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第1話「決める練習」

ライトな百合x成長物語です。

4話、8話、14話がキリのいいポイントです!

15話以降、甘々予定!

 昼休みの図書室は、いつもより少しだけ空気が軽い。

 声を出す人が少ないせいで、ページをめくる音や、椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえる。


 新学期。クラス替え。席替え。名前を覚えるのも、雑談の輪に入るのも、まだぎこちない。

 だから昼休みくらい、こういう静かな場所に逃げてしまう。


 そうして目的もなく背表紙を指で辿っていたとき、窓際の机にいる人が視界に入った。


 ――あ。


 机の上に開かれた、分厚い英語の本。

 ページの端には、色とりどりの付箋が幾重にも貼られていて、まるで小さな旗みたいに揺れている。

 その本を、淡々と、でも丁寧に追っている横顔。


 周防秋穂。


 秋穂とはこの春から同じクラスになった。

 誰かに馴染むより先に、自分の時間へ戻っていく子だ。


 だから――見てしまう。

 目立たないのに、形が崩れない。そういうところを。


 彼女は本を開いて、黙々と読んでいる。

 付箋が何枚も貼られていて、角が丸くなっていて――何度も同じ場所に戻っているのが分かる。


 ただの読書じゃない。"目的がある読み方"。


 私は背表紙の列に視線を預けたまま、窓際の気配だけを拾ってしまう。

 見ないつもりだったのに、目の端が勝手に追ってしまう。

 近寄りがたい。でも、目を離せない。


 秋穂の目は、本にだけ向いている。

 誰も見ていない。誰にも見られていない。

 机の上の世界が、彼女の呼吸の幅だけに収まっていて。そこに誰も入れないのが、綺麗だった。


 顔立ちの美しさじゃない。

 誰にも見せない努力を、当たり前みたいに積んでいるところ。

 誰にも見られない場所で、誰のためでもなく整っている姿が、眩しかった。


 私が"空気"に合わせて形を変えている間、秋穂は目的のために無駄を削ってひとつの形を研いでいる。


 ――私には、できない。


 ……いい子でいるのは得意なのに。

 こういう"まっすぐな努力"を見ると、胸の奥がざわつく。


 秋穂の本の表紙が、少しだけこちらに傾いた。

 表紙に英字と、少しだけ色褪せた苺タルトの写真が見える。


 PATISSERIE。


 その単語が、耳に残るみたいに目に刺さった。

 パティスリー。……お菓子の店?


 私は意味をちゃんと知らないのに、なぜか舌の上に残る。

 甘い言葉みたいに。


 息を止めたまま、棚の間を一歩だけ移動する。

 "フランス語"の棚。

 料理。

 製菓。

 それっぽい背表紙が並んでいる。


 ……別に、何かになりたいわけじゃない。

 秋穂に話しかけたいわけでもない。

 ――そう思っているのに、手が先に動いた。


 背表紙の文字が視界に入る。


 『フランス菓子の歴史』


 "歴史"って、固そうなのに。

 "菓子"って文字が、さっきの単語と糸で繋がったみたいに、指を引いた。


 私はそのまま、本を引き抜いてしまう。

 ガサ、と紙が擦れる音。

 図書室の静けさの中で、少しだけ大きい。


 ――今、音を立てた。


 心臓が跳ねて、反射的に秋穂を見る。

 ページをめくる音が、一拍だけ止まった気がして、私は息を止めた。


 でも秋穂は、顔を上げない。

 世界が、秋穂のページの中に閉じている。


 ……安心した。でも、少しだけ、寂しかった。


 私は本を抱えてカウンターへ向かう。

 借りる理由は、たぶん、あとから追いつく。今は言葉にならないだけ。


 「美春、戻るよー」


 れいなの声で、私は現実に引き戻された。

 返事をしながらも、最後にもう一度だけ、窓際を盗み見た。


 秋穂は、何も知らない顔で本を読んでいる。

 私の心だけが、勝手にざわついていた。


 あの子がなにを考えているのか、知りたい。


     ◇


 廊下に出ると、空気が少しだけ変わった。

 図書室の静けさが薄れて、代わりに、教室のざわめきが近づいてくる。


 借りた本を胸に抱えたまま歩く。

 背表紙の硬さが、指先に残っている。


 チャイムが鳴った。

 私は一度だけ足を止めて、息を整える。――姿勢を正す、みたいに。


 教室の扉を引くと、いつもの昼の音が戻ってきた。

 椅子を引く音。笑い声。机を叩く音。

 私はそれらの間をすり抜けて、自分の席へ戻った。


 担任が出席簿を閉じる音がして、教室の空気が"日常"に戻る。


「じゃあ、保健係。誰か、やってくれる人いる?」


 担任の声が、四月の教室に落ちた。

 高校二年生の教室。まだ新しい机の匂いがして、黒板消しの粉が光の中にふわっと浮かぶ。窓の外は、春の風でグラウンドの砂が少し舞っていた。


 誰かが周りを見回す。誰かが笑って肩をすくめる。

 その"間"に――私の手は、勝手に上がった。


「はい、結城」


 担任が迷いなく指す。

 私は座ったまま、反射みたいに笑ってうなずく。


「はい。やります」


 声が明るすぎて、自分でも少しだけ浮いたのが分かった。

 でも教室の空気は、その浮きをすぐに飲み込んでくれる。


 ほっとする。

 息がしやすくなる。

 誰かが"困らない"だけで、私はこんなに安心できる。


 私の「はい」は、弾むようで、薄い紙みたいだった。

 貼り付ければ、角が立たない。

 丸くなれば、ぶつからない。

 ぶつからなければ、嫌われない。


 "いい子"でいるのは上手い。

 でも、"自分"でいるのは、たぶん下手。


     ◇


 昼休み。


「で、連休どこ行く? ゴールデンウィークだよ?」


 周りの席でも、同じ話題が弾けている。

 旅行。遊園地。部活。バイト。お泊まり。


 予定、という言葉が、教室中で跳ね回る。


「美春は? なにするの」


 れいなの問いが、いちばん近いところで跳ねた。


 答えが、ない。


 予定がない、とは言いたくない。

 言ったら空気が少し尖る気がして、尖った空気が怖い。

 誰も責めないのに、私だけが勝手に怖がる。


 私は曖昧に笑った。


「んー……ちょっと、いろいろ?」

「なにそれ。ふわっとしすぎ」


 れいなが笑う。

 笑いは優しいのに、胸の奥がひゅっと縮む。


 ふわっと。

 それは褒め言葉みたいに聞こえるのに、私には"決めてない"の別名に聞こえる。


「美春って、どこでも生きてけそうだよね」

「そうかな」

「うん。……でもさ」


 れいながパンをかじって、少しだけ首を傾ける。


「美春って、優しいけどさ。たまに、どこ見てるのか分かんない時ある。……一緒にいるのに、ふっと遠くなる感じ」


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。


 ――わからなくていい。

 わかってもらわなくていい。

 角を出さなければ、安全だから。


 教室の後ろで、秋穂が静かに立ち上がり、机の横に置いていた本を一冊だけ抱え直した。

 誰にも声をかけず、鞄を持って、教室を出ていく。


 ドアが開く音。

 廊下に出る音。

 そして閉まる音。


 その三つが、ざわめきの中で妙にくっきり聞こえた。


 私は一瞬だけ、秋穂の背中を追いかけたくなる。

 でも追わない。


 追う理由がない。

 追ったら、私の心が見えてしまう気がする。


 ――私は、ずるい。


 予定がないのに、あるふりをする。

 行きたい場所があるのに、言えない。


 胸の奥で、小さく擦れる音がした。


     ◇


 その夜、私は自分の部屋で、制服を脱いだあともしばらく動けなかった。

 今日の自分が、引っかかっていた。


 何かを見て、何かを思って、でも結局、何もしない。


 ――決められない。


 別に、重大なことじゃない。

 進路とか、告白とか、そういう"人生"じゃない。


 ただ、放課後に寄り道する店ひとつ。

 それすら、私はいつも"誰かに合わせて"決めている。


 私はベッドに座って、膝の上に今日借りたばかりの本を置く。

 『フランス菓子の歴史』

 今日、図書室でなんとなく手に取った本。表紙は古めかしくて、ページは少し黄ばんでいる。


 なんで、こんな本を借りたんだろう。


 理由を探しても、見つからない。

 ただ――秋穂の机の上にあった本の、英字の文字が頭に残っていた。

 PATISSERIE。製菓。


 私は、お菓子作りに興味なんてなかった。

 食べるのは好きだけど、作る側には立ったことがない。

 レシピを見ても、分量を測るのが面倒で、途中で投げ出してしまう。


 なのに、この本を開いている。


 最初のページには、フランスの古い街並みの写真。

 石畳の道、小さな店、ショーウィンドウに並ぶ色とりどりのケーキ。

 文章は難しくて、読むのに時間がかかる。


 でも、なぜか目が止まる。

 "味を記憶する"みたいなことが書いてあった。温度とか、焼き色とか。


 今日、図書室で見た秋穂の姿が、頭に浮かぶ。


 ノートに何かを書き留める手。

 迷いのないペンの動き。

 窓の外を一度だけ見て、また本に戻る仕草。


 ――知りたい。


 その思いが、急に強くなる。

 秋穂のことを、もっと知りたい。

 彼女が何を考えて、何を目指して、何に夢中になっているのか。


 でも、どうやって?


 本を閉じる。

 でも、ページの匂いが鼻に残る。

 古い紙と、インクと、少しだけ甘い匂い。


 窓の外、春の夜の空気が冷たい。

 でも、胸の奥は少しだけ温かかった。

 秋穂のことを考えている自分に、気づいてしまったから。


 付箋だらけの英語の本。

 ペン先。

 声を出さない笑い方。


 (私は、何を知りたいんだろう)


 秋穂のことを、もっと。

 ……いや、"知りたい"って言うと、まるで最初から仲良しみたいで図々しい。


 ただ、確かめたい。

 昼のあの横顔が、私の勘違いじゃないってこと。

 あの人が、遠いガラスの向こうの人じゃなくて――同じ街で、同じ時間を生きてるってこと。


 スマホを開いて、検索窓に指を置く。

 「喫茶店」――そこで止まる。

 別に、喫茶店じゃなくてもいい。ファミレスでも、どこでも。

 でも、今日は"選ぶ"って決めたかった。


 もう一度、指を動かす。

 「喫茶店 静か」

 「喫茶店 落ち着く」

 「喫茶店 焼き菓子」


 候補が並ぶ。

 知らない名前が、いくつもある。

 私はその中から、ひとつだけ選んだ。


 ――明日、そこへ行く。

 自分で決めた場所へ、自分の足で行く。

 それだけのことが、今の私には大きい。


 そして私は、まだ知らない店の扉を開ける。

 そこに何があるかは分からない。

 でも、分からないままでも――私は、行くと決めた。


 行く理由は、練習。

 自分で決めて、自分で行く練習。

 誰かに会うためじゃない。

 何かが起きるためでもない。


 ただ、私が私の足で、場所を選ぶ。


 スマホを閉じると、部屋が少しだけ静かになる。

 静かになって、心臓の音が目立つ。


 ……緊張してる。

 店を選んだだけで。


 ――大丈夫。

 決めたのは、私だ。


 そう思った瞬間、胸の奥に小さな芯ができた。

 頼りないけど、確かにそこにある。


     ◇


 ゴールデンウィーク初日。


 朝の部屋は静かだった。

 母は出かけていて、家の中に私だけがいる。冷蔵庫のモーター音が、やけに大きい。


 私はベッドに座ってスマホを眺める。

 SNSには「旅行!」「朝からカフェ!」みたいな写真が流れてくる。

 いいな、と思う。

 でも、私にはそういう華やかな予定はない。


 ――でも、今日は違う。


 れいなに「ふわっとしてる」と言われて、私は"決められない自分"にまた気づいてしまった。

 でも、今日は――自分で決めた場所がある。


 私は立ち上がって、鏡の前で髪を整えた。

 制服じゃない服を選ぶだけで少し迷う。

 けれど今日は、迷ってもいい。迷った末に、決めればいい。


 鞄に、『フランス菓子の歴史』を入れた。

 喫茶店で読もう。そうしたら――少しだけ、秋穂の世界に近づける気がする。


 玄関で靴を履くとき、心臓が少し速くなる。

 "自分で決めて出かける"ことが、こんなに緊張するなんて知らなかった。


 自分で決めたのに、怖くて逃げ出したくなる。

 でも、もう、決めた。これは、決める練習。


 ドアを開ける。

 外の光が眩しい。

 春の風が頬を撫でる。


 私は一歩、外へ出た。


 ――その店で、私は彼女に出会った。


続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。

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