第19話「春休みの約束」
ライトな百合x成長物語です。
4話、8話、14話がキリのいいポイントです!
15話以降、甘々予定!
三月十四日。ホワイトデー。
朝、カーテンの隙間から入ってくる光が、冬のそれより少しだけ薄い。冷たいのに、どこか軽い。
布団の中で目を開けた瞬間、私は昨日までずっと胸の奥に張り付いていた「受験」とは違う種類の緊張を思い出して、変な笑いが出そうになった。
――秋穂と、時間を交換する。
あの夜、秋穂が言った「お返しは、ものじゃなくていい。時間がほしい」という言葉は、チョコの甘さより長く口の中に残っていた。
スマホを見る。
「今日、昼から。店、少し早く閉める。来られる?」
秋穂の文面は相変わらず短いのに、行間があったかい。
私は「行く」とだけ返して、すぐにまた画面を見返した。たった二文字が、ちゃんと約束の形になっている気がして。
母が台所で湯を沸かす音がする。
味噌汁の匂い。トーストの焦げ目。
いつもの朝のはずなのに、私の心だけが先に喫茶店へ走っていく。
「美春、今日は友達と?」
母が何気なく聞く。
「うん……ちょっと。ホワイトデーだから」
言った瞬間、舌が少しだけ苦い。
友達。嘘。守るための言い換え。
この嘘は、昨日までの私なら、胸を締め付けて動けなくなる種類だった。
でも今は、違う。罪悪感はあるのに、潰されない。
――いつか、ちゃんと言える日のための嘘だと分かっているから。
「ふふ。楽しんできなさい。まだ寒いから、手袋持って」
母は、いつも通りの優しさで言う。
その優しさが、少し痛い。痛いのに、ありがたい。
私は手袋をポケットに押し込んで、家を出た。
喫茶店へ向かう道は、二月より明るかった。
アスファルトの端に、溶けきれなかった雪の塊が小さく残っている。
でも、風の匂いはもう冬のままじゃない。洗い立てのシーツみたいな、乾いた匂いが混ざっている。
◇
ベルが鳴る。
カラン。
いつもの音が、今日は「招き入れる音」に聞こえた。
店内は、昼なのに少しだけ薄暗い。
電球の黄色い光が、外の白い光と混ざって、輪郭を柔らかくしている。
カウンターの奥から、マスターが顔を出した。
「お、来た来た。今日は"時間"の日だな」
ニヤッとした笑い。
全部見抜いてるくせに、追い詰めない笑い。
「……うるさいです」
私は小さく返して、コートを脱ぐ。
厨房の奥から、秋穂が出てきた。
エプロンの紐を短く結んで、袖をまくっている。
髪はきっちりまとめられていて、いつもより職人っぽい。
そのくせ、私を見た瞬間だけ、目の温度が上がるのが分かる。
「来た」
秋穂が言った。
それだけなのに、胸がふっと軽くなる。
「来た」
私も同じ言葉を返して、笑いそうになって慌てて咳払いした。
マスターが、わざとらしく咳をしてから言う。
「じゃ、俺は用事。夕方までいないから。二人で好きに使いな」
「え」
「えじゃない。今日の店は、二人の教室だ」
そう言って、マスターは奥へ引っ込んだ。
残った空気が、一気に静かになる。
静かなのに、落ち着かない。
私の心臓だけ、文化祭の準備みたいに忙しい。
秋穂が手を洗いながら言った。
「……今日は、作る」
「なにを?」
「基本。生地。クリーム。温度。……あと、手」
最後の単語だけ、小さかった。
「手?」
聞き返すと、秋穂は少しだけ視線を逸らして、耳が赤くなる。
あ、分かった。
"手"って、混ぜ方とか、持ち方とか。
でも、それだけじゃない気がして、私は笑うのを飲み込んだ。
「ホワイトデー、だから」
秋穂が言う。
「時間、あげるって言った。……美春、欲しいって言った」
言い方が淡々としているのに、内容がずるい。
欲しいって言ったのは、私だ。
その事実を秋穂の口から言われると、胸が熱くなる。
「……欲しかった」
私は、少しだけ声を落として言った。
「秋穂の時間」
秋穂が、ほんの一瞬だけ口元を緩める。
それは、砂糖が溶けるみたいな笑いだった。
◇
最初のレッスンは、意外と地味だった。
計量。
粉をふるう。
バターを室温に戻す。
卵を割るときの角度。
泡立て器を立てる位置。
ボウルの縁に当てる音の強さ。
秋穂は、説明が短い。
でも短い分、手が丁寧で、見れば分かるようにしてくれる。
「ここ、止めない」
秋穂が、私の手首に軽く触れて、動きを修正した。
触れ方が一瞬で、でも確実で、私は呼吸を忘れかけた。
「……止めると、分離する」
秋穂は何事もない顔で言う。
何事もない顔が、逆にずるい。
私は、わざと真面目に返した。
「……分離、したら困る」
「困る」
秋穂が頷く。
同じ言葉を繰り返しながら、指先だけが少し赤い。
生地が、少しずつ「生地」の顔になる。
粉っぽさが消えて、まとまりが出る。
艶が出る。
その変化が、見ていて気持ちいい。
まるで、私の心が秋穂の隣で形を整えていくみたいだった。
焼き時間の間、秋穂はタイマーをセットしてから、私に紅茶を淹れてくれた。
香りが立ち上る。
喉の奥がほどける。
「……どう?」
秋穂が聞く。
「喫茶店って、落ち着く」
私は素直に言った。
「家でも学校でもないのに、ちゃんと居場所って感じがする」
秋穂が小さく頷く。
「……ここは、逃げ場所」
「逃げ場所?」
「……うん。私にとって」
秋穂はカップを両手で包んで言う。
「家で、ちゃんとしてると、息が詰まる。学校でも、ちゃんとしてると、疲れる。ここだけ、ちゃんとしなくても……まあ、死なない」
"死なない"って言葉が、秋穂の口から出ると重い。
でも、それを冗談みたいに言えるくらいには、秋穂の心が少し柔らかくなっているのも分かる。
私は、その言葉の重さを受け止めて、少しだけ前に身を乗り出した。
「秋穂、逃げ場所って言ったけど」
「……うん」
「私にとっては、逃げ場所じゃない」
秋穂が、少しだけ目を見開く。
「ここは、私の"居場所"」
言い切った。
秋穂の目が揺れて、唇が少しだけ開く。
何か言いたそうで、でも言葉が出ない。
私は続ける。
「秋穂がいるから。……秋穂が作るものがあるから」
秋穂の指が、カップの縁で小さく震えた。
「……ありがとう」
秋穂が、ほんの少しだけ声を震わせて言った。
その"ありがとう"が、私の胸を熱くする。
秋穂が、目を伏せて、短く息を吐いた。
それが、照れ隠しの呼吸だと分かってしまう。
分かってしまうくらい、私は秋穂のことを知り始めている。
タイマーが鳴る。
ピピピ。
秋穂がオーブンを開ける。
熱気が、顔に当たる。
焼き上がりの匂い。バターと砂糖の、少し焦げた甘さ。
その匂いの中に、私は確かに"未来"を嗅いだ気がした。
「……味見」
秋穂が言って、小さな端切れを私に渡す。
「え、私?」
「うん。美春が、最初」
秋穂の声が、ほんの少しだけ柔らかい。
私は受け取って口に入れた。
甘い。
でも甘いだけじゃない。
奥に、ちゃんと焼きの香ばしさが残る。
「……んまい」
思わず言うと、秋穂が「……当然」と言いながら、口角だけが上がった。
その瞬間、私は確信した。
この時間は"交換"なんかじゃない。
私がもらってしまったものの方が大きい。
午後の途中で、マスターが一度だけ顔を出した。
「おー、やってるやってる。……あ、いい匂い」
鼻を鳴らして、焼き菓子を見て、満足そうに頷く。
「美春ちゃん」
マスターが急に真面目な声で言った。
「はい」
背筋が伸びる。反射で。
「春休みから、バイトしないか」
「え」
驚きが、声になった。
秋穂が一瞬だけ動きを止める。
私を見る。
その目に、ほんの少しだけ不安が混じる。
――私が断ったら、秋穂が困る。
そう思ってしまうのが、私の癖だ。
でも今日は、癖で返事をしない。
「……なんで、私?」
私は聞いた。
マスターは笑って、でも目は真剣だった。
「前に言ったろ。店ってのは、作る人と、回す人が必要だ」
その言葉が、頭の中の引き出しを開ける。
夏祭りのとき。
マスターが私に向けて「店を回す目をしてる」って言った。
あの時は褒め言葉みたいに流したけど、今は違う。
それが、秋穂の夢の形に繋がっているのが分かる。
「秋穂の菓子は、伸びる」
マスターが続ける。
「でも伸びるほど、回す側が要る。仕入れ、在庫、動線、釣り銭、予約、客の波。……全部、味と同じくらい大事だ」
「……」
私の喉が動く。
頭の中に、夏祭りのピンチが浮かぶ。
材料が足りなくて、連携が噛み合わなくて、空気が冷えた日。
あの日、私が"整理"と言って動けたのは、たぶん偶然じゃない。
マスターが、最後に言った。
「美春ちゃん、逃げない顔になってきた。だから誘う」
逃げない顔。
あの言葉は、私の胸の奥を静かに叩く。
見てる。
言わないけど、待ってる。
私の返事を。
秋穂の唇が、わずかに震えている。
普段は動かない秋穂の表情が、今だけ、ほんの少しだけ――怖がっている。断られることを。
私は、息を吸って――
一瞬だけ、迷った。
進路。受験。親の期待。
全部、頭をよぎる。
でも、それより強い声が聞こえた。
――秋穂の隣にいたい。
その声が、全部を押し流す。
吐いてから言った。
「……やります」
言葉が自分のものになるのが分かった。
「春休みから。できること、やります」
秋穂の肩が、ほんの少し落ちる。
息が抜けたみたいに。
その反応が、嬉しくて、少し苦しい。
「よし」
マスターが満足そうに頷く。
「じゃ、春休みの予定、二人で詰めとけ。喧嘩すんなよ?」
最後はいつもの調子で笑って、また奥へ消えた。
残された私たちは、目を合わせた。
「……いいの?」
秋穂が小さく言う。
きっと"負担じゃない?"の意味も含んでいる。
「いい」
私は言い切った。
「秋穂の店。そこに私がいる未来――叶えたいって、思った」
自分の口から出た言葉に、自分が少し驚く。
でも、嘘じゃない。
秋穂が、視線を落として、短く言った。
「……安心」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥が熱くなる。
◇
春休みの計画は、スマホの画面の上で決まっていった。
共有カレンダー。
秋穂が提案したとき、私は一瞬だけ笑いそうになった。
"恋人っぽい"って思ってしまったから。
でも、秋穂の顔は真面目で、照れもない。
たぶん秋穂にとっては、効率と安全のためのツールなんだろう。
その真面目さが、逆に愛しい。
「ここ、バイト」
秋穂が画面を指でなぞる。
「ここ、私の仕込み。……美春、学校の宿題」
「春休みに宿題ってある?」
「……あるでしょ。予習」
「秋穂、ほんとに真面目だね」
「真面目じゃないと、崩れる」
いつもの言い方。
でも今日は、それが責めじゃなく、二人の生活の設計図に聞こえる。
遊びの日も入れた。
"遊び"って入力するのが、なんだか恥ずかしい。
秋穂が「……遊びは必要」と言って、淡々と登録するから余計に。
「ここ、映画」
「いい。……美春、泣く?」
「泣かない。たぶん」
「たぶん」
秋穂が、ほんの少しだけ笑った。
「ここ、水族館」
「いい。……美春、魚、好き?」
「そんなに詳しくないけど、秋穂と行くなら」
「……ペンギン、見る」
「秋穂、ペンギン好きなの?」
「……少し。動きが、真面目」
秋穂の理由が、秋穂らしくて、私は笑った。
「じゃ、ペンギン見に行こう。真面目な秋穂と、真面目なペンギン」
「……美春、からかってる」
「からかってない。愛してる」
冗談みたいに言ったのに、秋穂が固まる。
私も固まる。
「……今の、なし」
「なしって」
「なし!」
私は赤くなって、画面に集中した。
秋穂が、小さく笑う音が聞こえた。
予定が埋まっていく。
埋まっていくほど、春休みが"空白"じゃなくなる。
空白は、不安を呼ぶ。
でも予定は、未来の形になる。
私は画面を見ながら思った。
――去年の私は、春休みを"消費"して終わっていた気がする。
寝て、起きて、スマホを見て、ぼんやりして。
時間が通り過ぎていくのを眺めていただけ。
今年は違う。
秋穂の隣で、時間を使う。
守るために、積み上げるために。
「……美春」
秋穂が急に呼ぶ。
「なに?」
「"空白の日"も入れる」
「空白?」
「何もしない日。……息抜き」
秋穂が言うその言葉は、少しだけぎこちない。
息抜きが下手な人の言葉だ。
「うん、入れよう」
私は頷く。
「その日は、喫茶店でだらだらする」
「……それ、空白?」
「空白。だらだらは大事」
「……美春、そういう理屈、得意」
秋穂の声が、少しだけ面白そうになる。
このカレンダーは、ただの予定表じゃない。
二人で未来を扱う練習だ。
そう思った。
◇
春休みのアルバイト初日。
制服じゃない服で朝起きて、駅へ向かうだけで、少しだけ大人になった気がする。
でも、駅のホームはいつも通りで、私はいつも通りに緊張していた。
喫茶店の鍵の音。
カチャ。
店内の冷たい空気。
昨夜のコーヒーの匂い。
木の床の冷たさ。
全部、知ってるのに、今日は"働く側"として入るから、景色が少し違う。
「おはよう」
秋穂が先に来ていた。
エプロン姿。髪を結んで、もう仕込みの途中。
「おはよう……っていうか、今日から、よろしくお願いします」
私はわざと改まって言った。
秋穂が一瞬だけ固まって、すぐに目を逸らす。
「……やめて」
「なんで」
「照れる」
「秋穂が照れるの、珍しい」
「……美春が変」
変。
でも、その"変"が、嬉しい。
マスターが奥から出てきて、私にエプロンを投げてよこした。
「ほらよ新人。……お。似合う似合う」
「新人って」
「新人だろ。今日から回す側の練習だ」
マスターが笑って、レジの前を指さす。
「まず釣り銭チェック。次、予約表確認。あと、今日の焼きのラインナップ、声に出して覚えろ」
「声に出して?」
「声に出すと、頭が回る。ミスも減る」
そう言って、マスターはコーヒー豆の瓶を整え始めた。
私は、言われた通りに釣り銭を数えた。
硬貨の冷たさ。
数字が揃っていく安心感。
こういうの、嫌いじゃない。
予約表を見る。
常連さんの名前が並ぶ。
"いつもの"が続くことの重みが、紙の上にある。
焼き菓子のラインナップを声に出す。
「フィナンシェ、マドレーヌ、スコーン、レモンのタルト……」
口に出すと、匂いが想像できる。
秋穂が作る味の輪郭が、頭の中に並ぶ。
開店のベルが鳴る。
カラン。
最初の一時間は、平和だった。
常連さんが来て、いつもの席に座って、いつものように笑う。
私は注文を取って、伝票を回して、カップを運ぶ。
秋穂は厨房で、淡々と、でも確実に手を動かしている。
――順調。
そう思った瞬間に、事件は起きる。
昼前。
近くの中学校が春休みの補習を終えたらしく、制服の集団がどっと入ってきた。
四人、六人、さらに増える。
席が埋まる。
注文が重なる。
声が重なる。
空気が一気に熱くなる。
「アイスココア2つ、ホットコーヒー3つ、あとケーキセット……」
口が追いつかない。手が追いつかない。
レジに並ぶ列。
席で待つ列。
厨房に溜まる伝票。
動線が詰まる。
私は一瞬だけ頭が白くなりかけた。
でも、ここで止まったら、夏祭りの"詰まり"に戻る。
私は深呼吸して、目を動かした。
全体を見る。
波を見る。
"今、何が詰まっているか"を見る。
詰まっているのは、レジ。
レジが詰まると、注文が遅れる。
注文が遅れると、厨房の準備がズレる。
ズレると、提供が遅れる。
遅れると、不満が出る。
不満は、喫茶店の空気を壊す。
「マスター、釣り銭、千円札足りなくなります!」
私は声を張った。
マスターが一瞬こちらを見て、すぐに頷く。
「よし、両替。美春ちゃん、レジ一旦止めて、席案内優先!」
「はい!」
私はレジ前の列に向かって言った。
「すみません、先に席の確保をお願いします! お席にご案内しますので、こちらへ!」
学生たちは最初きょとんとしたけど、誰かが笑って「了解でーす」と言って動いてくれた。
空気が少しだけ和らぐ。
"高校生らしさ"が、場を救う。
大人の正しさだけじゃない。
こういう時の軽さも、武器になる。
席案内を終えたら、今度は注文の取り方を変える。
一組ずつじゃなく、同じ卓をまとめて取る。
飲み物とケーキの種類を先に決めてもらって、伝票を一気に書く。
厨房へ回す順番を整える。
秋穂が、厨房の奥から顔を出して言った。
「美春、ケーキ、残り少ない」
その声が、いつもより少し焦っている。
私は即座に返した。
「分かった。ショーケースの前に"残り少"の札、出す。注文取るときも先に言う」
言いながら、自分でも驚く。
私は今、ちゃんと回している。
札を出すと、客は文句じゃなく「じゃあこっちにする」と選び直してくれた。
先に伝えるだけで、摩擦が減る。
"回す目"って、こういうことかもしれないと思った。
波が引く。
少しずつ席が空く。
伝票が薄くなる。
レジの列が短くなる。
一段落した瞬間、マスターがぽん、と私の肩を軽く叩いた。
「合格。今の判断、良かった」
合格。
その言葉が、受験の合格より小さいのに、胸に刺さった。
秋穂が、私の方を見て、ほんの少しだけ笑う。
"安心"の笑い。
それだけで、私はまた頑張れる。
閉店後、秋穂が小さく言った。
「……美春、すごかった」
褒め言葉が下手な秋穂が、珍しく言葉を続ける。
「私、あの時、何もできなかった。美春が、全部、回してた」
秋穂の声が、ほんの少しだけ震えている。
「……美春がいてくれて、よかった」
その言葉が、マスターの「合格」より、もっと深く刺さった。
看板を裏返して、椅子を上げて、床を掃いて、レジを締める。
働くと、店の音が増える。
普段は聞こえない音が、ちゃんと聞こえる。
"店が生きてる音"。
マスターが奥で日報を書きながら言った。
「美春ちゃん、今日の反省は?」
「……釣り銭、千円札の補充タイミングが遅かった」
「だな。じゃ次は?」
「……朝の時点で、混みそうな日を予測して、先に両替しておく」
マスターが満足そうに頷く。
「そうそう。それが回すってことだ」
秋穂が、洗い物を終えて、私の隣に来た。
手が少し赤い。お湯のせいだ。
「……疲れた?」
秋穂が聞く。
"心配"を、短い言葉に詰めた声。
「疲れたけど……楽しかった」
私は正直に言った。
「店って、こうやって回ってるんだって、初めて分かった」
「……分かったなら、偉い」
秋穂が小さく言う。
褒め言葉が下手なのに、今日はちゃんと出てくる。
マスターが手を止めて、わざとらしく咳払いする。
「はいはい、二人とも。今日はもう終わりな。俺は帰る。戸締り頼む」
「え、マスター……」
「大人は空気読むんだよ」
そう言って、マスターはさっさと帰っていった。
静けさが残る。
でも、嫌な静けさじゃない。
今日一日働いた後の、柔らかい静けさ。
秋穂が、エプロンを外しながら言った。
「……お菓子、続き」
「え、まだやるの」
「時間、あげるって言った」
秋穂が淡々と言う。
淡々としてるのに、目だけが少し楽しそうで、私は負ける。
「やる」
私は答えた。
「今日の私は、頑張ったから、許される」
秋穂が、ふっと笑った。
「……許す」
その「許す」が、私の心を甘くする。
厨房の灯りは、ホールより白い。
作業台の上にボウルを置くと、金属が冷たく光る。
外はもう暗い。窓の向こうに街灯の光が点る。
でもここは、まだ昼みたいに明るい。
秋穂は、今日作った生地の続きを、私に任せた。
混ぜる。
止めない。
分離させない。
今日の私は、手だけじゃなく、頭も動かす。
「……上手くなってる」
秋穂がぽつりと言った。
不意打ちみたいに。
「ほんと?」
「ほんと。さっきの混み方で、崩れなかったし」
秋穂は、私の"仕事"を見ていた。
私はそれが、胸の奥を熱くする。
「秋穂が、見てたから」
私は言ってしまう。
「見られてると、頑張れる」
秋穂が、一瞬だけ固まって、視線を逸らす。
耳が赤い。
それが嬉しくて、私は作業台の上の粉をわざと丁寧に払った。
落ち着け、私。
「……美春」
秋穂が名前を呼ぶ。
静かに、でもはっきり。
「なに?」
「三年、最後の一年」
秋穂の言葉が、作業台の上に落ちる。
粉みたいに軽いのに、吸い込むと重い。
「うん」
私は頷く。
カレンダーの四月が頭に浮かぶ。
クラス替え。進路。将来。
秋穂の夢。私の役割。
秋穂が、少しだけ視線を落とす。
「……怖い。三年生になって、卒業したら、美春がいなくなるかもって」
珍しく、秋穂が先に弱音を吐く。
「……美春は、怖い?」
秋穂が聞く。
怖いと言ってしまったら、秋穂まで怖くなる気がして、私は一瞬迷う。
でも、今日は逃げない日だ。
「怖い」
私は素直に言った。
「でも、秋穂と一緒なら……怖いままでも進める気がする」
言いながら、手が少し震える。
でも止めない。
混ぜ続ける。
止めたら分離するから。
秋穂が、作業台の向こうから、私の手元にそっと手を伸ばす。
私の手首に触れて、動きを支える。
指先の温度が、私の震えを止める。
「……進む」
秋穂が言った。
「一緒に。……約束」
"約束"という言葉は、秋穂の口から出ると、嘘みたいに強い。
「うん」
私は小さく笑って、頷いた。
「春休み、バイトも、お菓子も、遊びも。全部、ちゃんとやる」
「……全部」
秋穂が復唱して、少しだけ笑った。
「欲張り」
「欲張りでいい」
私は言う。
「去年の私は、欲張れなかったから」
去年の私は、誰かに合わせて、空気に合わせて、嘘に合わせて、消えていくみたいに生きていた。
今は違う。
欲張って、選んで、決めて、積み上げたい。
生地が、艶を増す。
泡立て器の音が、一定のリズムになる。
秋穂が隣で、同じリズムで呼吸している。
その時間が、幸福だった。
甘いだけじゃなく、ちゃんと手触りがある幸福。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
ふと、思ってしまう。
でも"ずっと"なんて、今は簡単に言えない。
三年は、きっと速い。
受験も、卒業も、未来も。
時間は、いつだって足りない。
だからこそ、今日の一時間が大事だ。
今日の一日が大事だ。
もらった時間を、ちゃんと味わう。
秋穂が、焼き上がりを待つ間に言った。
「……次は、もっと難しいの教える」
「え、なに」
「……生チョコ」
その単語に、私は思わず笑ってしまう。
「バレンタインは終わったよ」
「終わったけど。……次のため」
秋穂の目が、少しだけ遠くを見る。
次。
来年。
再来年。
その先。
私は胸がいっぱいになって、言葉が詰まりそうになった。
詰まりそうになったけど、詰まらせない。
「うん。次のために、頑張る」
私は言った。
「秋穂の店のために。……私が隣にいる未来のために」
言い切った瞬間、秋穂の指が、私の手首を少しだけ強く握った。
痛くない程度。
逃がさない程度。
「……うん」
秋穂が小さく答える。
その一音が、春の始まりみたいに柔らかい。
オーブンのタイマーが鳴った。
ピピピ。
秋穂が扉を開ける。
熱気が広がり、甘い匂いが店に満ちる。
私はその匂いの中で思った。
三年は、きっと忙しい。
不安も、嫉妬も、また来るかもしれない。
でも、こうして並んで、同じ作業台に向かって、同じ匂いを吸っていられるなら。
――それだけで、私は走れる。
ベルは鳴らない。
もう閉店しているから。
でも、私の中では小さな音が鳴っていた。
カラン。
"春休みが始まった音"。
"最後の一年へ向かう音"。
そして――"二人で約束を積む音"。
焼き上がった生地を、秋穂が丁寧にオーブンから取り出す。
まだ熱い。湯気が立つ。
その湯気の向こうで、秋穂が私を見た。
「……来年も、こうしてる?」
秋穂が聞く。
不安じゃない。確認。
「してる」
私は即答した。
「来年も、再来年も。秋穂の店が開くまで。……開いてからも」
秋穂が、生地を持つ手を少しだけ震わせた。
震えているのに、落とさない。
その手の強さが、私の決意を支えてくれる。
「……約束」
秋穂が言った。
私は頷いて、窓の外を見た。
春の夜。
桜はまだ眠っている。
でも、蕾が膨らむ前の空気は、もう甘い。
私たちも同じだ。
まだ咲いていない。
でも、咲く準備はもう始まっている。
――春休みの約束は、ここから始まる。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




