を真ん中に落ち着かせる。
「今日、なんか……」
私は言いかけて、うまく続けられない。
教室の空気が、まだ体に残っている。
秋穂は私の手元を見た。
「……落ち着くために、整えてる?」
「うん。たぶん」
「……わかる」
短い共感が、湯気みたいに胸を温める。
マスターが新聞を畳む音をさせながら、カウンターの奥で笑った。
「お、二人とも"仕事の顔"だ。新学期の空気、店で洗い流してけー」
その言葉に、私は小さく頷く。
洗い流す。
ここは、そういう場所だ。
最初のお客さんは、いつもの常連のおばあさんだった。
私はすぐに水を出し、笑顔の角度を作る。
「いらっしゃいませ。いつもの、ミルクティーでいいですか?」
「まあ、美春ちゃん、覚えてくれてるのね」
「もちろんです。砂糖は2つでしたよね」
「そうそう、それそれ」
そのやり取りの間に、私は店全体を見る。
空席の位置、日差しの当たり方、入り口の気配。
次に来るお客さんが座りやすい席を、先に"空気として"用意する。
カウンターの向こうで、秋穂が静かに手を動かしている。
ボウル、泡立て器、計量。音が小さくて、一定で、気持ちがいい。
私はその音を背中で聞きながら、伝票を書いた。
「ミルクティー、ひとつ。砂糖2つ」
マスターが頷き、ポットを温める。
秋穂は一瞬だけこちらを見る。
目が合って、ふっと逸らした。
その逸らし方が、今日の教室で見た"赤さ"を連れてきて、私は危うくミスをするところだった。
――だめ。仕事中。
私は深呼吸して、レジ横のメモを整え直す。
昼に近づくと、二人連れが増える。
私は席の配置を頭の中で組み替えながら動いた。
「こちら、窓際どうぞ」
「お冷、先にお持ちしますね」
「ケーキセットは、今だとレモンのタルトと、ガトーショコラがあります」
"回す"のは体力だけじゃなく、言葉の温度もだ。
馴れ馴れしくしすぎない。冷たくしすぎない。
相手が欲しい分だけ、会話を渡す。
それができたとき、私は少しだけ誇らしい。
たぶんこれが、あのときマスターが言った"店を回す目"なんだと思う。
忙しさの波が一度引いたころ、マスターが小声で言った。
「美春ちゃん、次の波、学生三人組が来るぞ。席、先に作っとけ」
「はい」
私はすぐに2つのテーブルをくっつけ、椅子の位置を揃える。
ナプキンの数を増やし、氷を補充しておく。
来てから慌てないように。
"先に動く"のが、私の仕事だ。
ベルが鳴って、予想通り、制服の子たちが入ってきた。
私は笑顔で迎えながら、心の中で小さくガッツポーズをする。
――回せてる。
夕方。
最後のお客さんが帰って、扉のベルが静かに鳴り終わると、店の空気がすとんと落ち着いた。
テーブルの上に残るのは、ぬるくなった水滴と、砂糖の粒と、人がいた余韻。
閉店札を掛け、カーテンを半分閉める。
マスターは奥で洗い物をしている。水音が一定で、ちゃんと"気配"としてそこにいる。
聞こえるけど、こちらに入ってこない距離。
私はカウンターの内側で、秋穂に小さく声をかけた。
「秋穂」
「……なに」
秋穂は、布巾でカウンターを拭きながら言った。
拭き方が、やっぱり丁寧だ。
今日の彼女も、ずっと"丁寧"で出来ている。
私はエプロンの端を指先で絡めた。
秋穂が、ほんの少しだけ笑った。
薄い笑み。春の光みたいに、眩しくないのに確かに明るい。
ここは、私たちの場所。
教室の視線も、廊下の噂も、届かない場所。
私は、秋穂の手にそっと触れた。
指先が重なる。
それだけで、胸の冷たいものが少し溶ける。
「教室では触れられないから」
「……うん」
「ここでは、いい?」
「……いい」
秋穂の声が、少しだけ震えていた。
嬉しさと、切なさが混ざった震え。
私は息を吐いて、言葉をひとつだけ選ぶ。
「……いつか、ちゃんと言えるようになりたい」
「いつか?」
「うん。秋穂は、私の恋人だって」
秋穂の頬が少し赤くなる。
エプロンの紐を指で触って、目を逸らして――短く頷いた。
「……いつか、ね」
「うん。いつか」
その"いつか"は、遠い未来の夢じゃなくて、私たちが守るために必要な時間のことだ。
ふと、秋穂の顔を見ると少しだけ疲れて見えた。
新学期の始まりは、環境の変化で体調が揺れる。
去年も秋穂はこの時期に風邪を引いた。
「秋穂、無理しないでね」
「……美春も」
「私は平気。回すの得意だから」
冗談めかして言うと、秋穂が小さく笑った。
「……頼りにしてる」
その言葉が妙に重くて、胸がきゅっとなる。
私は、ちゃんと応えたい。
ホールの流れも、店の息も、秋穂の夢も。
"回す"って、たぶんそういうことだ。
カウンターの上に、マスターが置いていった不揃いの焼き菓子があった。
試作の端切れ。見た目は欠けているのに、香りはちゃんと甘い。
秋穂がそれを半分に割って、私に差し出す。
「……食べる?」
「うん」
口に入れると、じんわり広がるバターの風味。
少しだけ苦いカカオ。最後に残る甘さ。
秋穂の味。
私は噛みしめながら、今日の掲示板の前のことを思い出す。
同じクラスだと分かっただけで、世界が戻ってきた感覚。
三年生が始まった。
秋穂と同じクラス。
秋穂と放課後も一緒。
最後の一年。
教室で隣じゃなくても。
友達って嘘をつく日があっても。
それでも、変わらないものがある。
秋穂が、私の後ろにいる。
振り向けば、そこにいる。
そして、誰もいない場所では、ちゃんと手を取れる。
私は、心の中で小さく繰り返した。
――卒業したら。
秘密じゃなくなる。
「秋穂は、私の恋人です」って、言える。
一年は長い。
でも、待てる。
秋穂と一緒なら、待てる。
そのために私は、明日も回す。
店を、時間を、そして――私たちの"いつか"に向かう日々を。
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