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第16話「聖夜の温度」

ライトな百合x成長物語です。

4話、8話、14話がキリのいいポイントです!

15話以降、甘々予定!

【美春】


 駅前の掲示板に貼られたイルミネーション点灯のポスターが、やけに眩しく見えるのは、空気が澄んでいるせいだけじゃない気がした。


 十二月に入ったばかりのある放課後、教室の窓際で、秋穂が小さく私を呼んだ。


「美春」


 名前。たった二文字なのに、呼ばれるたび胸の奥がほどける。六月の梅雨に相合い傘をして以来、秋穂は少しずつ、私を"言葉で掴む"のが上手くなっている気がする。


 秋穂は教科書を閉じると、いつもよりゆっくり息を吐いた。迷う前の仕草だ。


「……クリスマス、どうする?」


「どうするって……」


 言いかけたところで、秋穂が眉を寄せた。いつもみたいに論理の線を引きたいのに、線が揺れてしまう顔。


「恋人、なのに」

「ちゃんとしたこと……してない」

「デート、とか」


 その"とか"が、可愛いと思った。言い切れないところまで含めて。


 私は笑いそうになって、慌てて口元を押さえる。笑ったらからかっているみたいになる。秋穂はそういうのに弱い。


「デート……いいね」

「どこ行く?」

「……美春が、決めて」


 その言葉が落ちる音を、私はちゃんと拾った。


 秋穂は、いつも私に"決めさせて"くれる。委ねるんじゃなくて、促してくれる。私が逃げないように、逃げ道だけ残さないように。


 ――私が決める。


 クリスマスイブ。二人だけの、特別な日。

 教室の中では"友達"のふりをするのに、教室の外でだけ世界が急に色づく。


「じゃあ、駅前で待ち合わせして……イルミネーション、見よ」

「……混んでない?」

「混んでると思う」

「……怖い」

「じゃあ、混んでても大丈夫な場所、ちゃんと選ぶ」


 私は言って、自分の声が少しだけ強いことに気づく。

「秋穂が息できる場所」


 秋穂は目を瞬いて、ほんの少しだけ口角を上げた。


「……うん」


 その"うん"が、私の中のスイッチを押した。


「ねえ、あとさ」

「なに」

「プレゼント交換しない?」

「……プレゼント?」

「うん。お互いに、相手が喜びそうなものを考える」

「難しい……」

「だからいいんだよ。考えた分だけ、気持ちが入るから」


 秋穂は困ったように眉を寄せたあと、小さく頷いた。

 頷き方まで、今の秋穂は少し柔らかい。


「……やる」


 言い切るようになった。

 それを、私は嬉しいと思った。


     ◇


【秋穂】


 それから、私は街の雑貨屋をいくつも回った。


 最初の店は、駅前のセレクトショップ。

 ガラスのドアを開けた瞬間、暖房の熱と甘い香水の匂いが顔にぶつかる。店内にはクリスマスソングが流れていて、包装紙を畳む音が時々混ざる。

 棚には、色とりどりのマフラーが並んでいた。


 手に取る。

 柔らかい。触り心地がいい。

 色は……グレー? ベージュ?

 美春は、何色が好きだっけ。


 ――分からない。


 知らない、ということが、寒い。

 マフラーを棚に戻した。


 次の棚へ。

 アクセサリーが、小さなガラスケースに並んでいる。

 ネックレス。ピアス。リング。ブレスレット。

 キラキラしている。綺麗だと思う。

 でも――美春は、こういうの着けるだろうか。


 美春の耳を思い出そうとする。

 ピアスの穴、あっただろうか。

 ネックレス、してただろうか。


 ――思い出せない。


 私は、美春のことを見ているつもりだった。

 笑い方。仕草。声のトーン。

 でも、細部は?

 好きな色。好きな形。好きな質感。


 胸の奥が冷える。

 寒いからじゃない。

 足元がぐらつく感じ。


 店員さんがこちらを見た気がして、私は慌てて店を出た。


     ◇


 二軒目は、雑貨とステーショナリーの店。

 入口の飾りつけが派手で、まばゆい。

 中に入ると、さっきよりもっと人が多い。カップルが笑いながら商品を見ている。母親と娘が、包装紙の柄を選んでいる。


 私はその人混みをすり抜けて、奥の棚に向かった。


 手帳。ノート。ペンケース。

 美春は文房具が好き、だったっけ。

 いや、それは私の思い込みかもしれない。

 ノートに何か書いているのは見たことがある。

 でも、それが好きだからなのか、必要だからなのか――。


 手に取ったペンケースを、また棚に戻す。

 隣の棚へ移動する。


 キャンドル。アロマディフューザー。ルームフレグランス。

 いい匂いがする。

 でも、美春の部屋の匂い、私は知らない。

 美春が好きな香りも、知らない。


 柑橘系? フローラル?

 それとも、甘い香り?


 ――輪郭が掴めない。


 知らないことばかり。

 私は美春の隣にいるのに、美春の"好き"を知らない。


 レジの音が響く。

 笑い声が通り過ぎる。

 包装紙がカサカサ鳴る。


 その全部が、私を責めている気がした。


 店を出た。

 冷たい風が頬を撫でる。

 息が白い。


     ◇


 三軒目。

 本屋の一角にある、ギフトコーナー。


 私は本棚の前に立った。

 美春は、本を読む。

 教室で、昼休みに、ページをめくっているのを見たことがある。


 でも――何を読んでいたか。

 タイトルは? ジャンルは?


 棚を見渡す。

 小説。エッセイ。詩集。

 どれも綺麗な装丁。

 どれも、美春が喜びそうな気がする。

 どれも、美春が喜ばない気もする。


 一冊手に取る。

 表紙が柔らかい。

 ページをめくってみる。

 活字が並んでいる。

 意味が入ってこない。


 私の手が震えている。


 ――これじゃない。


 本当は、知りたい。

 美春が好きな色。好きな匂い。好きな音楽。

 朝、何時に起きるのか。

 寝る前、何を考えているのか。

 私がいないとき、誰と笑っているのか。


 ――全部、知りたい。


 でも、聞けない。

 聞いたら、重いって思われるかもしれない。

 美春を縛ってしまうかもしれない。


 だから、プレゼントで伝えたかった。

 "もっと知りたい"を、形にしたかった。


 棚に戻す。

 もう一冊、手に取る。

 これも違う気がする。

 戻す。


 また一冊。

 違う。

 また一冊。

 違う。


 私は本棚の前で、立ち尽くした。


 周りを見渡す。

 他の人たちは、迷わず商品を手に取って、レジに向かっている。

 なんでそんなに簡単に決められるんだろう。

 なんで私には、できないんだろう。


 胸が苦しい。

 息が浅くなる。


 美春へのプレゼント。

 美春が喜ぶもの。

 美春が、私からもらって嬉しいと思ってくれるもの。


 ――決め手が立たない。


 分からない、が、怖い。

 間違えたら、どうしよう。

 美春が、がっかりしたら。

 「こんなの欲しくなかった」って思われたら。

 私のこと、嫌いになったら――。


 喉の奥が熱くなる。

 目の奥も熱い。


 ダメだ。

 ここにいたら、泣いてしまう。


 私は本屋を飛び出した。


     ◇


 気づいたら、喫茶店の前にいた。


 逃げた、と思う。

 逃げてもいい、とも思う。


 ここなら――。

 ここなら、逃げ方も許してくれる。


 カラン。


 ベルが鳴って、木の匂いとコーヒーの香りが、私の肩の力を少しだけ抜いた。


「いらっしゃ……お、秋穂ちゃん」

 マスターはカウンターから顔を出して、私の顔を見てすぐに言った。

「難しい顔」


 私は鞄の持ち手を握り直した。


「……プレゼント」

「ん?」

「何がいいか、分からなくて」

「美春ちゃんへの?」

「……はい」


 言った瞬間、顔が熱くなる。

 マスターはニヤニヤしない。からかわない。ただ、知っている目でこちらを見る。


「美春ちゃんが一番喜ぶもの、知ってるだろ?」


 私は首を傾げた。

 分からないから困っているのに。


 マスターは、短く言った。


「君が作ったものだ」


 ……あ。


 その言葉が、頭の中で鳴った。

 スプーンがカップに触れて、ちん、と澄んだ音がするみたいに。


 美春は、私のお菓子を食べるとき、目が少しだけ丸くなる。

 それから、口元がほどける。

 その瞬間が、私は好きだ。


 だったら――。


 私は、作る。

 美春のためだけの、特別なお菓子。


 家に帰って、レシピノートを開いた。

 白い紙に、いつもの自分の字。端に付箋がいくつも貼ってある。甘さの比率、焼き時間、温度。美春が「大人っぽい味」と言った柑橘の苦みのメモ。紅茶の種類の違い。香りが強すぎないように。


 美春は紅茶が好きだ。

 喫茶店で、ミルクを入れないで飲むことが多い。

 だから、香りが立つのに、主張しすぎない味。


「……紅茶のクッキー」


 口に出すと、少しだけ安心した。

 それでも、作り始めると不安は消えない。


 バターを練る音。砂糖が溶けるざらり。

 茶葉を砕くと、ふわっと立つ香り。指先にほんの少し残る。

 オーブンの予熱が終わって、庫内が熱を抱える匂い。

 天板に並べた生地は、同じ形のはずなのに少しずつ違う。私の手の癖が出る。


 焼き上がり。

 ぱち、ぱち、と小さく鳴る。熱が抜けていく音。


 私は一枚だけ割って、味を確認した。

 甘さ。香り。後味。

 足りない。

 もう一回。


 試作を重ねた。指先が粉で白くなる。エプロンの胸元にも小麦粉がつく。気づかないふりをして、もう一回。


 ようやく納得できたとき、私は箱を出した。

 小さな紙箱にクッキーを詰めて、間に薄い紙を挟む。

 リボンを結ぶ。結び目が不格好で、やり直す。

 結び直すたび、心臓が少し落ち着いた。


 これが、私から美春へ。


 言葉じゃない。

 形で示す、私の気持ち。


 美春、喜んでくれるかな。


 その問いは、怖いのに、前へ進ませる。


     ◇


【美春】


 十二月二十四日。


 駅前は、光で溢れていた。

 イルミネーションが木に巻きついて、呼吸するみたいに点滅している。人の話し声が重なって、足音が冬の地面を叩く。甘い匂い――屋台の焼き菓子。ホットワインのスパイス。ココアの湯気。


 その中に、秋穂がいた。


 いつもと違う服。

 コートにマフラー。髪を下ろしている。

 制服じゃないだけで、"教室"の秋穂じゃなくなる。

 胸がきゅっとなる。


 私が見とれているのに気づいて、秋穂が少しだけ目を逸らした。耳が赤い。寒さのせいにしたい赤さ。


「……遅れた?」

「ううん。私も今来たところ」

 嘘じゃない。早めに来て、駅前をぐるぐるしていただけ。


 ――秋穂へのプレゼント。

 私は昨日まで悩んでいた。


 秋穂は、お菓子を作る。

 だから道具――と一瞬思ったけれど、喫茶店の厨房を見れば分かる。秋穂は必要なものを少しずつ揃えている。無駄を嫌うくせに、必要なものには迷わない。


 じゃあ、何を?


 マスターに聞いたら、「道具は足りてる」と即答したあと、「でも、着るものは買い替え時かもな」と言った。


 秋穂のエプロン。

 いつも同じ。少し色褪せて、ポケットの端がほつれている。

 それでも丁寧に洗っているから、清潔で、秋穂の匂いがする。香水じゃない。焼き菓子と石鹸の匂い。そこが好きだ。


 新しいエプロン。

 専門学校でも使える、シンプルで丈夫なもの。

 派手じゃなくて、でも大事にしたくなる質感。


 私はそれを選びながら、胸の中で小さく呟いた。


 これを着て、秋穂が夢に向かう。

 それを私は――見ていたい。

 隣で、同じ季節を。


 そう思って選んだプレゼントが、今、私の鞄の中にある。


 歩き出すと、私の肩が誰かにぶつかりそうになる。

 人の流れが多い。

 秋穂が少しだけ身をすくめた。


 私は自然に、秋穂の歩幅に合わせる。

 そして、少しだけ距離を詰めた。

 肩が触れそうな、触れない距離。


「……美春」

「なに?」

「手」

「え?」

「……繋いで、いい?」


 秋穂が先に言うのは、珍しい。

 珍しいから、胸が跳ねる。


 私は頷いて、手袋越しに秋穂の手を探した。

 指先が触れた瞬間、秋穂が微かに息を呑む音がした。

 その音だけで、私は温かくなる。


 人目がある。

 でも今日だけは、いい。

 "友達"のふりをするのは、明日からでいい。


 私たちはイルミネーションの道を抜けて、少し静かな通りのカフェに入った。喫茶店とは違う、白い光と軽い音楽の店。

 窓際の席は、人の流れから少し外れている。


 テーブルの上に、小さな包みが二つ並んだ。

 包み紙の音が、妙に大きく聞こえる。

 心臓の音に似ているからだ。


「……先に、いい?」

 秋穂が言って、私の方に小さな箱を差し出した。

 箱の角が少しだけ潰れている。ぎゅっと握ったのが分かる。


「開けていい?」

「……うん」


 蓋を開けた瞬間、紅茶の香りがふわっと広がった。

 温かいのに、すっとする香り。

 クッキーが丁寧に並んでいる。

 一枚一枚、形が少しずつ違う。手の温もりが、そこにある。


「秋穂……これ」

「私が、作った」

「美春のために」


 胸がいっぱいになって、言葉が詰まった。

 嬉しいのに、泣きたくなる。

 泣いたら、クッキーが湿っちゃう――そんな変な心配までしてしまう。


「……ありがとう」

 私はやっと言って、クッキーを一枚摘んだ。

 口に入れる。

 サクッ、と小さく鳴って、紅茶の香りが喉の奥まで広がる。甘さは控えめで、後からほんの少しだけ苦みが追いかけてくる。


「……おいしい。秋穂の味」

「……それ、褒めてる?」

「褒めてる。最高に」

 私は笑って、秋穂の指先をそっと握った。

「私だけの、って感じがする」


 秋穂が目を伏せた。

 その仕草が、照れだと分かるようになった自分が嬉しい。


「……次、私?」

 私は包みを差し出した。


 秋穂が慎重に包み紙を剥がす。紙が擦れる音。

 箱を開けて、中身を見た瞬間、秋穂のまつげが震えた。


「……エプロン」

「うん」

「秋穂が、これから夢に向かうから」

「新しいの、使ってほしくて。専門学校でも……」


 秋穂はエプロンの布を指で撫でた。

 触り方が、いつも生地を確かめるときのそれと同じ。

 大事なものに触れる手。


「……ありがとう、美春」

 秋穂が言う。声が少しだけ震えている。

「大事に、使う」

 一拍置いて、小さく付け足した。

「ずっと」


 その「ずっと」という言葉が、胸に染みる。

 秋穂は、私の夢見た未来を、一緒に見てくれている。


 私は笑った。

 以前より、自分で決めた笑い。


 秋穂の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

 その変化を、私は見逃さない。

 この人は、私の隣で変わっている。

 私だけが変わっているんじゃない。

 私たちは、互いに温度を渡し合っている。


 カフェを出ると、夜が深くなっていた。

 街の光はまだ眩しいけれど、空気は冷たい。息が白くなる。


 私たちは公園のベンチに向かった。遠くのイルミネーションが、木々の隙間から見える。風が葉のない枝を揺らして、かさ、かさ、と乾いた音がした。


     ◇


【秋穂】


 公園のベンチに座ると、美春が少し身を乗り出して聞いた。


「秋穂は、これからどうしたい?」

「……菓子職人になって」

「それから?」


 美春の声が、少しだけ震えている。

 この先を聞くのは、怖いのかもしれない。

 でも、聞いてくれる。


 私は空を見上げた。

 イルミネーションじゃない、暗い空。

 でも、その暗さの中で言う声は、揺れない。


「……いつか、自分の店を持ちたい」

「小さくていい」

「マスターの店みたいに、落ち着ける場所」

「そこで、お菓子を作る」


 美春が息を呑む音がした。

 そして、言った。


「そこに、私はいる?」


 ……え?


 私は驚いて、美春を見る。

 まるで、答えは最初から分かっているのに、問いの形が新しいみたいに。


「いて、ほしい」

 美春が続ける。目が熱そうだ。


「私も、秋穂の未来に……居たい」

 美春が、泣きそうな顔で笑っている。


 "いてほしい"

 その言葉が、胸に刺さる。


 いてほしい、って。

 私の未来に、いてほしい、って。


 当たり前だ。

 美春がいない未来なんて、考えられない。


 私は息を吸って、ちゃんと言った。


「いる」

「美春は、絶対にいる」

「私の隣に、ずっと」


 言った瞬間、肩の力が抜けた。

 怖さが消えるわけじゃない。

 でも、怖さの横に、確かな温度が座る。


 私は少しだけ身を乗り出して、美春の頬にキスをした。

 触れるだけの、軽いキス。

 それでも、胸の奥まで温かい。


「メリークリスマス、美春」

「メリークリスマス、秋穂」


 美春が笑う。

 その笑い方が、私の中の何かを溶かす。


     ◇


【美春】


 帰り道、私たちは手を繋いだまま歩いた。

 今日だけは、堂々とじゃないけど、少しだけ胸を張って。


 秋穂の店。

 そこに私がいる未来。


 ――叶えたい。


 秋穂の夢を、一緒に作りたい。

 だったら私は、何をすればいい?


 答えはまだ見つからない。

 でも、探したいと思える。


 手袋越しでも分かる秋穂の体温が、私の背中を押す。

 冷たい夜に、温かい約束がひとつ増えた。


 この冬の始まりを、私は忘れない。


     ◇


【秋穂】


 駅までの道は、さっきまでのベンチより明るいのに、どこか薄い。街灯の白さが、雪じゃないものまで白く見せる。

 人の笑い声や、紙袋の擦れる音が、音楽みたいに遠い。


 私は歩幅を合わせようとして、合わせすぎて、逆に遅れる。

 美春の歩き方は、焦っていない。肩の力が抜けている。


 それが嬉しいのに、私は嬉しさを扱うのが下手で、つい黙る。


 改札の前で、美春が指先を止めた。

 ICカードをかざす手が、ほんの一瞬だけ迷ったみたいに見えた。


 「……混んでるね」

 美春が言う。


 「うん」

 私は短く返す。短すぎて、声が冷たく聞こえないか心配になる。

 でも美春は、笑っていた。


 改札を通ると、ホームの空気がひんやりしていた。

 吐いた息が白くなる。白さが、さっきの言葉の続きを隠すみたいで、私は少しだけ安心する。


 電車が来る音がする。

 遠くから鉄の音が近づいてきて、風が巻き起こる。


 周りには、たくさんのカップルがいる。

 笑い声。肩を寄せ合う影。

 でも、私には美春しか見えない。


 美春の横顔。髪の揺れ。息の白さ。

 全部が、世界で一番大事なものに見える。


 扉が開いた瞬間、あたたかい空気が漏れた。

 暖房の匂いと、人のコートの匂いが混ざる。甘い匂いはしない。――なのに、胸の奥が甘い。


 車内は思ったより混んでいて、座れなかった。

 私たちは吊革の下に並ぶ。肩が近い。近いのに、触れていない。

 触れていないことが、逆に意識を増やす。


 美春がつり革を握る。

 その指先が、さっき私の頬を掠めた指先と同じだと思うだけで、息が少し浅くなる。


 窓の外は暗い。

 暗さの中に、点々とした街の灯り。

 その灯りが流れていくのを見ていると、自分がどこへ運ばれているのか分からなくなる。分からなくなるのに、怖くない。


 ――さっき、「いる」って言った。

 言えた。言い切った。

 なのに私は、まだ、その言葉の後ろに隠しているものがある。


 好き。

 それは多分、言える。言おうと思えば。

 けれど言った瞬間、何かが変わってしまう気がする。

 変わるのが怖いんじゃない。変わったあと、守れるかが怖い。


 電車が揺れる。

 小さくガタン、と足元が沈む。

 その瞬間、私の体がほんの少しだけ傾いて、美春の肩に触れそうになる。


 触れそうになって、私は反射で体を戻した。

 逃げるみたいな動き。

 自分で自分が恥ずかしくなる。


 でも、すぐ隣で、別の男の人が美春の方に揺れた。

 ぶつかりそうになる。


 私の手が、反射で美春の袖を掴んでいた。

 引き寄せるみたいに。


 男の人は謝って、体勢を立て直す。

 何でもなかった。

 でも、私の心臓は跳ねたままだ。


 美春が、小さく笑う。

「……守られちゃった」


 私は慌てて袖を離した。

 顔が熱い。

「……ごめん」

「ううん。嬉しい」


 美春の声が、小さくて、温かい。

 私は、また袖を掴みたくなる。

 でも、掴めない。

 掴んだら、離せなくなる気がした。


 美春が、こちらを見ないまま言った。


「寒い?」

 声が小さい。周りに溶ける声。


「……寒くない」

 私は言う。

 嘘じゃない。本当に寒くない。

 寒いのは、外じゃなくて、私の中の"言えない"だ。


「そっか」

 美春が少しだけ笑う。

 その笑い方が、あの喫茶店の電球みたいに柔らかくて、私は目を逸らしたくなる。


 すると、美春が今度は少しだけ体を寄せた。

 寄せた、というほど大きくない。

 ただ、肩の距離が、逃げ道を一つだけ塞ぐ程度。


 私の袖と、美春の袖が触れた。

 布が擦れる音はしないのに、触れたことだけがはっきり分かる。


「……」

 私は何も言えない。


 美春が、つり革を握ったまま、ぽつりと続けた。


「秋穂、さっきさ」

「……うん」

「"いる"って言ったの、嬉しかった」


 胸の奥が、きゅっと縮む。

 嬉しい、と言われると、私は"ちゃんとしなきゃ"が出てしまう。

 でも今は、ちゃんとするより先に、こぼれそうなものを掬わないといけない気がした。


「……私も、嬉しかった」

 自分の声が、思ったよりかすれている。

 暖房で乾いたのか、緊張で乾いたのか、分からない。


 美春が、少しだけこちらを見る。

 その視線が、問いじゃなくて、確認だった。

 ――大丈夫? っていう、優しい確認。


 私はそれに、頷く代わりに、少しだけ指先を動かした。

 つり革を握っていない方の手。

 コートのポケットの中で、指を開く。


 美春の手はポケットの外に出ている。

 スマホを握っていて、画面は暗い。

 なのに、その手だけが、妙に明るく見える。


 私は一歩、ほんの少しだけ近づく。

 肩じゃなく、肘でもなく、手でもなく、――"気配"を近づける。


 美春が、気配に気づいて、スマホを持つ指を少し緩めた。

 緩めて、手が自由になる。


 ポケットの中の私の指が、もう一度開く。

 開いたまま、閉じられない。


 美春が、こちらの手元を見ないまま、同じように指を開いた。

 それだけで、私の胸がほどける。

 誰にも見えない場所で、二人だけが合図を交換しているみたいだ。


 電車の揺れに合わせて、指先がほんの少しだけ触れた。

 触れて、離れて、また触れる。

 握らない。握れない。

 でも、触れている。


 それは、キスより静かで、キスより現実だった。


 次の駅のアナウンスが流れる。

 機械の声が、やけに正確で、やけに冷たい。


 降りる準備で、人が動く。

 隣の人の荷物が私たちの間に割り込んでくる。


 その瞬間、触れていた指先が離れた。

 離れたのに、熱は残っている。

 皮膚じゃなくて、もっと内側に。


 美春が、ほんの少しだけ息を吐いて言った。


「……ねえ」

「うん」

「来年の今頃も、こうやって帰りたい」


 来年。

 その言葉が、冬の窓みたいに透き通っていて、私は少しだけ怖くなる。

 でも、怖いのに、目を逸らしたくない。


「……帰る場所、同じがいい」

 私は言った。

 言ってしまってから、心臓が早くなる。

 自分で言ったのに、自分で受け止めきれない。


 美春が小さく笑った。


「同じって、喫茶店?」

「……喫茶店も」

 私は答えて、続ける。

 続けないと、逃げになる。

「……それだけじゃない」


 美春の頬が、ほんの少し赤くなる。

 暖房のせいかもしれない。

 でも私は、そういう"逃げ道"を今は使いたくなかった。


「そっか」

 美春が言う。

 その一言が、肯定みたいで、私は息ができる。


 電車が停まり、扉が開いた。

 外の冷気が入り込んで、頬がきゅっとなる。


 人波に押されて降りる。

 降りた瞬間、寒さが体に貼りつく。

 でも、さっきまでの暖房の匂いが、コートの中に残っている。


 改札へ向かう途中、美春が少しだけこちらを見て言った。


「秋穂、手」

「……え」

「今なら、誰も見てない」


 私は一瞬迷って、それでも、迷いを置いていくみたいに指を差し出した。

 美春がそれを取る。

 指が絡む。握られる。


「……離したくない」

 美春が、ぽつりと言う。

 声が震えている。


 私は胸がきゅっとなる。

「私も」


 美春が少しだけ笑う。

 泣きそうな笑い方。


 "触れてるだけ"じゃなく、"握る"。

 さっきより確かな形。


 握られた瞬間、私は思う。

 ――守りたい。

 この子の未来も、この手の温度も、喫茶店の灯りも。


 言葉にしなくても、誓いみたいに胸の奥で固まる。


「……美春」

「ん?」

「メリークリスマス、もう一回言って」

「なんで」

「……さっき、ちゃんと聞けてなかった」


 美春が笑った。

 それから、私の耳元に少しだけ顔を寄せて、囁く。


「メリークリスマス」


 その二語が、外の冷気を一瞬だけ溶かした。

 私は握っている手に、ほんの少し力を入れる。


 帰り道は、まだ続く。

 でも、続くことが、もう怖くなかった。


     ◇


【秋穂】


 改札の前は、人が増える。

 さっきまでの「誰も見てない」が、急に嘘みたいに薄くなる場所だ。


 駅の天井は高くて、蛍光灯がまっすぐ白い。

 白さが、私たちの影を薄くする。隠してくれるのか、さらしてしまうのか、分からない。


 私の手の中にはまだ、美春の熱がある。

 握っているのに、もう"離す段取り"が始まってしまうのが分かる。

 別れ際はいつも、先に心だけが降りていく。


 改札の手前で、美春が足を止めた。

 止め方が、ためらいじゃない。きちんと立ち止まる止め方だ。


「ここで、いい?」

 美春が言う。


「……うん」

 よくない。

 でも、ここでごねるのは違う。帰ることも、選んだことの一部だ。


 人が横を通っていく。

 制服の子、家族連れ、手をつないだ恋人。

 それぞれの"当たり前"が、流れていく。


 美春が私の手を見た。

 見てから、私の顔を見ないまま、小さく言う。


「……離す?」


 その言い方が、優しすぎて、胸がきゅっとなる。

 離すかどうかを、私に選ばせてくれる。

 選べる、ということが、こんなに苦しいとは思わなかった。


 私は喉の奥で息をひとつ転がして、答える。


「……一回、ぎゅってしてから」


 言ってしまって、顔が熱い。

 子どもみたいなお願い。

 でも、美春は笑わなかった。


「うん」

 美春は短く言って、指を絡めたまま、少しだけ強く握った。


 ぎゅっ。

 それだけで、私は泣きそうになる。

 泣きたくない。今日は、泣く日じゃない。

 けれど、胸の奥の柔らかいところが、溶けてしまいそうだ。


「……秋穂」

 美春が言う。


「なに」

 私は、なるべく普通に返したつもりだった。

 でも、声が少しだけ揺れた。


 美春が少しだけ言い淀む。

 淀み方が、受験の前みたいじゃない。

 もっと、個人的で、触れたら壊れそうな淀み。


「今日さ」

「うん」

「楽しかった」


 "楽しかった"。

 その言葉が、簡単すぎるのに、救いみたいに重い。

 私は頷いて、同じ言葉を返す。


「……楽しかった」

 それから、嘘をつけなくて付け足す。

「……もっと、一緒にいたかった」


 美春が、やっと私を見る。

 目が合って、視線が絡む。

 その絡み方が、指より強い。


「私も」

 美春が言った。

「でも、帰るのも……ちゃんとしたい」


 ちゃんとしたい。

 その言葉は、美春がこの一年で覚えた"強さ"だ。

 私はその強さを、邪魔したくない。

 なのに、寂しさは勝手に増える。


 美春が、改札の向こうをちらりと見た。

 人が多い。

 その確認が、私の中の何かを引き締める。


 私は、美春の手を握ったまま、少しだけ顔を近づける。

 キスはできない。

 できないけど、言葉で触れたい。


 美春が、少し困ったみたいに笑った。


 人波が、また横を通る。

 ぶつからないように、私たちは半歩だけずれる。


 その半歩が、距離の始まりに見える。


 美春が、名残惜しそうに息を吐いて言う。


「……じゃあ」


 私は、うなずく。

 でも、うなずくだけじゃ足りなくて、言った。


「……また、すぐ」


 "すぐ"の根拠はない。

 でも、私たちは喫茶店という場所を持っている。

 あの灯りが、次の"すぐ"を保証してくれる。


 美春が小さく笑う。


「うん、すぐ」

「……連絡する」

「私も」


 その後で、美春が、ほんの少しだけ前に出た。

 改札に向かうための一歩。

 その一歩の前に、彼女は手にもう一度力を入れる。


 ぎゅっ。

 さっきより短い。

 でも、決定的。


 そして、ゆっくり指がほどける。


 指が離れる瞬間、空気が冷たい。

 手のひらに、形だけが残る。

 握られていた場所が、薄く空洞になる。


 美春が、改札の向こうへ行く前に、振り返った。

 人混みの中で、ちゃんと私を見つける目。


「秋穂」

 呼ばれて、私は胸が跳ねる。


「なに」

「……好き」


 声は小さい。

 周りには聞こえないくらい。

 でも、私にはちゃんと聞こえる。


 私は息を止める。

 止めた息が、次の瞬間、熱い吐息になって漏れた。


「……私も」

 言うだけで、精一杯だった。

 "もっと"を言ったら、追いかけてしまいそうだった。


 美春が少しだけ笑って、改札を通る。

 ピッ、という音が、妙に軽い。

 その軽さが、胸に痛い。


 改札の向こうで、美春が手を振った。

 私は振り返す。

 振り返しながら、思う。


 ――離れた。

 でも、終わってない。

 むしろ、ここからだ。


 人の流れに美春の姿が溶けていく。

 見えなくなる直前まで、私は目を逸らさなかった。


 見えなくなったあと、手のひらを見た。

 何もないのに、まだ温かい。


 私はその手を、胸の前で軽く握りしめる。

 逃げない。

 次に会うまで、温度を持って帰る。


 スマホが震えた。

 美春からのメッセージ。


『秋穂、初詣、一緒に行きたい』

『また、二人で』


 画面を見て、私は息を吐いた。

 息が白くなる。


 返信する。


『行く』

『……行きたい』


 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が温かくなる。

 クリスマスが終わった。

 でも、終わりじゃない。

 次の約束が、もうそこにある。


 冬の空気が冷たいのに、私の頬は熱かった。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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