弦が繋いだ、縁でした
短編「カルティエ宮の亡霊」と同じ世界でのお話です。単品でもお読みいただけます。
短編のリンクもよろしければ。
https://ncode.syosetu.com/n7130ju/
「悪いけど、もう来ないでくれ」
王都にある、音楽通りと呼ばれる区画。いつも通り、馴染みの楽器店に新しく製作したバイオリンを持ち込んだ、その日。
いつは柔らかく笑っている店主が、真剣な顔をしていると思ったら。気まずそうに、そう、言われた。
「この一年、楽器は全然売れないんだ。アントニオのバイオリンは素晴らしいかったし、あいつから学んだカンナちゃんの腕も確かだ」
アントニオは、二年前に亡くなった私の父だ。有名なバイオリン職人だった。店主は、父が駆け出しの頃から作品を扱ってくれた恩人。
そのことに感謝し、父は有名なってからも、この店にしかバイオリンを持ち込まなかった。
私の作品も、女が作ったものなんて、と言わず適正な値段をつけてくれていたと思う。
「情けないけど、もう、カンナちゃんの作品を仕入れるだけのお金が出せないんだよ」
だからと言って、買い叩くような真似はしない。そんな人に、店に来ないでくれと言われたのは、衝撃が強くて。
作品を入れたケースを握りしめ、何も言わずに立ち尽くす私の肩に、店主がそっと手を置いた。
「多分、ここらの店は、大半を畳むことになる。そうなると治安も悪くなる」
カンナちゃんのお母さんは良い所の出だろう、と聞かれ、小さく頷く。母は元子爵令嬢だ。父と駆け落ちしたので、実家からは勘当されているが。
「育ちのせいか、カンナちゃんは目立つ。この辺りには、もう近付かないほうがいい」
歳も歳だし、実家の伝手でも何でも使って、何処かに嫁いだほうがいい。そう、柔らかい笑顔で言われれば。
心配を無碍にすることもできず。最高傑作を胸に抱えて、とぼとぼ歩き出したはいいものの。
「どうしよう……」
自分で稼げる唯一の手段を失い、足取りは重い。これからの事を考えれば、足はさらに重くなるばかりだった。
朝日が目に染みて、視界が滲みそうだった。
「伝手なんて……」
母の実家、ガルネール子爵家の伝手は使えない。駆け落ちし、すぐに私を産んで亡くなったため、あちらは私の存在も知らない。
知っていたとしても、出奔した娘の子だ。わざわざ面倒を見ようとは思わないだろう。
父は仕事で貴族と繋がりはあっても平民。しかも二年前に他界していて、私が知っている人はいない。
唯一、頼れる大人といえば。母の親友で、幼少期から親交があり、尚且つ、現在の居候先。ユーレスク子爵と夫人だが。
「これ以上、ユーレスク家には迷惑かけられないし……」
両親の遺産や、作品を売ったお金で生活費を払っているとはいえ、居候である。縁談まで世話になるのは、あまりに図々しくないだろうか。
だが、いつまでも居候がいるほうが迷惑だ。
「テレーゼに相談しよう……」
ユーレスク子爵家の一人娘であり、同い年の親友、テレーゼ。子爵家が所有する商会を切り盛りしている彼女なら、良い相手を知っているかもしれない。
でも、屋敷の中で話をすると、子爵たちが心配するかもしれない。私は、テレーゼの商会近くへ足を向けた。
「縁談を探して欲しい?」
お昼前。休憩時間のテレーゼに時間を貰い、早速相談をしてみると。何かあったの、とテレーゼは眉を顰めた。
「うん。図々しいのは理解してるけど、取引のある商人の方で、ある程度の礼儀作法が身についてる相手がいい人とか……」
とはいえ、私が提示できるメリットは少ない。バイオリン製作者としての腕、音楽の知識、夫人から教わったマナーくらいだ。
だが、相手が楽器を扱う商人でない限り、前者二つは役に立たない。なので私は、せいぜい礼儀作法が身に付いている平民である。
そう言うと、テレーゼは目をぱちくりと瞬かせた。
「カンナの顔なら、黙ってても何件か申し込みが来そうだけど」
「そうかな……」
「もう少し、見た目に気を遣えばね」
顔を汚したままだし、髪に木屑もついてるじゃない。ハンカチで顔を拭われ、髪も手で軽く整えてもらう。
「探すのはいいけれど……、いいの?」
小さく頷く。きっと、父ほどの才能がなかったのだろう。今ならまだ、平民としても結婚に遅い歳ではない。
諦めるべきだ。大丈夫。慣れている。普通の家庭で育つことも、家事を全部するのも、父がバイオリン作りのことしか教えてくれないことも、全部、諦めてきたのだから。
「生きていくには、仕方がないから」
こうして、心配してくれる相手がいて。縁談相手だって、裕福な商人から探してもらえる。どちらかと言うと、恵まれているほうだ。
持ったままの、バイオリンケースを抱きしめる。テレーゼは少し考えてから、頷いた。
「……わかったわ。任せて。良い相手を探すから」
「ありがとう……」
「今日はもう戻りましょう。ちょうど、私の仕事も終わったところなの」
そう言って、机を片付け始めるテレーゼ。馬車は良いのか尋ねると、偶には歩いて帰りましょうと微笑まれた。
並んで歩くのは、随分と久しぶりだ。一年ぶりくらいだろうか。以前よりも、人通りが少なく、活気がなくなった路地を歩いていく。
「…………あら、何か聞こえるわね」
「バイオリンの音……」
路上演奏だろう。この辺りは、音楽通りと呼ばれているように、楽器店や、演奏を楽しめるカフェも多い。店や貴族に自身を売り込むため、路上演奏する若手音楽家も多いのだ。
「でも、随分と音が……」
テレーゼが苦笑いした。確かに、あまり、良い音とは言えない。私は小さく頷いた。
「あの人は、上手いけど。楽器の能力が足りてない」
「そうなの? どちらにせよ、人は集まらないみたいね」
ここ一年、音楽通りは落ち込み気味だ。生半可な音では、耳の肥えた聴衆からチップを貰うことすらできない。当然、そんな状態では、経営難の店が声を掛ける筈もなく。
バイオリンを弾く男性の、顔が見えるところまではきたものの。誰一人として足を止める者はいない。
腕はいいのに。そう思うと、とても、勿体ない気がして。
「…………テレーゼ、少し、待ってもらってもいい?」
「いいけれど……。カンナ、もしかして」
少し、試してみるくらいのことをしても、良いのではないだろうか。あのバイオリンでは、彼の実力はわからないし。
私の作品の方が、きっと、彼の音を引き出せるから。
ケースを肩から降ろしながら、道の端に立っている男性に話しかける。曲の途中だったが、誰も聞いていないことは分かっていたらしい。男性はすぐ、私に視線を向けた。
「あの……、よければ、これで弾いてくれませんか?」
「え、いや。それはいいけれど……」
ケースを開き、作品を見せれば、男性は困惑しつつも私の作品に釘付けになった。男性が持っていたバイオリンをよく見ると、初心者向けのものだとわかる。
「いいから、持ってみてください」
バイオリンを手渡せば、手慣れた動きで、男性が軽く音を出す。途端、表情がパッと明るくなった。
「……うわ。良い音」
一曲いいか、という発言に、小さく頷いた。男性は自分が持っていたバイオリンをケースに片付け、先程よりも胸を張り、曲を弾き始める。
がらりと、周囲の空気が変わったのを、肌で感じた。
「これは……、宮廷音楽家も目指せそうね」
驚いたように、テレーゼが呟いた。遠くから見ている時は、くたびれた印象を抱いた男性だったが。薄く微笑み、バイオリンを弾く姿は、人目を惹きつける何かがあった。
よく見れば、顔の造形もいい。恐らく、貴族の次男か三男だろうか。王都は、音楽活動が盛んだ。宮廷音楽家を目指す貴族も多いので、彼もその一人なのだろう。
「良かった。人も集まってきたみたい」
「これなら、チップも集まるでしょうね」
そんなことを話しているうちに、私たちの周りには、人の壁が出来上がっていた。開いたままのバイオリンケースには、まだ曲が終わっていないというのに既に貨幣が投げ入れられている。
「テレーゼ」
「あら、いいの?」
「うん。使ってくれる人がいるのが、一番だから」
それに、今日、ここで出会ったことは偶然とは思えないから。大して弾けない私が持ち帰って、未練がましく持ち続けるより、彼の役に立った方が良いだろう。
曲が終わる前に、そっと歩き出す。
「ちょっと、待って!!」
後ろから、男性の焦った声が聞こえるが、止まることなく足を進める。
「にいちゃん、他の曲も弾いてくれよ!!」
「次は、あの曲がいい!!」
観客に阻まれ、男性は追いかけて来れない。諦めたのか、次の曲が始まったのを、遠くから聞きながら。朝よりも穏やかな気持ちで、太陽を見上げた。
◇
翌朝、ユーレスク子爵邸に、身なりの整った男性が訪れた。伝言に来た侍女は、見るからに慌てていて。私が首を傾げている間に、何故かサイズぴったりのドレスを渡され、テレーゼと一緒に応接室に行くことになったのだった。
「朝早くからの訪問となり、申し訳ございません。オーシュ男爵家の三男、ニコロと申します」
扉を開けるなり、恭しく礼をしたのは、髪を緩くまとめた泣き黒子が特徴的な男性。
「ユーレスク子爵家のテレーゼです。こちらは、我が家で面倒を見ているカンナ」
誰だろう。そう思いつつ頭を下げたが、テーブルに置かれたバイオリンには心当りがあった。昨日みた男性は髪を結ばず、顔が見えず、服装も商人程度のものだったが、もしかして。
「お二人共、昨日は大変お世話になりました」
「やはり、路地で演奏をしていたのは……」
「はい、私です」
確かに、声は昨日と同じである。路地で、貴族然とした佇まいだと目立ちすぎるので、平民らしくしていたらしい。
「どうやって、我が家に辿り着いたのかしら」
「あの後、近くの店に話を聞いたところ、このバイオリンが、カンナ嬢の作品だとお聞きしたので」
おそらく、教えたのは店長だろう。店長は私が一人になってから、子爵家に世話になっていることも知っている。
「…………そこまでご存じなら、カンナとお話なさって。礼儀も気にしなくて結構ですので」
貴族同士が会話している時、平民は口を挟めない。だから当事者であるにもかかわらず、今迄、黙っていたのである。
「それでは、遠慮なく。カンナ嬢。此方をお返ししに来ました」
「いえ、それは……、差し上げるつもりで渡したものですので」
予想以上に、柔らかく微笑まれ、内心物凄く動揺する。路上演奏していたくらいだ。平民と会話することを嫌う様なタイプではなさそうだったが、相手が平民と知って、ここまで丁寧な態度とは。
笑顔が引きつっていないか、かなり不安である。
「このような楽器、私が手に入れられるものではありませんので……」
確かに、値段を付けると貴族でも小遣いだけでは厳しい額になるだろう。嫡男でないなら尚更。
だが、私が持っていても、仕方がない。差し出された作品を、そっと押し返した。
「…………いいのです。私は、もう、作品を作るつもりも、売るつもりもないので」
「どういうことですか?」
曖昧に微笑む。バイオリン製作だけでは、生きていけないという事情を話すほど、親しい間柄でもない。言葉を濁していると、テレーゼが援護してくれた。
「オーシュ男爵子息もご存じの通り、音楽業界は一年前から落ち込み気味ですもの」
「ですので、やめることにしたのです。本来なら、その作品は、弾かれることもなかったもの。よろしければ、オーシュ男爵子息が弾いてください」
「ニコロ、とお呼びください、カンナ嬢。そこまで言われるなら、有難く頂戴いたしますが。何か、他にできることは無いでしょうか」
「いえ、そんな……」
貴族の名前を呼ぶのも、頼みごとをするのも、ハードルが高すぎる。でも、このままでは引き下がってくれそうもない。
どういったら、角が立たないだろうか。ちらり、とテレーゼの方を見ると、仕方ないわねと溜息を吐かれた。
「カンナが思いつかないなら、私から、いいかしら?」
「……はい。なんでしょう」
「そのバイオリンで、宮廷音楽家の試験を受けてみてくださらない?」
テレーゼの提案は、私にとっても、オーシュ男爵子息にとっても予想外のものだった。
「宮廷音楽家、ですか……?」
「バイオリン奏者を目指しているのでしょう? 三ヵ月後に王宮で開かれる、大規模なパーティに向けて、ダマーズ伯爵が音楽家を募集していると聞いたわ」
「ダマーズ伯爵って、宮廷音楽長で、バイオリン奏者の……?」
「あら、よく知ってたわね、カンナ」
ダマーズ伯爵家。音楽好きなら、必ず聞いたことのある名前だ。音楽の才を持つ一族で、現当主は宮廷音楽長を勤めている。
「そのくらいは耳にするから。でも、それって、最難関試験の筈……」
音楽家にとって、宮廷音楽家として認められ、王宮の夜会で演奏することは何よりの栄誉。だが、選ばれるには、ダマーズ伯爵家の、最上級の耳を持つ一族に選ばれなくてはならない。
「別に、合格してほしい、とは言っていないわ。それに、試験を受ければ、合格せずとも貴族家お抱えの音楽家になれる可能性は高い。悪い話ではないでしょう?」
「…………私は構いませんが。カンナ嬢に、何のメリットが?」
確かに、バイオリン奏者になりたいのなら、試験を受けることは実力を周囲に見てもらえる絶好の機会になる。でも、どうして、そんな提案をしたのだろう。
「試験は、王宮の夜会で行われると聞いているわ。そこに、カンナをエスコートしてほしいの」
成程。縁談探しの一環と言うことのようだ。その夜会には、音楽好きの貴族と商人しか集まらない。それなら、私にも十分メリットがある。
「わかりました」
オーシュ男爵子息には、夜会を見せてあげたいから、とテレーゼは説明して。私たちは、三ヵ月後に向け、一緒に練習することになったのだった。
◇
そうして、練習を重ね、迎えた三ヵ月後。オーシュ男爵子息を、ニコロ様と呼ぶことにも慣れ、ニコロ様も、粗が残っていた演奏技術を高め。
予定通り、私はニコロ様にエスコートされ、ダマーズ伯爵家主催の夜会に参加した。
「カンナ嬢、段差がありますので、お気をつけて」
「あ、ありがとうございます。ニコロ様……」
テレーゼに選んでもらったドレスを着て。本来、関りが無いはずの貴族に手を取られて。思い出作りにしても、豪華すぎて。
浮かれそうになっていると。テレーゼが冷静に口を開いた。
「そろそろ、受付に向かわないと間に合わないのでは?」
「…………それでは、試験に行ってきます。カンナ嬢、こちらでお待ちいただいても?」
「は、はい。実力が発揮できるよう、お祈りしております」
「ありがとうございます」
ニコロ様は、私のバイオリンを片手に受付へと歩いて行った。その後ろ姿を見送ってから、私はテレーゼの隣にピタリと付いた。
「ねえ、テレーゼ。他の方に挨拶をしなくても、いいの?」
ニコロ様には誤魔化して伝えたが、当初の目的は、私の婚姻相手探しである。
今のうちに、色々な人に声を掛けなければならないだろう。幸い、今日はドレスを着ているし、夜会に向けて作法の復習もしている。
相手は、テレーゼが目星をつけているから、ついて行くだけでいいと言われていたのだが。
「試験が終わってからで大丈夫よ。今は、高位貴族への挨拶の時間だから」
「そうなんだ……」
テレーゼは、受付をちらりと見て、口を噤んだ。ふふ、と口元だけで笑うのは、何か楽しみなことがある時の癖だ。
「それに……」
「何か言った?」
「いいえ。始まったみたいよ」
楽器別に、試験が始まって行く。ピアノから始まり、木管、金管と続き、弦楽器。バイオリンの試験を受けるのは、ニコロ様を含めて五名。
試験は、五人で一曲弾き、その後、一人ずつ短いフレーズを弾くことで評価が行われる。
試験時間は短いもので。次々と演奏が終わり、すぐにビオラ、チェロと試験が進む。試験結果も、ダマーズ伯爵が独断で決める為、時間も掛からないようで。
全員の演奏が終わるや否や、演奏順に合格発表が行われた。ピアノは合格者なし。木管はフルートとクラリネットに一人ずつ。金管はチューバ一人。
そして、弦楽器。
「…………バイオリン、ニコロ・オーシュ。合格者は以上」
ニコロ様に、宮廷音楽家の証である、ブローチが与えられる。周囲から歓声がわぁっと上がり、会場が熱気に包まれていく。
「ニコロ様……」
「やったわね」
最難関の試験に、合格したのだ。バイオリン奏者の合格は、3年ぶりのことらしく、ニコロ様の周りに人が集まっていく。
「カンナ嬢!!」
しかし、ニコロ様は人混みを掻き分け、真っ直ぐ私たちの方へ向かってきた。
そして、無言で私に手を差し出した。視線の先には、バルコニー。二人で話がしたい、という意味である。
「行ってらっしゃい」
テレーゼに背中を押され、最後に少しだけ、と自分に言い訳しながら、その手を取った。
ニコロ様は、宮廷音楽家になるのだ。今までだって、対等に話ができていたのは奇跡のようだったけれど。本当に遠い人になってしまう。
それでも、お祝いの言葉くらいは、きちんと伝えたくて。
「あの、ニコロ様。合格おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ぎゅ、と両手を握られる。心臓が大きく跳ねた気がした。勘違いしてはダメだ。ニコロ様は、純粋に、合格に喜んでいるだけ。
そう思うと、胸が痛くなる理由は、考えたくなかった。
「あの……」
これ以上、近くにいるのは辛いから。ニコロ様との関係を誤解されてもいけないし、中に戻ろうと提案しかけた、その時。
一際、強く手を握られ。ニコロ様が、緊張で僅かに震える声で、言った。
「…………合格したら、と、ずっと思っていたのです」
「え……」
ニコロ様が、片膝をつく。そのまま私の手を取り、額に近づける様は、まるで、懇願しているようで。
「カンナ嬢。どうか、私と結婚していただけないでしょうか」
あまりに、都合のいい言葉が、耳朶を打つ。
「……嬉しい、ですが。私は、平民で」
本当、なのだろうか。こんな時に、いや、他人を揶揄うような冗談を言う人ではない。でも、どうしても、夢のように感じてしまって。
「私も、兄が男爵位を継げば平民同然です。三男ですので、継ぐことはないでしょうから」
こんな夜会に来られたことも、ニコロ様に求婚されたことも。全部夢なのかもしれないと、冷静な自分が言っているのに。
「宮廷音楽家でしたら、貴女と、もう数人。家族を養うことは可能です。お嫌でなければ、私を、受け入れてくださいませんか?」
取られた手から伝わる体温が、私に向けられたニコロ様の瞳が、これは現実だと、雄弁に語っていて。
「…………幸せに、しますので」
掠れる声で、そう言われると。じわじわと顔が熱を持っていく。もう、答えなくても伝わっていそうだが。ニコロ様は言葉にしてくれたのだ。
私も、声を絞り出す。
「よろしく、お願いします……」
自分でも驚くくらい、か細い声だったのだが。ニコロ様は、しっかり聞き取れたようで。
口元を緩めたかと思うと、流れるような動作で手に口付けを落とされ、ひぇ、と間抜けな悲鳴をあげる。
心臓に悪いので、そう言うことは控えてほしい。視線で訴えかけると、ニコロ様は嬉しそうに笑った。
「……ひとまず、テレーゼ嬢と、子爵にご報告ですかね」
「そう、ですね」
少しでも顔の熱を落ち着けたくて、パタパタと片手で顔を仰ぐ。もう片方の手は、勿論、ニコロ様と繋いだままだ。
「テレーゼ、話したいことが……」
何とか顔を冷ましつつ、近くで待っていたテレーゼに後ろから声を掛けたのだが。
「…………テレーゼ?」
「カンナ。良かった。上手くいったの?」
「ええ。お陰様で。それで、テレーゼ嬢は何故、ダマーズ伯爵と?」
テレーゼの隣には、先程、合格発表をしていた男性。宮廷音楽長、ダマーズ伯爵が立っていたのである。
「いえ、カンナを探していらしたので、少し待てば戻ってくると説明したのですが……」
「最初は、カンナ嬢について聞こうと思っていたのだけれど、テレーゼ嬢も音楽の造詣が深くて、つい話し込んでいたんだよ」
にこにこと微笑みを絶やさない、ダマーズ伯爵。確かに、テレーゼは昔から私の音楽の話に付き合ってくれていたし、商会で楽器類に関わることもある。
「カンナ嬢へのお話なら、代わりにお伺いしますが……」
私は貴族ではないので、直接話をするのは無礼に当たる。そう思ったが、伯爵は気にしなくていいよ、と穏やかに言った。
「カンナ嬢は、礼儀作法もしっかりしているからね」
それに、と目を細める伯爵。もしかすると、母の実家、ガルネール子爵家との繋がりもご存知なのかもしれない。
母も、バイオリンを弾いていたから、父と出会ったと言っていたのだし。
「話というのは、バイオリン製作を続けるなら、支援を申し出ようかと思ったんだ。作品が素晴らしいからね」
でも、その話は後回しで良いかな。伯爵は、そう言って微笑んだ。
「色々と聞きたいことはあるけど、折角の夜会だ。テレーゼ嬢、よろしければ、一曲踊って頂けませんか?」
「え」
「年上が嫌いでなければ、ですが」
夜会において、歓談するのと、踊るのでは、意味が大きく変わってくるのでは、なかっただろうか。
私よりも余程夜会に詳しいテレーゼは、困ったように視線を彷徨わせ、そして。
そっと伯爵の手を取った。
「…………カンナ嬢、私たちも踊りましょう」
「はい」
私にとっては、これ以上ない素敵な夜会。テレーゼにとっても、素敵な夜になるかもしれない。
そんな予感を抱きながら、私はニコロ様と一緒に、ダンスホールへ踏み出した。