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第一話 ロックス砦攻略戦

 1. 「布屋根の司令部」


 ネルソン級二番艦「ネルソン」の甲板中央に、雑な白布の天幕が張られている。

 艦橋から見下ろせば、視界を阻む邪魔物でしかないそれが、この艦隊の「作戦司令部」だった。


 海図台に据え付けられた分厚い板の端には、鉄塊や砂袋が並ぶ。

 緩やかな海風でも、紙片をさらってゆくからだ。参謀たちは、吹き抜ける風ごときに神経をすり減らしている事実そのものに、内心でため息をついていた。


 本来、海戦指揮所は高所・閉所に置く。

 視界と通信線を確保し、砲煙と潮風から計器と文書を守り、万一の被弾にも二重三重の防壁を備えるために。

 だが、統帥権者たるワトホート卿は、甲板に立っていた。

 腰に下げた装飾過多のサーベルだけが、「海の男」を演じようとする努力の痕跡を示している。


「海の戦はな、肌で感じてこそ真の指揮というものだ」


 ワトホートは、胸を反らしながら言った。


「高みの艦橋から同胞を見下ろす者など、誰が信頼しよう。名将レビルもまた、いかなる逆境にあろうとも、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、風を切って指揮を執ったというではないか!」


 その言葉に、参謀たちは誰ひとり即答しなかった。

 その沈黙を、ワトホートは「畏敬」と解釈して満足げに頷く。


 ――レビル将軍は、その時艦橋におられたのだが。


 参謀長は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 艦橋に直撃した砲弾。割れ落ちた硝子窓から吹き込む凍てつく暴風と火薬煙。

 自ら重傷を負いながら、なお半壊した艦橋で冷静に戦局を睨み、怯える部下を笑顔で鼓舞した「方便」としての台詞。


『戦場の風と鉄を肌で感じる。まこと指揮官冥利に尽きる』


 その真意を知らぬ者が、同じ言葉を真似る。

 ネルソン号の甲板を優しく撫でる風は穏やかで、砲煙の匂いも鉄の味もない。参謀たちは、そろって海図の端に重石を載せながら、同じ感想を胸に秘めていた。


 卿は、風だけで満足らしい。

 鉄のほうまでは、感じたくないのだろう。



 2. 「安全な前線」


 ネルソン号は、ロックス砦の外輪からさらに一段遠い海域に単独で浮かんでいた。

 過去の海戦で最も外側にいた艦より、なお外側。

 ワトホートが「不測の事態における司令部機能維持」を理由に指定した座標である。


 最初に彼が提案した地点は、参謀の誰もが思わず顔を見合わせるような遠方だった。

 ほとんど水平線の向こう、肉眼では砦も砲煙も見えぬあたり。


「さすがに通信にも支障が出ます」と、作戦参謀が言葉を選びながら進言した時のワトホートの表情は、今も忘れがたい。

 不興と、安堵と、そしてわずかな羞恥が入り混じった顔だ。


 調整の末、「砦の固定砲台からの射線が直撃しない」とされる、程よい距離が選定された。

 ワトホートは「万全の構えだ」と満足げに繰り返す。


 参謀たちは、別のものを見ていた。


 砦は陸上要塞だ。沈まない。

 見えている砲台がすべてではない。

 こことて、砲の射程外とは限らない。


 望遠鏡を手にした観測士たちは、布屋根の下と艦橋上を絶えず行き来している。

 砦の陰影、煙の筋、光の反射。どこに隠し砲が口を開けても不思議はない。


 ネルソン号の左右には、二隻のハウンドドッグ級臼砲艦が従っていた。

 本来なら、対海賊戦の護衛として欲しいのは、もっと小回りの効く哨戒艇だ。

 だがワトホートは、臼砲の大口径に目を輝かせ、「これぞ頼もしい護衛」と称えた。


「小舟など、海賊の玩具ではないか。我らはネルソン級の旗のもとにある。牙には牙を、砲には砲を」


 工廠視察で新兵器「機銃」を見て以来、それを臼砲艦に載せよと執拗に迫ったのも彼だった。

 誰よりも早くその価値に気づいたと期待した参謀は、すぐにその期待を引き裂かれる。


「大口径砲で雄々しく戦う臼砲艦に、小さな銃弾をまき散らす武装は似つかわしくありません」


 技術将校がそう告げると、ワトホートはあっさりと引き下がった。


「なるほど、見目にも威厳が要るな。そういうことならば、やめておこう」


 あのとき参謀たちの胸に去来した感想を、一人がぽつりとまとめた。


「……あの方の見ておられる戦いは、額縁の中なのだろう」



 3. 「上申と承認」


 作戦開始時刻が近づくにつれ、布屋根の下は静かに忙しくなった。

 海図の上には色分けされた鉛筆の線が幾重にも重ねられ、各艦からの信号は事務官によって素早く写し取られ、参謀たちはその上にさらに短い矢印と数字を走らせる。

 ワトホートは、海図台の反対側に腰をかけ、片肘をついたままそれを眺めているだけだった。


 今日の彼の「仕事」は、ただひとつ。

 参謀たちが数日前から詰め切りで練った作戦を、「上申」として改まって読み上げ、それを「承認」するポーズを取ることだ。


「以上をもって、ロックス砦湾内突入・掃討作戦の骨子といたします」


 参謀長の声が止むと、ワトホートはわざとらしく数拍の沈黙を置いた。

 遠く、港湾方面の水面を滑る白い帆影が増えつつある。

 湾外の随伴艦群が着々と持ち場につきつつあった。


「よろしい」


 ワトホートは立ち上がり、胸を反らせた。


「ネルソン級であれば耐えうる。砦の砲はすでに調べ尽くされ、ロックハートどもの牙は抜かれておる。名将レビルの御名を戴く旗艦が沈むなど、誰が想像できようか」


 本来なら、湾内に踏み込む作戦など愚策に等しい。


 陸上要塞は沈まない。

 艦船は沈む。

 十字砲火に曝される水上の鉄の箱が、理屈の上では常に不利だ。

 それでもなお、ネルソン級二隻の装甲と火力は、そのリスクを呑み込める。

 加えて、ロックス砦周辺はかつて幾度となく偵察されている。

 偽装商船がすれ違うたびに、大砲の数と口径、砲身の配置が記録され、解析されてきた。


 ロックハート海賊団は、ネルソン級戦艦を沈める能力を持たない。

 唯一の不安要素は、甲板の上のこの布屋根と、そこに陣取るワトホート卿の存在だった。

 だが、その不安について明文化された文書は、どこにも存在しない。



 4. 「炎柱」


 それは、誰もが「いつか遠くで聞く」と知っていた種類の音だった。

 ただし、実際にそれを耳にしたとき、その規模が想定を大きく超えていた。


 甲板を震わせる衝撃。

 海図台の上で、重石ごと小さく跳ねるコンパス。

 布屋根がバサリと揺れ、視界の端で事務官の手からペンが転がり落ちる。


「な、なんだ!?ネルソンが撃たれたのか!?」


 ワトホートが身体を縮こまらせ、思わず天幕の端を掴んだ。

 彼の視界には、まだ砦も湾も入っていない。

 ただ、船体を通じて伝わる震えだけが、彼の想像をかき立てている。


「違います!」


 即座に否定したのは、砲術参謀だった。

 声が、いつもよりわずかに高い。


「音の遅れと反響が合いません!この揺れは、直撃ではなく衝撃波だけです!ネルソンへの砲撃観測も出ていません!」


 参謀長が素早く望遠鏡を掴み、布屋根の外へ一歩踏み出す。

 視界の先、港湾内。


 そこに「炎の塊」があった。


「……レビルだ」


 誰かが呟いた。

 本来ならば、「ジェネラル・レビル号」と呼ぶべきところだった。


 真昼の太陽よりもなお白く、瞬きの間に赤と黒の裂け目に変わってゆく巨大な火柱。

 爆炎の裾野から、鉄片と煙が水飛沫のように四方へ撒き散らされている。


 参謀長は無意識に、今しがたの爆音を頭の中で巻き戻した。


 ――これが、たかだか火薬庫一基の誘爆で起こりうる規模か?


 ネルソン級に搭載された火薬量を、彼は数字で知っている。

 たとえ何らかの被弾が引き金となって火薬庫が爆ぜたとしても、あの「光の塊」には届かないはずだ。


「おかしい……」


 彼は、手元の海図すら見ずに言葉を絞り出した。


「ネルソン級一隻分の火薬庫が爆沈したとしても、あの規模にはならない。すなわち、今の爆発そのものが、異常な火力だということです」


「ど、どういうことだ……?」


 ワトホートが、ひきつった声で問い返した。

 その目は、まだ炎を直視できずにいる。


「敵が、ジェネラル・レビル号を沈めるほどの一撃を持っている、ということです」


 一拍遅れて、ワトホートの口が勝手に動いた。


「レ、レビルが……負けた……?」


 布屋根の下で、一瞬、空気が凍った。

 名将レビルその人を指して「負けた」と言うに等しい禁句。

 だが今、その言葉を咎める余裕のある者は、一人もいなかった。



 5. 「突入案」


「参謀長!」


 砲術参謀が海図台へ駆け戻る。

 その顔色は蒼白だったが、声は震えていない。


「ネルソン号を突入させ、港湾内の同胞を救援するべきです。ジェネラル・レビル号はまだ……」


「黙れ!」


 ワトホートの叫びが、言葉を遮った。


「突入だと?あの炎の中へ、ネルソンを入れろと言うのか!?貴様、それでも味方か!敵の手先ではないのか!」


 その場にいた誰もが、次の一言を待った。

 参謀長だけが、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


「ワトホート卿」


 彼は、あくまで穏やかな声で言った。


「敵は、ジェネラル・レビル号を撃破した未知の攻撃手段を有しております。同型艦たるネルソン号が、対抗手段を持たない可能性は否定できません」


 ワトホートの目に、理解の光が差す。

 それは状況の理解ではなく、自らの恐怖に言い訳を与えてくれる「理屈」への理解だった。


「そ、そうだ……そうだとも。あの怪物的な火力に、同じ鉄の箱で挑むなど無謀の極みだ。突入を主張する者は……司令部を壊滅に追いやる、海賊のスパイと見なす!」


「……承りました」


 参謀長は、ほんの一瞬、砲術参謀と視線を交わした。

 そこに交わされたものが何であったのか、誰も言葉にはしない。



 6. 「白紙の命令書」


 事務机の上に、一枚の白紙が置かれた。

 事務官が震える手で用紙を整えようとすると、ワトホートはその上に自分の手を叩きつけた。


「紙をよこせ!今すぐだ!」


「すでに、卿の目の前に」


 言い終える前に、ペンが紙面の上を走った。


「作戦……中止……全艦、即時離脱せよ……!」


 字は乱れ、朱の印章はかろうじて四角形を保っている。

 日付も、正式な件名も、参照番号もない。

 軍務としては、到底「命令書」とは呼べない代物だ。


「ワトホート卿、形式上――」


 事務官が恐る恐る口を開きかけた瞬間、ワトホートの叫びが再びそれをかき消した。


「些末な不備は事後に補正すればよい!今は一刻を争うのだ!第二撃が今にも飛んでくるかもしれんのだぞ!」


 参謀長が、その言葉に重ねるように声を上げた。


「緊急事態であります。港湾内にいる我が同胞に、直ちに退避命令を届けなければ、さらなる海賊の攻撃の餌食になります。形式よりも、伝達の迅速を優先すべきかと」


 それは、半分は真実であり、半分は方便だった。

 だが、今この場では、その区別に意味はない。


「……よし、そうだ。そうだとも!」


 ワトホートは、自分の書いた命令書を胸の高さまで掲げた。


「これは、ワトホート卿の名において発せられた正式な命令だ!全艦に伝えよ!作戦中止!即時離脱!」



 7. 「最大戦速」


「ネルソン号、機関最大出力!」


 ワトホートの声は、もはや指揮というより、悲鳴に近かった。


「この場から離れろ!急げ!置いていく者が出ても構わん!……いや、構うが、とにかく急げ!」


 機関科参謀が、一瞬だけ言い淀む。


「卿。艦の具体的な機動指示は、艦長の――」


「今の卿のお言葉は、作戦行動に関するご指定であり、ネルソン号艦長への司令部としての命令と解します」


 参謀長がすかさず言葉を継いだ。

 その目は、ワトホートではなく、天幕の外にいる艦長の背中を見ている。


「そう……そうだ。それでよい。艦長に、そう伝えろ」


 ネルソン号の甲板下、機関室では、すでに号令が飛び交っていた。


「最大出力だと?本気か」


「命令だ。ネルソン級の真価を見せる時が来たと、そういうことだろう」


 皮肉めいた一言を飲み込み、機関長はレバーを押し込む。

 ネルソン級にだけ秘匿されていた新型加速機関が、深く唸りを上げた。


 これまで臼砲艦に速度を合わせていた二番艦は、その重い船体を嘘のように軽く加速させ、護衛艦をあっという間に置き去りにする。


 布屋根の端から、参謀長は振り返らずにその感覚を足裏で味わった。

 この加速感を、本来ならジェネラル・レビル号と並んで示威するはずだった未来が、目の前の炎柱の中に消え去っている。


「ハウンドドッグ両艦、追いつけません!」


 信号士の報告に、ワトホートは「そうか」とだけ答えた。

 その声には、安堵さえ滲んでいるように聞こえた。


 ネルソン号の船体が、波を切り裂きながら旋回する。

 ロックス砦と港湾を背に、加速する艦尾の先に、白い航跡だけが伸びていった。


 布屋根の下で、海図はただ一筋の矢印で塗りつぶされる。

 そこには、突入も救援もない。

 ただ、「離脱」という二文字だけが、震える筆跡で刻まれていた。

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