第21話「音楽室の彼女」
放課後、誰もいない音楽室。
ピアノの蓋は閉じられたまま、譜面台には白紙の五線紙だけが置かれていた。
窓際に立つ少女――春日 詩は、ため息をひとつ吐いてから、その部屋をあとにした。
その背中は、まるで“鍵のかからない檻”のようだった。
「透くんって、音楽とか興味ある?」
昼休み、真白にそう聞かれた。
「いや、あんまり。でも、最近気になる子がいてさ。」
「気になる子?」
「春日さん。音楽室にずっと通ってるけど、誰にもピアノ弾かせないんだって。」
「……昔は弾いてたのにね。すっごく、上手だったよ。」
その“過去形”が引っかかった。
俺はその夜、夢を見た。
――豪華なコンサートホール。
舞台の中央、真っ白なドレスを纏った少女が立っていた。
「次は、彼女のソロです。」
司会の声が響き、客席が静まり返る。
少女は椅子に腰かけ、鍵盤に指を置く。
……だが、音は出なかった。
少女の手は震え、肩が小さく揺れていた。
「無理、です……私、もう……。」
観客席に混じっていた俺は、立ち上がり、思わず叫んでいた。
「詩、君なら弾けるよ! 信じてるから!」
だが、夢の中の少女はその声を聞かず、ピアノを残して舞台を去った。
その目には、強い後悔と、自責の色が浮かんでいた。
翌日、俺は音楽室の前で彼女を待っていた。
「……なに?」
「ピアノ、聴かせてくれない?」
「無理。もう弾けないから。」
「じゃあ俺が、そばで聴いてるだけでいい。」
「意味、わかんない。」
「夢で、君の演奏を聴いたんだ。途中で止まっちゃったけど、すごくきれいだった。」
彼女の目が、かすかに揺れる。
「夢……? 透くんも、見たの……?」
「たぶん、君の前世の記憶だよ。」
「……あの日、私、逃げたの。ステージが怖くて、音が出なくて、頭が真っ白になって……。」
「でも、それでも演奏しようとした。君の指は、鍵盤に届いてた。」
「……届いてないよ。最後まで、逃げたまま。」
「なら、今度は逃げないでいてくれ。俺がそばにいるから。」
俺はピアノの蓋を静かに開けた。
詩は数秒間、じっと鍵盤を見つめた。
「本当に、弾いてほしいの?」
「うん。君の音が、聴きたい。」
そして、彼女の指が静かに鍵盤に触れた。
音楽室に、静かに旋律が流れ出した。
それは、夢の中で聴いたあの曲だった。
メロディは少しぎこちなく、最初は震えていた。
けれど、数小節が進むうちに音は流れとなり、空間を満たし始めた。
途切れたフレーズが、今、最後まで奏でられていく。
光の中、窓から差す夕日が彼女の横顔を照らしていた。
最後の音が消えたとき、彼女はぽつりと言った。
「ありがとう。……やっと、終わった。」
「違うよ。やっと、始まったんだ。」
彼女は、ふっと笑った。
「ねえ、透くん。また、聴いてくれる?」
「もちろん。何度でも。」
加瀬透、高校生。
今日もまた、ひとつの旋律を“再生”した。
静かに、確かに――彼女の未来が動き出す音を、俺は確かに聴いた。
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