第17話「作る人と、回す人」
ライトな百合x成長物語です。
4話、8話、14話がキリのいいポイントです!
15話以降、甘々予定!
年が明けた。
カレンダーが一枚めくれるだけなのに、空気まで少し新しくなる気がする。窓ガラスの向こう、まだ眠っている街は白っぽくて、吐く息が薄い煙みたいにほどけた。
クリスマスから一週間。
年末は家族とそれぞれ過ごして、大晦日の夜、スマホを握りしめながら『おやすみ』って送り合った。
そして、今日――元日の朝。
――秋穂と迎える、最初の新年。
そう思っただけで、胸の奥がふわっと温まる。去年の今ごろ、私はまだ、喫茶店の扉のベルが鳴る音にすら慣れていなかったのに。
クリスマスの夜。
改札で手をほどいて、秋穂の姿が人の波に溶けていくのを見送ったあと、私はホームへ向かう足を止められなかった。
言いたいことが、どうしても残ってしまって。
電車のドアが閉まる直前、スマホを握りしめて打った。
『秋穂、初詣、一緒に行きたい』
『また、二人で』
送信した瞬間、胸がやけに静かになる。
返事が来るまでの数秒が、やたら長い。
――すぐ、画面が震えた。
『行く』
『……行きたい』
短いのに、秋穂の声がそのまま文字になったみたいだった。
"行く"って言い切って、あとから"行きたい"をそっと足すところが、ずるい。かわいい。
そのあと、もう一通。
『待ち合わせ、お正月の朝でいい? 駅前のロータリー。寒いから、無理しないで』
心配性。
でも、その心配が、私をほどく。
私はすぐに返した。
『うん、行く。行きたい』
『寒かったら、私が温める』
送ってから、自分の言葉に赤くなる。
でも、取り消さない。
こういうのを、私はもう、逃げたくない。
恋人になって、まだ数ヶ月。
教室では"仲のいい友達"。秘密のまま、世界の端っこで手を触れ合う。
でも、初詣は――人が多い。
手は繋げない。
それでも、行きたい。
同じ場所に並んで立って、同じ願いを胸にしまえるだけで、十分に特別だと思えたから。
◇
待ち合わせは、元日の朝。
駅前のロータリーは、いつもより静かで、代わりに吐息と足音がよく響く。
自販機の灯りがやけに明るい。眠そうな顔の家族連れが、紙袋を揺らしながら歩いていく。
どこかの家の玄関から、テレビの新年の挨拶が漏れていた。
私は手袋の上から指を握って、落ち着かない心をなだめる。
――秋穂、来るかな。
来るに決まっているのに、こういうときだけ不安になる。
もし、急に風邪を引いたら。
家族の用事が入ったら。
それとも……私のこと、重いって思い始めたら――。
頭を振る。
ダメだ。そんなこと、考えても仕方ない。
自分の弱さが、年越しそばのつゆみたいに、じわっと出てくる。
「……美春」
名前が、背中に触れた。
振り向くと、秋穂がいた。
コートの襟を少し立てて、マフラーの端を指先で押さえている。髪はいつも通りにまとめているのに、頬が少し赤い。寒さのせいだと言い切れない赤さ。
「おはよう」
私が言うと、秋穂は小さく頷いた。
「……おはよう」
声が、いつもより柔らかい。冬の朝に溶けかけた氷みたいに、少しだけ丸い。
私たちは並んで歩き出す。
肩が触れそうで触れない距離。人が少ない道なのに、手を繋ぐ勇気はまだ出ない。勇気がないというより、秘密の形が身についてしまっている。
でも、袖が触れたとき、秋穂の指先がほんの一瞬だけ私の手袋の上をなぞった。
確かめるみたいに。
それだけで、私は歩ける。
◇
鳥居をくぐると、空気が変わった。
屋台の湯気と甘い匂い、焼けた醤油の香ばしさ。
鈴の音が、風に乗ってどこからか落ちてくる。
参道の砂利を踏む音が、ざく、ざく、と小気味いい。
しんと静まった冷たさの中に、焚き火の香りが混ざる。
人の波に押されて、自然に距離が詰まる。
肩がぶつかる。
コートの布が擦れる。
――近い。
近いのに、手は繋げない。その矛盾が、なぜか今日は苦しくない。むしろ、胸の中に小さな火があるみたいで、温かい。
秋穂が小声で言った。
「……人、多い」
「うん。お正月だもん」
「……迷子になりそう」
秋穂がそんなことを言うのが意外で、私は笑いそうになる。笑ったら、からかったみたいになるから、口元だけで堪えた。
「大丈夫。秋穂は迷子にならないよ」
「根拠は?」
「……秋穂、目がいいから」
「目?」
「うん。味も、温度も、ちゃんと見てるでしょ。きっと人混みも見える」
秋穂が一瞬だけ固まって、それから、ほんの少しだけ口元がほどけた。
笑いかけて、やめたみたいな笑み。
私はその"途中"が好きだと思う。
秋穂の笑顔は、いつも完成品じゃなくて、焼き上がり前の生地みたいに、これから膨らむ余地がある。
列に並ぶ。
賽銭箱の前まで、少しずつ近づく。
前の人が手を合わせるたびに、鈴の音が揺れる。
手水舎の水が、きん、と冷たい音を立てる。
誰かが息を吸って、白い雲を作る。
私の番が来る。
賽銭を入れて、二礼、二拍手、一礼。
柏手の音が、冬の空気を切る。ぱん、と乾いた音。その音が、妙に心地いい。
目を閉じる。
――何を願おう。
秋穂の夢が叶いますように。
秋穂と、ずっと一緒にいられますように。
その二つは、どちらも本当。
でも、そのまま願ってしまったら、どこか他人任せになる気がした。神様に預けて、私は安心してしまいそうで怖い。
だから私は、別の言葉を選ぶ。
私の道を、見つけられますように。
秋穂の隣にいるために、私ができることを、私自身で見つけられますように。
目を開けると、秋穂がまだ祈っていた。
長い。
真剣。
目を閉じた横顔が、朝の光に少しだけ白く見える。まつげの影が頬に落ちている。その影さえも、丁寧に整えられているみたいだ。
――秋穂は、いつも"ちゃんと"している。
私と違って。
私がぐらぐらしている間も、秋穂は自分の願いの形を見失わない。だから私は、秋穂に惹かれたのかもしれない。
祈り終えた秋穂が、目を開ける。
私と目が合って、少しだけ驚いた顔をする。
「……見てた?」
「見てた。長かったから」
「……長いの、だめ?」
「だめじゃない。むしろ、好き」
秋穂が一瞬だけ視線を泳がせる。照れの逃げ場所を探す仕草。それを私は、もう見逃さない。
おみくじを引く。
木の箱を揺らすと、中で棒がぶつかって、からん、と乾いた音がする。秋穂はその音に少しだけ肩をすくめた。驚いたのか、寒かったのか分からないけど、可愛い。
引いた紙を広げる。
秋穂は「中吉」。
私は「吉」。
紙がぱり、と鳴る。薄い紙なのに、音が妙に大きい。
秋穂は自分の紙をじっと見て、眉をほんの少し寄せた。
「……願望。努力次第で叶う」
「いいじゃん。努力、得意でしょ」
「得意じゃない。……してるだけ」
「それが得意ってことだよ」
秋穂が小さく息を吐く。否定したいのに、否定しきれない顔。
私は自分の紙を見る。
「願望:迷うなら進め」
その文字が、胸に刺さる。
迷うなら、進め。
まるで見られているみたいだ。私の中の、ぐるぐる回っているものを。
さらに下を読む。
「恋愛:相手の夢を支えよ」
「……」
私は思わず、紙を握りしめた。
支えよ、って。命令形が強い。強いのに、嫌じゃない。むしろ、背中を押される感じがした。
秋穂が覗き込む。
「……美春、何?」
「……恋愛のとこ」
「……何て書いてある?」
私は少し迷って、それから言った。
「相手の夢を支えよ、って」
秋穂が一瞬だけ目を見開く。
それから、ふっと小さく笑った。
完全な笑顔じゃない。声も出ない。でも、確かに"笑った"と分かる。
「……当たってる」
秋穂が言う。
その一言が、嬉しいのに、苦い。
当たってる。
当たってるからこそ、私は怖い。
秋穂の夢は、はっきりしている。
私は――?
――迷うなら進め。
その言葉が、胸の奥でざわざわ動く。
進めって、どこへ?
何を?
秋穂の方を見ると、秋穂はまだ紙を見つめている。
その横顔が真剣で、私は声をかけられなくなる。
「……当たってる」
秋穂が小さく呟いた。
「何が?」
「……内緒」
秋穂が少し笑って、おみくじを畳む。
その仕草が、妙に慎重で、私は胸がきゅっとなる。
◇
二人で境内の端のベンチに座る。
屋台で買った甘酒を手にすると、紙コップ越しに熱が伝わってくる。湯気が頬に当たって、冬の冷たさが少しだけ薄まる。
秋穂は甘酒を一口飲んで、目を細めた。
「……甘い」
「嫌だった?」
「嫌じゃない。……でも、もう少し、塩が欲しい」
秋穂らしい感想で、私は笑ってしまった。
「秋穂、ほんと職人」
「違う。……ただ、舌がうるさいだけ」
「うるさい舌、好き」
言ってから気づく。私、今、さらっと言った。
秋穂が固まる。
耳まで赤くなる。
「……そういうの、ずるい」
「何が?」
「……言い方」
私は甘酒を持ったまま、肩をすくめた。
「ずるくないよ。思ったこと言っただけ」
秋穂は視線を落とす。紙コップの縁を指でなぞって、落ち着こうとしている。
――こういうところ。
秋穂は、感情を隠すのが下手じゃない。むしろ上手い。でも、隠している"つもり"の瞬間が、少しずつ透けるようになってきた。
それが、私は嬉しい。
でも今日は、その嬉しさだけじゃ済まない。
私は、深呼吸をして言った。
「秋穂」
「……なに」
「私、まだ決められてない」
秋穂の指が止まる。
「進路のこと」
言葉にした途端、自分の胸の中が騒がしくなる。甘酒の熱で温まったはずの手が、少し冷たくなる。
「秋穂には、夢がある」
「……うん」
「菓子職人になって、いつか自分の店を持つって、言った」
「……言った」
秋穂は逃げない。目を逸らさない。そういうところも、私が惹かれる理由。
「でも、私には……まだ、ない」
声が少しだけ震える。
「秋穂を応援したい。秋穂の夢を一緒に叶えたいって、本気で思ってる」
「……うん」
「でもそれって……秋穂の夢でしょ? 私の夢じゃない」
言いながら、自分の中で何かがきしむ。言葉にするって、痛い。痛いのに、必要だ。
秋穂は少し考えてから、静かに聞いた。
「美春は、何がしたい?」
その問いが、まっすぐすぎて、私は言葉に詰まる。
何がしたい?
秋穂を応援することが、私の幸せだった。
秋穂が笑うと嬉しい。
秋穂が「ありがとう」と言うと、胸が満たされる。
でも、それは"私の夢"じゃない。
私自身の輪郭は、まだ曖昧で、冬の朝の霧みたいに掴めない。
「……分からない」
やっと言う。
「分からないけど……怖い」
「何が?」
「秋穂は、前に進む」
私は言葉を選びながら続ける。
「専門学校に行って、もっとすごいお菓子を作って、いつか店を持って……」
その未来を想像すると、胸が熱くなる。嬉しい。誇らしい。なのに同時に、焦りが湧く。
「そのとき私が、ただ隣にいるだけの人だったら……嫌だ」
秋穂が目を瞬かせる。
驚いている。
でも、否定しない。
秋穂は少し間を置いて、言った。
「美春、焦らなくていい」
その声が、甘酒の湯気みたいに、私の胸に広がる。
「私だって、最初は分からなかった」
「……秋穂は分かってたじゃん」
「分かってなかった」
秋穂は首を振った。
「好き、って言うのも怖かった。続けたい、って言い切るのも怖かった。……でも、美春が、選んでいいって言ってくれた」
そこで、秋穂は小さく息を吸った。
言いづらいことを言う前の呼吸。
「だから、今度は私が応援する」
胸が、きゅっとなる。
「美春が、やりたいことを見つけるまで」
「……待ってくれるの?」
「待つ」
秋穂は、言い切った。
この"言い切る"が、秋穂の成長だと分かる。前は、言葉の端を曇らせて逃げ道を残していたのに。今は、逃げない。
「でも、一つだけ」
秋穂が、私の手袋に触れる。
人が通る。すれ違う。だから、触れ方はさりげない。手袋の端をつまむみたいに。
それでも、確かな温度がある。
「美春が、どんな道を選んでも」
秋穂が言う。
「私の隣に、いてほしい」
その一言で、胸の奥の何かがほどけて、目が熱くなった。
ずるい。
秋穂は、こういうときだけずるい。
普段は自分を小さく畳むくせに、大事なところで私を掴む。
私は笑いたいのに、泣きたい。
「……それだけは、譲れない」
秋穂が小さく付け足す。
譲れない。
その強さが、愛おしい。
「……うん」
私は頷く。
頷きながら、胸の奥で何かが、かちん、と音を立ててはまる。
――そうだ。
秋穂は、菓子を作る。
私は、それを支える。
支えるって、ただ見守ることじゃない。手を取って喜ぶことだけでもない。もっと現実の、硬い部分。
秋穂が店を持つなら。
仕入れがある。家賃がある。人件費がある。売上がある。計算がある。手続きがある。秋穂が苦手そうな"数字"と"交渉"と"書類"。
その全部を、秋穂ひとりに背負わせたくない。
私は、秋穂の隣で、秋穂が"作ること"に集中できる場所を作りたい。
それが、私のやりたいことかもしれない。
やっと、輪郭が見える。
夢が、手の届くところにある気がした。
――たぶん、私はずっと「夢がある人」を眩しく見てきた。
自分には、胸を張って言えるものがないから。
だから誰かの夢の隣にいると、安心するくせに、同時に怖かった。置いていかれそうで。
でも秋穂は違う。
眩しいだけじゃない。手が汚れてる。指先が粉っぽい。数字と手順で、自分を支えてる。
"好き"を、仕事の形に押し固めようとしてる。
――店を、回す目。
ふいに、マスターの声が脳内で再生される。
夏祭りのとき、私は笑って誤魔化したのに、言葉だけが残っていた。
作る人と、回す人。どっちもいないと、店は続かない。
秋穂の夢は、きっと「菓子職人」だけじゃ終わらない。
いつか、店を持つ。名前をつける。看板を出す。
季節でメニューを変えて、仕入れを読んで、売上を見て、スタッフを守って――それでも、作り続ける。
その未来のどこかに、私は立てるだろうか。
横に、じゃない。後ろでもない。
"同じ地面"に、立てるだろうか。
秋穂が前に進むほど、私は置いていかれる気がしていた。
でも――違う。
置いていかれるんじゃない。私が、進んでいないだけだ。
秋穂が前に向けて持っている夢を、横から支えられる。
それが私の役割かもしれない、と前に思った。
あれは優しい言い訳じゃなくて、本当に、私が"叶えたい形"なんだと思う。
秋穂の店。そこに私がいる未来。
――叶えたい。
叶えたいから、選ぶ。私も、自分の進路を。
私は息を吸って、言った。
「秋穂」
「……なに」
「私、決めた」
秋穂の目が少しだけ揺れる。
「……私、大学に行く」
言葉にした瞬間、自分の声が少しだけ遠く聞こえた。
怖い。けど、逃げたくない種類の怖さ。
秋穂が瞬きをする。
驚きというより、確認みたいな目。
「大学……?」
「うん。経営学部」
口に出すと、胸の奥がじんと熱くなった。
熱いのに、妙に冷静でもあった。決めた、という感覚が背骨のあたりに残っている。
「……どうして」
秋穂の声は小さい。
責める小ささじゃない。大事なものに触れるときの小ささだ。
私は一度、息を吸ってから言った。
順番を間違えたくなかった。秋穂の母親に話すみたいに、でも"プレゼン"じゃなくて、"本音"として。
「秋穂が作るお菓子、私は大好き」
「……うん」
「でも、店って、味だけじゃ回らない。材料も、値段も、人も、時間も、全部……」
言いながら、夏祭りの保冷ボックスの冷たさが指先に蘇る。
あの日、崩れかけたのは材料だけじゃない。連携が崩れたら、味も壊れるって、マスターが言った。
「マスターが、前に言ってた」
私は、自分の言葉を探しながら続ける。
「"店を回す目"って」
「秋穂は"作る目"を持ってる」
「だったら、私は――"回す目"を持ちたい」
秋穂が少しだけ眉を上げる。
その表情が、可笑しいくらい秋穂らしくて、私は笑いそうになって堪えた。
「作る人と、回す人。両方必要だって」
「……」
「私は、秋穂の夢を"支えたい"」
言って、そこで止まりそうになる。
――それだけだと、私の人生が秋穂の付属品みたいになる。
違う。私は"自分で決める"って、ここまで練習してきた。
「……でも、支えるため"だけ"じゃない」
秋穂が、目を丸くする。
「私も、自分の足で立ちたい」
「……美春」
「秋穂の隣にいる未来、ただ憧れるんじゃなくて、ちゃんと"作りたい"」
言葉が震えそうになって、私は手を握りしめた。
「秋穂が安心して作れる場所を、私は回したい。……そう思った」
秋穂の喉が、小さく動く。
それから、ぽつりと――秋穂が言った。
「……美春が経営やるなら、私、安心」
その言い方は、軽くない。
願いじゃなくて、信頼の重さだった。
私は泣きそうになって、笑った。
「でしょ。だから、決めた」
「……簡単に言う」
秋穂が言って、でも責める顔じゃない。
むしろ、少しだけ眩しそうだ。
「簡単じゃないよ」
私は首を振る。
「まだ、何も始まってない。受験科目も、親への説明も、先生への相談も……怖いことだらけ」
「……うん」
「でも、怖いままでいたくない。秋穂と同じ」
秋穂が、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔が、今まで見たどれより"未来"の形をしていた。
秋穂の目が潤む。
泣きそうな顔で、笑っている。
どちらにも行けなくて、揺れている。
「……ずるい」
秋穂が、さっき私に言ったのと同じ言葉を返す。
「え、私が?」
「そういうの……勝手に、未来に入ってくるの」
「勝手に入るよ」
私は言ってしまう。
「だって、秋穂が"いてほしい"って言った」
秋穂が息を呑む。
その反応が、嬉しい。
私は小さく続けた。
「私も、譲れない」
秋穂の口元が震えている。
声は出ない。でも、確かに笑っている。
私はその笑顔を見て、胸がいっぱいになる。
神社の鈴の音が遠くで鳴る。誰かの柏手。屋台の呼び込み。子どもの笑い声。全部が混ざって、冬の空気の中で少し柔らかくなっていく。
秋穂が、私の手袋をもう一度つまむ。
ほんの一瞬。
誰にも分からないくらい短く。
でも、私には分かる。
「……ありがとう、美春」
「何が?」
「私の未来に、来てくれて」
私は喉が詰まりそうになって、笑って誤魔化した。
「私が勝手に決めただけだよ」
「でも、嬉しい」
「私も」
その二つの"嬉しい"が、同じ温度で重なる。
――そのまま立ち止まっていたら、溶けてしまいそうだった。
だから私は、わざと軽い声を出す。
「……ねえ、秋穂。甘酒、もう一杯いける?」
「いけない。砂糖、多い」
「さっき"塩が欲しい"って言ってたもんね」
「言った」
秋穂は少しだけ口元を尖らせて、屋台の列を横目で見た。
「……でも、今度は、焼き団子はあり」
「え、意外。秋穂って団子派なの?」
「団子は、温度がいい」
「温度」
「……外が乾いてて、中が柔らかい。噛むと、ちゃんと"戻る"」
戻る、って言い方が秋穂らしくて、私は笑ってしまう。
「職人の感想だ」
「違う。……ただ、口がうるさいだけ」
「うるさい口、好き」
言った瞬間、秋穂がぴたっと止まった。
人混みの中なのに、その"止まり方"だけが目立つ。
「……また、それ」
「何?」
「……言い方」
「今日の私は、言い方が正月仕様なの」
「正月仕様って何」
「ちょっと縁起がいいこと言いたくなる」
「縁起……」
秋穂は小さく息を吐いて、視線を落とした。
「……じゃあ、私も一個言う」
「なに?」
「美春、大学、受かったら……お守り、ちゃんと返しに来る」
「受かったら、じゃなくて」
私はすぐに返す。
「受かる。だから、返しに来る」
秋穂のまつげが震えた。
ほんの少しだけ、笑いかけて、やめるみたいな笑み。
「……強い」
「秋穂が、そう言えって言った」
「言ってない」
「言ったよ。"迷うなら進め"って」
私はおみくじの紙を軽く振ってみせる。紙がぱり、と鳴る。
秋穂がそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「……紙、ぐしゃってなってる」
「握りしめたから」
「……大事なところ、そういうとこ」
「え、褒めてる?」
「褒めてない。……でも、嫌じゃない」
その言い方が、照れの逃げ道を残してるのに、前よりずっと正直で。
私は胸の奥で、小さく頷いた。
参道を抜けると、風が少し強くなって、頬が冷える。
息が白く伸びる。歩くたびに砂利の音が遠ざかって、代わりに街の生活音が近づく。
「……美春」
「ん?」
「大学、経営って、具体的に何するの」
「えっと……数字とか、計画とか、仕組みとか」
「曖昧」
「今は曖昧。でもね――」
私は言葉を選ぶ。選びながら、ちゃんと前を見る。
「秋穂が"作る"のに、手を離しても倒れない台を作る。そういうの」
秋穂が、少しだけ足を緩めた。
私の言葉を、噛んでる。
「……台」
「うん。秋穂が安心して、焼ける台」
秋穂は短く息を吸って、言った。
「……美春なら、私、安心」
私は胸が熱くなるのを隠すために、わざと話題を変える。
「じゃあさ、受験勉強のご褒美、決めよ」
「ご褒美?」
「模試ひとつ終わるごとに、喫茶店で一個ずつ」
「……太る」
「太らない。歩くから」
「根拠」
「私が歩かせる」
「……ずるい」
「正月仕様だから」
「それ便利」
秋穂が、ほんの少しだけ笑う。声は出ない。でも、笑ったと分かる。
参道を抜けると、風が少し強くなって、頬が冷える。息が白く伸びる。歩くたびに砂利の音が遠ざかって、代わりに街の生活音が近づく。
私たちは並んで歩く。
人が少ない道に出たとき、秋穂が小さく言った。
「……寒くない?」
「大丈夫」
「……手、冷たくなってる」
秋穂が自分の手袋を外して、私の手袋の上から包む。
手袋越しなのに、秋穂の体温がじんわり滲む。
「秋穂の手、あったかい」
「……ずるい」
「またそれ?」
「そういうこと、言うから」
私は笑ってしまう。
笑いながら、思う。
冬が始まった。
秋穂の夢は、もう動いている。
私の夢も、今、動き出した。
まだ小さくて、まだ不安もある。大学に行けるかどうかも、これから頑張らないといけない。勉強だって、逃げられない。
私たちは並んで歩く。
冬の道の上に、薄い光が散らばっている。
今日の帰り道は、クリスマスみたいに甘いだけじゃない。
現実の冷たさも、風も、人の声も、ちゃんとある。
それでも、隣がいる。
秋穂と一緒なら。
秋穂の手の温度が、背中を押してくれるなら。
私はきっと、進める。
迷うなら進め。
おみくじの文字が、今は優しく聞こえた。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




