第61話「のんびり、パンの香りと」
夢の中。広大な草原を渡る風。
大きな屋敷で、白髪混じりの人物が眠っていた。
その周囲には、配偶者、子供、そして孫たち。賑やかに笑い、泣き、語り合う声。
「……あぁ、本当に……いい人生だった。」
そう言って、その人は目を閉じた。
穏やかで、幸福に満ちた最期だった。
けれど、最後に心の奥で残した言葉は――
「もっと、生きていたかったな。」
翌日。パン屋のバイト先で、俺は彼女と出会った。
神井 美瑠。同い年の2年生。
肩までの髪をひとつにまとめ、エプロン姿でパンを並べる彼女は、いつも少し眠そうな顔をしていた。
「おはよー、加瀬くん。今日も暑いねぇ。」
「神井さん、また寝坊?」
「えへへ、バレた? でもパンはちゃんと焼けてるからセーフでしょ。」
緩い笑みと、焼きたてパンの香り。
どうしてか、その姿が――夢の中の人物と重なって見えた。
「ねぇ、透くん。変なこと言っていい?」
「ん?」
「最近ね、妙にリアルな夢見るの。知らない世界で、魔法とか剣とかがあるの。で、そこで長生きして、家族に囲まれて死んで……。」
「最後に“もっと生きたかった”って思ってる夢?」
「……えっ。なんで知ってるの?」
彼女の目がまん丸になった。
俺は笑って誤魔化した。
「占いみたいなもんだよ。君のそういう夢、なんとなく分かる。」
「そっかぁ……やっぱり、前世の記憶なのかな。」
彼女はパンを袋に詰めながら、ふっと笑った。
「でもね、私、今は結構楽しいんだよ。部活もしてないし、勉強もそこそこ。バイトして、美味しいパン食べて、友達としゃべって……。」
「次に転生するなら、またパン屋でもやりながらのんびりしたいなー。」
その笑みは、ありふれていて、だけど限りなく幸せそうだった。
俺は心の中で思った。
――きっと彼女には、もう解決すべき未練なんてない。
ただ、生きることそのものを楽しめている。
だから俺ができることは、ただその笑顔を見守ることだけだ。
加瀬透、高校生。
今日は、“もっと生きたかった”という未練を、
すでに“生きる楽しさ”で満たしている人に出会った日だった。
のんびりと、パンの香りと共に。
その人生は、確かに――まだまだ続いている。




