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第六話 無敵無双への第一歩

 ●一か月目:真似るだけの「名将ごっこ」


 机上演習初日から、数日が経った頃。


 ネルソン級二番艦「ネルソン」の士官室には、以前よりも分厚い本が積まれるようになっていた。

 様々な伝記たち。

 ワトホートは、夜な夜なそれらを繰りながら、

 これまで読み飛ばしていた「作戦立案シーン」に目を通しはじめていた。


「ここでローズベルト級を中央に据え、僚艦はこの角度から……」


 行間の多いページを前に、かつてなら「退屈だ」と飛ばしていただろう箇所で、彼は妙に熱心にペンを走らせるようになった。

 そんな数日後から、一か月目の机上演習は独特の色合いを帯び始める。



 1-1. 宣言される「秘策」


「本日の作戦は、偽装退却包囲だ!」


 ある日、盤の前に座るなり、ワトホートは高らかに宣言した。

 駒は一つも動いていないのに、その声は勝利宣言のようだった。


 参謀長は、内心でため息をつきつつ、表情には出さない。


「左様でございますか。では、こちらも心して相対いたしましょう」


 ――言わなくていいのだがなあ、本来は。


 机上演習規則に、「作戦を事前に宣言せよ」などという条項はない。

 ワトホートも、もちろんそれは理解している。

 だが、ネルソン伝を読み込むうちに、そこに出てくる鮮やかな戦術に心を奪われ、仕入れたばかりの言葉を口にせずにはいられない。


「まず敵の注意を引きつけ、退く素振りを見せたところで」


 ワトホートは、まだ初手さえ打っていないのに、自分の構想をとうとうと語り始める。


「敵が追撃に出た瞬間、左右の僚艦で包囲し、一挙に砲火を浴びせる。ネルソン提督直伝、偽装退却包囲!」


 参謀長は、わざわざ「そのような名称は原典にはない」とは言わない。

 ネルソンの行動パターンの一部に、そう読めなくもない場面はあるが、それは戦局全体の中で位置づけられる一挙手一投足にすぎない。


 そもそも、宣言された時点で、その「偽装」はすでに死んでいる。

 情報戦の第一歩は、「何を隠すか」を選ぶことだ。

 自ら「これから偽装します」と言う者に、敵はだまされてくれない。



 1-2. 「情報戦」の手ほどき


 駒が動き始める。

 ワトホートは、宣言した通りいったん後退し、その後、側面からの包囲を試みる。


 参謀長は、それを見越していた。


「偽装退却包囲……良い発想ではあります」


 彼は穏やかな声で解説を挟む。


「ただし、“偽装”は、気づかれては意味がございません。敵が退却だと思い込んだ瞬間まで、黙っていなければ、偽装にはなりません」


 参謀長の艦隊は、追いすがるふりをして、距離感だけを慎重に保っていた。

 ワトホートの側面転進は、包囲網を狭める前に、逆に自艦隊の隊列を歪ませてしまう。


 そこに、参謀長の本隊が一撃を加えた。


「ぐっ……!」


 ワトホートの旗艦が集中砲火を浴びて沈む。


「情報は、砲弾と同じぐらいの威力を持ちます、閣下」


 参謀長は、盤上から目を上げて続けた。


「たとえ駒が同じ位置にあっても、相手がどう思っているかによって、それが好機にも罠にもなります」


「……言われなくとも、分かっておる」


 ワトホートは唇を尖らせたが、その目は、少しだけ真剣だった。


 その後の一か月、彼はとにかく「ネルソンの真似」を続けた。


「本日の作戦、逆風側突撃!」


「包囲逆手崩しだ!」


 ネルソンがかつて取ったとされる戦術名、あるいは、戦記著者が後から名付けたラベルを、誇らしげに掲げてから駒を動かす。

 だが、参謀長は、その全てを知っていた。

 何しろ、それらを教科書に書き込んだ世代である。


 ワトホートの「模倣」は、常に表層で止まる。

 ネルソンがその手を選んだ前提条件。

 風向き、敵味方の練度、士気、艦種構成。

 そういったものを一切考慮しないまま、手だけを引き写している。


 結果は、全敗。


 それでも、ワトホートは本を閉じることをやめなかった。


 盤の上では負け続けていても、

 彼の中にはひとつだけ、新しい習慣が根付き始めていた。


 作戦のページを、飛ばさない。



 ●二か月目:偽情報という「芽」


 二か月目に入ると、ワトホートの「作戦宣言」には、微妙な変化が見え始めた。



 2-1. 単横と言いながら、中央浸透


「本日の布陣は、単横決戦陣だ!」


 机上演習の開始宣言。

 だが、参謀長は、ワトホートの初手を見て、すぐに違和感に気づいた。


 その陣形は、単横陣にはならない。


 盤上では、ワトホートの艦列が、中央だけやや前に突出する形で動き出していた。


「閣下。単横陣とは、一線に並べて火力を集中させる陣形でございますが」


「分かっておる。一面に火力を並べ、決戦火力を叩き込む。ネルソン提督も使われた、豪快な戦法だ」


 ワトホートは、口先では「単横決戦陣」の意義を語りつつ、駒を前に押し出す。


 だが、その押し出し方は、どう見ても「中央浸透」の構えに近い。


 参謀長は、内心で驚いていた。


 ――戦術相性を考え始めておられる。


 単横陣には、縦深を持った複縦陣が対抗策となる。

 二列縦隊を組んで、正面火力と奥行きを持たせる布陣。

 ワトホートは、それを読んでいる。

 自分が「単横陣だ」と宣言することで、参謀長が複縦陣を取るだろう、と期待している。


 そして、中央浸透は、ネルソンの代名詞的な妙技のひとつであり、複縦陣に対して圧倒的な優位を持つ。

 複縦陣の中央に割り込み、味方は左右どちらを見ても敵の艦影しかなく、敵は友軍同士で誤射を恐れて撃ちづらい、という状況を作る。


 成功さえすれば、圧倒的優位。だが、そのためには、「複縦陣を引き出す」ことと、「自艦隊の隊列を乱さずに突入する」ことが前提となる。

 実際、ネルソンは生涯で四度これを成功させているが、「ネルソンがいる」というだけで複縦陣が愚形となりうるほど、ドクトリンを歪ませていた。


「単横決戦陣」と声高に宣言することで、参謀長を複縦陣に誘い、その中央を割る。

 それが、彼なりの狙いだった。

 そもそも、「単横決戦陣」という用語はなく、「単横陣」が正式な呼称だ。

 ワトホートは、輝かしい戦法を好む自らの性質をも、「餌」にしようとしている。


 参謀長は、その意図をほぼそのまま読み取っていた。


「……そうでございますか。では、こちらは単縦陣でお迎えいたしましょう」


「単縦、だと?」


 ワトホートは、一瞬きょとんとする。


 単縦陣。すなわち一列縦隊。

 単横陣の「逆」に位置する古典的布陣だが、中央浸透で「二列の間に割り込む」ことは、そもそも不可能になる。


 中央には、一本の「線」しかないのだ。


 ワトホートの旗艦は、火焔の中に消えた。


「……!」


 ワトホートは、悔しさに拳を握りしめたが、同時に、妙な感覚を覚えていた。

 参謀長は、「宣言」を読んだ上で、外してきた。

 自分の考えた「奇計」が、読まれるに足るものとして認識されていた、ということだ。


 それは屈辱であると同時に、わずかな誇りでもあった。



 2-2. 「難しすぎる技」を次々と


 二か月目の残りの日々、ワトホートは、ネルソンの戦術カタログを次々と盤の上に持ち込んだ。


「逆丁字戦法だ!」

「挟撃外し前進でいく!」


 どれも、戦史の中で名高い場面だ。

 ネルソンが敵艦隊の予想外の角度から突入し、僚艦との連携で包囲を逆転させた局面。


 だが、それらはすべて、高度な判断と、僚艦との信頼関係の上に成り立っている。


 ワトホートは、そこを飛ばして「手」だけを真似る。


 陣形が整う前に突出し、僚艦を置き去りにし、敵の砲火の網に突っ込んでいく。


「なぜだ! ネルソン提督なら……」


「ネルソン提督は、その前に、“ここ”と“ここ”を確認しておられました」


 参謀長は、淡々と指摘する。


「敵艦の艦種。こちらの僚艦の練度。風向き。弾薬と補給の残量。敵旗艦の指揮官の好み。」


 どの演習でも、ワトホートは最終的に旗艦を沈められた。

 だが、そのたびに参謀長は、「なぜそれがネルソンにできて、ワトホートにできないか」を、短く指摘するに留めた。


「学習意欲だけは、本物であられる」


 参謀長は内心でそう評価していた。


 表層の真似しかできないのは当然だ。

 だが、「表層だけでも真似よう」とする者と、それすらしない者の差は、大きい。


 ワトホートの作戦は、いちいち崩壊した。

 だが、崩れる前に「どの局面を再現しようとしたか」は、回数を重ねるごとに明確になっていった。


 参謀長は、あえて止めなかった。

 今はまだ、「好きに崩れさせる」時期だと見ていた。



 ●三か月目:創作台詞への苛立ちと「一天四海」


 三か月目に入る頃には、ワトホートのネルソン読書量は、目に見えて増えていた。


 メモの余白には、小さな字で戦術名とページ番号が並び、何度も読み返した箇所には、インクが擦れている。


 そして、ある日の演習後。

 ワトホートは、唐突に切り出した。


「……参謀長」


「はい、閣下」


「『名将は常に勇者に微笑む』という言葉だがな」


 参謀長は、静かに頷いた。


 ワトホートは、吐き捨てるように言った。


「ネルソン提督を、分かっておらん」


 その声音には、妙な棘と、自虐と、怒りが混じっていた。


「レビル将軍と並べて馬車で見送られただの、勇者に微笑むだの、そんな生温いことを言っている暇が、あの方にあったはずがない」


 かつて自分が好んで口にしていた台詞を、今はあからさまに批判している。


 それはまるで、過去の自分を殴りつけているようでもあった。


 ネルソンの戦記を読み込めば読み込むほど、彼の「夜」が見えてくる。


「理論上、この一隻で全ての敵艦を沈められる」と書いたあと、「何やってんだろうな、俺」と呟く人間。

「負けさえしなければ、なんとかなるさ」と講演で言いながら、実戦では一歩も退く場所がなかった人間。


「そんな人間が、勇者に微笑むなどと……」


 ワトホートは、言葉を飲み込んだ。

 それ以上言うと、自分自身の過去の陶酔も否定することになる。


 参謀長は、そこで初めて口を開いた。


「その言葉は、ネルソン提督ご本人のものではありません」


「知っておる」


「しかし、誰かがネルソン提督に憧れて、自分なりのネルソン像を詰め込んで書いたものです。架空戦記とはいえ、多くの人に読まれ、ネルソンに興味を持つ入口になった」


 ワトホートは、眉をひそめる。


「だから何だ。分かっていないネルソン像をばらまくなど……」


「憧れの形としては、悪くないと思いますよ」


 参謀長の声は柔らかい。


「ネルソン提督の本音とは違うかもしれませんが、あの言葉に励まされた若者もいるでしょう。創作と分かった上で味わうことに、何の罪もありません」


 ワトホートは、しばらく黙り込んだ。

 その顔に、葛藤が浮かんでいる。

 それを認めるのは、今の自分には少々つらい。

 だが、参謀長の言葉の「優しさ」は伝わってきた。


 やがて、彼は少しだけ視線を落とし、ぽつりと言った。


「……なるほど。人の希望が詰まった、いい言葉ではあるかもしれんな」


「はい」


「創作とはいえ、売れた小説と聞いている。さすが一流の物書きは、言葉の選びが優れている」


 それは、かつての「盲目的な賛美」とは違い、一歩引いた上での評価だった。



 3-1. 新しい「座右の銘」


 数日後、参謀長が士官室を訪れると、壁の一角に新しい紙が貼られているのを見つけた。


「一天四海、無敵無双」


 筆の運びは不器用だが、力だけは入っている。


「後半は、お気に召さなかったので?」


 参謀長は、冗談めかして尋ねた。

 元のフレーズは、「一天四海、無敵無双!国賊ネルソンここに見参!」である。


 ワトホートは、鼻を鳴らした。


「これは、私の言葉だ」


「閣下の?」


「ネルソン提督からの借り物ではなく、私こそが無敵無双になる、という誓いの証だ」


 彼は、わざと大仰に胸を叩く。


 参謀長は、少しだけ目を細めた。


「ネルソン提督の口上も、元は海賊譚の引用であられましたが」


「……なんだと?」


 ワトホートが目を丸くする。


「『海賊エドワード伝説』という、当時流行していた小説がございまして。その主人公の名乗りが――」


 参謀長は、声色をわずかに変えて口上をなぞる。


「一天四海、無敵無双!海賊エドワードここに見参!」


 ワトホートは、ぽかんとした顔になった。


「ネルソン提督は、それを言い換えて、教室でふざけて名乗られた。その場にいた教官が、懲戒記録に一言一句書き留めた」


 参謀長は、そこまで言って笑う。


「つまり、ネルソン提督も、借り物の言葉で自分を鼓舞しておられたわけです」


 ワトホートは、少しだけ視線をそらした。


「……そうか。ならば、私が借り物の言葉を自分のものにしても、何もおかしくはあるまいな」


「ええ。大事なのは、その言葉とどう付き合うか、でしょう」


 参謀長は、壁の紙をもう一度見やった。


 一天四海、無敵無双。


 勢いだけなら、当時のネルソンにも負けていない。

 中身が追いつくかどうかは、これからの話だ。


 三か月目の終わり。

 ワトホートは、相変わらず盤上では一度も勝てていない。

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