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第18話「本命と義理の境界線」

ライトな百合x成長物語です。

4話、8話、14話がキリのいいポイントです!

15話以降、甘々予定!

【美春】


 二月に入っただけで、世界の輪郭が少し甘くなる気がした。

 通学路のコンビニには、赤い包装紙の棚が増える。駅前のデパートには、普段は見ない行列ができる。教室の空気まで、いつもより浮ついていて――乾いた寒さの中に、溶けかけのチョコみたいな熱が混ざる。


 バレンタイン。


 この言葉を、去年の私は「イベント」だと思っていた。

 誰かが騒いで、誰かが照れて、誰かが義理で渡して、終わる。

 それだけのはずだったのに。


 今年は、違う。


 鞄の底にある、小さな計画が、私の心臓と一緒に鳴っている。


 ――秋穂に、何をあげよう。


 周防秋穂は、お菓子を作る人だ。

 ただ作るだけじゃない。粉の重さの差に眉を寄せて、湯気の立ち方に目を細めて、焼き色の一段階を「まだ」と言える人。

 そんな秋穂に、下手なものを渡すのは……なんだか、申し訳ない気がする。


 でも。


 作りたい。


 秋穂が、いつも私に「最初の味見」をくれるみたいに。

 今度は私が、秋穂に――。


「美春ー! ねえ、今年どうするの? バレンタイン!」


 れいなが机に肘をついて、からかうように目を輝かせた。机の上には、雑誌の切り抜きと、キラキラしたペン。恋の話題に合わせて、文房具まで浮かれて見えるから不思議だ。


「どうするって……別に……」

「別に、って顔じゃないじゃん。ほら、耳、赤い」

「赤くない」

「赤い。最近、周防さんと一緒にいること多いし……はい本命確定」


 ストレートに言われて、喉がひゅっと狭くなる。

 教室のざわめきの中で、私の鼓動だけが勝手に大きい。


「……声がでかいって」

「聞こえないように言ってるし?」

「いや、言ってないし」


 れいなが笑って、私の頬を指でつつく。


「いいなあ。美春、ちゃんと恋してるって感じ」

「……恋っていうか……」


 言いかけて、言葉が止まる。

 恋。

 いつから、そう呼べるようになったんだろう。


 初詣の帰り道、秋穂が「譲れない」って言ったとき。

 私が「経営学部に行く」って口にしたとき。

 あの瞬間から、私たちの未来は、ほんの少し現実の手触りを持ち始めた。


 だから。


「……作る」

「え?」

「チョコ、作る。私が」


 れいなの目が、さらに丸くなる。


「うわ、ガチじゃん。手作り!?」

「うるさい。普通に、静かに驚いて」

「無理無理、尊い。ねえ、周防さん喜ぶよ絶対」


 喜ぶ、かな。

 喜んでくれたらいい。

 笑ってくれたらいい。


「ねえ、美春」

「本命って、どうやって渡すの?」

「……え?」

「だってさ、相手が分かるでしょ。義理と違って」

「それって、すごく怖くない?」


 怖い。

 怖いけど。


 私は、机の下で指をぎゅっと握った。

 自分で決める練習を、今年も続ける。


     ◇


【秋穂】


 バレンタイン。


 菓子職人を目指す人間にとって、それは「恋の行事」だけじゃない。


 空気の密度が変わる日。

 売り場が戦場みたいになる日。

 そして――甘さに、嘘が許されない日。


 私は一月の終わりから、頭の中で何度も段取りを組み直していた。

 喫茶店の限定販売。包装の手順。温度管理。仕込みの順番。マスターの声が飛ぶ前に、自分で気づけるように。


 店の厨房に入ると、金属の冷たさが指先から伝わってくる。

 ボウルが鳴る。泡立て器がすれる。チョコを刻む包丁の音は、乾いた小さな雨みたいだ。


「秋穂ちゃん、今日も顔が真剣だな」

「……いつもです」

「いつも以上だよ。ほら、眉間。チョコ溶けるぞ?」


 マスターが、からかうように笑う。


「バレンタイン、ですから」

「ふーん。店のやつ?」

「……それも」


 言いかけて、口がきゅっと固くなる。

 美春の顔が、浮かぶ。


 美春にも、作りたい。

 当たり前みたいに、そう思う。


 でも、私は時々、怖くなる。

 美春に何かをあげたいと思うほど、欲張りになっていく自分が。


 美春は、私を見てくれる。

 私が笑うと、嬉しそうにする。

 私のお菓子を食べて、目を細める。


 ……それだけで、充分なはずなのに。


「秋穂ちゃん、美春ちゃんへの"特別"も仕込むのか?」

「っ……!」


 マスターの声が、的確すぎて心臓に刺さる。


「……はい」

「正直だな」

「……隠しても、無駄ですから」

「うん。顔に書いてある」


 私は、棚の奥からカカオの袋を取り出して、わざとラベルを読み込むふりをする。顔が熱い。


「何作る?」

「……トリュフ」

「ほう」

「美春、ビター寄りが好きで……でも苦すぎると、眉が寄るから」


 美春の「好き」を思い出すだけで、胸の奥が温まる。

 紅茶の香りが好き。甘いものは好きだけど、食べたあとに「ふぅ」って息をつくタイプ。

 それから――私が頑張っているのを見るのが、好き。


 だから、私は余計に真剣になる。


 ビターチョコに、オレンジピールをほんの少し。

 香りが先に立ちすぎないように。

 口に入れたとき、最後にふわっと柑橘がほどけるくらい。


 試作1回目。

 甘みが勝ちすぎる。

 

 2回目。

 まだ足りない。

 甘さが勝ちすぎている。

 美春は、この甘さを「やさしい」って言うかもしれない。

 でも、私が作りたいのは「やさしい」じゃない。「大人っぽい」だ。美春が、背伸びしたくなる味。

 

 3回目。

 ……今度は、いい。舌の上で滑らかに崩れて、深い苦味が残り、最後に光が射す。


 私は小さく息を吐いた。

 この瞬間だけ、胸の中のざわつきが静かになる。


「……これ」

「お、決まったか」

「はい」


 作業台に落ちるのは、チョコの滴じゃない。

 私の気持ちだ。形になったもの。


 箱に詰める。

 リボンをかける。

 指先が少し震える。


 美春、喜ぶかな。

 去年の私なら、そんな期待をするのが怖くて、きっと「別に」と逃げた。

 でも、今は。


 期待してもいいって、美春が教えてくれた。


 そして、もう一つ。


 私は、美春が私に何をくれるのか――気になってしまっている。


 期待する自分が、まだ少し恥ずかしい。

 でも、止められない。


     ◇


【美春】


 私は家の台所で、初めての戦いに挑んでいた。


 買い物袋の中には、生クリームと板チョコと無塩バター。

 ココアパウダーは、棚の前で三分くらい迷って、いちばん地味な袋を選んだ。

 派手なパッケージは信用できない。……というより、派手なものを手に取ると「本命です」って額に貼り紙が出る気がして、恥ずかしくて戻した。


 レジを通る時、店員さんが「バレンタインですか?」って軽く言っただけで、心臓が跳ねた。

 私は「友達に」と笑って答えた。笑い方が上手くなったのが、たぶんいちばん嫌だった。


 家に帰ると、台所の空気はいつも通りで、母が洗い物をしていた。水の音が規則正しくて、私の焦りだけが浮いて見える。


「美春、今日やけに荷物多いね。なにそれ?」

「……お菓子、作ろうかなって」

「へえ。誰に?」

「……友達」


 言った瞬間、喉の奥が苦くなる。守るための嘘なのに、秋穂に向けて小さな裏切りみたいで。

 でも"秋穂にあげる"って言葉を、まだ家の中に持ち込む勇気はない。

 私は袋の口をぎゅっと掴んで、「部屋で勉強してくる」と逃げるみたいに言ってから、また戻ってきた。逃げたくないから。


 夜。母が寝て、家が静かになってから、私は台所の電気をつけた。白い光。金属の冷たさ。

 秋穂の厨房は、きっともっと整っている。私は、まな板とボウルを並べるだけで、もう少しごちゃごちゃだ。


 レシピをスマホで開く。指先がチョコの包装紙でカサついて、画面がうまく動かない。

 深呼吸。――作る。秋穂のために。


 板チョコを割る音が、思ったより大きかった。

 ぱきん、ぱきん。

 乾いた小さな破片が飛んで、慌てて拾う。

 

 湯煎にかけると、甘い匂いが立ち上る。

 ああ、これだけで"それっぽい"。でも、匂いだけじゃ駄目だ。秋穂は匂いでごまかせない人だ。


 1回目。

 生クリームを温めすぎた。勢いよく混ぜたら、表面が妙にざらついた。焦げたみたいな苦みが鼻につく。

 冷蔵庫に入れて待っても、いつまで経っても"固まる気配"が薄い。スプーンですくうと、やわらかく崩れて、形にならない。


「……え、なんで」


 声に出した瞬間、自分が泣きそうなのが分かった。

 秋穂は、こういうとき黙って手を動かすんだろうな。私はどうしてすぐ、言葉にしてしまうんだろう。


 2回目。

 温度を落として、混ぜ方をゆっくりにして、今度こそ、と意気込んだ。

 ……なのに、冷やしてから切ろうとしたら、包丁にべったりくっついて、台所が悲惨なことになった。まな板も、布巾も、指先も。チョコの茶色が、あちこちに拭き跡を作っていく。


「うそ……」


 焦って水で洗おうとして、さらに広がる。

 私は一瞬だけ立ち尽くして、頭の中が真っ白になった。――やめたい。買ったやつにすればよかった。秋穂はプロなんだし、私が無理に作らなくても。


 でも、その"逃げの言い訳"が浮かんだ瞬間、胸の奥が痛んだ。

 秋穂は、怖くてもやる人だ。厳しい母親の前でも、夏祭りのピンチでも、最後に「やり切る」と言った。

 私は、あの子の隣に立ちたい。隣に立つなら、ここで逃げたくない。


 3回目。

 台所を一度全部片付けて、布巾を替えて、包丁を洗って、まな板を拭いた。

 整えると、呼吸も戻ってくる。秋穂の家みたいに完璧にはできないけど、私の"今できる範囲"で、ちゃんと整える。


 チョコを刻む。今度は、焦らない。

 湯煎の湯気が頬に当たって、少し熱い。

 生クリームは沸かさない。縁が揺れるところで止める。――ここ、覚えた。


 混ぜる。ぐるぐるじゃなくて、底からすくい上げるみたいに。

 とろり、と表面が光った瞬間、なぜか涙が出そうになった。料理で泣きそうになるなんて、私、どんだけ必死なんだろう。


 冷蔵庫で待つ時間が、試験より長く感じる。

 固まっているか確認したいのに、開けたら温度が上がる気がして我慢する。私、ちゃんと我慢できるじゃん、って変なところで自分に驚く。


 ナイフを入れる。

 断面が、ちゃんと滑らかだ。角は少しいびつだけど、形になっている。

 ココアパウダーが、均等に馴染んでいる。

 

 味見をする。


 ――これなら。


 口の中で、チョコが溶ける。

 甘さと、ほんの少しの苦み。

 秋穂が好きそうな、バランス。


 箱に並べると、急に現実味が増した。

 秋穂がこれを見て、笑うのか、困るのか、分からない。

 でも――渡したい。渡さないと、ここまでの全部が宙ぶらりんになる。


 ラッピングのリボンが、最後まで言うことを聞かなかった。結び目が斜めになる。

 直して、直して、それでも少し曲がったまま。

 私はそれを見て、ふっと笑った。


「……私らしい」


 小さな箱を両手で持つと、掌の熱で溶けそうで、そっと置いた。

 そして、またあの嘘の苦みが戻ってくる。


 母に「誰に?」と聞かれて、「友達」と答えたこと。

 秋穂を守るためなのに、秋穂の"特別"を、私が勝手に隠しているみたいで。


 私は箱の蓋に指を置いて、心の中でだけ言った。


 ――ごめん。だけど、これは嘘じゃない。

 ――これは、あなたに渡すための、私の本当。


 明日、秋穂に会う。

 そのとき私は、ちゃんと渡す。

 義理と本命の境界線を、私の手で越える。


     ◇


【秋穂】


 当日。二月十四日。

 放課後の喫茶店は、いつもより静かだった。外は冷たい風で、窓ガラスが薄く鳴る。店内には、焙煎した豆の香りと、焼き菓子の甘い匂い。奥のスピーカーから流れる音楽が、遠い雪みたいにふわふわしている。


 美春は、いつもより早く来た。

 コートのポケットを何度も触っている。

 その仕草が、もう答えみたいだった。


「美春」

「……秋穂」


 目が合うと、二人とも少しだけ笑って、すぐに視線を逸らした。

 恋人なのに。

 まだ、こういうところは慣れない。


 でも、その不器用さが、私は好きだ。


「……美春、これ」

「え、もう?」


 私は、鞄から箱を取り出して渡した。

 早く渡してしまわないと、手の中で熱が上がって溶けてしまいそうだった。チョコじゃなくて、気持ちのほうが。


「……開けていい?」

「……うん」


 美春が蓋を持ち上げた瞬間、オレンジの香りがふわっと立った。

 美春の瞳が、少し大きくなる。


「……きれい」

「……作った」

「分かる。だって、秋穂の箱の詰め方って……几帳面で、優しい」


 優しい。

 その言葉に、胸の奥がほどける。


「食べて」

「うん」


 美春が一粒口に入れて、目を閉じた。

 その時間が、長い。

 長すぎて、私は膝の上で指を握った。


「……おいしい」

「……ほんと?」

「ほんと。苦いのに、最後が明るい。秋穂って、こういう味作るよね」

「……どういう?」

「……強いのに、あったかい」


 私は、言葉が出なくて頷いた。

 美春は、時々こういうふうに、私を丸ごと掬い上げてしまう。


 だから、私も。


「……美春は」

「え?」

「……美春の、は」


 言い切る前に、美春の肩がわずかに跳ねた。返事より先に、息が小さく引っかかる。

 鞄の中を探る指先が、やたら丁寧だ。乱暴に扱ったら壊れてしまうものを扱うみたいに。


 やがて取り出された小さな箱は、私の箱より角が少しだけ不器用で、リボンもきれいに真っ直ぐじゃない。

 でも、そこがいい。目の前の子が、夜の台所で何度も手を洗って、冷蔵庫の扉を開け閉めして、失敗のたびに眉を寄せた気配が、そのまま残っている。


「……作った。3回、やり直した」

 短く言って、美春は笑おうとして、うまく笑えなかった。

 "褒められる準備"じゃなくて、"怖がる準備"をしてしまう顔だ。


「……途中、固まらなくて。焦って、キッチン……大変で」

「うん」

 私は頷くだけにした。余計な言葉を足すと、美春の勇気の温度が逃げそうだったから。


「開けて、いい?」

「……うん。こわいけど」


 "こわい"と言いながら、美春は視線を逸らさない。逃げない。

 それがどれだけのことか、私は知っている。


 蓋を持ち上げた瞬間、ココアの匂いがふわっと立った。

 生チョコ。少しいびつで、粉の濃淡も揃っていないところがある。だけど、並べ方が几帳面だ。端から端まで、同じ幅で、同じ向きで――美春の性格が、そのまま形になっている。


 美春は何も言わない。ただ、私の口元を見ている。

 "評価"じゃなく、"安心"を取りに来る視線だ。


 一粒をつまんで口に入れる。


 甘い。

 最初にふわっと広がって、次にゆっくり沈む。冷たいのに、芯があたたかい。

 上手いとか、下手とかじゃなく――これは、私のために作られた味だ。

 

 最初に来るのは、ミルクチョコの甘さ。

 それから、ココアパウダーの苦みが追いかけてくる。

 甘さは控えめ。でも、どこか温かい。

 

 形が不揃いで、プロの仕上がりからは遠いけれど、それでも、いや、だからこそ。

 

 美春が、これを作った。

 私のために、何度も失敗して、それでも諦めずに、作った。

 

 その想いが、味の奥に溶けている。


「……おいしい」

 言った瞬間、美春のまつげが震えた。息が、やっと下まで落ちる。


「……ほんと?」

「ほんと」

 私は、もう一粒を指で転がしてから、続けた。

「美春の手が分かる味」

「……それ、ずるい」

 照れ隠しの抗議。けれど口角が、少しだけ上がる。


「秋穂のやつ、私のより、全然……」

「比べなくていい」

 言い切ると、美春は一瞬だけ固まった。いつもなら引っ込めるところで、止まった。


「美春が、私のために作ってくれた」

 それだけを、真ん中に置く。飾りをつけない。

 美春は、その"それだけ"に弱い。私も同じだ。


「プロの味じゃなくていい」

 私は、喉の奥から溢れそうな言葉を、慎重にすくい上げる。

「……美春の味が、いちばん好き」


 美春の目が潤んで、指先が私の手を探す。

 こっそり、テーブルの下で触れ合う。

 指が絡まって、手の熱が伝わる。


「……ずるい」

「何が」

「そんなこと言われたら……もっと好きになっちゃう」

「いいよ」


 私は笑ってしまった。

 自分でも驚くくらい、自然に。


「もっと好きになって」


 美春が、息を止めたみたいに固まって、次の瞬間、顔を両手で隠した。

 耳まで真っ赤だ。


 可愛い。


     ◇


【秋穂】


「はいはい、お二人さん」


 背後から、やけに軽い声が飛んできた。

 マスターが、カウンターからこちらを見ていて、片手に小さな箱を二つ持っている。


「……見てました?」

「そりゃ見える場所でやってるからね。ほら、これ」


 テーブルに箱が置かれる。包装は、店のロゴ入り。きっちりしていて、無駄がない。


「なに、これ……」

「逆チョコ」

「逆チョコ?」

「逆チョコって、男から女へのお返しのことだけど……ま、店から君たちへの"ありがとう"ってことで」


 美春が目を丸くして、私は「ありがとうございます」と小さく頭を下げる。

 マスターは鼻で笑って、指で箱を指した。


「開けてみ」


 蓋を開けると、ボンボンショコラが並んでいた。艶があって、表面に小さな模様が刻まれている。まるで、夜の街灯が落とした光を閉じ込めたみたいだ。


「……すごい」

「ほら、食べな」

「いただきます」


 美春が一口食べて、目を見開いた。


「……やばい。おいしい……」

「だろ」


 マスターが満足そうに頷く。


「美春ちゃんさ」

「はい?」

「秋穂ちゃんから習ったら?」

「え?」

「お菓子作り。秋穂ちゃん、先生」


 美春が一瞬、驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。

 そして私を見る。


「……秋穂、教えてくれる?」

「……教えるの、下手かもしれない」

「それでも、秋穂に教えてほしい」


 私は、頷いた。

 この先の未来に、そんな時間が増えるのが嬉しい。


 美春は経営を学ぶ。

 私はお菓子を磨く。

 それぞれの「得意」を持ち寄って、いつか同じ場所に立つ。


 その想像が、甘さよりも胸に残った。


     ◇


【秋穂】


 店を出ると、夜の空気が頬を刺した。

 吐く息が白く、街灯の下でふわっと散る。

 美春の手には、私の箱。私の手には、美春の箱。

 マスターの箱は二人で分けたから、鞄の中に小さく残っている。


 歩幅を揃えて歩く。

 人通りが少ない道に入った瞬間、私たちは自然に手を繋いだ。


「ねえ、秋穂」

「なに」

「ホワイトデー、何がほしい?」


 言われて、胸の奥がふっと熱くなる。

 欲しいもの。

 たくさんある。

 でも、言葉にできるのは一つだけ。


「……美春の、時間」

「時間?」

「一緒に、いられる時間」


 美春が笑って、少しだけ私の手を握り返した。


「……反則」

「何が」

「そんなの……私も、同じのがほしい」

「じゃあ」

「うん」


 冬の夜の冷たさの中で、私たちの手だけが、やけに温かい。

 甘さと苦さの境界線みたいに、曖昧で、でも確かにここにある温度。


 美春の手が、少しだけ震えている。

 寒いのか、それとも。


「……秋穂」

 美春が、小さく呼ぶ。

「うん」

「来年も、作っていい?」


 来年。

 その言葉が、胸に響く。

 来年も、私たちは一緒にいる。

 そういう約束。


「……私も、作る」

 私は答える。

「毎年、作る」


 美春が、少しだけ笑った。

 その笑い方が、泣きそうで、でも幸せそうで。


 本命と義理の境界線。

 私たちは、その線を越えた。

 

 もう、戻れない。

 戻りたくもない。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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