第38話「おかえりの声」
夢の中、畳の部屋に灯りが揺れていた。
女はひとり、縁側に膝をつき、手にした布を何度も縫っていた。
夫が戦へ向かったあの日から、彼女は毎日それを縫い続けている。
「おかえりって、言うために。」
でも、その声はとうとう届かなかった。
風に舞った一片の手紙が、彼の死を告げた――。
「加瀬くん、ちょっといい?」
昼休み、渡り廊下で呼び止めてきたのは、2年の春原優太だった。
その後ろから、彼の恋人である三好葵が照れたように頭を下げる。
ふたりは付き合ってまだ半年。でも最近、少しギクシャクしているという噂を聞いていた。
「なんか、変なんだ。離れてると、お互いすごく不安になる。たった5分でも、胸がざわつくというか……。」
「しかも、理由が分からないんです。」
ふたりの言葉に、俺の頭に夢の情景が蘇った。
――帰ってこない夫。届かなかった“おかえり”。
「……夢、見たことある?」
俺の問いに、優太が顔を上げた。
「縁側で、誰かを待ってる女性の夢。ずっと、誰かの名前を呼んでる。」
「私も……戦支度の男の人が、家を出ていく夢。泣きたくなるのに、名前が分からない。」
ああ、ふたりはきっと、あの夫婦だ。
命を懸けて旅立った男と、戻る日を信じて待ち続けた女。
結局、再会は叶わなかったけれど、“心”だけが今に残っている。
その日の放課後、俺はふたりを呼び出した。
場所は、校舎裏の小さな庭園。
落ち葉の香り、風の音。どこか懐かしい空気が満ちていた。
「ちょっとだけ、芝居してみて。」
「芝居?」
「優太、ここで家に帰ってきたふりして。葵は、その帰りを待ってた人として、言ってあげて。」
優太は戸惑いつつ、廊下の角を曲がって歩いてくる。
そして、何も言わずに立ち止まった。
葵は、最初は恥ずかしそうにしていたけど、やがて小さく息を吸って、こう言った。
「……おかえり。」
その瞬間、風が吹いた。
何かが、確かに浄化されたような気配がした。
優太が小さく笑い、葵の手をそっと握った。
「……これかも。なんでかわからなかった気持ち、やっと腑に落ちた。」
「うん……言いたかったのかもしれない、“ずっと待ってた”って。」
加瀬透、高校生。
今日は、“おかえり”を伝えられなかった夫婦の思いを、二人の言葉に託した。
そしてその声は、今を生きる恋人たちを、確かに結び直していた。
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