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第三話 理論上、この一隻で全ての敵艦を沈めることができる

 1. 開場前 ― 軍オタの朝


 特別展示室の前に、人影はまだまばらだった。


 開館からまだ十数分。廊下の奥には、ハンフリー・ネルソン提督の肖像と、百五十年前にこの国を救った戦艦、ローズベルト級「ジェネラル・レビル号」のシルエットが描かれた大きなポスターがかかっている。


 その真正面に、一人の若い男が立っていた。

 両肩の力は抜けているが、背筋だけはまっすぐだ。

 海軍式の敬礼をするでもなく、軍帽も被っていない。

 ただ、まるで入隊前夜の候補生のように、静かに息を整えている。


 五年前の特別公開――仕事で出張が入り、来られなかった。

 あの日、出張先の宿で、臨時ニュースのテロップを見た記憶がよみがえる。



 〈国宝指定「ネルソン提督直筆メモ」特別公開 初日〉




 画面越しに映った、ガラスケースと、あの一行。


 ――理論上、この一隻で全ての敵艦を沈めることができる。


「今日は逃さない」


 小さく呟く。

 今回の公開日程が発表された日から、休暇申請は最優先で出した。

 所属部署の同僚には、「地元に帰る」とだけ告げてある。


 係員がロープを外し、静かに告げた。


「特別展示室、開場いたします」


 男は、決して駆け出しはしなかった。

 しかし、最初の一歩だけは、誰よりも早かった。



 2. 最初の対面 ― 一行の前で


 ガラスケースの前に立った瞬間、彼は思わず息を止めた。

 そこにあるのは、本当にただの紙切れだ。

 古びたノートの一ページを切り出したような、黄ばんだ紙。

 端が少しだけ波打っている。

 その中央付近、インクの色も他と変わらない一行がある。


「理論上、この一隻で全ての敵艦を沈めることができる」


「……」


 彼は、目を閉じた。

 頭の中で、ガルダ海戦の図面が自動的に展開される。


 今から百五十年前。我が国の北方に位置するガルダ湾。

 味方戦艦二、軽巡・駆逐その他、疲弊しきった艦隊。

 対する敵戦艦は総数十一、そのうち五がガルダ方面に進出しているという諜報部の報告。


 通常の教範なら、「戦わずして退く」が正解だ。

 退ける場所も、もうほとんど残っていなかったが。


 ――しかし、ネルソンは退かなかった。


 彼は、白紙から順を追って書ける。

 敵の進路をどう読んだか。

 どの時点でローズベルト級を前に出し、どの局面で「殴り合い」を成立させたか。

 どこで僚艦を伏せて挟撃に転じたか。


 だが、それはすべて「結果」を知っている者の復元にすぎない。


 ネルソンは、この紙の前に座っていたとき、その「結果」を知らなかった。


 男は、展示パネルの解説に視線を落とす。


「強靭な艦体装甲と、無敵の砲戦火力で、最強の戦艦とすること。すなわち、本艦の設計思想は、『強靭・無敵・最強』である。」


「真面目に考えたのか疑わしいな……」


 思わず、口の中でつぶやく。

 だが、その次の段落が、笑いを喉に引っ込めさせる。


「しかし、敵味方のあらゆる情報を頭に入れたネルソンは、疑えば疑うほどに、その三単語の正しさを裏付ける計算結果にたどり着く。」


 ――疑えば疑うほどに、裏付く。


 彼はそこまで計算したから、この一行を書いた。

「強靭・無敵・最強」という幼稚な三語を、自分の手で現実に変えうる、ただ一人の人間として。


「……そりゃ、笑うよな」


 解説には、「ネルソンは笑いながらこのメモを残したとされる」とある。

 その笑いがどんなものだったか、男は想像できる。


 自分でも信じたくない結論に、理性が何度も×印をつけにいく。

 それでも、計算をやり直すたびに同じ答えが返ってくる。

「これは狂っている」と思いながら、他に道がない。


 そして、たった一行だけ紙に残し、椅子を蹴るように立ち上がって、配備要求に向かったのだ。


「……俺たちは、答えだけ教わってるんだよな」


 誰にともなく、男は呟いた。


 ガルダ海戦の机上演習。

 士官候補生用に難易度を下げ、「最適解たる旗艦」は最初から与えられている。

 失敗しても、評価さえ押さえておけば「合格」になる。


 本人が挑んだ本物の戦局は、「負けたら国がなくなる」ことを前提に、「別解」など存在しなかった。


「この一行の『前』にあった夜を、俺は知らない」


 展示室の空気は静かだ。

 一番乗りの男のほかには、まだ数人しかいない。

 彼の言葉を聞いた者はいない。


 それでいいと、彼は思った。


 自分はあくまで「結果を知っている側」だ。

 その立場を越えた気になった瞬間、ネルソンへの敬意は嘘になる。



 3. 軽食コーナーの昼


 正午が近づくと、展示室の外の廊下も人いきれを帯び始める。

 同じフロアには、軽食コーナーとミュージアムショップが併設されていた。


 #親子のテーブル


「お父さん、ねえ見て、カレーが『海軍ランチセット』なんだって!」


 少女が、メニューの写真を指さしてはしゃいだ。

 大きな皿に盛られたシーフードカレー、簡素なサラダと、小さなプリン。

 父親は笑いながらメニューを受け取る。


「じゃあ、それにしようか。お父さんもカレーでいいや」


 会計をすませ、窓際のテーブルに座る。

 外には港と、灰色の軍艦のシルエットが小さく見える。


「海軍って、水曜日にカレー食べるんだってさ。お父さん、なんかの本で読んだことあるよ」


「ほんと? じゃあ、私も今日食べたら強くなれるかな。明後日の体育でテストあるんだよね」


「ああ、あの持久走か。じゃあカレーで燃料入れないとね」


 娘が笑う。

 父は、その笑い声を聞くだけで、来てよかったと思った。


 特別展示室は、ちょうど今、午後一時まで貸切だと張り紙が出ていた。

 貴族士官が見学しているらしい――受付でそう耳にしたが、父親には、遠い世界の話に過ぎない。


「食べ終わったら、特別展示見に行こうか。ネルソンさんの紙、見てみよう」


「うん! あと、軍艦の模型もあるといいなあ」


 少女の視線がふと横に流れる。

 隣のテーブルには、銀色のアルミプレートが乗っている。



 #オタクのテーブル


 アルミのプレートには、やけに計算された色合いの主菜と、

 硬いパンのような何か、そして淡白な副菜が並んでいる。


「戦闘糧食・非加熱提供」


 メニュー札に小さく書かれていた言葉だ。

 係の人間は不思議そうな顔をしたが、「現場と同じ状態で」と頼むと、渋々頷いた。


 フォークを刺すと、予想通り、味気ない。

 だが、それでいい。


 ――ネルソンの時代には存在しなかった技術だ。


 保存性と栄養価、カロリー効率を極限まで高め、壊血病のような古い病を海から消し去った、現代海軍の成果。


「うまいものを食べたかったら、港町で魚を食えばいい」


 これは、現場の料理人の言葉だ。

 彼は、そんな記事をどこかで読んでいた。


 隣の席から、少女の小さな声が聞こえる。


「おいしー!」


 父親が「よかったな」と笑う。

 男は、そちらを見ないふりをしながら、心の中で頷く。


 ――入口は、それでいい。


 ミュージアムショップでは、「ネルソン名言プリントチョコ」が山と積まれていた。

 その中には、史料上確認されていない名言が二つ混じっている。

 国宝メモの一文は、特別に大きいチョコレートに印刷されていたが、フォントは他と同じ、読みやすい書体に揃えられていた。


「いい企画だ」


 彼は手に取らず、ただそう思った。

 自分には、もうそれを必要とする段階は過ぎている。

 ガルダ海戦の推移は全部暗記しているし、ネルソンの手の動きを、頭の中で何度もトレースしてきた。


 でも、入口は、派手で甘いほうがいい。


 ――ここから、ネルソンに興味を持つ人間が一人でも増えれば、それでいい。


 だから、レジで買ったのは、「メモの複製」一枚だけだ。

 厚手の紙に印刷された、あの一行。


 それと、募金箱に紙幣を一枚。


 〈海軍募金 ― 新時代の兵器開発に、あなたの一票を〉


 軍は金に困っているわけではない。

 これは、市民に「軍事とつながっている」感覚を持ってほしいという政策だと、どこかの白書で読んだ。


「新しい兵器を作るってことは、またいつか、“強靭・無敵・最強”の次のバカみたいな設計思想を、誰かが現実にする日が来るかもしれないってことだしな」


 彼は、誰に聞かせるでもなく、小さく笑った。


 隣のテーブルの父親は、「あっちはあっちの世界だ」とでも言いたげに、娘に窓の外の船の話題を振り続けている。

 それでいい。

 入口は、人の数だけあればいい。



 4. 貸し切りの二十分 ― ガラス越しの貴族


 午後一時ちょうど。

 展示室の入口前に、係員たちが立ち、「一時から二十分間、特別見学のため貸し切りとなります」の札を掲げた。


「申し訳ありません、一時二十分まで、こちらの展示室は――」


 男は「はい」と素直に頭を下げ、廊下に出た。

 ガラスの向こうで、軍服姿の一団が見える。

 その中心に、年若い貴族士官らしき男がいた。


 金の肩章。

 着慣れていないせいか、ややぎこちない立ち方。

 だが、どこか本人なりの気負いが感じられる。


「ネルソン級に乗る連中のどれか、ってわけか」


 任官人事は公表されていない。

 誰がどの艦に乗るのか、民間には知らされていない。


 だが、この時間帯に、わざわざ他の来場者を外に出させて貸し切り見学を行うほどの身分であれば、ネルソン級、あるいはそれに連なる重要艦の関係者と考えるのが自然だ。


 男は、少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ――この人たちが、次の海を背負うんだ。


 貴族士官がピンからキリまであることぐらい、知っている。

 無能な将の名も、史書にいくつも載っている。

 それでも、「海に立つ」という一点だけで、彼らには敬意を払う価値がある、と男は思っている。


「英気を養ってくれればいいけどな」


 軽食コーナーに向かいながら、小さく呟く。


 ネルソン級戦艦――その設計思想は、解説文にある通りだ。


「高速機動による戦艦火力の即時適応」


 ローズベルト級の「強靭・無敵・最強」という狂気を、現代の技術で「確実に戦闘に持ち込める力」へと変換した艦。


 ――その上に立つのが、さっきの貴族かもしれない。


 彼は、心の奥底でそっと祈った。

 どうか、その男が「額縁の中の戦争」だけを見ている人間ではありませんように。



 5. 午後一時半 ― 再びガラスの前で


 一時二十分を少し過ぎた頃、貸し切りは解かれた。

 男は時間きっかりに展示室へ戻り、再びガラスケースの前に立つ。

 ガラスについた微かな指紋の跡が、さっきまでの貸し切りの存在を物語っている。

 貴族士官がどんな顔でこの一行を見たのか、想像することはできない。


「……分かるはずもないか」


 呟きながらも、彼はあえて「それでも」と続けた。


「でも、分かってほしい、とは思う」


 ネルソンは、「理論上すべてを沈められる」という一文を書いた後、決してその通りの戦果を挙げたわけではない。

 実際には、艦隊全体を動かし、自国の戦艦は一隻も失わずに敵戦艦三隻を沈め、その他の艦艇にも多数の損害を与えた。

 その後の戦争は、最終的にほぼ五分の講和に落ち着いている。


「本当に一隻で全部沈める必要なんて、どこにもなかったんだよな」


 大事だったのは、「強靭・無敵・最強」という馬鹿げた三語が、ある局面においてだけは、嘘をついていないと見抜いたこと。

 そして、その一点に賭けて、「どうやって戦闘を成立させるか」だけに思考を絞り込んだことだ。


 ――“勝てるとしたらこうするしかない”に研ぎ澄ます。


 男は、そのフレーズを、胸の内でなぞる。

 現代のネルソン級は、その「どうやって戦闘を成立させるか」という問いに、機関技術という形で先に答えを用意してしまった艦だ。

 敵艦の前に、自ら躍り出られる。

 あとは、そこに立つ人間が「どこに躍り出るか」を決めるだけだ。


「ネルソンが見た“輝き”を、今の人間が同じ強度で見られるかと言えば、多分、無理なんだろうな」


 あのときネルソンは、「勝てなければ国が消える」夜の中で、一人でこの紙と向き合った。

 今ここに立つ自分は、その結果が歴史教科書に印刷された時代から、この紙を眺めている。


 さっきの貴族士官も、きっと同じだ。


 ――だからこそ、「形」で伝えてくれているのかもしれない。


 ネルソン級の設計思想。

「高速機動による戦艦火力の即時適応」。


「強靭・無敵・最強」という幼稚な三語に、誰かが本気で意味を与えたからこそ、次の世代は「意味のある三語」を掲げることができた。

 その流れの延長線上に、さっきの若い貴族士官が立っている。

 それが、国宝メモの本当の「輝き」なのだと、男は思う。



 6. 三時の来訪者 ― 「ただの紙」とその向こう側


 午後三時ごろ、展示室に新しい客が入ってきた。

 中年の男だ。

 普段着のシャツに、少しよれたジャケット。

 館内案内図を片手に、「ここか」と呟きながら、特別展示の入口に立つ。


「国宝ねえ……ただの紙を見るのに、この入場料かよ。さっき役所の食堂で食った昼飯代と同じくらいだな。酔狂だな、俺も」


 彼は苦笑しながらも、チケットを買って入ってきた。

 解説パネルを一つひとつ読みながら進み、やがてガラスケースの前で立ち止まる。


「これが……」


 ガラス越しに、小さく首をかしげる。


「理論上、全部沈められる、ってか。そんなアホみたいなこと、本気で書いたのかよ」


 展示の解説には、ローズベルト級の設計思想「強靭・無敵・最強」も紹介されている。


「強靭・無敵・最強? なんだそれ、子どもの悪口かなんかか?後世の創作混ざってんじゃないのか?」


 隣で、その言葉を聞いた軍オタの男は、足元を一歩ずらしてから、そっと声をかけた。


「創作じゃありませんよ」


 中年男が振り向く。


「え?」


「“強靭・無敵・最強”は、そのままの文言で設計思想として残っています。ローズベルト級ジェネラル・レビル号の資料で確認されています」


 ――しまった、テンションが上がった。

 軍オタは自分でもそれを自覚しながら、もう止まれなくなっていた。


「で、その三語だけが、本当に嘘をついてなかった。ネルソンは、敵味方の戦力を全部計算して、『単艦決戦なら必ず勝てる』『複数の敵戦艦相手の砲戦でも勝てる』っていう、常識外れの結論にたどり着いたんです」


 中年男は半分呆れ、半分興味深そうに聞いている。


「でも、そんなの机上の空論だろ。さっきの説明だと、速度が遅すぎて戦闘に持ち込めないって――」


「そうです。だからこそ、“理論上”なんです」


 軍オタの瞳が、ガラスケースの向こうの一行へと向かう。


「でも、あの一行で、ネルソンは“勝てる局面の条件”だけは確定してしまった。“戦闘に持ち込めさえすれば勝てる”と。だから、あとは“どうやって戦闘に持ち込むか”だけを延々考え続けた」


 中年男は、腕を組んでケースを眺める。


「……それで、あの大勝利、ってわけか」


「いえ」


 軍オタは、きっぱりと首を振った。


「全部を沈めたわけじゃありません。艦隊全体の采配で、“国を救えるだけ”沈めたんです。ネルソン自身も、この一行を本当にやる必要があるとは思っていなかったでしょう」


 中年男は、ふっと笑う。


「なんだよ、全部沈めたわけじゃないのか。子どもの頃、適当にそんなイメージで覚えてたわ」


「そのイメージ、わりとありがちなんですよね」


 軍オタも笑う。


「でも、本当にやらなきゃいけなかったのは、国を残すことだけで。そのために、この一行が必要になっただけなんです」


 中年男は、再び展示パネルに目をやる。


 ネルソン級戦艦の説明文が、そこにあった。


「新技術による機動力の革新的な増強がなされ、「高速機動による戦艦火力の即時適応」に刷新されている。」


「……今のジェネラル・レビル号には、その足りない足がついたってわけか」


「ええ。“強靭・無敵・最強”の狂気を、誰かが現実に持ち込む方法を見つけちゃったから、次は最初から持ち込める艦を作ってしまおう、っていう話です」


 中年男は、ふっと肩をすくめる。


「なるほどなあ。ただの紙だと思ってたけど、こういう話を聞くと、その先にある艦も意識してしまうな」


 軍オタは頷いた。


「俺たちは、この一行の後ろからしか見られないですけどね」


 ――でも、その「後ろ」に、ちゃんと続きがある。


 それは、三ヶ月後にロックス砦で失敗する者たちの物語であろうと、この紙の前に立ったこと自体は、確かに続きの一部だ。



 7. ワトホートは何を見たか


 同じ日の午後一時。

 貸し切りの二十分間、展示室にはもうひとつの静寂があった。


 ネルソン級二番艦「ネルソン」に乗り込むことが決まったばかりの貴族士官――ワトホートは、護衛の士官たち数名とともに、ガラスケースの前に立っていた。

 彼は、ネルソンの作戦記録も、ガルダ海戦の机上演習も、血肉にしてはいない。

「習ったことがある」程度の知識はあるが、軍オタのように推移を白紙から書き起こせるほどではない。

 その目に映っているのは、「自分もいずれ指揮を執ることになるかもしれない艦」と、その艦に名を貸した英雄の「伝説」だ。


「これが……ネルソン提督の、例のメモか」


 ガラスに映る自分の顔が、紙面の上に重なった。

 そこにある一行を、彼は声に出して読む。


「理論上、この一隻で全ての敵艦を沈めることができる」


 ――強い言葉だ。


 ワトホートの胸には、「自分もいつか、歴史に名を残す指揮を」という漠然とした野心があった。

 ガルダ海戦の詳細な戦術は知らずとも、「絶望的な戦況からの大勝利」「救国の英雄」というおおまかな輪郭だけは知っている。

 彼にとって、この一行は、「勝者の自信」として映ったかもしれない。


 ネルソンが、その前に何百枚もの計算紙を積み上げ、疑っては同じ結論に戻される夜を繰り返したことは、彼の想像の外側にある。


 もし、彼がこの文を「レビルを範として」と語った若き日のネルソンの延長線上で読むことができたなら、そこにあるのは、勝者の慢心ではなく、慢心を許さないギリギリの均衡だったと気づけただろう。


 だが、貸し切りの二十分は、あまりにも短かった。

 そして、ワトホートは「自分もいつか、こういう一行を歴史に残す」と、どこかで勘違いしたまま、展示室を後にしたのかもしれない。



 8. メモの輝きは、誰の目に


 軍オタは、その光景を知らない。


 ワトホートは、その二十分で何を感じ、何を見落としたのか、自覚していない。


 展示室には、今日も人が出入りする。


 海軍ランチセットを嬉しそうに食べた少女は、ガラス越しの紙を見上げて、「すごい人だったんだね」と言った。


 中年の男は、「ただの紙にしちゃ高い入場料だな」と笑いつつも、帰り道には、ローズベルト級とネルソン級の違いを考えていた。


 軍オタは、一日の終わりまで何度もケースの前に立ち、そのたびに同じ一行を、少し違う角度から眺めている。


「理論上、この一隻で全ての敵艦を沈めることができる」


 ネルソンが見ていた輝き――国家存亡の夜に、唯一の光として浮かび上がった狂気の論理。

 後世の人間が、それを同じ強度で理解することは、おそらくない。

 理解してしまうほどの「国難」を、誰も望まないからだ。


 それでも、この一行は展示され続ける。

 それを「ただの紙」と笑う者にも、ミーハーなチョコレートでかじる者にも、戦闘糧食を非加熱でかみしめる者にも、そして、ネルソン級の甲板で「戦場の風」だけを求めてしまう貴族士官にも。

 そのすべての上に、ローズベルト級からネルソン級へと続く系譜が、静かに横たわっている。

 メモの輝きは、そのすべてを等しく照らしている。

 ただ、その光の「強さ」を、誰がどこまで感じ取るかは――それぞれの胸の中の、準備の度合いに委ねられているのだ。

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