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第20話「変わらない隣」

ライトな百合x成長物語です。

4話、8話、14話がキリのいいポイントです!

15話以降、甘々予定!

【美春】


 改札を抜けた瞬間、駅の空気が少しだけ違った。

 春休みの終わりの匂い。冷たさの奥に、もう芽みたいなものが混じっている。


 私はスマホを見て、時間を確認するふりをした。

 本当は確認したかったのは、時間じゃない。――秋穂の姿だ。


 人の波の向こうから、秋穂がこちらに近づいてくる。

 制服じゃない。喫茶店のエプロンでもない。

 少し長めのコートに、淡い色のマフラー。髪はいつもよりふわっとしていて、頬が外の冷気でわずかに赤い。


 可愛い。


 思った瞬間、胸が熱くなって、私は慌てて視線を逸らした。

 "可愛い"って、言葉にすると何かが壊れる気がする。なのに、頭の中では何度も繰り返してしまう。


「……美春」


 名前を呼ばれて、私は顔を上げる。


 秋穂が、私の上から下まで一瞬だけ見て、すぐ目を逸らした。

 その動きが、妙に早い。


 今日の私は、いつもより少しだけ頑張った。

 白っぽいニットに、膝丈のスカート。コートは母のを借りた。

 髪も、寝ぐせを整えて、少しだけ巻いてきた。


 ――秋穂に、見てほしかった。


「おはよ」

 なるべく普通の声を出す。


「……おはよう」

 秋穂の返事は短い。でも、最後の音がほんの少し柔らかい。


 その柔らかさに、私はまた照れそうになる。


「……寒くない?」

 秋穂が聞いてくる。


「平気。秋穂は?」

「……平気」


 嘘だ。

 マフラーの下で、耳が少し赤い。

 それを指摘したら、きっと秋穂は"平気"をもう1回言う。だから私は言わない。


 代わりに、私は手袋をはめた指を軽く握った。

 握り直す動作で、胸の中の浮つきが少しだけ落ち着く。


「行こ」

 私が言う。


 秋穂が頷く。

 その頷きが、今日が"予定"じゃなくて"約束"になった合図みたいに見えた。


     ◇


【秋穂】


 水族館へ向かう電車の中で、私は窓の外を見ていた。

 見ているふりをしていた、が正しい。


 隣の席に座る美春が、今日は少し違う。

 制服じゃないから、形が違う。

 いつも教室で見る"輪郭"が、柔らかい布に包まれている。


 可愛い。


 その言葉が浮かんで、私は心の中で慌てて消そうとした。

 でも消えない。消すほど濃くなる。


 私は喉の奥が熱くなるのを感じて、視線を窓へ逃がす。

 逃がしたのに、窓ガラスに映る自分の顔が赤い。

 最悪だ。見られたら終わる。


 美春は、たぶん気づいていない。

 いや、気づいてないふりをしてくれているのかもしれない。


 "そういうところ"が、優しい。


 私はポケットの中で小さな紙袋を指で触る。

 水族館のあと、もし余裕があったら渡そうと思っている。

 限定のお菓子じゃない。高いものでもない。

 ただ、渡したい。


 でも、渡すって行為は、私たちにとってまだ少しだけ危険だ。

 "恋人みたい"って見られるのが怖い。


 怖いのに、やめたくない。

 この矛盾が、胸の奥で小さく軋む。


「……美春」

 私は声を出して、矛盾を外へ逃がす。


「なに?」

 美春がこちらを見る。目が少し丸い。


 その目が、今日はいつもより澄んで見える。

 いや、私が勝手に澄ませて見ているだけだ。


「……混むかもしれない。はぐれないように」

 私は言った。


 言った瞬間、また顔が熱くなる。

 "はぐれないように"って、何だそれ。小学生か。


 でも、美春は笑わなかった。

 真面目に頷いた。


「うん。はぐれない」

 その言い方が、まるで誓いみたいで、私は胸の奥が少し痛くなる。


 痛いのに、嬉しい。


     ◇


【美春】


 水族館の入口は、外より少し暗くて、ひんやりしていた。

 ガラス越しの水が、光を揺らしている。

 暗いのに怖くない。

 喫茶店の落ち着きと、少し似ている。

 でも匂いは違う。コーヒーの香りじゃなくて、水と、塩と、消毒液の薄い匂い。


「……わ」

 思わず声が出る。


「……すごい」

 秋穂が、いつもより小さい声で言った。


 その"すごい"が、感動なのか、緊張なのか分からない。

 分からないから、私は勝手に嬉しくなる。


 最初に入ったクラゲの部屋は、まるで別の星みたいだった。

 青い光。ゆっくり揺れる透明。

 一匹一匹が、息をしているみたいに脈打つ。


「……綺麗」

 秋穂が呟く。


 私は、その横顔を見てしまう。

 秋穂の睫毛が、青い光で少しだけ銀色になる。

 唇が、ほんの少し開いている。

 美味しいものを見つけたときの顔に似ている。


「秋穂も……」

 言いかけて、私は飲み込んだ。

 ここで言ったら、たぶん私は燃える。


 秋穂が少し首を傾げた。

「……なに?」って目。


「なんでもない」

 私は笑って誤魔化す。

 誤魔化すのが上手になったのが、嬉しくない。


 クラゲが、光の中でゆっくりほどける。

 そのほどけ方が、私たちの距離にも似ている気がした。

 ほどけたい。ほどけるのが怖い。

 でも、ほどけないと苦しい。


 私は、秋穂の袖の端をほんの少しだけ引っ張った。

 指先で触れるだけ。

 "手を繋ぐ"まではいかない、でもゼロでもない距離。


 秋穂が一瞬だけこちらを見て、目を逸らした。

 その耳が、また赤い。


 可愛い。


 私の心の中で、その言葉がまた増える。


     ◇


【秋穂】


 クラゲの部屋は、暗さが優しい。

 誰も大声を出さない。

 水槽の前では、みんなが勝手に静かになる。


 美春が袖を引っ張った。

 たったそれだけなのに、胸の奥が跳ねる。


 私は手を伸ばして、その袖の端を軽く摘んだ。

 同じことを返すみたいに。

 握るわけじゃない。繋ぐわけじゃない。

 でも、同じ方向へ進んでいる合図。


 "これでいい"と思う。

 "これじゃ足りない"とも思う。


 どっちも本当で、どっちも言えない。


 次の通路に進むと、人が増えた。

 休日の終わりの水族館は、春休みの最後の焦りみたいに混んでいる。


 トンネル水槽の入口で、背中を押される。

 美春がよろけた。


 私は反射で腕を伸ばして、美春の肩を支えた。

 支えた瞬間、体温が伝わる。

 外の冷たさの中で、その温度は強すぎる。


「大丈夫?」

 私は言う。


「うん……ありがとう」

 美春の声が、少しだけ震えている。


 押し流されるように進む人の波。

 私たちの距離が、勝手に近づく。

 肩が触れる。息が近い。

 危ない。――でも、離れたくない。


 私は、美春の手がどこにあるかを確認するみたいに視線を落とし、そのまま指先が触れた。


 触れたまま、一拍止まる。


 美春が、ぎゅっと息を吸ったのが分かった。


 そのとき、少し後ろから、聞き覚えのある声がした気がした。

 はっきり名前を呼ばれたわけじゃない。

 でも、学校の廊下で聞く笑い声に似ている。


 次の瞬間、美春が反射で手を離した。


 離した。


 私は胸の奥が、ほんの少しだけ冷える。

 理屈では分かる。

 怖い。見られたくない。

 私たちのことを、勝手に嘲られたくない。


 でも――離されるのも、怖い。


「……今、離した?」

 言ってから気づく。

 私、責めたみたいな言い方をした。


 美春が慌ててこちらを見る。

 目の奥が、痛そうだ。


「ごめん……見られたら、って」

 その言葉で、胸の冷えが、別の形に変わる。

 怒りじゃない。

 悲しさでもない。

 "現実"だ。


「……うん」

 私は頷いた。

 頷くしかない。

 頷かないと、美春が自分を責めるのが分かる。


 私は、小さく息を吐く。

 そして、わざと話題を変える。


「……魚、でかい」

 自分でも下手だと思う。

 でも、美春が小さく笑った。


「現実逃避?」

「……そうかも」

「じゃあ、一緒に逃避しよ」


 その言葉が、救いだった。


     ◇


【美春】


 トンネルを抜けたところで、私はようやく肩の力が戻った。

 魚の群れが銀色にひらめいて、まるで空みたいに広がっている。


 さっきの"手"のことが、胸に残っている。

 離した瞬間の、自分の反射。

 守りたい。隠したい。

 でも、隠すたびに、秋穂を傷つけている気がする。


「……さっき、ごめん」

 私は小声で言った。


 秋穂は少しだけ目を細める。

 怒ってない。

 でも、どこか考えている顔。


「……分かる」

 秋穂が言った。

 "分かる"の言い方が、優しいのに少しだけ寂しい。


 私は、その寂しさが怖くて、次の展示へ引っ張るみたいに歩いた。


 ペンギンのエリアに入ると、空気が少し明るくなる。

 水の匂いが強くなって、子どもの歓声が混じる。


 ペンギンが列になって歩いている。

 よちよちじゃない。

 意外と速い。

 しかも、乱れない。

 ちゃんと前の子に合わせて、一定のテンポで進む。


「……真面目」

 私が呟くと、秋穂が横で頷いた。


「動きが、真面目で好き」

 秋穂が言う。

 いつもより感情が出ている声。


 私は思わず秋穂を見る。

 秋穂の目が、ペンギンを追っている。

 その目が、厨房で計量してるときの目に似ている。


「分かる……なんか、仕事してるみたい」

 私が言うと、秋穂が小さく笑った。


「……ちゃんと、やる。って感じ」

「うん。サボらない感じ」

「……でも、焦ってない」

 秋穂が言う。

 その一言が、胸に刺さる。


 焦ってない。

 焦ってないのに、ちゃんと進む。

 それって、秋穂がいま欲しいものじゃない?

 香織さんに成果を示すときも、受験のときも、恋のときも。


 私はペンギンの背中を見ながら、"私も、焦ってる"と自覚する。

 焦って、手を離して。焦って、嘘をついて。焦って、言えない。


 ペンギンは、言えないとか関係なく、ただ進む。

 それが、羨ましい。


「……私も、ペンギンみたいに進めたらいいのに」

 つい口に出してしまった。


 秋穂がこちらを見る。

 目が、真っすぐ。


「美春は……美春の速さでいい」

 秋穂が言う。

「でも、止まらないで」


 その言葉で、胸の奥が少しだけ暖かくなる。

 喫茶店の紅茶みたいに。


「止まらない」

 私は頷く。

 小さく、でも確かに。


     ◇


【秋穂】


 ペンギンの前で美春が見せた顔が、少しだけ大人びて見えた。

 笑っているのに、泣きそうな目。

 それを隠さずに言葉にする勇気。


 私は、"止まらないで"と言った。

 言ったあとで思う。

 それは美春にだけじゃなく、自分にも言った。


 止まったら、怖さに飲まれる。

 怖さに飲まれたら、また全部を"友達"に戻してしまう。

 戻したくない。


 イルカショーの会場に入ると、歓声が広がって、空気が少し軽くなる。

 水しぶきが飛んできて、美春が「わっ」と小さく声を上げた。


 私は反射で笑ってしまう。

 美春も笑う。

 同時に笑う。

 それだけで、世界が少しだけ平和になる。


 "秘密"とか"視線"とか、重たい単語が一瞬だけ遠のく。


 ショーが終わって席を立つと、出口の近くにお土産コーナーがあった。

 ぬいぐるみ、キーホルダー、ガラス細工。

 光る飴。青いラムネ。クラゲの形のグミ。


 美春が、ペンギンのキーホルダーの前で立ち止まる。

 手に取って、戻して、また取って。

 迷っている。


 私は、胸の奥がくすぐったくなる。

 "贈りたい"って気持ちは、隠しきれないんだな、と。


 私も同じだった。

 だから私は、わざと別の棚へ行って、クラゲのキーホルダーを取った。

 水色の透明が、光を拾う。

 美春に似合う気がする。

 似合う理由を言語化したら、たぶん私はまた赤くなる。


 会計の列で、美春の手元を見ると、結局ペンギンのキーホルダーを持っている。


 目が合う。


 美春が一瞬固まり、すぐ視線を逸らした。

 私も逸らす。


 お互い、分かってる。

 "贈り物"の意味を。


 でも、言わない。

 言うのは、まだ早い。

 早いけれど、やめない。


     ◇


【美春】


 外へ出ると、空が少しだけ夕方に傾いていた。

 冷たい風が頬を撫でる。

 さっきの水槽の暗さが、急に恋しくなる。


 駅へ向かう道は、人が少なくて、歩く音がよく聞こえた。

 靴底がアスファルトを擦る音。

 秋穂のマフラーが少し揺れる音。


 私はさっき買ったキーホルダーを、紙袋の中で指で触った。

 渡したい。

 でも、"ここ"で渡したら、恋人っぽい。


 恋人っぽいのに、恋人じゃないわけじゃない。

 この言葉遊びみたいな現実に、私はむずむずする。


「……秋穂」

 私は小さく言った。


「……なに」

 秋穂も小さく返す。

 夜に近づく声。


「さっき、手……離したの、ほんとにごめん」

 もう一度言う。

 一度じゃ足りないと思った。


 秋穂は少しだけ歩く速度を落とした。

 それで私も自然に歩調を合わせる。


「……分かってる」

 秋穂が言う。

「怖いの、分かる」


 一拍。

 それから、秋穂が続ける。


「でも……離されるのも、ちょっと怖い」

 その言葉は小さくて、でもちゃんと刺さった。


 私は胸の奥が痛くなって、同時に"よかった"とも思った。

 秋穂が弱さを言葉にしてくれたことが、よかった。


「……じゃあ」

 私は息を吸う。

「次は、離す前に……目で聞く」

 言うと、少しだけ笑ってしまう。

 変な約束だ。でも、私たちには必要だ。


 秋穂が、目を細めた。

「……うん」


 その"うん"が、柔らかい。

 柔らかいのに、決めてる音。


 駅が近づく。

 明日、始業式。

 クラス替え。


 思い出すだけで、胃のあたりがきゅっとなる。


「同じクラス……がいい」

 私は、つい言った。


 秋穂の足がほんの少しだけ止まりかけて、すぐにまた動く。


「……私も」

 秋穂が言う。

「同じなら、息できる」


 息できる。

 その言葉が、嬉しいのに少し怖い。

 私たちは、まだ"息をする場所"を選ばなきゃいけない。


「もし違っても……」

 私が言いかけると、秋穂が首を振る。


「……今は、先に不安を増やさない」

 秋穂が言う。

「明日、見てから」


 秋穂らしい。

 真面目で、焦らなくて、順番を守る。


 私は頷く。

「うん。明日、見てから」


 改札が見える。

 人の流れがまた増えて、現実が近づく。


 私は紙袋を握りしめる。

 渡したいものがある。

 言いたい言葉もある。


 でも、今日の最後は――言葉じゃなくてもいい気がした。


 改札の前で立ち止まって、私たちは一瞬だけ、お互いを見る。


 秋穂の頬はまだ少し赤い。

 私もたぶん赤い。


「……じゃ」

 秋穂が言う。


「うん……また明日」

 私が言う。


 その"また明日"が、いつもより重い。

 明日が、私たちの一年を決める入口になるから。


 秋穂が改札を通る直前、ほんの少しだけ身を寄せて、声を落とした。


「……今日の服、可愛い」


 私は一瞬、世界が止まったみたいに固まった。

 心臓が跳ねて、言葉が追いつかない。


「……秋穂も……可愛い」

 やっと返すと、秋穂が目を見開いて、すぐに視線を逸らした。


 耳が、真っ赤だ。


「……言わないで」

 秋穂が小さく言う。


「言ったの、秋穂じゃん」

 私は笑ってしまう。

 笑ったら、緊張が少しだけ溶けた。


 秋穂は、困ったみたいな顔をして、でも口元がほんの少しだけ上がっていた。


「……じゃあ、明日」

 秋穂がもう一度言って、改札を抜ける。


 私はその背中を見送って、紙袋の中のクラゲを指でそっと押した。


 明日、同じクラスだったら。

 明日、隣に座れたら。

 そのときに――渡そう。


 "焦らず待て"。

 おみくじの言葉みたいに、心のどこかで反芻してしまう。


 ホームへ向かう人の波の中で、私は小さく息を吸った。


 止まらない。

 ペンギンみたいに。

 真面目に、でも焦らず。


 そして、明日――掲示板の前で、また息をする。


     ◇


【美春】


 春の校舎は、まだ冬の名残みたいに冷たかった。

 掲示板の前だけ、人の熱で空気がぬるくて、息がしづらい。

 廊下の窓から差し込む光が眩しくて、紙の白さがやけに強調される。


 ――クラス替え。


 分かってる。見るだけだ。自分の名前を探して、番号を確認して、それで終わり。

 そう思ったのに。


 私は、いちばん上の段に目を走らせた瞬間、自分の名前より先に――秋穂を探してしまった。


 文字の列の中で、彼女の名前だけが妙に輪郭を持つ。

 黒インクなのに、そこだけ濃いみたいに見える。

 見つけた瞬間、胸の内側がゆるむ。肺の奥に、やっと空気が流れた気がした。


 ……私、いま、何してるんだろ。


 自分のことより先に。未来のことより先に。

 "同じクラスかどうか"で、こんなに息の通り道が変わるなんて。

 気づいた途端、恥ずかしさが遅れて追いかけてくる。頬が熱い。

 誰にも見られたくなくて、私は視線を紙に貼りつけたまま、平静を装った。


 そのとき、背中の方で、誰かが小さく笑った気がした。

 れいなかもしれない。違うかもしれない。どっちでもいい。今は――落ち着け。


 秋穂の名前の横にあるクラスを確認して、私はそこで初めて自分の名前に視線を移した。

 指先で文字をなぞりそうになるのを堪えて、行を追う。自分の名前を見つけて、同じ記号を見つけた瞬間、心臓が1回だけ強く跳ねた。


 同じ、だ。


 言葉にすると軽いのに、身体の方が先に反応する。

 足の裏が床にちゃんとついた感じがして、肩の力がほどける。

 今まで固まっていた鼓動が、ようやく"普通の速さ"に戻っていく。


 顔を上げたら、少し離れたところに秋穂がいた。

 きちんとした横顔。いつもみたいに静かで、でも――こちらを見ている。


 目が合う。

 ほんの一瞬。ほんの一瞬だけ、秋穂の視線が私の顔をなぞった。まるで、私が先に彼女を見つけたことまで、もう分かっているみたいに。


 秋穂の耳が、わずかに赤い。

 それを見た瞬間、私の胸の奥が甘く痛んだ。


 私は口角を上げようとして、うまくできなくて、代わりに小さく頷いた。

 秋穂も、ほとんど分からないくらいの頷きを返す。


 ――同じクラス。


 その事実だけで、世界の色が、少しだけ戻った。


     ◇


【美春】


 教室の扉を開けた瞬間、春休みの終わりが音を立てた気がした。

 ざわざわした声、机を引く音、窓の外の明るさ。全部が「新学期」の匂いをしている。


 私は名簿を握りしめたまま、教室の中を見渡して、すぐに自分の席を探した。

 前から――三列目、窓側。見つけた瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。


 椅子を引いて座り、机の天板を指先でなぞる。つるりとした冷たさ。

 この机で、また一年分の時間が増える。


「美春ー」


 背後じゃなく、斜め横から声が飛んできた。

 振り向くと、れいながいた。同じ制服、同じ軽い笑い。なのに目がやけに鋭い。


「いるじゃん。おめでと。同じクラス」

「れいな……!」

「なにその声。いま名簿、見直した?」

 からかう言い方のくせに、どこか嬉しそうだ。


「ほんとに同じだった」

 私がそう言うと、れいなは「へえ」と言って、わざとらしく視線を私の背中の方へ滑らせた。


「で?」

「で、って何」

「うしろ」


 言われて、私は息を止めた。


 背後の席。椅子の脚が鳴る。

 そこに、秋穂がいた。


 机の上にカバンを置く動作が丁寧で、無駄がない。髪も、きっちり。

 なのに、視線が一瞬こちらに向いたときだけ、春みたいに柔らかい。


「……美春」

 秋穂が小さく呼ぶ。

 名前が、教室の雑音の中で、ちゃんと私のところに届く。


「秋穂……」

 声が変になりそうで、私は喉の奥で一度言い直した。

「おはよう」


 秋穂は頷いた。

「……おはよう」


 たったそれだけのやり取りなのに、れいなが横で口元を押さえている。

 目が、にやにやしている。隠す気がない。


「なに」

 私が睨むと、れいなは肩をすくめた。


「いやー。背中の空気、甘いなって」

「甘くない!」

「はいはい。……てかさ、美春の後ろが周防さんって、もう席替えしなくていいじゃん」

「勝手に決めないで」

「決めないで、って言いながら、顔赤い」

「赤くない!」


 言い返しながら、私は自分の頬が熱いのを自覚してしまって、余計に焦った。

 秋穂の方を見るのが怖くて、机の上の筆箱の角を直す。直す場所なんて、最初から整ってるのに。


 背後から、秋穂の小さな声が落ちてくる。


「……れいな、うるさい」

「え、周防さんに怒られた。こわー」

 れいなは笑いながらも、どこか満足そうだ。

 たぶんこの人は、"分かってる"のが楽しいんだ。


 担任が入ってくるまでの数分、教室は小さな話題がいくつも跳ねる。

 春休み、宿題、部活、髪型、スマホの機種。


 その中に、ひとつ、私の耳を刺す言葉が混ざった。


「ねえ、もうすぐ運動会だよね? 五月!」

「え、早くない? 新学期始まったばっかじゃん」

「毎年この時期に言ってる気がする。うちの学校、気が早い」

「リレー誰走るんだろ」

「去年、結城さん走ってなかった?」

「え、美春、走るの?」

 れいながこちらに振ってくる。


「走らない……と思う」

「"と思う"って何」

「まだ分かんないし」

 言いながら、私は心の中で別のことを思っていた。


 運動会。

 体操服。

 走って、汗をかいて、人の目が集まる。


 秋穂の進路のことで、今までずっと"数字"とか"段取り"とか、そういう現実の重さを抱えてきたのに。

 今度は、身体の重さの話がくる。

 逃げ場のない、別の種類の現実。


 背後で、秋穂が教科書を机に揃える音がした。

 その音が、なぜか落ち着く。

 紙の角を揃えるみたいに、私の中のざわめきも一度整えられる。


 ――大丈夫。

 まだ先だ。五月は、まだ先。


 そう思ったのに、別の話題が追い打ちみたいに聞こえてきた。


「そういえばさ、体育ってさ、もうすぐプールも始まるよね?」

「うわ、最悪。日焼けする」

「いや、まだまだ先でしょ。だる」

「今年もペアあるのかな」

「あるでしょ。溺れたら困るし」

「ペアってさ、誰と組む?」

「好きな人と組めたら勝ちじゃん」

「はい出たー」


 笑い声が起きる。

 でも、その笑いが遠くなる。


 ペア。プール。水着。

 体の線。

 ――見える。見られる。


 私は、無意識に制服のスカートの上から太ももを押さえていた。

 触れる布の感触だけで、自分の輪郭が気になる。


 去年の私は、プールの授業が来るたびに、なるべく目立たないようにしていた。

 笑われないように。変に見られないように。

 誰と組むかなんて、決まるまで息ができないみたいだった。


 なのに今年は、もっと怖い。


 だって――


 背後から、秋穂の声がした。私にだけ聞こえるくらいの小ささで。


「……美春」

「なに」

「……大丈夫?」

 心配の仕方が、秋穂らしい。

 "今の顔"で判断して、必要な言葉だけ置く。


 私は、咄嗟に平気なふりをした。

「大丈夫」

 でも、声が少しだけ弱い。


 秋穂は一拍置いたあと、机の端を指先で軽く叩く。トン、と控えめな音。

 合図みたいに。


「……ペア、もし決めるなら」

 そこで秋穂が言い淀む。教室だから。人がいるから。

 その"言い淀み"が、逆に胸を熱くする。


 私は、振り向かずに小さく聞いた。

「……なに」

「……美春と」

 秋穂の声が、ほんの少しだけ震えた。

「組みたい」


 その言葉が、私の背中を軽く押したみたいに、呼吸が戻る。

 嬉しい。

 でも、同時に怖い。


 私はやっと振り向いて、秋穂の目を見る。

 秋穂はまっすぐ見返してきて、ほんの少しだけ耳が赤い。


 れいなが、そのやり取りを逃さない。


「おーい。今の何。もう決まった感じ?」

「決まってない!」

 私が慌てると、れいなはニヤニヤを隠さないまま言った。


「だってさ、後ろの席が周防さんでしょ? さっきから、二人だけで会話してる感じ出てる」

「出てない」

「出てる。ねえ周防さん?」

 秋穂は、れいなを一瞬だけ見て、それから淡々と言った。


「……ない」

 それだけ。

 でも、その短さの中に"守る"が入っている気がして、私はまた落ち着けなくなる。


 私は、声を落として秋穂に言った。

「……私、プール、苦手」

 秋穂が眉をわずかに動かす。理由を待ってる顔。


「体の線、見えるのが……」

 言いかけて、喉が詰まる。

 "見られる"が怖い。太ったとか、そういうのじゃなくて、輪郭が露わになるのが怖い。

 私が私であることが、急に"外側"に出てしまう感じが怖い。


 秋穂はすぐに結論を言わなかった。

 代わりに、少しだけ声を柔らかくした。


「……見ない」

「え」

「見るのは……私だけど」

 言ってから、秋穂自身が「しまった」という顔をする。

 そして、さらに小さく付け足す。


「……嫌なら、見ない。美春が嫌なこと、しない」


 その言葉が、胸の奥に落ちて、静かに温まる。

 私は、変な笑いをこぼしそうになって、必死で堪えた。


「……ありがとう」

「……うん」


 れいなが、机に頬杖をついて、幸せそうにため息をついた。

「青春かよ……」


「青春って言うな」

 私が小声で言うと、れいなは「言いたくもなるでしょ」と肩をすくめる。


 担任が教卓の前で咳払いをして、教室が少し静まった。

 出席、提出物、係、委員。

 新学期の儀式が淡々と始まる。


 私は前を向いてメモを取りながら、背中の気配を意識してしまう。

 秋穂がそこにいる。

 距離は一席分。

 でも、たぶん心は、去年よりずっと近い。


 そして、その近さが、嬉しいのに怖い。


 仲が良いと言われる。

 ペアの話が出る。

 水着の線が見えることを想像して不安になる。

 それでも、秋穂と並ぶ未来を、私はもう手放したくないと思ってしまっている。


 黒板の文字が目に入らない一瞬がある。

 その一瞬で、私は自分の中の小さな決意を拾う。


 ――ちゃんと、整えよう。

 見られるのが怖いなら、怖くない自分に近づけばいい。

 秋穂の隣に並ぶのが不安なら、"並べる私"を作ればいい。


 それは、誰かのためだけじゃなくて。

 私が、私を嫌いにならないためのやり方だ。


 背後で、秋穂が小さく息を吐く。

 その呼吸が、私の背中をそっと支える。


 私は、前を向いたまま、指先で机の端を軽く叩いた。

 秋穂がさっきやったみたいに。合図みたいに。


 すると、背後から、同じ音が返ってきた。

 トン。

 たったそれだけで、春の教室が少しだけ安心できる場所になる。


 窓の外は明るい。

 もうすぐ運動会が来る。

 そのあとに、プールも来る。


 怖い未来が、ちゃんと順番に並んでいる。

 でも、今日は――同じクラスだと分かった日だ。


 私は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 ばれない程度に。

 自分だけ分かる程度に。


     ◇


【美春】


 放課後、私たちは喫茶店へと足を向けた。

 校門を出た瞬間、教室のざわめきが背中から剥がれていく。代わりに、春の風が制服の裾を揺らして、シャツの中にひやりと入り込む。


 ――今日から、いつも通りじゃない。

 "同じクラス"が始まった。

 それだけで胸の奥が忙しいのに、私にはもうひとつ、始まったものがある。


 喫茶店のベルが、カラン、と鳴った。


「ただいま……じゃなくて、こんにちは」

 言い直した自分に、少し笑ってしまう。客として入るときと、働くために入るときじゃ、呼吸の仕方が違う。


 奥からマスターの声。

「おう、二人とも。早いね。制服のまま突っ込むと疲れるぞー」

「先に着替えます」


 カウンターの内側に回り、奥の小さな更衣スペースでエプロンを広げる。

 紺色の布。洗剤の匂いと、ほんのりコーヒーの香りが混ざっている。

 紐を腰で結ぶと、制服が"学校"から"店"に切り替わる感じがした。


 鏡に映る自分は、まだちょっとだけ緊張している。

 でも、胸の奥に「やること」があると、不思議と姿勢が整う。


 ――回す。

 私は"作る"側じゃなくて、"回す"側。

 注文が滞らないように、席が詰まらないように、カップが切れないように。

 お客さんの機嫌と、時間と、店の呼吸を見て、先に動く。


 ホールのチェックを始める。

 テーブルの拭き残し、砂糖の補充、メニュー表の角度。

 レジの釣り銭、伝票、ペン。

 水のピッチャーを満たして、グラスの口を指でなぞって曇りがないか確認する。


「……美春、結び目、いつもより丁寧」

 背後から声がして、私は反射で肩が跳ねた。


 秋穂が立っていた。

 新しいエプロンを結ぶ動作が、確かにいつもより丁寧だ。

 きゅっと紐を締めて、余った先を指で揃えて、結び目を真ん中に落ち着かせる。


「今日、なんか……」

 私は言いかけて、うまく続けられない。

 教室の空気が、まだ体に残っている。


 秋穂は私の手元を見た。

「……落ち着くために、整えてる?」

「うん。たぶん」

「……わかる」

 短い共感が、湯気みたいに胸を温める。


 マスターが新聞を畳む音をさせながら、カウンターの奥で笑った。

「お、二人とも"仕事の顔"だ。新学期の空気、店で洗い流してけー」


 その言葉に、私は小さく頷く。

 洗い流す。

 ここは、そういう場所だ。


 最初のお客さんは、いつもの常連のおばあさんだった。

 私はすぐに水を出し、笑顔の角度を作る。


「いらっしゃいませ。いつもの、ミルクティーでいいですか?」

「まあ、美春ちゃん、覚えてくれてるのね」

「もちろんです。砂糖は2つでしたよね」

「そうそう、それそれ」


 そのやり取りの間に、私は店全体を見る。

 空席の位置、日差しの当たり方、入り口の気配。

 次に来るお客さんが座りやすい席を、先に"空気として"用意する。


 カウンターの向こうで、秋穂が静かに手を動かしている。

 ボウル、泡立て器、計量。音が小さくて、一定で、気持ちがいい。

 私はその音を背中で聞きながら、伝票を書いた。


「ミルクティー、ひとつ。砂糖2つ」

 マスターが頷き、ポットを温める。

 秋穂は一瞬だけこちらを見る。

 目が合って、ふっと逸らした。

 その逸らし方が、今日の教室で見た"赤さ"を連れてきて、私は危うくミスをするところだった。


 ――だめ。仕事中。

 私は深呼吸して、レジ横のメモを整え直す。


 昼に近づくと、二人連れが増える。

 私は席の配置を頭の中で組み替えながら動いた。


「こちら、窓際どうぞ」

「お冷、先にお持ちしますね」

「ケーキセットは、今だとレモンのタルトと、ガトーショコラがあります」


 "回す"のは体力だけじゃなく、言葉の温度もだ。

 馴れ馴れしくしすぎない。冷たくしすぎない。

 相手が欲しい分だけ、会話を渡す。


 それができたとき、私は少しだけ誇らしい。

 たぶんこれが、あのときマスターが言った"店を回す目"なんだと思う。


 忙しさの波が一度引いたころ、マスターが小声で言った。

「美春ちゃん、次の波、学生三人組が来るぞ。席、先に作っとけ」

「はい」


 私はすぐに2つのテーブルをくっつけ、椅子の位置を揃える。

 ナプキンの数を増やし、氷を補充しておく。

 来てから慌てないように。

 "先に動く"のが、私の仕事だ。


 ベルが鳴って、予想通り、制服の子たちが入ってきた。

 私は笑顔で迎えながら、心の中で小さくガッツポーズをする。

 ――回せてる。


 夕方。

 最後のお客さんが帰って、扉のベルが静かに鳴り終わると、店の空気がすとんと落ち着いた。

 テーブルの上に残るのは、ぬるくなった水滴と、砂糖の粒と、人がいた余韻。


 閉店札を掛け、カーテンを半分閉める。

 マスターは奥で洗い物をしている。水音が一定で、ちゃんと"気配"としてそこにいる。

 聞こえるけど、こちらに入ってこない距離。


 私はカウンターの内側で、秋穂に小さく声をかけた。


「秋穂」

「……なに」


 秋穂は、布巾でカウンターを拭きながら言った。

 拭き方が、やっぱり丁寧だ。

 今日の彼女も、ずっと"丁寧"で出来ている。


 私はエプロンの端を指先で絡めた。


 秋穂が、ほんの少しだけ笑った。

 薄い笑み。春の光みたいに、眩しくないのに確かに明るい。


 ここは、私たちの場所。

 教室の視線も、廊下の噂も、届かない場所。


 私は、秋穂の手にそっと触れた。

 指先が重なる。

 それだけで、胸の冷たいものが少し溶ける。


「教室では触れられないから」

「……うん」

「ここでは、いい?」

「……いい」


 秋穂の声が、少しだけ震えていた。

 嬉しさと、切なさが混ざった震え。


 私は息を吐いて、言葉をひとつだけ選ぶ。


「……いつか、ちゃんと言えるようになりたい」

「いつか?」

「うん。秋穂は、私の恋人だって」


 秋穂の頬が少し赤くなる。

 エプロンの紐を指で触って、目を逸らして――短く頷いた。


「……いつか、ね」

「うん。いつか」


 その"いつか"は、遠い未来の夢じゃなくて、私たちが守るために必要な時間のことだ。


 ふと、秋穂の顔を見ると少しだけ疲れて見えた。

 新学期の始まりは、環境の変化で体調が揺れる。

 去年も秋穂はこの時期に風邪を引いた。


「秋穂、無理しないでね」

「……美春も」

「私は平気。回すの得意だから」

 冗談めかして言うと、秋穂が小さく笑った。


「……頼りにしてる」

 その言葉が妙に重くて、胸がきゅっとなる。


 私は、ちゃんと応えたい。

 ホールの流れも、店の息も、秋穂の夢も。

 "回す"って、たぶんそういうことだ。


 カウンターの上に、マスターが置いていった不揃いの焼き菓子があった。

 試作の端切れ。見た目は欠けているのに、香りはちゃんと甘い。


 秋穂がそれを半分に割って、私に差し出す。


「……食べる?」

「うん」


 口に入れると、じんわり広がるバターの風味。

 少しだけ苦いカカオ。最後に残る甘さ。


 秋穂の味。


 私は噛みしめながら、今日の掲示板の前のことを思い出す。

 同じクラスだと分かっただけで、世界が戻ってきた感覚。


 三年生が始まった。

 秋穂と同じクラス。

 秋穂と放課後も一緒。


 最後の一年。


 教室で隣じゃなくても。

 友達って嘘をつく日があっても。

 それでも、変わらないものがある。


 秋穂が、私の後ろにいる。

 振り向けば、そこにいる。

 そして、誰もいない場所では、ちゃんと手を取れる。


 私は、心の中で小さく繰り返した。


 ――卒業したら。

 秘密じゃなくなる。

「秋穂は、私の恋人です」って、言える。


 一年は長い。

 でも、待てる。

 秋穂と一緒なら、待てる。


 そのために私は、明日も回す。

 店を、時間を、そして――私たちの"いつか"に向かう日々を。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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