2-1 大事なアレを失くしちゃった!(4)
そう言おうとピアノのほうへ一歩踏み出すと、あたしのことなんかお構いなしに、バーンと清潔感のある和音が響いた。
突然、ピアノを弾き出した三条くん。
これは、『翼をください』のイントロだ……。
なに?
あたしに歌えってこと?
グランドピアノに向かう三条くんの横に立って、茫然とするあたし。
知らず知らずのうちに、鍵盤を叩くその繊細な指先に目を奪われていると、イントロに続いて、もうこれ以上にないくらい澄んだ甘い声がふわりと広がった。
「♪ Mu~」
三条くんのハミング。
キレイな声。
伴奏が進んでいく。
そして、サビに差し掛かる寸前、その吸い込まれそうな彼の瞳が、スーッとあたしを捉えた。
思わず息を吸う。
「♪ この~」
勝手に声が出た。
急に背筋が伸びて、ちょっとだけかかとが軽くなる。
揃えたつま先まで浮き上がるみたいに、スーッと心の中に青空が広がった。
手元に目を落とした三条くんが、もう一度あたしを見上げる。
彼もあたしに合わせて、ハミングを歌詞に変えた。
素敵なテノール。
彼のテノールとあたしのアルトがオクターブ越しに重なって、透明に湧き上がるハーモニーの泉になった。
楽しい。
歌うって、本当に楽しい。
彼のピアノが弾く弦の響きが、頬を優しく包んでいる。
素敵、素敵、素敵。
本当に素敵なハーモニー。
ああ、もうすぐ終わってしまう。
待って。
まだ終わらないで。
もう少し、もう少しだけ、このハーモニーの中に溶けていさせて。
「♪ ――たい~」
バーンと響いた和音。
その和音は力強く音楽室の隅々まで染みわたると、それからしっとりと空気に溶けて消えた。
三条くんは鍵盤に手を置いたまま、まだ下を向いている。
あたしは最後に深く吸った息を、長くゆっくりと吐いた。
鍵盤から手を離した三条くんが、椅子の背もたれに寄り掛かりながらあたしを見上げる。
「やっぱり、いい声だ」
そうかなぁ。えへへ。
え?
あたし、褒められたの?
「お前、どう聴いても音域はソプラノだな。このキーじゃ低くてちょっとキツイだろ。どうして合唱部ではアルト専門だったんだ?」
「え? あー……」
別に、アルトを専門にしてたわけじゃない。
そりゃ、ソプラノは主旋律が多いから、『ガオカ』の子がみんなやりたがるし。
パートの最大人数は決まってるから、結果的にあたしはいつも別のパートになってたってだけで……。
あたしはね? パートはどこでもよかったの。
あたしは、ハーモニーの中に入れてもらえるなら、パートなんてどこでも構わない。もちろん、音域が違えばキレイな声では歌えなくなってしまうけど……、別に構わなかった。
中学生の部活動なんだから、みんなが楽しく歌えることが一番。
それに……、あたしは人と争ってまで歌いたくなかったもん。
「えーっと、あたし、あんまり目立つのは好きじゃないし。歌が歌えるならパートなんてどこでもいいの」
「へぇ」
ちょっと口を尖らせた三条くん。
なに? あたし、なんか変なこと言った?




