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第19話「春休みの約束」

ライトな百合x成長物語です。

4話、8話、14話がキリのいいポイントです!

15話以降、甘々予定!

 三月十四日。ホワイトデー。


 朝、カーテンの隙間から入ってくる光が、冬のそれより少しだけ薄い。冷たいのに、どこか軽い。

 布団の中で目を開けた瞬間、私は昨日までずっと胸の奥に張り付いていた「受験」とは違う種類の緊張を思い出して、変な笑いが出そうになった。


 ――秋穂と、時間を交換する。

 あの夜、秋穂が言った「お返しは、ものじゃなくていい。時間がほしい」という言葉は、チョコの甘さより長く口の中に残っていた。


 スマホを見る。

「今日、昼から。店、少し早く閉める。来られる?」

 秋穂の文面は相変わらず短いのに、行間があったかい。

 私は「行く」とだけ返して、すぐにまた画面を見返した。たった二文字が、ちゃんと約束の形になっている気がして。


 母が台所で湯を沸かす音がする。

 味噌汁の匂い。トーストの焦げ目。

 いつもの朝のはずなのに、私の心だけが先に喫茶店へ走っていく。


「美春、今日は友達と?」

 母が何気なく聞く。


「うん……ちょっと。ホワイトデーだから」

 言った瞬間、舌が少しだけ苦い。

 友達。嘘。守るための言い換え。

 この嘘は、昨日までの私なら、胸を締め付けて動けなくなる種類だった。

 でも今は、違う。罪悪感はあるのに、潰されない。

 ――いつか、ちゃんと言える日のための嘘だと分かっているから。


「ふふ。楽しんできなさい。まだ寒いから、手袋持って」

 母は、いつも通りの優しさで言う。

 その優しさが、少し痛い。痛いのに、ありがたい。


 私は手袋をポケットに押し込んで、家を出た。


 喫茶店へ向かう道は、二月より明るかった。

 アスファルトの端に、溶けきれなかった雪の塊が小さく残っている。

 でも、風の匂いはもう冬のままじゃない。洗い立てのシーツみたいな、乾いた匂いが混ざっている。


     ◇


 ベルが鳴る。

 カラン。


 いつもの音が、今日は「招き入れる音」に聞こえた。


 店内は、昼なのに少しだけ薄暗い。

 電球の黄色い光が、外の白い光と混ざって、輪郭を柔らかくしている。

 カウンターの奥から、マスターが顔を出した。


「お、来た来た。今日は"時間"の日だな」

 ニヤッとした笑い。

 全部見抜いてるくせに、追い詰めない笑い。


「……うるさいです」

 私は小さく返して、コートを脱ぐ。


 厨房の奥から、秋穂が出てきた。

 エプロンの紐を短く結んで、袖をまくっている。

 髪はきっちりまとめられていて、いつもより職人っぽい。

 そのくせ、私を見た瞬間だけ、目の温度が上がるのが分かる。


「来た」

 秋穂が言った。

 それだけなのに、胸がふっと軽くなる。


「来た」

 私も同じ言葉を返して、笑いそうになって慌てて咳払いした。


 マスターが、わざとらしく咳をしてから言う。

「じゃ、俺は用事。夕方までいないから。二人で好きに使いな」

「え」

「えじゃない。今日の店は、二人の教室だ」

 そう言って、マスターは奥へ引っ込んだ。


 残った空気が、一気に静かになる。

 静かなのに、落ち着かない。

 私の心臓だけ、文化祭の準備みたいに忙しい。


 秋穂が手を洗いながら言った。

「……今日は、作る」

「なにを?」

「基本。生地。クリーム。温度。……あと、手」

 最後の単語だけ、小さかった。


「手?」

 聞き返すと、秋穂は少しだけ視線を逸らして、耳が赤くなる。

 あ、分かった。

 "手"って、混ぜ方とか、持ち方とか。

 でも、それだけじゃない気がして、私は笑うのを飲み込んだ。


「ホワイトデー、だから」

 秋穂が言う。

「時間、あげるって言った。……美春、欲しいって言った」

 言い方が淡々としているのに、内容がずるい。

 欲しいって言ったのは、私だ。

 その事実を秋穂の口から言われると、胸が熱くなる。


「……欲しかった」

 私は、少しだけ声を落として言った。

「秋穂の時間」


 秋穂が、ほんの一瞬だけ口元を緩める。

 それは、砂糖が溶けるみたいな笑いだった。


     ◇


 最初のレッスンは、意外と地味だった。


 計量。

 粉をふるう。

 バターを室温に戻す。

 卵を割るときの角度。

 泡立て器を立てる位置。

 ボウルの縁に当てる音の強さ。


 秋穂は、説明が短い。

 でも短い分、手が丁寧で、見れば分かるようにしてくれる。


「ここ、止めない」

 秋穂が、私の手首に軽く触れて、動きを修正した。

 触れ方が一瞬で、でも確実で、私は呼吸を忘れかけた。


「……止めると、分離する」

 秋穂は何事もない顔で言う。

 何事もない顔が、逆にずるい。


 私は、わざと真面目に返した。

「……分離、したら困る」

「困る」

 秋穂が頷く。

 同じ言葉を繰り返しながら、指先だけが少し赤い。


 生地が、少しずつ「生地」の顔になる。

 粉っぽさが消えて、まとまりが出る。

 艶が出る。

 その変化が、見ていて気持ちいい。

 まるで、私の心が秋穂の隣で形を整えていくみたいだった。


 焼き時間の間、秋穂はタイマーをセットしてから、私に紅茶を淹れてくれた。

 香りが立ち上る。

 喉の奥がほどける。


「……どう?」

 秋穂が聞く。


「喫茶店って、落ち着く」

 私は素直に言った。

「家でも学校でもないのに、ちゃんと居場所って感じがする」


 秋穂が小さく頷く。

「……ここは、逃げ場所」

「逃げ場所?」

「……うん。私にとって」

 秋穂はカップを両手で包んで言う。

「家で、ちゃんとしてると、息が詰まる。学校でも、ちゃんとしてると、疲れる。ここだけ、ちゃんとしなくても……まあ、死なない」


 "死なない"って言葉が、秋穂の口から出ると重い。

 でも、それを冗談みたいに言えるくらいには、秋穂の心が少し柔らかくなっているのも分かる。


 私は、その言葉の重さを受け止めて、少しだけ前に身を乗り出した。


「秋穂、逃げ場所って言ったけど」

「……うん」

「私にとっては、逃げ場所じゃない」

 秋穂が、少しだけ目を見開く。


「ここは、私の"居場所"」

 言い切った。

 秋穂の目が揺れて、唇が少しだけ開く。

 何か言いたそうで、でも言葉が出ない。


 私は続ける。

「秋穂がいるから。……秋穂が作るものがあるから」

 秋穂の指が、カップの縁で小さく震えた。


「……ありがとう」

 秋穂が、ほんの少しだけ声を震わせて言った。

 その"ありがとう"が、私の胸を熱くする。


 秋穂が、目を伏せて、短く息を吐いた。

 それが、照れ隠しの呼吸だと分かってしまう。

 分かってしまうくらい、私は秋穂のことを知り始めている。


 タイマーが鳴る。

 ピピピ。


 秋穂がオーブンを開ける。

 熱気が、顔に当たる。

 焼き上がりの匂い。バターと砂糖の、少し焦げた甘さ。

 その匂いの中に、私は確かに"未来"を嗅いだ気がした。


「……味見」

 秋穂が言って、小さな端切れを私に渡す。


「え、私?」

「うん。美春が、最初」

 秋穂の声が、ほんの少しだけ柔らかい。


 私は受け取って口に入れた。

 甘い。

 でも甘いだけじゃない。

 奥に、ちゃんと焼きの香ばしさが残る。


「……んまい」

 思わず言うと、秋穂が「……当然」と言いながら、口角だけが上がった。


 その瞬間、私は確信した。

 この時間は"交換"なんかじゃない。

 私がもらってしまったものの方が大きい。


 午後の途中で、マスターが一度だけ顔を出した。


「おー、やってるやってる。……あ、いい匂い」

 鼻を鳴らして、焼き菓子を見て、満足そうに頷く。


「美春ちゃん」

 マスターが急に真面目な声で言った。


「はい」

 背筋が伸びる。反射で。


「春休みから、バイトしないか」

「え」

 驚きが、声になった。


 秋穂が一瞬だけ動きを止める。

 私を見る。

 その目に、ほんの少しだけ不安が混じる。

 ――私が断ったら、秋穂が困る。

 そう思ってしまうのが、私の癖だ。

 でも今日は、癖で返事をしない。


「……なんで、私?」

 私は聞いた。


 マスターは笑って、でも目は真剣だった。

「前に言ったろ。店ってのは、作る人と、回す人が必要だ」

 その言葉が、頭の中の引き出しを開ける。


 夏祭りのとき。

 マスターが私に向けて「店を回す目をしてる」って言った。

 あの時は褒め言葉みたいに流したけど、今は違う。

 それが、秋穂の夢の形に繋がっているのが分かる。


「秋穂の菓子は、伸びる」

 マスターが続ける。

「でも伸びるほど、回す側が要る。仕入れ、在庫、動線、釣り銭、予約、客の波。……全部、味と同じくらい大事だ」

「……」

 私の喉が動く。

 頭の中に、夏祭りのピンチが浮かぶ。

 材料が足りなくて、連携が噛み合わなくて、空気が冷えた日。

 あの日、私が"整理"と言って動けたのは、たぶん偶然じゃない。


 マスターが、最後に言った。

「美春ちゃん、逃げない顔になってきた。だから誘う」

 逃げない顔。

 あの言葉は、私の胸の奥を静かに叩く。


 見てる。

 言わないけど、待ってる。

 私の返事を。

 秋穂の唇が、わずかに震えている。

 普段は動かない秋穂の表情が、今だけ、ほんの少しだけ――怖がっている。断られることを。


 私は、息を吸って――

 一瞬だけ、迷った。

 進路。受験。親の期待。

 全部、頭をよぎる。

 でも、それより強い声が聞こえた。


 ――秋穂の隣にいたい。


 その声が、全部を押し流す。

 吐いてから言った。


「……やります」

 言葉が自分のものになるのが分かった。

「春休みから。できること、やります」


 秋穂の肩が、ほんの少し落ちる。

 息が抜けたみたいに。

 その反応が、嬉しくて、少し苦しい。


「よし」

 マスターが満足そうに頷く。

「じゃ、春休みの予定、二人で詰めとけ。喧嘩すんなよ?」

 最後はいつもの調子で笑って、また奥へ消えた。


 残された私たちは、目を合わせた。


「……いいの?」

 秋穂が小さく言う。

 きっと"負担じゃない?"の意味も含んでいる。


「いい」

 私は言い切った。

「秋穂の店。そこに私がいる未来――叶えたいって、思った」

 自分の口から出た言葉に、自分が少し驚く。

 でも、嘘じゃない。


 秋穂が、視線を落として、短く言った。

「……安心」

 それだけ。

 それだけなのに、胸の奥が熱くなる。


     ◇


 春休みの計画は、スマホの画面の上で決まっていった。


 共有カレンダー。

 秋穂が提案したとき、私は一瞬だけ笑いそうになった。

 "恋人っぽい"って思ってしまったから。

 でも、秋穂の顔は真面目で、照れもない。

 たぶん秋穂にとっては、効率と安全のためのツールなんだろう。

 その真面目さが、逆に愛しい。


「ここ、バイト」

 秋穂が画面を指でなぞる。

「ここ、私の仕込み。……美春、学校の宿題」

「春休みに宿題ってある?」

「……あるでしょ。予習」

「秋穂、ほんとに真面目だね」

「真面目じゃないと、崩れる」

 いつもの言い方。

 でも今日は、それが責めじゃなく、二人の生活の設計図に聞こえる。


 遊びの日も入れた。

 "遊び"って入力するのが、なんだか恥ずかしい。

 秋穂が「……遊びは必要」と言って、淡々と登録するから余計に。


「ここ、映画」

「いい。……美春、泣く?」

「泣かない。たぶん」

「たぶん」

 秋穂が、ほんの少しだけ笑った。


「ここ、水族館」

「いい。……美春、魚、好き?」

「そんなに詳しくないけど、秋穂と行くなら」

「……ペンギン、見る」

「秋穂、ペンギン好きなの?」

「……少し。動きが、真面目」

 秋穂の理由が、秋穂らしくて、私は笑った。


「じゃ、ペンギン見に行こう。真面目な秋穂と、真面目なペンギン」

「……美春、からかってる」

「からかってない。愛してる」

 冗談みたいに言ったのに、秋穂が固まる。

 私も固まる。


「……今の、なし」

「なしって」

「なし!」

 私は赤くなって、画面に集中した。

 秋穂が、小さく笑う音が聞こえた。


 予定が埋まっていく。

 埋まっていくほど、春休みが"空白"じゃなくなる。

 空白は、不安を呼ぶ。

 でも予定は、未来の形になる。


 私は画面を見ながら思った。

 ――去年の私は、春休みを"消費"して終わっていた気がする。

 寝て、起きて、スマホを見て、ぼんやりして。

 時間が通り過ぎていくのを眺めていただけ。

 今年は違う。

 秋穂の隣で、時間を使う。

 守るために、積み上げるために。


「……美春」

 秋穂が急に呼ぶ。

「なに?」

「"空白の日"も入れる」

「空白?」

「何もしない日。……息抜き」

 秋穂が言うその言葉は、少しだけぎこちない。

 息抜きが下手な人の言葉だ。


「うん、入れよう」

 私は頷く。

「その日は、喫茶店でだらだらする」

「……それ、空白?」

「空白。だらだらは大事」

「……美春、そういう理屈、得意」

 秋穂の声が、少しだけ面白そうになる。


 このカレンダーは、ただの予定表じゃない。

 二人で未来を扱う練習だ。

 そう思った。


     ◇


 春休みのアルバイト初日。


 制服じゃない服で朝起きて、駅へ向かうだけで、少しだけ大人になった気がする。

 でも、駅のホームはいつも通りで、私はいつも通りに緊張していた。


 喫茶店の鍵の音。

 カチャ。


 店内の冷たい空気。

 昨夜のコーヒーの匂い。

 木の床の冷たさ。

 全部、知ってるのに、今日は"働く側"として入るから、景色が少し違う。


「おはよう」

 秋穂が先に来ていた。

 エプロン姿。髪を結んで、もう仕込みの途中。


「おはよう……っていうか、今日から、よろしくお願いします」

 私はわざと改まって言った。


 秋穂が一瞬だけ固まって、すぐに目を逸らす。

「……やめて」

「なんで」

「照れる」

「秋穂が照れるの、珍しい」

「……美春が変」

 変。

 でも、その"変"が、嬉しい。


 マスターが奥から出てきて、私にエプロンを投げてよこした。

「ほらよ新人。……お。似合う似合う」

「新人って」

「新人だろ。今日から回す側の練習だ」

 マスターが笑って、レジの前を指さす。

「まず釣り銭チェック。次、予約表確認。あと、今日の焼きのラインナップ、声に出して覚えろ」

「声に出して?」

「声に出すと、頭が回る。ミスも減る」

 そう言って、マスターはコーヒー豆の瓶を整え始めた。


 私は、言われた通りに釣り銭を数えた。

 硬貨の冷たさ。

 数字が揃っていく安心感。

 こういうの、嫌いじゃない。


 予約表を見る。

 常連さんの名前が並ぶ。

 "いつもの"が続くことの重みが、紙の上にある。


 焼き菓子のラインナップを声に出す。

「フィナンシェ、マドレーヌ、スコーン、レモンのタルト……」

 口に出すと、匂いが想像できる。

 秋穂が作る味の輪郭が、頭の中に並ぶ。


 開店のベルが鳴る。

 カラン。


 最初の一時間は、平和だった。

 常連さんが来て、いつもの席に座って、いつものように笑う。

 私は注文を取って、伝票を回して、カップを運ぶ。

 秋穂は厨房で、淡々と、でも確実に手を動かしている。


 ――順調。

 そう思った瞬間に、事件は起きる。


 昼前。

 近くの中学校が春休みの補習を終えたらしく、制服の集団がどっと入ってきた。

 四人、六人、さらに増える。

 席が埋まる。

 注文が重なる。

 声が重なる。

 空気が一気に熱くなる。


「アイスココア2つ、ホットコーヒー3つ、あとケーキセット……」

 口が追いつかない。手が追いつかない。


 レジに並ぶ列。

 席で待つ列。

 厨房に溜まる伝票。

 動線が詰まる。


 私は一瞬だけ頭が白くなりかけた。

 でも、ここで止まったら、夏祭りの"詰まり"に戻る。

 私は深呼吸して、目を動かした。

 全体を見る。

 波を見る。

 "今、何が詰まっているか"を見る。


 詰まっているのは、レジ。

 レジが詰まると、注文が遅れる。

 注文が遅れると、厨房の準備がズレる。

 ズレると、提供が遅れる。

 遅れると、不満が出る。

 不満は、喫茶店の空気を壊す。


「マスター、釣り銭、千円札足りなくなります!」

 私は声を張った。

 マスターが一瞬こちらを見て、すぐに頷く。

「よし、両替。美春ちゃん、レジ一旦止めて、席案内優先!」

「はい!」


 私はレジ前の列に向かって言った。

「すみません、先に席の確保をお願いします! お席にご案内しますので、こちらへ!」


 学生たちは最初きょとんとしたけど、誰かが笑って「了解でーす」と言って動いてくれた。

 空気が少しだけ和らぐ。

 "高校生らしさ"が、場を救う。

 大人の正しさだけじゃない。

 こういう時の軽さも、武器になる。


 席案内を終えたら、今度は注文の取り方を変える。

 一組ずつじゃなく、同じ卓をまとめて取る。

 飲み物とケーキの種類を先に決めてもらって、伝票を一気に書く。

 厨房へ回す順番を整える。


 秋穂が、厨房の奥から顔を出して言った。

「美春、ケーキ、残り少ない」

 その声が、いつもより少し焦っている。


 私は即座に返した。

「分かった。ショーケースの前に"残り少"の札、出す。注文取るときも先に言う」

 言いながら、自分でも驚く。

 私は今、ちゃんと回している。


 札を出すと、客は文句じゃなく「じゃあこっちにする」と選び直してくれた。

 先に伝えるだけで、摩擦が減る。

 "回す目"って、こういうことかもしれないと思った。


 波が引く。

 少しずつ席が空く。

 伝票が薄くなる。

 レジの列が短くなる。


 一段落した瞬間、マスターがぽん、と私の肩を軽く叩いた。

「合格。今の判断、良かった」

 合格。

 その言葉が、受験の合格より小さいのに、胸に刺さった。


 秋穂が、私の方を見て、ほんの少しだけ笑う。

 "安心"の笑い。

 それだけで、私はまた頑張れる。


 閉店後、秋穂が小さく言った。

「……美春、すごかった」

 褒め言葉が下手な秋穂が、珍しく言葉を続ける。

「私、あの時、何もできなかった。美春が、全部、回してた」

 秋穂の声が、ほんの少しだけ震えている。

 

「……美春がいてくれて、よかった」

 その言葉が、マスターの「合格」より、もっと深く刺さった。


 看板を裏返して、椅子を上げて、床を掃いて、レジを締める。

 働くと、店の音が増える。

 普段は聞こえない音が、ちゃんと聞こえる。

 "店が生きてる音"。


 マスターが奥で日報を書きながら言った。

「美春ちゃん、今日の反省は?」

「……釣り銭、千円札の補充タイミングが遅かった」

「だな。じゃ次は?」

「……朝の時点で、混みそうな日を予測して、先に両替しておく」

 マスターが満足そうに頷く。

「そうそう。それが回すってことだ」


 秋穂が、洗い物を終えて、私の隣に来た。

 手が少し赤い。お湯のせいだ。


「……疲れた?」

 秋穂が聞く。

 "心配"を、短い言葉に詰めた声。


「疲れたけど……楽しかった」

 私は正直に言った。

「店って、こうやって回ってるんだって、初めて分かった」

「……分かったなら、偉い」

 秋穂が小さく言う。

 褒め言葉が下手なのに、今日はちゃんと出てくる。


 マスターが手を止めて、わざとらしく咳払いする。

「はいはい、二人とも。今日はもう終わりな。俺は帰る。戸締り頼む」

「え、マスター……」

「大人は空気読むんだよ」

 そう言って、マスターはさっさと帰っていった。


 静けさが残る。

 でも、嫌な静けさじゃない。

 今日一日働いた後の、柔らかい静けさ。


 秋穂が、エプロンを外しながら言った。

「……お菓子、続き」

「え、まだやるの」

「時間、あげるって言った」

 秋穂が淡々と言う。

 淡々としてるのに、目だけが少し楽しそうで、私は負ける。


「やる」

 私は答えた。

「今日の私は、頑張ったから、許される」


 秋穂が、ふっと笑った。

「……許す」

 その「許す」が、私の心を甘くする。


 厨房の灯りは、ホールより白い。

 作業台の上にボウルを置くと、金属が冷たく光る。

 外はもう暗い。窓の向こうに街灯の光が点る。

 でもここは、まだ昼みたいに明るい。


 秋穂は、今日作った生地の続きを、私に任せた。

 混ぜる。

 止めない。

 分離させない。

 今日の私は、手だけじゃなく、頭も動かす。


「……上手くなってる」

 秋穂がぽつりと言った。

 不意打ちみたいに。


「ほんと?」

「ほんと。さっきの混み方で、崩れなかったし」

 秋穂は、私の"仕事"を見ていた。

 私はそれが、胸の奥を熱くする。


「秋穂が、見てたから」

 私は言ってしまう。

「見られてると、頑張れる」


 秋穂が、一瞬だけ固まって、視線を逸らす。

 耳が赤い。

 それが嬉しくて、私は作業台の上の粉をわざと丁寧に払った。

 落ち着け、私。


「……美春」

 秋穂が名前を呼ぶ。

 静かに、でもはっきり。


「なに?」

「三年、最後の一年」

 秋穂の言葉が、作業台の上に落ちる。

 粉みたいに軽いのに、吸い込むと重い。


「うん」

 私は頷く。

 カレンダーの四月が頭に浮かぶ。

 クラス替え。進路。将来。

 秋穂の夢。私の役割。


 秋穂が、少しだけ視線を落とす。

「……怖い。三年生になって、卒業したら、美春がいなくなるかもって」

 珍しく、秋穂が先に弱音を吐く。


「……美春は、怖い?」

 秋穂が聞く。

 怖いと言ってしまったら、秋穂まで怖くなる気がして、私は一瞬迷う。

 でも、今日は逃げない日だ。


「怖い」

 私は素直に言った。

「でも、秋穂と一緒なら……怖いままでも進める気がする」

 言いながら、手が少し震える。

 でも止めない。

 混ぜ続ける。

 止めたら分離するから。


 秋穂が、作業台の向こうから、私の手元にそっと手を伸ばす。

 私の手首に触れて、動きを支える。

 指先の温度が、私の震えを止める。


「……進む」

 秋穂が言った。

「一緒に。……約束」

 "約束"という言葉は、秋穂の口から出ると、嘘みたいに強い。


「うん」

 私は小さく笑って、頷いた。

「春休み、バイトも、お菓子も、遊びも。全部、ちゃんとやる」

「……全部」

 秋穂が復唱して、少しだけ笑った。

「欲張り」

「欲張りでいい」

 私は言う。

「去年の私は、欲張れなかったから」


 去年の私は、誰かに合わせて、空気に合わせて、嘘に合わせて、消えていくみたいに生きていた。

 今は違う。

 欲張って、選んで、決めて、積み上げたい。


 生地が、艶を増す。

 泡立て器の音が、一定のリズムになる。

 秋穂が隣で、同じリズムで呼吸している。


 その時間が、幸福だった。

 甘いだけじゃなく、ちゃんと手触りがある幸福。


 ――この時間が、ずっと続けばいいのに。

 ふと、思ってしまう。

 でも"ずっと"なんて、今は簡単に言えない。


 三年は、きっと速い。

 受験も、卒業も、未来も。

 時間は、いつだって足りない。


 だからこそ、今日の一時間が大事だ。

 今日の一日が大事だ。

 もらった時間を、ちゃんと味わう。


 秋穂が、焼き上がりを待つ間に言った。

「……次は、もっと難しいの教える」

「え、なに」

「……生チョコ」

 その単語に、私は思わず笑ってしまう。

「バレンタインは終わったよ」

「終わったけど。……次のため」

 秋穂の目が、少しだけ遠くを見る。


 次。

 来年。

 再来年。

 その先。


 私は胸がいっぱいになって、言葉が詰まりそうになった。

 詰まりそうになったけど、詰まらせない。


「うん。次のために、頑張る」

 私は言った。

「秋穂の店のために。……私が隣にいる未来のために」

 言い切った瞬間、秋穂の指が、私の手首を少しだけ強く握った。

 痛くない程度。

 逃がさない程度。


「……うん」

 秋穂が小さく答える。

 その一音が、春の始まりみたいに柔らかい。


 オーブンのタイマーが鳴った。

 ピピピ。


 秋穂が扉を開ける。

 熱気が広がり、甘い匂いが店に満ちる。

 私はその匂いの中で思った。


 三年は、きっと忙しい。

 不安も、嫉妬も、また来るかもしれない。

 でも、こうして並んで、同じ作業台に向かって、同じ匂いを吸っていられるなら。


 ――それだけで、私は走れる。


 ベルは鳴らない。

 もう閉店しているから。

 でも、私の中では小さな音が鳴っていた。


 カラン。


 "春休みが始まった音"。

 "最後の一年へ向かう音"。

 そして――"二人で約束を積む音"。


 焼き上がった生地を、秋穂が丁寧にオーブンから取り出す。

 まだ熱い。湯気が立つ。

 その湯気の向こうで、秋穂が私を見た。


「……来年も、こうしてる?」

 秋穂が聞く。

 不安じゃない。確認。


「してる」

 私は即答した。

「来年も、再来年も。秋穂の店が開くまで。……開いてからも」


 秋穂が、生地を持つ手を少しだけ震わせた。

 震えているのに、落とさない。

 その手の強さが、私の決意を支えてくれる。


「……約束」

 秋穂が言った。

 私は頷いて、窓の外を見た。


 春の夜。

 桜はまだ眠っている。

 でも、蕾が膨らむ前の空気は、もう甘い。


 私たちも同じだ。

 まだ咲いていない。

 でも、咲く準備はもう始まっている。


 ――春休みの約束は、ここから始まる。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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