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第七話 参謀長を下した男

 ●5か月目:「ネルソンの師」を求めて


 机上演習を始めてから、五か月ほどが経った、ある日の演習後。

 ワトホートは、駒を片付ける参謀長の手元をじっと見ながら、唐突に口を開いた。


「ネルソン提督は、誰に学びを得たのだろうな」


 参謀長の指が、わずかに止まる。


「と言われますと?」


「いや、その……」


 ワトホートは、いつものように自分の言葉に自分で酔いかけながら続けた。


「私も、ネルソン提督を理解しようと努めておる。ならば、その偉大なる師の兵法を、直に学んでこそ、本当の理解に至れるのではないか、と」


 それは、一見もっともらしい理屈でありながら、近道を探す癖がそのまま顔を出した問いでもあった。


 参謀長は、しばし彼を見つめ、それから静かに問い返した。


「なぜ、英雄ネルソン提督の師ともあろうお方の名が、伝わっていないのか。お考えになったことはありますか?」


 ワトホートは言葉に詰まった。


「それは……戦記には、あまり……」


 ネルソン戦記の中に、「ネルソンの師」として特別な場所を与えられている人物はいない。


 参謀長は、続けてもう一つ、問いを投げる。


「ガルダ海戦における艦隊機動を、ガルダ海戦以前に記した兵法書があるかどうか、ご存じですか?」


「そんなものがあれば、国はあれほど恐慌しなかったろう」


 今度の問いには即答した。


「誰もが絶望していたからこそ、誰も見いだせなかった勝機を組み上げたからこそ、ネルソン提督は英雄なのだ」


 参謀長は、満足げに頷いた。


「その通りです、閣下」


 彼の声に、ほんの少しだけ嬉しさが滲む。


「兵法とは、特定個人の記録をなぞるものではありません。過去の数々の戦役と、そこから体系化された理論を学び、未知の局面に活かすことが兵法の本質です」


 ワトホートは、黙って耳を傾けていた。


「ガルダ海戦は、その結晶です。ネルソン提督の頭の中で、無数の戦役と理論が結びついた成果として、海軍史に燦然と輝く大勝利となりました」


 参謀長は、机の端に置いていた一冊の本を、そっと指で押し出した。


「もし、ネルソン提督の師という存在をあえて挙げるなら、こちらでしょうか」


 それは、まだ新しい匂いのする兵法書だった。

 分厚い背表紙には、やや無骨な書体でタイトルが刻まれている。

 発行年を見ると、四年前。


「……四年前の本だぞ」


 ワトホートは、思わず口にした。


「百五十年前の人間が、読めるわけがない」


「もちろんです」


 参謀長は、穏やかに笑う。


「ですが、ここに書かれているのは、ネルソンより前の世代、さらにはそれ以前の世代の戦史も含め、過去の理論を体系的に整理したものです」


「……学問、というやつか」


「はい。全ての戦役を個別に知り尽くすことは、我々には不可能です。だからこそ、誰かが整理した体系を借りて、未知の局面に挑む。それは、誰か一人の師ではなく、万人の師です」


 ワトホートは、その本を手に取ってみる。

 ネルソン戦記のような金箔の装丁も、華やかな挿絵もない。

 代わりに、見開きに小さな図と、細かな活字がぎっしり詰まっている。


「……つまらなさそうだな」


 正直な感想だった。


 参謀長は笑う。


「面白くは……ないかもしれませんね」


 ワトホートは、手の中の本と、本棚の最前列に鎮座するネルソン戦記を見比べた。

 しばらく迷った末、ネルソン戦記のすぐ隣、最前列の端に、その兵法書を差し込んだ。

 金箔の背表紙の横で、地味な布装が、少しだけ肩身狭そうに見える。

 だが、それでも「最前列」に来たことには違いなかった。



 ●6か月目:「死にたくない」と兵法


 六か月目のある午後。

 机上演習を一通り終え、汗を拭きながら、ワトホートがぽつりと言った。


「……ロックス砦で沈んだジェネラル・レビル号のことだがな」


 参謀長の手が、ぴたりと止まる。


「どこに失策があったのか、教えてくれ」


 その言い方は、いつも通りだった。


「部下である参謀団の読みの誤りを、責任者である私が知っておく責務がある」


 それでも。

 参謀長は、その言葉の裏に、今までとは違う「向き」が生まれているのを感じていた。

 自分の過ちを、初めて正面から見ようとしている。

 たとえ言葉の表層では他人行儀でも。

 だから、彼は率直に答えることにした。


「……まず、一つ。あの場面では、自爆という敵の奇計が、我々全員の想定を超えておりました」


 声は淡々としているが、その奥には悔恨があった。


「船を丸ごと火薬庫にするなどという発想は、前例がございません」


 ワトホートは、黙って聞いている。


「そのうえで、ネルソン号を温存して撤退した判断。戦略的には、誤りとは言えません。あの場で突入していれば、ネルソン号もろとも沈められていた可能性があった」


「……そうか」


 ワトホートの声には、わずかに震えがあった。


「強いて言えば、でございますが」


 参謀長は続ける。


「突撃部隊の一部を、港湾の外で待機させておけば、自爆後の救助や制圧に回せたかもしれません。しかし、それも一種の結果論です」


 ワトホートは、視線を落としたままだ。


「そして、司令部の位置に関して申し上げれば」


 参謀長は、少しだけ間を置いてから言った。


「艦橋に置いていれば、信号を一手早く飛ばすことができ、生還した艦艇が、もう一隻か二隻は、増えていたかもしれません」


 ワトホートの喉が、ごくり、と鳴る。


 自分の「甲板司令部」へのこだわりが、必要以上の犠牲につながったかもしれない。

 その可能性を、彼は薄々悟っていた。


 だが、参謀長の「戦略的誤りはない」という言葉を、本能的に掴みにいく。


「……なるほど」


 参謀長は、そこで初めて、少しだけ表情を硬くした。


「最大の失策は……」


 ワトホートが顔を上げる。


「司令部で、閣下が『死にたくない』とはっきり言ってしまったことです」


 その一言に、空気が止まった。


「常に勇敢であるだけでは、勝てません。撤退もまた、戦略の一部です」


 参謀長は言葉を選びながら続ける。


「しかし、死にたくないという言葉は、兵の士気を折ります。幸いなことに、あれを聞いたのは司令部の者だけでした」


 ワトホートは、視線を逸らした。

 顔に血が上ったのか、それとも急に冷めたのか、読めない。


「そして何より」


 参謀長は、そこからはあえて淡々と告げた。


「その言葉が正式な記録に残っていれば、閣下は敵前逃亡で処刑されておられたはずです」


 ワトホートの肩が、びくりと震える。


「死にたくないという本音に、我々が戦略上の正当性をひねり出して、卿をお守りしたのです」


 参謀長は、そこまで言って、ふと付け加えた。


「ちなみに、あのとき、スパイはいませんでした」


 ワトホートは、しばらく何も言えなかった。

 やがて、乾いた笑いを一つ漏らす。


「……なるほど。兵法は、“死地で身を守る”ためのものでもあるわけだな」


 その笑いが、窓ガラスに淡く反射する。

 ワトホートは、自分の笑い方に何かを感じてしまったらしい。


「今の笑い方は、実にネルソンっぽかったのではないか?」


 唐突に言い出す。


「やはり、才ある者の振る舞いは似るものだ」


 参謀長は、何も言わなかった。

 否定も、肯定もせずに。


 口先だけ見れば、いつものワトホートだ。

 だが、「死にたくない」と書類に残させなかった部下たちの意図を、ほんの少しでも理解したなら。

 それは、彼にとって大きな一歩だった。



 8か月目:ワトホート号の沈没と硬くなる装甲


 八か月目にもなると、

 机上演習の旗艦駒には、いつの間にか新しいラベルが貼られていた。


「旗艦の名前を変えたのですか」


 参謀長が尋ねると、ワトホートは得意げに頷く。


「うむ。ワトホート号だ。最初は“無敵無双ワトホート号しようと思ったのだがな。人名以外の形容を足すのは、ジェネラル・レビル号の特例のみであり、さすがに憚られた」


 それからの演習では、ほぼ毎日のように「ワトホート号」が沈んだ。


 序盤は、まるでナイフを熱いバターに刺すように、敵の砲火が防御線を貫き、装甲値は瞬く間にゼロになる。


 だが、少しずつ、変化が現れた。


「ここはバイタルを避けて……」


 ワトホートが、ぶつぶつと呟きながら駒を動かす。

 バイタルエリア。艦の致命部。

 エンジン区画、弾薬庫、司令部。


 最初は言葉だけが先行していたが、参謀長の簡単な指摘を繰り返し受けるうちに、

「どこを晒すと死ぬか」「どこならかすり傷で済むか」の感覚が、少しずつ身につき始めていた。


 また、被弾後の処理にも、ワトホートなりの意識が芽生えた。


「ここで一度、後退。消火と応急修理だ」


 それまでは、被弾しても前進を続け、結果として沈没までの時間を早めていた。

 今は、時に一歩引くことを覚えつつある。


 常温のバターぐらいには、なったか。


 参謀長は内心で苦笑した。

 まだ「冷えた鋼鉄」とは言えない。

 だが、ナイフを入れた瞬間に溶けて崩れる、あの頃のワトホート艦隊とは明らかに違っていた。



 10か月目:初めての「旗艦撃沈」


 そして、演習開始から十か月ほどが経ったある日。


 その日の盤上戦は、序盤から妙な気配があった。


 ワトホートの動きに、いつもより「迷い」が少ない。

 旗艦と僚艦の距離感も、破綻しきってはいない。


 参謀長側は、旗艦のみを自ら操作し、その他の僚艦は自動判定に委ねている。

 本気を出せばまだまだ余力はあるが、ワトホートの成長を測るには十分なハンディキャップだ。


 中盤に差しかかった頃、ワトホートは突如、手を止めた。


「……待て」


 彼は、手元の規則集をつかみ、慌ててページをめくり始める。


「閣下?」


「静かにしてくれ!」


 参謀長は口をつぐんだ。

 ワトホートの目は、紙に食い入っている。


 自動判定規則。

 僚艦が、どのような盤面で、どのような行動をとるか。

 確率と例外処理が、細かく書き込まれている。


 ワトホートは、必死にそれを頭の中でシミュレーションしていた。


 参謀長側の僚艦も自動判定に従って動いている。

 つまり、「規則に従って動く敵」を読むことができれば、その周囲にある手動の旗艦の隙も、逆算できる。


「……よし」


 ワトホートは顔を上げた。


「僚艦二隻。自動判定を一時解除、手動に切り替える!」


 宣言とともに、二つの駒を自らの手で動かす。


 一隻は、自軍旗艦の前方で盾となる位置へ。

 もう一隻は、大きく回り込むように進路を取り、参謀長旗艦の退路に嚙みつく角度へ。


 自動判定では、絶対に選ばれないであろう、リスキーな布陣。

 だが、ワトホートは規則集から逆算して、「この瞬間だけは安全」と踏んだのだ。


 参謀長は、静かに息を呑んだ。


 ワトホートは、残された手番で、自軍旗艦を突き出す。


「ここだあああああっ!」


 不格好な叫びとともに、旗艦駒が前へ滑る。


 次の瞬間、参謀長の旗艦は、盤上の「撃沈」マーカーで覆われた。


 静寂が落ちた。


「……」


「……お見事、でございます」


 参謀長が敬意を込めて一礼すると、ワトホートは、ようやく息を吐き出した。

 顔は真っ赤で、額には汗がにじみ、目はわずかに充血している。


「私は――」


 喉元まで、「英雄だ」と自称しかけた言葉を、ワトホートは、ぎりぎりのところで飲み込んだ。


 その代わりに、部屋の隅で成り行きを見守っていた参謀たちのほうへ、勢いよく振り向く。


「見たか!私は参謀長を下した男だぞ!」


 言っていること自体は、いつものワトホートだ。

 傲慢で、声が大きくて、自慢がましい。


 だが、その裏で、彼はちゃんと自覚していた。

 参謀長が本気を出せば、まだまだ敵わないことも。

 旗艦以外を自動判定にしているという、手加減があったことも。

 それでも、あえて何も言わず、勝利を「純粋な一勝」にしてくれたことも。


 だからこそ、その自慢には、どこか無理やりに声量を上げているようなぎこちなさがあった。


 参謀たちは、顔を見合わせて笑い、「はっ、もちろんでございます」と応じた。


 参謀長は、盤の上の撃沈マーカーを静かに見つめ、心の中でだけ、こう呟いた。


 ――ようやく、一勝ですね、閣下。


 ネルソン戦記は、依然として本棚の特等席に鎮座している。

 夜になると、ワトホートはそこから一冊を抜き取り、ベッドの枕元に置いて眠る。


 見せ場のページには、相変わらず付箋が林立している。

 だが、その隣に並ぶ兵法書たちにも、少しずつ、色とりどりの紙片が増え始めていた。

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