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第八話 強靭・無敵・最強

 1. 盤上の「強靭」と「無敵」


 11か月目のある午後、ワトホートは、いつもと違う演習盤の前に座っていた。


 盤面の端には、課題名が小さく記されている。


「ガルダ湾防衛戦(再現演習)」


 わが軍の戦艦は三。

 敵軍は五。さらに、最大六隻の援軍が到来する可能性あり。

 その他の軍艦は、性能こそ大差ないが、数の差は歴然としている。


 それだけなら、これまでにもあった「絶望的シナリオ」の一つにすぎない。


 だが、ワトホートの視線は、最初から一隻の駒に釘付けだった。


 当方旗艦。

 その性能欄には、奇妙な語が二つ、記されている。


 速力:10

 主砲:無敵

 装甲:強靭


 速力10。

 大型艦であっても、まず見ないほどの遅さだ。

 万全状態でもこれなら、損傷すれば、ほとんど座礁艦と変わらない。


 だが、問題はそこではない。


 主砲「無敵」。

 装甲「強靭」。


 通常の演習では、火力や装甲は「1〜30」の整数で表現される。

 高性能艦に特別な調整を入れても、せいぜい「50」前後が限界だ。


 特定の要塞や、沈めることを想定しない仮想標的にだけ、「必殺」「破壊不能」といった特別語が使われることはある。


「必殺」は、一発でも当たれば沈む敵側の巨大艦。

「破壊不能」は、水上戦力では現実的に落とせない固定要塞。


 しかし「無敵」「強靭」という語は、ネルソンが特別展示で目に焼き付けた、ローズベルト級ジェネラル・レビル号の設計思想そのものだった。


「強靭な艦体装甲と、無敵の主砲火力で、最強の戦艦とする。すなわち、本艦の設計思想は、「強靭・無敵・最強」である。」


 あの正気を疑う一文が、今、演習用紙の片隅で、静かに再現されている。


 主砲「無敵」。

 直撃判定さえ出れば、相手がどんな艦艇であろうと、例外なく撃沈される。


 装甲「強靭」。

 ダメージ判定そのものが存在しない。どれだけ撃ち込まれようが、損壊しない。


 参謀長が、既存の「必殺」「破壊不能」という語をわざわざ避けて、ローズベルト級の設計思想を、そのまま演習語彙に持ち込んだのは明らかだった。


「強靭」と「無敵」は、参謀長からの贈り物であると同時に、まだ書かれていない「最強」を、自分の手で書き込んでみせろ、という挑戦状でもある。


 この旗艦の性能は狂っている。

 だが、同時に、あの国宝メモの延長線上にある狂気でもあった。


「理論上、この一隻で全ての敵艦を沈めることができる」


 それを机上演習という形に落とし込んだのが、今、ワトホートの目の前に広がっている盤面だった。



 2. 勝敗条件と「責任の位置」


 今回の演習は、単なる殲滅戦ではない。

 勝敗条件が、いつもとは違うところに置かれている。


 敗北条件:

 防衛対象地点(王都)への敵勢力の侵攻成立

 勝利条件:

 敵海上戦力に十分な打撃を与え、敵艦隊が撤退を決断すること。もしくは敵艦隊を全滅させること


 旗艦の生死は、直接の勝敗条件ではない。

「無敵」「強靭」の旗艦が沈むことはないが、沈まないからといって、それだけで勝利が保証されるわけでもない。


 敵の撤退判断は、あらかじめ侵攻側にだけ知らされる「基準」に従って、ある程度のランダム性を伴いながら判定される。

 つまり、「敵の心がどこで折れるか」を、確率込みで読む必要がある課題だ。


 ワトホートが防衛側。

 参謀長は侵攻側。

 敵艦の数が多いので、参謀長のほかに二名の参謀が操作を分担する。


 まさに、ガルダ海戦の再現盤面である。


 かつてワトホートは、この海戦図を安全な距離から眺め、「ネルソンすごい」と言っていた側だった。


 今、初めて、その盤面のど真ん中に、自分の旗艦を置こうとしている。


 ようやく兵法の初歩を学んだ彼の目にも、ネルソンの前に広がっていた地獄の片鱗が、うっすらと見えるようになっていた。



 3. 「三択」の意味に気づく


 開戦前。

「艦隊編成確認」が、参謀長から行われる。


「この課題の仕様では、主戦力となる戦艦の選定から行うことになっております」


 参謀長は、説明書きを指でなぞる。


 候補は三隻。

 それぞれ微妙に能力の違う従来型戦艦が二隻と、異様な数値、いや、数値ですらない性能を持つ新型戦艦一隻。


 そこから、「必要と判断した艦だけ」を盤上に置き、その中から一隻を旗艦に指定する。


「なお、規則上は、戦艦ゼロという選択も可能です。小型艦を旗艦とすることも、認められています」


 ワトホートは、鼻を鳴らした。


「どうせ、他の艦では勝ち目はないのであろう?旗艦はこのまま。僚艦も、史実通りでいい」


 そう言ってから、ふと、思考が引っかかった。


 ネルソンが見ていた資料では、ここにローズベルト級ジェネラル・レビル号はいなかった。

 ガルダ湾にいたのは、従来型戦艦二隻のみ。

 竣工したばかりの“狂った戦艦”は、別の港で眠っていた。

 ネルソンは、その機密資料を読み、

「ここに足りないピースはこれだ」と確信して、誰も期待していなかった三択目を、自ら盤上に引きずり出した。


 ワトホートの目の前には、最初から三つの駒が並んでいる。

 演習課題としては当然のことだ。

 だが、史実のネルソンが見ていた「二択+想定外の一択」とは、まるで難易度が違う。


 従来型戦艦二隻。

 それぞれ無難な性能。

 重すぎず、遅すぎず、ほどほどの砲戦能力と装甲。


 一方で、速力10の鈍足戦艦。

 砲は「無敵」、装甲は「強靭」。


「何かの冗談だろう」と思って、この第三の駒を無視してしまったとしても、おかしくない。


「戦艦が無償で増える」と言われたところで、運用不能な艦を抱えれば、むしろ足を引っ張られる。

 常識的な判断では、従来型二隻で一撃離脱を繰り返すほうを選ぶ。


「……ネルソンには、何が見えていたんだ」


 思わず、独り言が漏れた。


 ローズベルト級は、欠陥品と酷評されていた。

 追撃できない。

 戦闘そのものに持ち込めない。

 だからこそ、「最強の戦艦」であるにもかかわらず、まともな運用法がないとされた。

 ネルソンは、その「運用法」を、自分の頭でゼロから組み上げた。


 かつて、自分が盤外から、八十数年前の海戦に当時存在しなかったネルソン級を叩きつけ、なお参謀長に惨敗した記憶がよみがえる。


 同じように、「後世の艦」を一隻放り込んだだけで勝てるなら、誰も苦労はしない。


 ネルソンは、「世界のどこかに実在する狂った艦」を見つけ出し、それを正解のマスにぴたりとはめ込んだ。

 やっていることが遠すぎて、ワトホートは、軽口さえ出てこなかった。



 4. 英雄への初めての「なぜ?」


 盤上に、あらためて三隻の戦艦駒を並べなおし、周囲の駒も史実通りに配置していく。

 ガルダ湾の湾口。

 王都への海路。

 敵艦隊の進路と、味方の展開域。


 ワトホートは、その配置を見下ろしながら、一つの違和感に突き当たった。


 史実では、ネルソンは敵戦艦五隻のうち三隻を沈め、最後は撤退する敵艦隊を湾外まで追撃した、とされている。

 それは、何度も読んだ英雄譚だ。

 長く「恐るべき追撃戦」として語られた場面。


 だが、今のワトホートには、そこに「おかしさ」が見え始めていた。


 ローズベルト級の最大の欠点は、鈍足だ。

 追撃できないからこそ、欠陥品だった。

 しかし、「追撃戦」自体は、後世の創作ではなく、当時の両国の公式記録に残っている。


 ――どういうことだ?


 英雄に対する、初めての真正面からの「なぜ?」が、ワトホートの脳裏に浮かんだ。



 5. 夕陽の爆沈に潜む違和感


 もう一つの場面が、頭をよぎる。

 二隻目の敵戦艦を沈めた場面。

 夕陽の逆光の中で爆沈する敵艦。

 その一瞬の輝きと引き換えに、視界の利を犠牲にしてまで、ネルソンは撃沈を急いだ。


 かつて参謀長からその挿絵を見せられたとき、ワトホートは創作よりもはるかに「本物の輝き」を感じていた。

 だが今、その場面を兵法の眼で見直すと、別の疑問が立ち上る。


 ――なぜ、わざわざ逆光を甘受してまで、そのタイミングで沈める必要があった?


 ローズベルト級の火力があれば、日没後の夜戦でも、同じ相手を沈めることは十分可能なはずだ。

 逆光は、観測に悪影響を与える。

 視界が一瞬でも乱れれば、致命的な被弾を受ける危険がある。


「多少遅くとも、夜に仕留めればよい」

 そう考えたとしても、不思議ではない局面だ。

 それでもネルソンは、夕陽の逆光を背負ってまで、その瞬間に撃沈を選んだ。


 ――なぜ?


 その「なぜ」が、さっきの「追撃戦」の疑問と、頭の中でひとつに結びつき始める。



 6. 湾口封鎖という仮説


 考えながら、ワトホートは盤面に指を這わせた。

 ガルダ湾の地形。

 湾口の幅。

 味方戦艦三隻の配置可能位置。

 敵戦艦五隻の進入ルートと、撤退ルート。


 そして、ふと、ひとつの仮説にたどり着く。


 ――ネルソンは、「敵艦そのもの」を追撃したのではなく、「ガルダ湾の入口」を塞ごうとしたのではないか。


 史実では、三隻沈めた時点で、敵は撤退に転じている。

 この比率になった瞬間に、もしローズベルト級を含む三隻が湾口を押さえたならば。


「敵は、脱出できなくなる」


 ガルダ湾は、王都への海路であり、同時に敵艦隊にとっては「袋小路」でもある。


 3対2にまで戦力差がひっくり返った状況で、鈍足の巨艦に湾口をふさがれれば、敵戦艦は、事実上の“死地”に閉じ込められる。


 だからこそ、敵の指揮官は、三隻目が沈んだ瞬間に「速やかな撤退」を選んだのではないか。


「速力の差があるうちに、湾口まで距離を取れば安全に脱出できる」


 そう判断して、侵攻作戦の中止と即時撤退を決めた。


 その結果として、両軍の戦艦は、同じ一点、すなわち湾口を目指して走ることになった。


 必死で逃げる速い敵艦。

 必死で追いかける遅いローズベルト級。


 外から見れば、「追撃戦」である。


 しかし、その実態は、「封鎖に間に合うかどうかの競争」。


 ネルソンが追っていたのは「敵の艦尾」ではなく、「敵がまだ通り抜けられる状態の湾口」だったのではないか。


 だからこそ、彼は二隻目の沈没に、夕陽の逆光を甘受してまでこだわった。

 一秒でも早く、着実に敵戦艦を減らす必要があった。

 湾内の数的優位を作り出すこと。

 それが、敵にとって最大の脅威。

「封鎖と一方的圧殺」の可能性を、現実のものとする合図になる。


 最初から湾口を封鎖してしまえば、真横を高速で通り過ぎる敵艦全てに、一隻残らず「必殺弾」を叩き込むことはできない。


 だからネルソンは、まず湾内で戦い、敵を確実に減らし、その仕上げとして湾口封鎖の可能性を相手に見せつけた。


 ――この演習で隠されている撤退条件も、きっとこの「状態」の再現なのだ。


 ワトホートは、そう結論づけた。


 未知のランダム性はあるにせよ、大枠は「湾内戦力比の逆転」と仮定してよい。


「参謀長」


 彼は顔を上げ、仮説を口にした。


「この演習の撤退判定の大枠は……湾内の戦艦数の逆転だろう」


 参謀長は、わずかに目を見開いた。


「……そこまでお気づきでしたか」


 それは、規則上、開示して差し支えない程度の情報だった。

 だが、事前に「言い当てる」とは想定していなかった。


「閣下のご推察の通りです」


 参謀長は、補足を続けた。


「この点については、すでに兵法としても整理されておりますが、閣下が読んでおられる一般向けのネルソン伝では、明言されておりません」


 ワトホートは、金箔装丁の本のページを思い出した。


 そこには、「追撃戦」の華やかな絵はあるが、その裏側の「湾口封鎖の駆け引き」は、一行も書かれていない。


「ガルダ海戦の最終局面については、ネルソン提督が三隻撃沈で撤退を引き出すことを本命としていたのか、あるいは封鎖後に残り二隻を沈めて完勝を本命としていたのか、今なお議論が続いております。ネルソン提督は、「やるだけやるしかなかったからな」と答えており、真意については明言しておりません」


 参謀長は、静かに続ける。


「いずれにせよ、二隻目沈没の時点で、封鎖の意図そのものには敵指揮官も気づいていたはずです。三対三になってからの艦隊運動記録を見る限り、敵も完全封鎖だけは避けるよう、必死に立ち回っている」


 その難解な駆け引きは、英雄譚としては重すぎる。

 だから、一般向け書籍は「追撃戦」という外観だけを拾っている。


 ワトホートは、初めて自分の頭で「兵法」を動かした。

 ネルソン伝の付箋ではなく、兵法書の一節でもなく、

 盤の上の配置と、条件と、数字を見ながら。


 自分の結論が、参謀長の言葉で裏付けられた瞬間、胸の奥で何かが「カチリ」と噛み合った気がした。

 ネルソンの真似をするのではなく、ネルソンが頼ったであろう思考で、同じ盤面を眺めること。

 ワトホートは、深く息を吸った。


 湾内の三隻。

 湾外へ向かう敵五隻。

 その向こうに、援軍の影。


 机上演習の準備は、整った。


 参謀長が、いつもより少しだけ低い声で告げる。


「――第一戦、開始」

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