第34話「今度は届いた音」
夢の中、大きな音楽ホールの舞台で、少女は震える手を鍵盤に置いていた。
「……無理、です……私、もう……。」
その声は、かすかに震え、そして消えていった。
観客席のどこかから、誰かが叫んでいた。
「詩、君なら弾けるよ! 信じてるから!」
だが、少女はその声に振り向くことなく、ピアノの前を去った。
それが、春日 詩の前世の、最後の記憶だった。
現代。
「透くん、今度の定期演奏会で……ソロ、弾くことになったの。」
昼休み、詩は少し不安そうに俺に話しかけてきた。
「先生から指名されちゃって……断れなかった。」
「……大丈夫。俺がそばにいるから。」
俺の言葉に、詩は少しだけ安心したように頷いた。
けれどその目の奥には、あの日の舞台の記憶が、まだ根を張っていた。
演奏会当日。
会場の緊張感が静かに満ちていく中、詩はドレスをまとい、ステージに立った。
スポットライトの下、観客席には俺も座っている。
始まりの音。
……しかし、詩の指は鍵盤の上で止まったまま動かない。
空気が凍る。
その姿に、夢の中の光景が重なった。
胸が苦しくなる。だが、今は違う。
俺は立ち上がった。
「詩! 君ならできる! 信じてるから!」
その声がホール中に響いた瞬間、係員が駆け寄ってくる。
「お客様、退場してください!」
引きずられるようにホールの外へ出されながらも、俺の声は確かに届いた。
そして、その直後――
鍵盤の上に、詩の指が落ちた。
一音、また一音。
やがて流れ出す旋律。
彼女の音が、会場にあたたかく響き渡る。
観客が息を飲み、目を見開く。
それは、かつて彼女が途中で止めてしまった曲。
今度は、最後まで。
夢で消えた音が、現実の中で完結していく。
演奏が終わったとき、会場には割れんばかりの拍手が響いた。
詩は、小さく息を吐いて、ゆっくりと舞台を降りた。
終演後、ロビーで待っていた俺の前に、詩が現れた。
少し赤くなった目で、それでも笑顔を浮かべて。
「透くん、今度は……ちゃんと届いたよ。」
「うん、聴こえたよ。君の音が、全部。」
「ありがとう。ほんとに、そばにいてくれた。」
「……怒られたけどね。」
ふたりで、少しだけ笑った。
加瀬透、高校生。
今日、俺の仕事は。
ひとりの少女の未練を、音にして、終わらせることだった。
そしてその音は、たしかに“今”を照らしていた。
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