二ノ巻 盟友
狗狼丸との闘いの夜が明けた朝、銀は自邸の庭先で1人微睡んでいた。小鳥のさえずりが耳に心地よい。
ゲコッ。
どこからともなく蛙の鳴き声が聞こえてくる。銀は薄目を開けて庭を見た。大きな影が葦の原をかき分けてこちらに向かってきていた。
「おーい、兼盛!」
大きな影が手を振っていた。
「そう声を張り上げるな。ましてや私の真名を・・・」
銀は呆れたように、しかし口角を上げて言った。銀の視線の先で、髭面の男が葦の原からようやく全身を出した。
「おう、すまんすまん。だが、ここは結界、とやらに守られているのだろう?」
男は銀の隣にドカッと腰かけた。
「然り。だが、同じことを他所でされてはかなわんのでな」
「左様に阿呆な真似はせぬわ!」
そう言って男は豪快に笑った。
「ところで一体何用だ?」
銀は首をかしげて尋ねた。
「見舞いじゃ、見舞い。なんでも昨日は派手にやったそうではないか」
ほれ、と男は腰に下げていた袋を銀に手渡した。
「まあいつもの事さ」
言いつつ、銀は袋の中身を確認する。ほう、という吐息が漏れた。
「唐果物か」
「うむ。今回のは特に上物よ」
唐果物。海を隔てた隣国、宋の国から輸入した甘味である。銀は口内に溢れた唾を飲み込んだ。
「流石は播磨守殿、外つ国との商売では右に出る者がおりませんな」
「世辞はよせ!」
播磨守・平維親、それがこの男の名である。国家間の交流というものが昔語り《むかしがたり》となったこの国において、独力で貿易を行っていた。
「茶でもどうだ?」
そう言って銀が手を叩くと、奥から茶器を持った老人が現れた。むう、と維親は呻る。老人の顔はこの屋敷の門前にいた蛙をどことなく想起させた。
式神か。と維親は半ば確信に近い推測を立てる。銀が呪術で作り出した僕はこの屋敷中、いやもし市中の噂が真なら都中にいるとのことである。維親は一度、この屋敷にいる人間のうち何人が本当に人間なのかと尋ねたことがある。しかし、銀はただ笑うばかりであった。故に、横で茶を立てている老人が果たして式神なのか否かを問いただそうとは思わなかった。
「ところでお前さん、ちょっとは庭の手入れをしたらどうだ?」
維親は葦原に目を向ける。見てくれの問題以上に、門からここまで来るまでの道程でやたら難儀した故の言葉であった。
「そなたの好みには合わなんだか。ならこれはどうだ?」
銀が指を鳴らした刹那、葦原は消え失せた。そこには長年大切に手入れされてきたような枯山水の石庭があった。維親は寸の間口を開けたままになってしまう。
「お前さんといるが退屈せんが・・・時々驚きで寿命が縮みそうになるわい」
銀はクスクスと笑うばかりであった。
「そう言えば宋の商人から面白い話を聞いたぞ」
唐果物も底をついたころ、維親が切り出した。銀はほう、と言って眉根を上げた。面白いと言っては不謹慎かもしれんがなと前置きして維親は言う。
「どうやら彼の国にも魔人がいるらしい。つくづく厄介な連中よ」
維親は初めてこの話を聞いた時の驚きを思い出しつつ言った。しかし、維親の予想に反して銀は殆ど動揺していないようであった。
「なんだ、よもや知っておったのか?」
「いや。だが、そうではないかと思っていた」
維親は訝しげに銀を見つめる。銀はすっかりぬるくなった茶をすすった。
「魔人とは一体何だと思う?」
「何、といってもなあ」
維親は腕を組んで考え込む。維親が魔人について知っているのは人間を苦しめ、殺戮することへの悍ましいほどの執着心ばかりである。ウンウン呻る維親を見かねてか、銀が口を開いた。
「魔人とは人間の心から生まれた存在だ。正確には罪の意識の産物というべきか」
罪?と維親はオウム返しに答えた。銀は頷く。
「嘘をついてしまったという小さなものから、殺人を犯したという大きなものまで人間は皆なにかしら罪の意識を抱えて生きているものだ」
遥か遠い国には人間は生まれながらにして罪を背負っているという教えもあるそうだ、と銀は付け加える。
「自分は裁かれなくてはならない、罪を贖わなくてはならないという情念が無数に、いや天地開闢以来人界を生きた人間の数だけ集まった」
「人界とは要するに我らがいるこの世か?」
然り、と銀は答えた。
「人界を溢れた情念は大地の底より遥か深くに新たなる世界を生み出した」
維親は残っていた茶をぐっと飲み干した。なぜだが無性に喉が渇いていた
「それが魔界。魔人が生まれ、還る場所だ」
なるほど、と言って維親は溜息をついた。
「人間が贖罪を望む思い、それが魔人を生んだと」
「その通りだ。人界と魔界は表裏一体、人間在るところには必ず魔人が現れよう」
そして、と銀は続ける。
「魔人は人間を苦しめ、殺す。それが連中の生まれてきた意味、人間の贖罪を肩代わりしているというわけさ」
無論、だからとて無辜の民を殺めることが正当化されるわけではないがなと銀は締めくくった。維親は神妙な顔をして言った。
「では、どうあっても魔人と人間がわかり合うことはできぬというわけか」
銀は目を丸くして維親を見た。
「魔人とわかり合う、か。つくづくそなたの発想には驚かされる」
「そ、そうか」
維親はこそばゆさから首筋を掻いた。咳払いをして口を開く。
「にしても、まるで見てきたように語るのだな。よもや真に・・・」
不可思議な力を自在に操る友なら過去を見通すこともできるのではないだろうか、そんな思いで維親は言った。
「まさか」
銀は笑う。
「古の高僧が魔人と契約し、魔界の全てを書き残したという書があるのさ」
「なんと。だが何故その書が真実を語っているとわかるのだ?」
「その書には魔人の真名が記されているのだ。真名が持つ力については以前話したな?」
維親は深く頷いた。銀が『阿賀兼盛』という名を明かした際に聞いた話である。忘れるわけがない。
曰く、本当の名前つまり真名には力がある。陰陽師は己の真名を知る者に最大の庇護を与えることができる。遠く離れていても念話によって難なく意思を伝え合うことができ、また結界を遠隔で構築し守ることができるのである。だが、逆に呪術を扱える敵に真名を知られてしまえば一貫の終わりである。真名を呼ばれるだけで身体の自由を制限され、最悪意のままに動く操り人形にされてしまう。故に魔人と闘う陰陽師は肉親と主君(銀の場合は帝)以外に真名を明かさず、銀や茜といった字で呼び合うのが通例なのだという。だが、銀は維親に真名を教えた。それはこの上ない友情の証であり、例え死んでも口外すまいと維親は誓っている。・・・銀の邸宅では気が抜けてつい「兼盛」と呼んでしまうのはご愛嬌であろう。
「人界で調伏された魔人は死ぬわけではなく魔界に還り、そして数年後か数百年後かはわからぬが再び人界へ攻め入ってくる。もし魔人の真名を知っていれば・・・」
「すわ闘いとなった時に戦闘を有利に進められるというのだな?」
銀は我が意を得たりとばかりに笑みを浮かべた。
「実際、私は件の書の恩恵に何度もあずかっていてな」
「それがその書を信ずる理由か」
「然り。それに真名の部分さえ真実であればそれで十分さ」
究極、魔人の正体がなんであれ大きな問題ではない。守るべきものを守るのが陰陽師の務めであると銀は考えていた。
「だが、彼奴にはそれも通じん」
彼奴?と維親が聞き返す。
「狗狼丸だ」
維親もその名を聞いたことがあった。宮中の噂で、そして他ならぬ銀からも。
「近頃都を騒がせている魔人か。お前さんがここまで手こずるとは珍しいと思っておったわ」
「珍しいどころではない。かようなことは初めてだ」
銀は辟易した様子であった。狗狼丸が都に現れてより一月が経とうとしていた。
「件の書には彼奴についての記述はない。狗狼丸というのもあくまでそう名乗ったから呼んでいるだけのこと・・・真名は誰にもわからん」
むう、と維親は眉をひそめた。
「不可解なのはそれだけではない。狗狼丸は人間だけではなく魔人をも襲う」
「魔人を?何故だ」
銀は首をすくめた。
「さてな。それがわかるのが先か、彼奴を調伏するのが先か」
銀は物憂げに溜息をついた。言っては見たものの、どちらも簡単なことではない。真名を突き止めるようにもその宛がない。件の高僧が魔人と交わした契約の子細までを書に記していなかったのは嘆かわしいことだ。人間を駆除すべき害虫か何かのようにしか思っていない相手を交渉の卓に座らせた手口だけでも知りたかった。後者、狗狼丸の調伏もまた難儀である。真名による弱体化が望めない以上、呪術師としての純粋な技量のみでぶつかるしかないわけだが、そうなると最早狗狼丸とまともに闘えるのは当世では銀だけであろう。腹心である阿弥陀衆なら或いは、と銀は思っていたのだが・・・。
「そう時化た顔をするな!」
維親が銀の背を叩く。いきなりのことに銀はつんのめってしまう。
「お前さんは儂ら都人の希望なのだ。希望が暗くなってどうする?」
闇夜を照らす月の如くあるべし、かつて父がそう言っていたことを思い出し、銀はふっと笑った。
「そうさな」
こうして朝が過ぎていった。