3-28. 幻影
今日、月曜午後の選択授業には新しく幻影術を選択している。
授業が行われる練習場に行ってみると、まだ鐘は鳴っていないのに既に学生がまじめに席についていて、教壇の方に視線を集中している。まさかもう授業は始まっていて遅刻してしまったのだろうか。
「一年甲組ホソカワ・エイタです、今日からお世話になります。」
「あら、ご丁寧な挨拶ね。私が初級幻影術の担当、フジミヤ・イオリよ、よろしくね!」
少しハスキー声で、なんだかとても色っぽい感じの女性の先生だ。見た目はとても美人のようだ。
「すみません、遅刻してしまったようで。」
「うふふ、授業はまだ始まっていませんよ? 安心して頂戴ね。」
どうやら授業はまだ始まっていなかったらしい。それにしては生徒たちが誰一人として雑談をすることなく、やけに熱心に先生の方を見ているようだけれど、何かあるのかな?
いや、よく見てみると何かがおかしい。練習室の最前列には男子生徒たち全員が真剣なまなざしで集まっているけれど、女子生徒たちは全員、後ろの方で何だか冷めた目つきで座っている。そしてその間は完全に空いている。そんな不思議な状態だ。
この授業には途中参加だし何か失敗してはいけないと思い、男子生徒たちにいろいろ聞いてみることにした。
「あの、真ん中には座っちゃダメとか、そういう決まり事があるんでしょうか?」
「新入りだね? イオリ先生の素敵な息づかいが聞こえなくなってしまうから、静かにしていて欲しいな。」
「あ、はい、すみません……」
よくわからないけれど、喋っちゃダメみたいだ。
無理に後ろの女子生徒たちに合流しようとして変態扱いされても困るので、俺は中央あたりの誰もいないところに陣取ることにした。
息の音なんてことを言われると、呼吸をするのにも気を使ってしまう。ちょっとした雑談も出来ないとなると、授業開始まで時間を持て余してしまう。
開始まで少し予習でもしておくかな?
俺はそう考えて『現代主要魔法便覧』を取り出し、幻影術のページを開いた。
幻影術は魔力の力で、自分が思い浮かべた現実ではない幻を見せる魔法の総称だ。俺は時空術の授業でアヤノ先生から幻影魔法を一通り見せて貰ったが、相手の頭に魔法をかけて脳内で幻を見せるものや、魔力の塊に色や形をつけてそれを本物らしく見せるものなど、いくつか原理が異なる魔法がある。
それらの異なる魔法のうち共通している点は、自分が思い浮かべたものを相手に見せる、ということだ。つまり想像力が豊かであるか、そうでないかが幻影術の鍵を握っているのだ。
今目の前にいる人をそのまま幻影として見せるのは簡単だが、自分の姿を幻影として相手に見せるのは思ったよりも難しい。特に目を開けていると目の前の情景に引っ張られてしまい、それと違ったものを思い浮かべるのは困難になってしまう。
幻影の内容は魔法の原理によって異なってくる。相手の脳内で幻を見せる魔法は自分よりレベルが高い相手だと掛かりにくいうえ、魔力結界で防がれてしまうが、味や匂い、温度など、ありとあらゆることが再現できるので、幻影であることに気づかれにくい。
それに対して魔力を本物らしく見せる魔法は高いレベルの相手にも有効で、しかも結界で防ぐことができない。しかし再現できるのは目に見えるものと音だけで、匂いなどは再現できない。その違和感から幻影だと気づくことができる。
俺の場合、前者は流れ込んでくる魔力で、そして後者は魔力自体が見えてしまうので、幻影であることがすぐにわかってしまう。それでもクロヤギーの幻影術は本物と見分けがつかなかったので、これらとは違う原理の魔法なのだろう。
静かに予習をしていると授業開始の鐘が鳴り、初級幻影術の授業が始まった。
「今日は初めてのお友達がいるので、最初に一通り幻影魔法を見せちゃいますね!」
それからイオリ先生が見せてくれた魔法は、練習室の中をお花畑にする幻影だった。練習室の全てがお花畑になり、上空に青空まで広がっている。これは俺でなければ幻影だとは気づかないんじゃないだろうか。
イオリ先生が違う魔法の呪文を唱えるたびに、花の種類が、色が、違うものに変わっていく。アヤノ先生が見せてくれたものとはまるで桁違いだ。
「それではいつものように先生が呪文を唱えますから、みなさんもそれに続いて同じように唱えてくださいね?」
一通り魔法を見せてくれたその次は、呪文の練習に移った。今まで受けた魔法系の授業では、紙に書かれた呪文を覚えろ、で終わりがちだったけれど、この先生は何度も呪文を繰り返してくれる。きっと良い先生なのだろう。
「なむなむなむ~、はい、みなさん一緒に!」
「なもなもなも~。」
「…………。」
「…………。」
あれ、呪文練習するのは俺だけ? 他の生徒たちはみんな口を動かすだけで、声を出そうとしていない。
しかも前に座っている男子生徒たちが全員振り返って、俺のことをまるで親の仇のようににらみつけてくる。
もしかしたら、先生の息づかいが聞こえなくなるから、声を出して呪文の練習はやっちゃダメなの!?
ちょっと困った顔をしているので、イオリ先生がやらせているわけではないようだ。
「みんなも恥ずかしがらずにちゃんと声を出してね? なむなむなむ~、はいどうぞ!」
「なもなもなも~。」
「…………。」
「…………。」
やはり声を出すのは俺だけだ。
男子生徒たちは、視線だけで人を殺せるなら殺したい、そんな勢いだ。ちょっと怖い……。
「それじゃもう一度、なむなむなむ~、はい!」
「…………。」
「…………。」
「…………。」
男子生徒たちのあまりの圧力に負けて、ささやくような声になってしまった。それでも彼らの視線は変わらず突き刺さってくる。先生は困ったような顔をしているし、女子生徒たちは相変わらず冷めた目つきだ。
もう魔法自体は使えるんだから、ちゃんと呪文を覚えて唱えられるようになりたいんだけどなぁ。
はあ、どうしよう、これ。
俺は結局、男子生徒たちの無言の圧力に負けて、声を出して呪文を唱えるのをやめてしまった。
<つまんなーい! つまんなーい!>
そうなると大人しくしていないのがルードラだ。いつも通りに魔力循環自体は行っていたのだけれど、そのぐらいではまったく満足しようとしない。魔力循環ごっこはどんどん激化していき、魔力循環大会を超えて、大魔力循環戦争の域に到達しようとしていた。
先生の呪文を聞いているだけなので俺も暇だったのだ。
「それでは、次はみなさんにも一人づつ幻影魔法に挑戦してもらいます。先生に続いて呪文を唱えて、魔力を流してくださいね。」
イオリ先生は一人の男子生徒を指名し、その生徒の前まで歩いていくと、呪文を唱えて幻影魔法を発動する。
「なむなむなむ~」
「…………。」
指名された生徒は魔力を流してはいるようだが、呪文をしっかり唱えていないので、当然ながら魔法はまったく発動しようとしていない。
「もうちょっとしっかり呪文を唱えましょうね?」
指名した男子生徒にそう声を掛けながら頭を撫でて、イオリ先生は次の生徒の方に向かう。
「なむなむなむ~」
「…………。」
そうして最前列に座っていた男子生徒たち全員を一通り指名し、頭を撫でてから、イオリ先生は俺のところまでやって来た。
さてどうしようか。
静かにしろと圧力は受けているけれど、魔法を使っちゃいけないとは言われていない。男子生徒たちも魔力は流していたし、それは問題ないはずだ。
「なむなむなむ~」
「…………。」
俺は声を出さずに呪文を頭の中で唱えると、幻影魔法の魔力を流した。
あ、しまった、大魔力循環戦争の影響で大量に流しすぎたかも!
俺の流した魔力は幻影魔法としてしっかり発動した。そして練習室全体に俺の心の中の風景が映し出される……。
ゴゴゴゴゴゥ~ッ!
ガッシャーン! ドババーンッ!
激しく獰猛に荒れ狂う暴風と怒濤 、そして猛烈な雷雨とともに莫大な数の巨岩が空から襲い掛かってくる。天は割れ、地は裂け、まるで滝つぼに落ちた木の葉のように弄ばれる。
グオオオオオーーッ!
体の自由は効かず、上下もまったくわからない。その世界の全てを押し流そうとするような奔流に揉みくちゃにされ、ただ流され続けるだけだ。
<キャハハハハハハハッ!>
目はつり上がり、口は耳元まで裂けたような魔女が髪を振り乱し、哄笑を浴びせてくる。その声はまるで地獄への招待状であった。
<キャハハハ、タノシイ? タノシイヨネ!>
<モットシヨウ? モットダネ!>
……………………。
…………。
「きゅぅ~~~~……」
イオリ先生は泡を吹いて倒れた。
ありゃりゃ、魔力循環ごっこの風景をそのまま見せちゃった……。先生、倒れちゃったよ……。
倒れると同時に、先生が自分自身に掛けていた幻影魔法も消えてなくなってしまい、色っぽい美人の化けの皮が剥がれ、小太りな中年のおばさんの姿になってしまっていた。
男子生徒たちは、そんなイオリ先生の姿に大きく目をみはり、あまりの驚きにわなわなと体を震わせている。
あちゃー、これはまずいことになったかも。
俺は魔力が見えるなんて言っているけれど、実際には魔力をまるで目で見るようにはっきりくっきり感じ取れるだけで、本当に目で見えるわけではない。
しかしそのおかげでイオリ先生が自分に掛けていたような幻影魔法は、それが現実ではなく魔力によるものだと、はっきり見分けることができるのだ。アヤノ先生に見せてもらった時も、俺には最初ただの魔力の塊にしか見えず、いったい何が幻影なのかわからなかったぐらいだ。
だからイオリ先生が幻影術で変身していることはわかっていた。でもこれは幻影術の授業なので、面白いことをする先生だな、と思ったぐらいで、特に気にはしていなかったのだ。
この後どうしようかと迷っていると、すっかり青ざめた顔をした女子生徒が数人、恐る恐るこちらに近づいてきた。
「先生どうしたの? まさか、死んじゃった?」
「いやいやいやいや、いまの魔法でびっくりして気絶しちゃっただけ……」
殺したりしてないって!
「先生、本当はこんな姿だったんだね。」
「時々動き方が変だったから、何かあるとは思ってた。」
「体が触れてないのに、ぶつかったりしてたよね……。」
「ああ、あったね。」
女子生徒たちの様子を見ると、イオリ先生が幻影魔法を使っていたことはなんとなくはバレていたようだ。
そんな女子生徒たちに介抱されて復活した先生は、ちょっと泣きながら練習室から走り去ってしまった。
なんだか悪い事をしちゃったな。
男子生徒たちはあまりの衝撃からか、最後まで誰も声を上げることはなかった。
翌日、今週二回目の月曜日、幻影術の授業に出席してみると、中央がぽっかり空いているようなことはなく、みんなが練習室の中にまんべんなく座っていた。男子生徒は少し減ったようだが、女子生徒は昨日と同じく全員が出席しているようだ。
昨日と違って先生はまだ来ていない。
今日、本当にイオリ先生は来るんだろうか。もしかしたらこのまま自習で終わるかも知れない。
そう思ってたところ授業開始の鐘とともに、二十歳になるかならないかに見える一人の女性がやってきた。
「はじめまして! 今日から初級幻影術を担任する、フジミヤ・イオリの妹、サオリですっ! よろしくっ!」
え? 妹?
「私はお姉ちゃんのように甘くないからねっ! それじゃ元気出してガンガン行くわよっ!」
いや、イオリ先生、あんた何してんの……