第37話「玄関の音」
夢の中、少年は馬車を降ろされた。
草原の夕暮れ、背後に見える屋敷の窓は、もう誰も見ていなかった。
「母上、父上……ぼく、いい子にしてたよ?」
小さな手で扉を叩く。返事はない。
「……きっと、きっと迎えに来てくれる」
それが、彼の信じる“当たり前”だった。
夢が終わる瞬間、少年はひとり、玄関の前に座り込んでいた。
「加瀬くん、お疲れ。ちょっと、いい?」
生徒会の資料整理をしていた放課後、声をかけてきたのは1年生の笠原航平だった。
物静かで、成績は優秀。
でもときどき、どこか遠くを見ているような目をしている。
「最近、帰るのがちょっとしんどくて。いや、別に家に何かあるわけじゃないんだけど……。」
「家に入れるけど、帰った感じがしない、とか?」
「……そう、それ。まさにそれ。加瀬くん、なんで分かるの?」
俺は言葉を濁しながらも、内心ではもう確信していた。
彼の中には、“帰れなかった少年”の記憶がある。
その日の夜、俺は夢を見た。
石造りの玄関。立派な門。けれど、それは閉ざされていた。
少年の服はほつれ、靴も泥にまみれていた。
でも彼は、心から信じていたのだ。
「ちゃんと待ってれば、迎えに来てくれる。」
次の日、放課後の裏庭で、俺は航平に声をかけた。
「ねえ、今日、帰る前にちょっとだけ寄り道しない?」
夕焼けに染まる倉庫の前。玄関に似てる場所。
航平は少し戸惑いながら、隣に立った。
「何これ?」
「ただいまの練習。仮の玄関ってことで。」
「はあ?」
「いや、ふざけてるんじゃなくてさ。誰かに聞いてほしい言葉って、言わないと溜まってく一方でしょ?」
航平はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸い込んだ。
そして、ほんのわずかにうつむきながら言った。
「……ただいま。」
扉は何も言わなかった。でもその音は、空気の中にじんわりと染み込んでいった。
「……変なの。なんで、ちょっと泣きそうなんだろ。」
「言えなかった言葉って、意外と重たいからね。」
航平は照れくさそうに笑った。
「じゃあ、今日は……ちゃんと帰ってみるよ。」
加瀬透、高校生。
今日の仕事は、玄関の前で止まっていた誰かの足を、そっと一歩だけ進めることだった。
そしてその一歩は、たしかに“今”を暖めていた。
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