第16話「聖夜の温度」
ライトな百合x成長物語です。
4話、8話、14話がキリのいいポイントです!
15話以降、甘々予定!
【美春】
駅前の掲示板に貼られたイルミネーション点灯のポスターが、やけに眩しく見えるのは、空気が澄んでいるせいだけじゃない気がした。
十二月に入ったばかりのある放課後、教室の窓際で、秋穂が小さく私を呼んだ。
「美春」
名前。たった二文字なのに、呼ばれるたび胸の奥がほどける。六月の梅雨に相合い傘をして以来、秋穂は少しずつ、私を"言葉で掴む"のが上手くなっている気がする。
秋穂は教科書を閉じると、いつもよりゆっくり息を吐いた。迷う前の仕草だ。
「……クリスマス、どうする?」
「どうするって……」
言いかけたところで、秋穂が眉を寄せた。いつもみたいに論理の線を引きたいのに、線が揺れてしまう顔。
「恋人、なのに」
「ちゃんとしたこと……してない」
「デート、とか」
その"とか"が、可愛いと思った。言い切れないところまで含めて。
私は笑いそうになって、慌てて口元を押さえる。笑ったらからかっているみたいになる。秋穂はそういうのに弱い。
「デート……いいね」
「どこ行く?」
「……美春が、決めて」
その言葉が落ちる音を、私はちゃんと拾った。
秋穂は、いつも私に"決めさせて"くれる。委ねるんじゃなくて、促してくれる。私が逃げないように、逃げ道だけ残さないように。
――私が決める。
クリスマスイブ。二人だけの、特別な日。
教室の中では"友達"のふりをするのに、教室の外でだけ世界が急に色づく。
「じゃあ、駅前で待ち合わせして……イルミネーション、見よ」
「……混んでない?」
「混んでると思う」
「……怖い」
「じゃあ、混んでても大丈夫な場所、ちゃんと選ぶ」
私は言って、自分の声が少しだけ強いことに気づく。
「秋穂が息できる場所」
秋穂は目を瞬いて、ほんの少しだけ口角を上げた。
「……うん」
その"うん"が、私の中のスイッチを押した。
「ねえ、あとさ」
「なに」
「プレゼント交換しない?」
「……プレゼント?」
「うん。お互いに、相手が喜びそうなものを考える」
「難しい……」
「だからいいんだよ。考えた分だけ、気持ちが入るから」
秋穂は困ったように眉を寄せたあと、小さく頷いた。
頷き方まで、今の秋穂は少し柔らかい。
「……やる」
言い切るようになった。
それを、私は嬉しいと思った。
◇
【秋穂】
それから、私は街の雑貨屋をいくつも回った。
最初の店は、駅前のセレクトショップ。
ガラスのドアを開けた瞬間、暖房の熱と甘い香水の匂いが顔にぶつかる。店内にはクリスマスソングが流れていて、包装紙を畳む音が時々混ざる。
棚には、色とりどりのマフラーが並んでいた。
手に取る。
柔らかい。触り心地がいい。
色は……グレー? ベージュ?
美春は、何色が好きだっけ。
――分からない。
知らない、ということが、寒い。
マフラーを棚に戻した。
次の棚へ。
アクセサリーが、小さなガラスケースに並んでいる。
ネックレス。ピアス。リング。ブレスレット。
キラキラしている。綺麗だと思う。
でも――美春は、こういうの着けるだろうか。
美春の耳を思い出そうとする。
ピアスの穴、あっただろうか。
ネックレス、してただろうか。
――思い出せない。
私は、美春のことを見ているつもりだった。
笑い方。仕草。声のトーン。
でも、細部は?
好きな色。好きな形。好きな質感。
胸の奥が冷える。
寒いからじゃない。
足元がぐらつく感じ。
店員さんがこちらを見た気がして、私は慌てて店を出た。
◇
二軒目は、雑貨とステーショナリーの店。
入口の飾りつけが派手で、まばゆい。
中に入ると、さっきよりもっと人が多い。カップルが笑いながら商品を見ている。母親と娘が、包装紙の柄を選んでいる。
私はその人混みをすり抜けて、奥の棚に向かった。
手帳。ノート。ペンケース。
美春は文房具が好き、だったっけ。
いや、それは私の思い込みかもしれない。
ノートに何か書いているのは見たことがある。
でも、それが好きだからなのか、必要だからなのか――。
手に取ったペンケースを、また棚に戻す。
隣の棚へ移動する。
キャンドル。アロマディフューザー。ルームフレグランス。
いい匂いがする。
でも、美春の部屋の匂い、私は知らない。
美春が好きな香りも、知らない。
柑橘系? フローラル?
それとも、甘い香り?
――輪郭が掴めない。
知らないことばかり。
私は美春の隣にいるのに、美春の"好き"を知らない。
レジの音が響く。
笑い声が通り過ぎる。
包装紙がカサカサ鳴る。
その全部が、私を責めている気がした。
店を出た。
冷たい風が頬を撫でる。
息が白い。
◇
三軒目。
本屋の一角にある、ギフトコーナー。
私は本棚の前に立った。
美春は、本を読む。
教室で、昼休みに、ページをめくっているのを見たことがある。
でも――何を読んでいたか。
タイトルは? ジャンルは?
棚を見渡す。
小説。エッセイ。詩集。
どれも綺麗な装丁。
どれも、美春が喜びそうな気がする。
どれも、美春が喜ばない気もする。
一冊手に取る。
表紙が柔らかい。
ページをめくってみる。
活字が並んでいる。
意味が入ってこない。
私の手が震えている。
――これじゃない。
本当は、知りたい。
美春が好きな色。好きな匂い。好きな音楽。
朝、何時に起きるのか。
寝る前、何を考えているのか。
私がいないとき、誰と笑っているのか。
――全部、知りたい。
でも、聞けない。
聞いたら、重いって思われるかもしれない。
美春を縛ってしまうかもしれない。
だから、プレゼントで伝えたかった。
"もっと知りたい"を、形にしたかった。
棚に戻す。
もう一冊、手に取る。
これも違う気がする。
戻す。
また一冊。
違う。
また一冊。
違う。
私は本棚の前で、立ち尽くした。
周りを見渡す。
他の人たちは、迷わず商品を手に取って、レジに向かっている。
なんでそんなに簡単に決められるんだろう。
なんで私には、できないんだろう。
胸が苦しい。
息が浅くなる。
美春へのプレゼント。
美春が喜ぶもの。
美春が、私からもらって嬉しいと思ってくれるもの。
――決め手が立たない。
分からない、が、怖い。
間違えたら、どうしよう。
美春が、がっかりしたら。
「こんなの欲しくなかった」って思われたら。
私のこと、嫌いになったら――。
喉の奥が熱くなる。
目の奥も熱い。
ダメだ。
ここにいたら、泣いてしまう。
私は本屋を飛び出した。
◇
気づいたら、喫茶店の前にいた。
逃げた、と思う。
逃げてもいい、とも思う。
ここなら――。
ここなら、逃げ方も許してくれる。
カラン。
ベルが鳴って、木の匂いとコーヒーの香りが、私の肩の力を少しだけ抜いた。
「いらっしゃ……お、秋穂ちゃん」
マスターはカウンターから顔を出して、私の顔を見てすぐに言った。
「難しい顔」
私は鞄の持ち手を握り直した。
「……プレゼント」
「ん?」
「何がいいか、分からなくて」
「美春ちゃんへの?」
「……はい」
言った瞬間、顔が熱くなる。
マスターはニヤニヤしない。からかわない。ただ、知っている目でこちらを見る。
「美春ちゃんが一番喜ぶもの、知ってるだろ?」
私は首を傾げた。
分からないから困っているのに。
マスターは、短く言った。
「君が作ったものだ」
……あ。
その言葉が、頭の中で鳴った。
スプーンがカップに触れて、ちん、と澄んだ音がするみたいに。
美春は、私のお菓子を食べるとき、目が少しだけ丸くなる。
それから、口元がほどける。
その瞬間が、私は好きだ。
だったら――。
私は、作る。
美春のためだけの、特別なお菓子。
家に帰って、レシピノートを開いた。
白い紙に、いつもの自分の字。端に付箋がいくつも貼ってある。甘さの比率、焼き時間、温度。美春が「大人っぽい味」と言った柑橘の苦みのメモ。紅茶の種類の違い。香りが強すぎないように。
美春は紅茶が好きだ。
喫茶店で、ミルクを入れないで飲むことが多い。
だから、香りが立つのに、主張しすぎない味。
「……紅茶のクッキー」
口に出すと、少しだけ安心した。
それでも、作り始めると不安は消えない。
バターを練る音。砂糖が溶けるざらり。
茶葉を砕くと、ふわっと立つ香り。指先にほんの少し残る。
オーブンの予熱が終わって、庫内が熱を抱える匂い。
天板に並べた生地は、同じ形のはずなのに少しずつ違う。私の手の癖が出る。
焼き上がり。
ぱち、ぱち、と小さく鳴る。熱が抜けていく音。
私は一枚だけ割って、味を確認した。
甘さ。香り。後味。
足りない。
もう一回。
試作を重ねた。指先が粉で白くなる。エプロンの胸元にも小麦粉がつく。気づかないふりをして、もう一回。
ようやく納得できたとき、私は箱を出した。
小さな紙箱にクッキーを詰めて、間に薄い紙を挟む。
リボンを結ぶ。結び目が不格好で、やり直す。
結び直すたび、心臓が少し落ち着いた。
これが、私から美春へ。
言葉じゃない。
形で示す、私の気持ち。
美春、喜んでくれるかな。
その問いは、怖いのに、前へ進ませる。
◇
【美春】
十二月二十四日。
駅前は、光で溢れていた。
イルミネーションが木に巻きついて、呼吸するみたいに点滅している。人の話し声が重なって、足音が冬の地面を叩く。甘い匂い――屋台の焼き菓子。ホットワインのスパイス。ココアの湯気。
その中に、秋穂がいた。
いつもと違う服。
コートにマフラー。髪を下ろしている。
制服じゃないだけで、"教室"の秋穂じゃなくなる。
胸がきゅっとなる。
私が見とれているのに気づいて、秋穂が少しだけ目を逸らした。耳が赤い。寒さのせいにしたい赤さ。
「……遅れた?」
「ううん。私も今来たところ」
嘘じゃない。早めに来て、駅前をぐるぐるしていただけ。
――秋穂へのプレゼント。
私は昨日まで悩んでいた。
秋穂は、お菓子を作る。
だから道具――と一瞬思ったけれど、喫茶店の厨房を見れば分かる。秋穂は必要なものを少しずつ揃えている。無駄を嫌うくせに、必要なものには迷わない。
じゃあ、何を?
マスターに聞いたら、「道具は足りてる」と即答したあと、「でも、着るものは買い替え時かもな」と言った。
秋穂のエプロン。
いつも同じ。少し色褪せて、ポケットの端がほつれている。
それでも丁寧に洗っているから、清潔で、秋穂の匂いがする。香水じゃない。焼き菓子と石鹸の匂い。そこが好きだ。
新しいエプロン。
専門学校でも使える、シンプルで丈夫なもの。
派手じゃなくて、でも大事にしたくなる質感。
私はそれを選びながら、胸の中で小さく呟いた。
これを着て、秋穂が夢に向かう。
それを私は――見ていたい。
隣で、同じ季節を。
そう思って選んだプレゼントが、今、私の鞄の中にある。
歩き出すと、私の肩が誰かにぶつかりそうになる。
人の流れが多い。
秋穂が少しだけ身をすくめた。
私は自然に、秋穂の歩幅に合わせる。
そして、少しだけ距離を詰めた。
肩が触れそうな、触れない距離。
「……美春」
「なに?」
「手」
「え?」
「……繋いで、いい?」
秋穂が先に言うのは、珍しい。
珍しいから、胸が跳ねる。
私は頷いて、手袋越しに秋穂の手を探した。
指先が触れた瞬間、秋穂が微かに息を呑む音がした。
その音だけで、私は温かくなる。
人目がある。
でも今日だけは、いい。
"友達"のふりをするのは、明日からでいい。
私たちはイルミネーションの道を抜けて、少し静かな通りのカフェに入った。喫茶店とは違う、白い光と軽い音楽の店。
窓際の席は、人の流れから少し外れている。
テーブルの上に、小さな包みが二つ並んだ。
包み紙の音が、妙に大きく聞こえる。
心臓の音に似ているからだ。
「……先に、いい?」
秋穂が言って、私の方に小さな箱を差し出した。
箱の角が少しだけ潰れている。ぎゅっと握ったのが分かる。
「開けていい?」
「……うん」
蓋を開けた瞬間、紅茶の香りがふわっと広がった。
温かいのに、すっとする香り。
クッキーが丁寧に並んでいる。
一枚一枚、形が少しずつ違う。手の温もりが、そこにある。
「秋穂……これ」
「私が、作った」
「美春のために」
胸がいっぱいになって、言葉が詰まった。
嬉しいのに、泣きたくなる。
泣いたら、クッキーが湿っちゃう――そんな変な心配までしてしまう。
「……ありがとう」
私はやっと言って、クッキーを一枚摘んだ。
口に入れる。
サクッ、と小さく鳴って、紅茶の香りが喉の奥まで広がる。甘さは控えめで、後からほんの少しだけ苦みが追いかけてくる。
「……おいしい。秋穂の味」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる。最高に」
私は笑って、秋穂の指先をそっと握った。
「私だけの、って感じがする」
秋穂が目を伏せた。
その仕草が、照れだと分かるようになった自分が嬉しい。
「……次、私?」
私は包みを差し出した。
秋穂が慎重に包み紙を剥がす。紙が擦れる音。
箱を開けて、中身を見た瞬間、秋穂のまつげが震えた。
「……エプロン」
「うん」
「秋穂が、これから夢に向かうから」
「新しいの、使ってほしくて。専門学校でも……」
秋穂はエプロンの布を指で撫でた。
触り方が、いつも生地を確かめるときのそれと同じ。
大事なものに触れる手。
「……ありがとう、美春」
秋穂が言う。声が少しだけ震えている。
「大事に、使う」
一拍置いて、小さく付け足した。
「ずっと」
その「ずっと」という言葉が、胸に染みる。
秋穂は、私の夢見た未来を、一緒に見てくれている。
私は笑った。
以前より、自分で決めた笑い。
秋穂の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
その変化を、私は見逃さない。
この人は、私の隣で変わっている。
私だけが変わっているんじゃない。
私たちは、互いに温度を渡し合っている。
カフェを出ると、夜が深くなっていた。
街の光はまだ眩しいけれど、空気は冷たい。息が白くなる。
私たちは公園のベンチに向かった。遠くのイルミネーションが、木々の隙間から見える。風が葉のない枝を揺らして、かさ、かさ、と乾いた音がした。
◇
【秋穂】
公園のベンチに座ると、美春が少し身を乗り出して聞いた。
「秋穂は、これからどうしたい?」
「……菓子職人になって」
「それから?」
美春の声が、少しだけ震えている。
この先を聞くのは、怖いのかもしれない。
でも、聞いてくれる。
私は空を見上げた。
イルミネーションじゃない、暗い空。
でも、その暗さの中で言う声は、揺れない。
「……いつか、自分の店を持ちたい」
「小さくていい」
「マスターの店みたいに、落ち着ける場所」
「そこで、お菓子を作る」
美春が息を呑む音がした。
そして、言った。
「そこに、私はいる?」
……え?
私は驚いて、美春を見る。
まるで、答えは最初から分かっているのに、問いの形が新しいみたいに。
「いて、ほしい」
美春が続ける。目が熱そうだ。
「私も、秋穂の未来に……居たい」
美春が、泣きそうな顔で笑っている。
"いてほしい"
その言葉が、胸に刺さる。
いてほしい、って。
私の未来に、いてほしい、って。
当たり前だ。
美春がいない未来なんて、考えられない。
私は息を吸って、ちゃんと言った。
「いる」
「美春は、絶対にいる」
「私の隣に、ずっと」
言った瞬間、肩の力が抜けた。
怖さが消えるわけじゃない。
でも、怖さの横に、確かな温度が座る。
私は少しだけ身を乗り出して、美春の頬にキスをした。
触れるだけの、軽いキス。
それでも、胸の奥まで温かい。
「メリークリスマス、美春」
「メリークリスマス、秋穂」
美春が笑う。
その笑い方が、私の中の何かを溶かす。
◇
【美春】
帰り道、私たちは手を繋いだまま歩いた。
今日だけは、堂々とじゃないけど、少しだけ胸を張って。
秋穂の店。
そこに私がいる未来。
――叶えたい。
秋穂の夢を、一緒に作りたい。
だったら私は、何をすればいい?
答えはまだ見つからない。
でも、探したいと思える。
手袋越しでも分かる秋穂の体温が、私の背中を押す。
冷たい夜に、温かい約束がひとつ増えた。
この冬の始まりを、私は忘れない。
◇
【秋穂】
駅までの道は、さっきまでのベンチより明るいのに、どこか薄い。街灯の白さが、雪じゃないものまで白く見せる。
人の笑い声や、紙袋の擦れる音が、音楽みたいに遠い。
私は歩幅を合わせようとして、合わせすぎて、逆に遅れる。
美春の歩き方は、焦っていない。肩の力が抜けている。
それが嬉しいのに、私は嬉しさを扱うのが下手で、つい黙る。
改札の前で、美春が指先を止めた。
ICカードをかざす手が、ほんの一瞬だけ迷ったみたいに見えた。
「……混んでるね」
美春が言う。
「うん」
私は短く返す。短すぎて、声が冷たく聞こえないか心配になる。
でも美春は、笑っていた。
改札を通ると、ホームの空気がひんやりしていた。
吐いた息が白くなる。白さが、さっきの言葉の続きを隠すみたいで、私は少しだけ安心する。
電車が来る音がする。
遠くから鉄の音が近づいてきて、風が巻き起こる。
周りには、たくさんのカップルがいる。
笑い声。肩を寄せ合う影。
でも、私には美春しか見えない。
美春の横顔。髪の揺れ。息の白さ。
全部が、世界で一番大事なものに見える。
扉が開いた瞬間、あたたかい空気が漏れた。
暖房の匂いと、人のコートの匂いが混ざる。甘い匂いはしない。――なのに、胸の奥が甘い。
車内は思ったより混んでいて、座れなかった。
私たちは吊革の下に並ぶ。肩が近い。近いのに、触れていない。
触れていないことが、逆に意識を増やす。
美春がつり革を握る。
その指先が、さっき私の頬を掠めた指先と同じだと思うだけで、息が少し浅くなる。
窓の外は暗い。
暗さの中に、点々とした街の灯り。
その灯りが流れていくのを見ていると、自分がどこへ運ばれているのか分からなくなる。分からなくなるのに、怖くない。
――さっき、「いる」って言った。
言えた。言い切った。
なのに私は、まだ、その言葉の後ろに隠しているものがある。
好き。
それは多分、言える。言おうと思えば。
けれど言った瞬間、何かが変わってしまう気がする。
変わるのが怖いんじゃない。変わったあと、守れるかが怖い。
電車が揺れる。
小さくガタン、と足元が沈む。
その瞬間、私の体がほんの少しだけ傾いて、美春の肩に触れそうになる。
触れそうになって、私は反射で体を戻した。
逃げるみたいな動き。
自分で自分が恥ずかしくなる。
でも、すぐ隣で、別の男の人が美春の方に揺れた。
ぶつかりそうになる。
私の手が、反射で美春の袖を掴んでいた。
引き寄せるみたいに。
男の人は謝って、体勢を立て直す。
何でもなかった。
でも、私の心臓は跳ねたままだ。
美春が、小さく笑う。
「……守られちゃった」
私は慌てて袖を離した。
顔が熱い。
「……ごめん」
「ううん。嬉しい」
美春の声が、小さくて、温かい。
私は、また袖を掴みたくなる。
でも、掴めない。
掴んだら、離せなくなる気がした。
美春が、こちらを見ないまま言った。
「寒い?」
声が小さい。周りに溶ける声。
「……寒くない」
私は言う。
嘘じゃない。本当に寒くない。
寒いのは、外じゃなくて、私の中の"言えない"だ。
「そっか」
美春が少しだけ笑う。
その笑い方が、あの喫茶店の電球みたいに柔らかくて、私は目を逸らしたくなる。
すると、美春が今度は少しだけ体を寄せた。
寄せた、というほど大きくない。
ただ、肩の距離が、逃げ道を一つだけ塞ぐ程度。
私の袖と、美春の袖が触れた。
布が擦れる音はしないのに、触れたことだけがはっきり分かる。
「……」
私は何も言えない。
美春が、つり革を握ったまま、ぽつりと続けた。
「秋穂、さっきさ」
「……うん」
「"いる"って言ったの、嬉しかった」
胸の奥が、きゅっと縮む。
嬉しい、と言われると、私は"ちゃんとしなきゃ"が出てしまう。
でも今は、ちゃんとするより先に、こぼれそうなものを掬わないといけない気がした。
「……私も、嬉しかった」
自分の声が、思ったよりかすれている。
暖房で乾いたのか、緊張で乾いたのか、分からない。
美春が、少しだけこちらを見る。
その視線が、問いじゃなくて、確認だった。
――大丈夫? っていう、優しい確認。
私はそれに、頷く代わりに、少しだけ指先を動かした。
つり革を握っていない方の手。
コートのポケットの中で、指を開く。
美春の手はポケットの外に出ている。
スマホを握っていて、画面は暗い。
なのに、その手だけが、妙に明るく見える。
私は一歩、ほんの少しだけ近づく。
肩じゃなく、肘でもなく、手でもなく、――"気配"を近づける。
美春が、気配に気づいて、スマホを持つ指を少し緩めた。
緩めて、手が自由になる。
ポケットの中の私の指が、もう一度開く。
開いたまま、閉じられない。
美春が、こちらの手元を見ないまま、同じように指を開いた。
それだけで、私の胸がほどける。
誰にも見えない場所で、二人だけが合図を交換しているみたいだ。
電車の揺れに合わせて、指先がほんの少しだけ触れた。
触れて、離れて、また触れる。
握らない。握れない。
でも、触れている。
それは、キスより静かで、キスより現実だった。
次の駅のアナウンスが流れる。
機械の声が、やけに正確で、やけに冷たい。
降りる準備で、人が動く。
隣の人の荷物が私たちの間に割り込んでくる。
その瞬間、触れていた指先が離れた。
離れたのに、熱は残っている。
皮膚じゃなくて、もっと内側に。
美春が、ほんの少しだけ息を吐いて言った。
「……ねえ」
「うん」
「来年の今頃も、こうやって帰りたい」
来年。
その言葉が、冬の窓みたいに透き通っていて、私は少しだけ怖くなる。
でも、怖いのに、目を逸らしたくない。
「……帰る場所、同じがいい」
私は言った。
言ってしまってから、心臓が早くなる。
自分で言ったのに、自分で受け止めきれない。
美春が小さく笑った。
「同じって、喫茶店?」
「……喫茶店も」
私は答えて、続ける。
続けないと、逃げになる。
「……それだけじゃない」
美春の頬が、ほんの少し赤くなる。
暖房のせいかもしれない。
でも私は、そういう"逃げ道"を今は使いたくなかった。
「そっか」
美春が言う。
その一言が、肯定みたいで、私は息ができる。
電車が停まり、扉が開いた。
外の冷気が入り込んで、頬がきゅっとなる。
人波に押されて降りる。
降りた瞬間、寒さが体に貼りつく。
でも、さっきまでの暖房の匂いが、コートの中に残っている。
改札へ向かう途中、美春が少しだけこちらを見て言った。
「秋穂、手」
「……え」
「今なら、誰も見てない」
私は一瞬迷って、それでも、迷いを置いていくみたいに指を差し出した。
美春がそれを取る。
指が絡む。握られる。
「……離したくない」
美春が、ぽつりと言う。
声が震えている。
私は胸がきゅっとなる。
「私も」
美春が少しだけ笑う。
泣きそうな笑い方。
"触れてるだけ"じゃなく、"握る"。
さっきより確かな形。
握られた瞬間、私は思う。
――守りたい。
この子の未来も、この手の温度も、喫茶店の灯りも。
言葉にしなくても、誓いみたいに胸の奥で固まる。
「……美春」
「ん?」
「メリークリスマス、もう一回言って」
「なんで」
「……さっき、ちゃんと聞けてなかった」
美春が笑った。
それから、私の耳元に少しだけ顔を寄せて、囁く。
「メリークリスマス」
その二語が、外の冷気を一瞬だけ溶かした。
私は握っている手に、ほんの少し力を入れる。
帰り道は、まだ続く。
でも、続くことが、もう怖くなかった。
◇
【秋穂】
改札の前は、人が増える。
さっきまでの「誰も見てない」が、急に嘘みたいに薄くなる場所だ。
駅の天井は高くて、蛍光灯がまっすぐ白い。
白さが、私たちの影を薄くする。隠してくれるのか、さらしてしまうのか、分からない。
私の手の中にはまだ、美春の熱がある。
握っているのに、もう"離す段取り"が始まってしまうのが分かる。
別れ際はいつも、先に心だけが降りていく。
改札の手前で、美春が足を止めた。
止め方が、ためらいじゃない。きちんと立ち止まる止め方だ。
「ここで、いい?」
美春が言う。
「……うん」
よくない。
でも、ここでごねるのは違う。帰ることも、選んだことの一部だ。
人が横を通っていく。
制服の子、家族連れ、手をつないだ恋人。
それぞれの"当たり前"が、流れていく。
美春が私の手を見た。
見てから、私の顔を見ないまま、小さく言う。
「……離す?」
その言い方が、優しすぎて、胸がきゅっとなる。
離すかどうかを、私に選ばせてくれる。
選べる、ということが、こんなに苦しいとは思わなかった。
私は喉の奥で息をひとつ転がして、答える。
「……一回、ぎゅってしてから」
言ってしまって、顔が熱い。
子どもみたいなお願い。
でも、美春は笑わなかった。
「うん」
美春は短く言って、指を絡めたまま、少しだけ強く握った。
ぎゅっ。
それだけで、私は泣きそうになる。
泣きたくない。今日は、泣く日じゃない。
けれど、胸の奥の柔らかいところが、溶けてしまいそうだ。
「……秋穂」
美春が言う。
「なに」
私は、なるべく普通に返したつもりだった。
でも、声が少しだけ揺れた。
美春が少しだけ言い淀む。
淀み方が、受験の前みたいじゃない。
もっと、個人的で、触れたら壊れそうな淀み。
「今日さ」
「うん」
「楽しかった」
"楽しかった"。
その言葉が、簡単すぎるのに、救いみたいに重い。
私は頷いて、同じ言葉を返す。
「……楽しかった」
それから、嘘をつけなくて付け足す。
「……もっと、一緒にいたかった」
美春が、やっと私を見る。
目が合って、視線が絡む。
その絡み方が、指より強い。
「私も」
美春が言った。
「でも、帰るのも……ちゃんとしたい」
ちゃんとしたい。
その言葉は、美春がこの一年で覚えた"強さ"だ。
私はその強さを、邪魔したくない。
なのに、寂しさは勝手に増える。
美春が、改札の向こうをちらりと見た。
人が多い。
その確認が、私の中の何かを引き締める。
私は、美春の手を握ったまま、少しだけ顔を近づける。
キスはできない。
できないけど、言葉で触れたい。
美春が、少し困ったみたいに笑った。
人波が、また横を通る。
ぶつからないように、私たちは半歩だけずれる。
その半歩が、距離の始まりに見える。
美春が、名残惜しそうに息を吐いて言う。
「……じゃあ」
私は、うなずく。
でも、うなずくだけじゃ足りなくて、言った。
「……また、すぐ」
"すぐ"の根拠はない。
でも、私たちは喫茶店という場所を持っている。
あの灯りが、次の"すぐ"を保証してくれる。
美春が小さく笑う。
「うん、すぐ」
「……連絡する」
「私も」
その後で、美春が、ほんの少しだけ前に出た。
改札に向かうための一歩。
その一歩の前に、彼女は手にもう一度力を入れる。
ぎゅっ。
さっきより短い。
でも、決定的。
そして、ゆっくり指がほどける。
指が離れる瞬間、空気が冷たい。
手のひらに、形だけが残る。
握られていた場所が、薄く空洞になる。
美春が、改札の向こうへ行く前に、振り返った。
人混みの中で、ちゃんと私を見つける目。
「秋穂」
呼ばれて、私は胸が跳ねる。
「なに」
「……好き」
声は小さい。
周りには聞こえないくらい。
でも、私にはちゃんと聞こえる。
私は息を止める。
止めた息が、次の瞬間、熱い吐息になって漏れた。
「……私も」
言うだけで、精一杯だった。
"もっと"を言ったら、追いかけてしまいそうだった。
美春が少しだけ笑って、改札を通る。
ピッ、という音が、妙に軽い。
その軽さが、胸に痛い。
改札の向こうで、美春が手を振った。
私は振り返す。
振り返しながら、思う。
――離れた。
でも、終わってない。
むしろ、ここからだ。
人の流れに美春の姿が溶けていく。
見えなくなる直前まで、私は目を逸らさなかった。
見えなくなったあと、手のひらを見た。
何もないのに、まだ温かい。
私はその手を、胸の前で軽く握りしめる。
逃げない。
次に会うまで、温度を持って帰る。
スマホが震えた。
美春からのメッセージ。
『秋穂、初詣、一緒に行きたい』
『また、二人で』
画面を見て、私は息を吐いた。
息が白くなる。
返信する。
『行く』
『……行きたい』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が温かくなる。
クリスマスが終わった。
でも、終わりじゃない。
次の約束が、もうそこにある。
冬の空気が冷たいのに、私の頬は熱かった。
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