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第15話「未来の練習」

ライトな百合x成長物語です。

4話、8話、14話がキリのいいポイントです!

15話以降、甘々予定!

【美春】


 あの夜から、一日。

 私はまだ、秋穂の顔をまともに見られなかった。


 教室の朝のざわめきの中、私は自分の席に座って、ノートを開いていた。開いているだけ。文字は一文字も入ってこない。

 秋穂の席は、斜め前。ちらり、と視界の端に映る制服の白いブラウス。それだけで、胸の奥が甘く痛む。


 ――昨日、屋上で。手を繋いで。キスをして。


 思い出した瞬間、頬が熱くなる。

 私は無意識に、唇に指先を当てた。


 柔らかくて、温かくて。驚くほど静かで、だからこそ怖いくらい確かだった。

 

 秋穂の味。

 甘いというより――温かい。

 温かいというより――やさしい。


 指先が唇をなぞる。

 そこに、まだ秋穂の温度が残っている気がした。


「美春?」


 れいなの声で、我に返る。

 顔を上げると、れいながニヤニヤしながら私を見ていた。


「なに、その顔」

「え……」

「めっちゃにやけてる」


 私は慌てて唇から手を離した。

 顔が燃えそうに熱い。


「にやけてない!」

「嘘だね。絶対何かあった」

 れいなが囁くように言う。

「周防さんと、何かあったでしょ」


 私は視線を逸らした。

 逸らして、でも秋穂の方を見てしまう。


 秋穂は――窓際の席で、教科書を開いていた。開いているだけ。ページをめくる気配がない。肩のラインが、いつもより硬く見える。


 秋穂も、私を意識している。

 意識しているのに、目を合わせない。

 合わせたら、きっと何か崩れてしまう気がする。


 チャイムが鳴った。

 私はほっとしたような、残念なような、複雑な気持ちでノートを閉じた。


     ◇


【美春】


 昼休み。

 私は秋穂と、いつもの階段の踊り場で会った。


 誰もいない階段。

 冷たいコンクリートの壁と、窓から射し込む冬の光だけ。

 ここなら、二人だけでいられる。


「……美春」

 秋穂が、小さく呼ぶ。


「うん」

 私は返事をして、それからまた黙った。


 何を話せばいいのか分からない。

 いつもなら、秋穂の作ったお菓子の話とか、喫茶店のこととか、自然に言葉が出てくるのに。今日は、その"自然"が壊れている。


 秋穂も黙っている。

 ただ、手すりを握って、下を見ている。髪が顔にかかって、表情が見えない。


 沈黙が、やけに長い。


 ――でも、嫌じゃない。

 気まずいのに、嫌じゃない。

 むしろ、この気まずさが、昨日の"本当"を証明している気がした。


「……ねえ」

 秋穂が、やっと言った。

「今日、喫茶店……来る?」


 私は頷いた。

「行く」


「……よかった」

 秋穂が、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 私は秋穂の横顔を見た。

 頬が、少しだけ赤い。

 寒さのせいじゃない。中身のせい。


 私も、きっと同じ顔をしている。


 秋穂が、ふっと笑った。

 自分でも可笑しくなったみたいに。


「……変だね」

「何が?」

「キスしたら、普通になれると思ってた」

 秋穂が小さく言う。

「でも、もっと変になった」


 私は、思わず笑ってしまった。

「私も」

「美春も?」

「うん。今日、秋穂の顔、まともに見られない」


 秋穂が、目を瞬いた。

 それから、少しだけ笑った。困ったみたいに、でも嬉しそうに。


「……同じだ」


 その一言で、胸の奥が温かくなった。

 気まずいのは、私だけじゃない。秋穂も、同じように戸惑っている。


 だったら、大丈夫。この気まずさは、きっと時間が溶かしてくれる。


「じゃあ、今日の放課後」

 私は言った。

「喫茶店で、また練習しよう」

「練習?」

「普通に話す練習」


 秋穂が、くすっと笑った。

 その笑いが、いつもの秋穂に少し戻った気がして、私はほっとした。


「……うん」

 秋穂が頷く。

「練習する」


 チャイムが鳴る。

 私たちは顔を見合わせて、それからまた笑った。


 階段を降りながら、私は思った。

 恋人になるって、こういうことなんだ。

 気まずくて、恥ずかしくて、でも嬉しい。

 全部が混ざって、胸がいっぱいになる。


 その"いっぱい"を、私はまだ言葉にできない。

 でも、秋穂と一緒なら、きっといつか言葉にできる日が来る。


     ◇


【美春】


 放課後。

 喫茶店の扉を開けると、いつものコーヒーの香りと、紅茶の湯気が迎えてくれた。


 十一月の店内は、暖かい空気に包まれている。

 暖房の乾いた熱じゃなくて、焼き菓子の甘い匂いと、木の床に染みこんだコーヒーの香りが混ざった"体温"みたいな温度。

 窓の外では、枯葉が一枚、風にさらわれて、くるりと回って落ちた。


 私はその体温の中で、秋穂と向かい合って座った。


 恋人になってから、一日。

 その言い方を、私はまだ心の中でしかできない。

 教室では、相変わらず「仲がいい友達」の顔をしている。


 距離は近いのに、触れない距離。

 でもこの店では、指先が偶然に触れても、わざとじゃないふりをしなくていい。


 秋穂が新しいマフィンを皿にのせて、私の前に差し出した。

 焼き色のついた表面に、粉砂糖が薄く降っている。ふわりと立つ香りは、バターよりも先に、柑橘の皮の苦みが鼻先をくすぐった。


「美春、これ」


 私は皿を覗きこむ。

 秋穂の顔を見ると、また唇の感触を思い出してしまいそうで、視線を逸らす。


「また新しいの?」

「……練習」

「何の?」


 秋穂は一瞬だけ視線を逸らして、髪を耳にかけた。

 その仕草が、前より少しだけ柔らかくなった気がする。大げさな表情じゃない。ほんの小さな、角の丸さ。


「……いつでも、食べてもらえるように」


 胸の奥が、甘くなる。

 "甘い"は味だけじゃないんだと、最近よく思う。

 指先の熱とか、言葉の間に落ちる照れとか、そういうものも、甘い。


 それから――キスの味も。


 私は無意識に、また唇に指を当てそうになって、慌てて手を下ろした。


「じゃあ、いただきます」


 私は手を合わせ、マフィンを割った。

 中から湯気がほわっと上がり、柑橘の香りがいっそう濃くなる。

 一口。ふわっとほどけて、後からほんの少しの苦みが追いかけてくる。甘さが、ちゃんと"締まる"。


「……おいしい。大人っぽい味」


 秋穂が私の表情を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。

 笑った、というより、"ほどけた"に近い。私はそれが分かるようになってきた。


「……よかった」


 カウンターの奥で、マスターが新聞を畳みながらこちらを見た。

 目だけが笑っている。何も言わないのに、全部分かっている顔。


「相変わらずだなあ。二人とも」

 マスターが、からかうでもなく、軽く言う。

「店があったかい」


 私は頬が熱くなるのを紅茶でごまかした。

 秋穂は「……うるさい」と小さく言って、でも否定の勢いがない。そんなところまで、変わってきた。


 幸せだと思う。

 この店の体温の中で、秋穂の作ったものを最初に口にできて、秋穂の反応を一番近くで見られる。それだけで、十分だと思ってしまう。


 ――でも。


 十分なはずなのに、私はときどき、窓の外を見てしまう。

 枯葉が舞う季節は、同じ場所にいても、勝手に前へ進んでいく。

 前へ進むものを見ると、置いていかれる気がする。


 この時間が、いつまで続くんだろう。

 秘密のまま、どこまで行けるんだろう。

 私はまだ、その先をちゃんと想像できない。


 そういう不安を、私は秋穂に言っていない。

 言えない、というより――言わなくてもいい時間が、今はまだここにあるから。


 その"まだ"が、唐突に終わったのは、秋穂のスマホが小さく震えた瞬間だった。


     ◇


【美春】


 秋穂はスマホの画面を見た途端、表情から色が引いた。

 まるで、暖かい店内に冷たい風が一本だけ通ったみたいに。


「……どうしたの?」


 秋穂は答えず、画面をこちらに向けた。


『今週末、進路について話したい。事前に、一度家で話しておきましょう』

 差出人は、香織さん。


 私は喉がきゅっと鳴るのを感じた。

 文化祭は成功した。夏祭りも、ちゃんと乗り切った。あれだけのプレッシャーの中で。

 でも、それで"認めてもらえた"かどうかは、別の話だ。


 約束は条件付きだった。

 結果を出すこと。学業を崩さないこと。勢いだけで突っ走らないこと。

 秋穂は守ってきた。守ってきたはずなのに、香織さんの一通の文面は、秋穂の足元をぐらつかせる。


「……怖い」

 秋穂が、息を吐くように言った。


「文化祭、ちゃんとできたのに」

「うん」

「それでも……また、大学って言われるかもしれない」


 その言葉に、私は胸の奥の痛みを思い出す。

 "深い意味はない"と口にしたあの日みたいに、何かを否定される痛み。

 秋穂は、今度は否定される側じゃなくて、否定される未来を想像している。


「秋穂は、どうしたい?」

 私は紅茶のカップを両手で包みながら、ゆっくり聞いた。

 急かしたら、秋穂はまた自分の言葉を引っ込めてしまう。


 秋穂は少し黙ってから、言った。

 今までより、まっすぐに。


「……専門学校に、行きたい」


 それだけで、私の胸が熱くなる。

 "言い切れる"って、強い。秋穂はずっと、強いのに、弱いふりをしてきた。自分を守るために。


「なら、それを伝えよう。ちゃんと」

 私は頷いた。

「今度は、逃げなくていい」


 秋穂が眉を寄せる。

「……一人じゃ、無理かも」


「一人じゃないよ」

 私は言いかけて、言葉の角度を選び直した。

 "私もいる"と言いたい。でも、それは香織さんの前でどこまで言える?

 私たちはまだ、秘密の中にいる。


 だから私は、別の形で支える。


「準備しよう」

「準備?」

「資料とか、言う順番とか。秋穂の言葉が、ちゃんと届くように」


 私は笑って、少しだけ冗談めかした。

「秋穂、内容は完璧でも、声が小さくなると損するから」


 秋穂が小さく息を吐いて、ほんの少し笑った。

 その笑い方に、私は救われる。

 "救われる"じゃなくて、背中を押される。私も。


「……うん」

 秋穂は頷いた。

「やる」


 その返事が、以前の「やれたら」じゃなくて、「やる」になっている。

 私はその変化を見逃さない。


 マスターがカウンターから、静かに声をかけた。


「資料なら、うちにもあるぞ」

「……何が」

「夏祭りの売上。仕入れ。お前らの働きぶり。証拠は、ちゃんと残ってる」


 マスターは、新聞を畳んだ手で、軽くトントンとカウンターを叩いた。

「約束ってのは、守ったことを示せれば強い。言葉だけじゃなくてな」


 秋穂が唇を噛む。

 怖さの中に、少しだけ安心が混ざる顔。

 私は、その横顔を見て思う。


 この一ヶ月で、秋穂は笑えるようになった。

 じゃあ私は――秋穂の"先"を支えられるようになっただろうか。


 不安はまだある。


 でも、やる。


     ◇


【秋穂】


 週末。

 私はリビングのテーブルに紙を並べた。


 文化祭の写真。クラスの報告書。夏祭りの売上表。マスターが書いてくれた短い推薦の文。

 それから、模試の結果と成績表のコピー。

 "約束を守った証拠"を、順番に置いた。


 母は、向かいの椅子に座っている。

 背筋が伸びている。指先が揃っている。

 いつもと同じ姿勢なのに、今日はそれが妙に怖い。正しい人の前に、間違えるかもしれない自分が座っている感じがする。


 膝の上で指を握った。

 震えそうになるのを、手のひらで押さえつける。


 ――大丈夫。

 美春が「選んでいい」って言ってくれた。

 美春が、嘘を撤回してくれた。

 逃げないで、私の前に立ってくれた。


 だから私も、逃げない。


 母は資料を一枚ずつ見ていった。

 静かに。無駄なく。

 ページをめくる音だけが、部屋に落ちる。

 その音が、やけに大きく聞こえる。


 私は息を吸った。

 言う。今。先延ばしにしたら、また「なれたらいいな」に戻ってしまう。


「……話がある」

 声が自分でも小さいと思った。でも、言った。


 母は資料から目を上げる。

「何?」


 私は、机の端を指で押さえた。手が震えないように。


「専門学校に、行きたい」


 言い切った瞬間、胸が痛いくらい熱くなった。

 言えた。

 逃げなかった。


 母の目が、ほんの少しだけ揺れた。

 それから、意外にも、すぐに否定は来なかった。


「……文化祭、見に行ったわ」

 母が言った。

 私は目を瞬いた。


「あなたが……笑っていた」

 母の声は淡々としているのに、どこか柔らかい。

「久しぶりに見た。あんな顔」


 え。

 私は耳を疑った。

 母が、私の笑い方を見ていた。

 成績じゃなくて、結果だけじゃなくて。


 涙が出そうになった。

 出したら止まらない気がして、唇を噛んだ。

 泣いたら負け、じゃない。泣いたら、言葉が崩れる気がした。


 母は続けた。

「……私、間違えていたのかもしれない」

 その言葉が、胸に落ちる。重いのに、温度がある。


 でも、母は母だ。

 簡単に全部が変わるわけじゃない。

 私は息を整え、次を待った。


 母は資料の上に手を置いた。

「約束は守ったわね」

「……うん」

「成績も落ちていない。むしろ上がっている」


 私は小さく頷いた。

 夏祭りも文化祭も、その合間に勉強して、睡眠を削って、何度も折れそうになった。

 でも折れなかった。

 折れなかったのは、夢があるから。

 それから――美春が、隣にいたから。


 母が、少し息を吐いた。


「専門学校、行きなさい」


 ……え?


 言葉が理解できなくて、私は目を見開いた。

 母の顔は真面目なまま。でも、そこに"決めた"がある。


「条件は達成した。約束は守る」

 母は言った。

 正しさの人は、約束を破らない。

 それが今、私を救う。


 母は指を一本立てた。


「ただし」

 やっぱり、条件は来る。

 私は背筋を伸ばした。受け止める準備をする。


「一つ。卒業後の就職先は、自分で探すこと」

「……はい」

「二つ。学費はあなたの貯めた分も入れること。アルバイトは続ける。体を壊さない範囲で」

「……はい」

「三つ。途中で投げ出さないこと」

 母は私を見た。

 まっすぐ。逃げ場のない目。


「『楽しい』だけで選んだなら、続かない。あなたは分かっている?」

 私は頷いた。

「分かってる」

 声が震えた。でも、引っ込めない。


「やります」

 私は言った。

「最後まで」


 母は、少しだけ目を細めた。

 怒っているわけじゃない。観察している目。

 それから、ぽつりと言った。


「あなた、変わったわね」

「……」

「前は、『なれたらいいな』って言い方だった」

 母は言葉を探すみたいに、少し間を置いた。

「今は、『なりたい』って言い切る」


 胸がぎゅっとなる。

 その違いを、母が気づいている。


 母は続けて、ほんの少しだけ声を落とした。


「……結城さんの影響?」


 名前が出た瞬間、私の心臓が跳ねた。

 美春。

 友達の名前として出されたそれが、胸の奥で別の意味に変わってしまう。


 私は息を吸って、正直に答えた。

 "全部"は言えない。でも、"嘘"は言わない。


「……はい」

「美春が、背中を押してくれました」


 母は小さく頷いた。


「そう」

 少しだけ、口元が緩む。

「いい友達ね」


 友達、じゃない。

 喉の奥までその言葉が上がってきて、でも私は飲み込んだ。


 今言ったら、壊れる。

 母が認めたのは進路であって、私の恋じゃない。

 順番を間違えたら、全部ひっくり返る気がした。


 ――いつか。

 いつか、言える日が来る。

 美春と一緒にいる未来を、ちゃんと守れるようになったら。


 私は椅子から立ち上がった。

 母の前に立つと、背が少しだけ低く感じる。

 それでも、今日の私は、逃げない。


「……ありがとう」

 私は言った。

「お母さん」


 母は一瞬だけ固まって、それから目を逸らした。

 照れたみたいに。


「……当然よ」

 ぶっきらぼうに言って、でも声の角は丸い。

「心配してるの」


 私は胸がいっぱいになって、勢いで母に抱きついた。

 母の身体は一瞬固くなったけれど、数秒後、ゆっくりと背中に手が回ってきた。


「……ばかね」

 母の声が少しだけ震える。

「はい」

 私は短く返した。

「でも、嬉しい」


 抱きしめる腕の力は強くない。

 でも、今まででいちばん確かな温度だった。


 私は、この温度を忘れない。

 美春に伝える日まで。


     ◇


【美春】


 翌日。喫茶店。

 窓の外は曇っていて、枯葉の色だけが鮮やかに見える。

 私は落ち着かなくて、何度も時計を見ていた。店内のベルが鳴るたび、心臓が跳ねる。


 カラン。


 ドアのベルがいつもより高く響いた気がした。

 顔を上げると、秋穂が立っていた。制服の上に薄いコート。頬が少し赤い。冷えた風に当たったせいか、泣いたせいか、それは分からない。


 秋穂は私を見るなり、息を吐いた。

 その吐息が、白い。


「美春……」


「うん」

 私は立ち上がった。

 この一ヶ月で、私は秋穂の"言葉が出る前の顔"を少し読めるようになった。


 秋穂の目が、揺れている。

 泣きそうで、笑いそうで、どっちでもある目。


「……認めてもらえた」


 一瞬、意味が入ってこなくて、私はぽかんとした。

 次の瞬間、言葉が追いつく。


「え……本当に!?」

 声が裏返った。


 秋穂は小さく頷いた。

「うん。専門学校、行っていいって」


 私は思わず、秋穂の手を掴んだ。

 冷たい指先。

 でも、その冷たさが、現実の温度だ。


「よかった……!」

 息が漏れる。

「ほんとに、よかった……!」


 秋穂の目が潤む。

 私は自分の目も熱くなるのを感じた。

 泣いていいのか、笑っていいのか、分からない。でも、どっちでもいい。


 秋穂の夢が、一歩前へ進んだ。

 それだけで、胸がいっぱいだ。


「おめでとう、秋穂ちゃん」

 マスターがカウンターから出てきて、秋穂の頭を軽く撫でた。

「これで胸を張って働けるな」

「……うん」


 秋穂は小さく返事をして、私の方を見た。

 その目が、少しだけ柔らかい。


「美春、ありがとう」

「え?」

「美春がいなかったら、私……たぶん、言えなかった」

 秋穂は言葉を探しながら、でも最後は言い切った。

「ここまで来られなかった」


 私は首を振った。

「違うよ。秋穂が決めた」

「でも」

「でもじゃない」

 私は笑って、握った手に少し力を入れた。

「秋穂が、ちゃんと自分で選んだ。……それがいちばんすごい」


 秋穂は目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。

 その笑いが、前よりも"隠さない"笑いになっている気がして、私はまた胸が熱くなる。


「私も、秋穂のおかげ」

 私は言った。

「決める練習、させてもらった」


 マスターが「そうそう」と頷く。

「人はな、誰かの夢を見て、自分の足の位置を知ることもある」


 その言葉が、私の胸に引っかかった。

 足の位置。

 私は自分の足がどこにあるのか、あまり見てこなかった。


     ◇


【美春】


 マスターが私のカップに紅茶を注ぎ足しながら、何気なく言った。


「で、美春ちゃんは進路どうするんだ?」


 ……進路。

 その二文字が、喉に冷たい水を流し込まれたみたいにひやりとした。


 私は、秋穂の夢のことばかり考えてきた。

 守りたいと思った。支えたいと思った。秋穂が"なりたい"と言い切れるようになるのが嬉しかった。

 その嬉しさに夢中になって――自分のことを、後回しにしていた。


「……まだ、決めてないです」

 私は正直に言った。

「大学には行くと思いますけど」

「ほう」

「何学部とかは……」


 言いながら、自分でも分かる。薄い。

 "行くと思う"は、昔の秋穂の言い方に似ている。

 なれたらいいな。行けたらいいな。

 私は、まだ自分の未来を"他人事"のままにしている。


 秋穂が私を見た。

 心配の目。

 あの日、屋上で私が嘘を撤回したときみたいに、まっすぐな目。


「美春、大丈夫?」

 秋穂が言う。

 その問いは優しいのに、逃げ道を塞ぐ。


「うん」

 私は反射で言いそうになって、言い直した。

「……うん。でも、ちょっとだけ怖い」


 秋穂の目が瞬く。

 私が"怖い"を口にしたことに、驚いたみたいに。


 怖い。

 秋穂には夢がある。私はまだ、輪郭がない。

 秋穂と並びたいのに、私は立つ位置すら曖昧だ。


 でも、だからこそ、考えなきゃいけない。


 秋穂と一緒にいる未来を、私は願っている。

 願っているだけじゃ足りない。

 そのために、自分の足で立つ必要がある。


 マスターが、静かに言った。


「怖いってのは、前を見てる証拠だ」

「……」

「考えろ。急がなくていい。でも、誤魔化すな」


 私は頷いた。

 誤魔化すな。

 その言葉は、撤回の夜から、私の中に残っている合図だ。


     ◇


【美春】


 店を出ると、空気はもう冬の入口だった。

 息が白くなって、頬がきゅっと縮む。街路樹の葉は少なくなり、枝が細い線みたいに夜空に伸びている。


 私たちは並んで歩いた。

 肩が触れそうで、触れない距離。

 でも、指先だけは、そっと絡んでいた。誰もいない道だからできる、ささやかな反則。


「美春、寒くない?」

 秋穂が言う。


「大丈夫」

 私は答えて、少し笑う。

「秋穂の手、温かいから」


 秋穂が眉を寄せた。

 困ったみたいに、でもどこか嬉しそうに。


「……ずるい」

「何が?」

「そういうこと、さらっと言うの」


 私は肩をすくめた。

「練習してるから」

「何の?」

 秋穂が、さっきの私みたいに聞く。


 私は少しだけ間を置いてから、言った。

 言葉を薄くしないで、ちゃんと。


「一緒にいる未来の、練習」


 秋穂は一瞬止まって、次の瞬間、私の手をぎゅっと握り返した。

 握り返す力が、答えみたいだった。


 冬が始まる。

 秋穂の夢は一歩前へ進んだ。

 私の夢はまだ見つからない。


 でも――隣で同じ季節を歩く手がある。

 その温度を頼りに、私は自分の足の位置を探していく。


 枯葉が一枚、足元でカサ、と鳴った。

 その音が、これからの時間の合図みたいに聞こえた。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

次回クリスマスあまあま!

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