一ノ巻 白銀
平安、それがこの都の名である。名は体を表す、夜の帳が下りた平安京には草木も眠る静寂の時が流れているーように見えた。だが、笑顔の下には謀略が潜むように平安の中には動乱の種があるのが世の常である。
都の南端、羅城門が見下ろす民家にある夫婦が住んでいた。貧しいながらも満ち足りた生活を過ごし、先日赤子が生まれたばかりである。だが幸福は泡沫である。彼らのささやかな幸せは今まさに弾けんとしていた。
「お許しください、お許しください・・・!」
夫は熱に浮かされたように同じ言葉ばかりを繰り返していた。その総身には腐臭を放つ粘液がべたりと纏わりついている。
「ならぬ。吾は退屈しておるのだ」
夫の眼前で異形の影が言った。頭部を覆う甲殻が嗤うように鳴った。隣ではもう一体の異形が口吻を黙々と伸縮させていた。口吻の中ではぶくぶくと粘液が泡立ち、室内の腐臭をますます耐え難いものにしていた。
「魔人様、どうか!」
「くどい!子が可愛くないのか?」
甲殻に包まれた影、魔人がそう言うともう一方の魔人が口吻から粘液を吐き出した。その先ではまだ降り注ぐ悪意から身を守る術も知らない赤子が大粒の涙を流していた。粘液が口を塞ぎ、『泣く』という赤子にできる唯一の抵抗すら不可能としていた。もっとも、抵抗する手段がないという意味では夫も似たようなものである。
「すまねえ、すまねえ・・・」
夫は意を決したように横で倒れ伏す妻に謝罪した。これから己の夫が行う業について何を思うのか―許しか恨みか―涙と粘液でグシャグシャになった顔からそれをうかがい知ることはできない。
すまねえ、すまねえと繰り返し、夫は地面に遭った鉈を拾い上げた。鍛冶屋が見れば憤死しそうなほどの錆が刃を覆っている。魔人が持参してき。
今宵起こった全てを呪い、夫は鉈を振るう。最愛の妻の胸元に鉈が突き刺さった。柔肌にじわりと鮮血がにじむ。
だが、命を奪うほどの一撃にはならなかった。人間の肉は存外頑強である。錆びついた鈍らで容易く貫くことはできない。魔人の狙い通り、妻の苦しみは限界まで引き伸ばされることになるだろう。
「うわああああああああ!」
夫は半狂乱になって何度も鉈を突き刺す。早くこの地獄のような時を終わりにしたい。その思いがいつしか愛情すら上回った。疾く死ね、死んでくれ。夫はその一念で思考を塗りつぶし、最愛の女の断末魔から耳をふさいだ。
永劫に近い時の果て、血溜まりに死体が一つ。夫は―いや、妻を失ったただの男は深い喪失感に呆然としていた。だが一方で、少なくともこれで悪夢は終わるという安心感も抱いていた。
カチ、カチ、カチ、カチ。
魔人が甲殻を打ち鳴らした。それは拍手の悪辣な模倣。
「良き見世物だった。褒めてつかわす」
平生であれば激昂し、拳を振るう、それが叶わずとも睨みつけるくらいのことはしただろう。しかし、今の男には怒りを抱いてもそれを発現する気力などとうに失せていた
「然るに、少々遅かったな」
男は魔人が指さした先に目線を移す。そこには彼の子が、粘液により窒息した赤子の死体が転がっていた。
「あ、ああ・・・」
男の手から鉈が落ちる。妻を殺せば赤子は見逃す。それだけが希望であり、それ故に男は許されぬ滞在に手を染めたのだ。しかし、二者択一に見えた選択は、ただ絶望を深めるための彩りに過ぎなかったのである。
「こうなっては最早無用の長物よのう」
魔人はスッと手を己の口元にかざした。その動作の意味が男にわかるはずもなかったが、しかし咄嗟に赤子に向かって手を伸ばした。だが、彼は再び己の無力を思い知ることとなる。魔人が手を下すや否や口から火花が飛び、赤子に―正確には赤子に纏わりついた粘液に―引火した。刹那、爆発。死体は肉片すら残さず四散した。
男は吠えた。限界を超えたと思っていた怒り、その先の激情がようやく彼を突き動かした。しかしもう全てが遅い。
「愉快愉快。ご苦労であった」
そう嗤って魔人は再び火花を放った。爆発、次いでまた爆発。かつておしどり夫婦と呼ばれたものはそこになく、申し訳程度の灰ばかりが残された。
「帰るぞ」
魔人はもう一方の魔人にそう告げた。しかし、当の本人は足元をじっと見つめるばかりである。
「然り然り、『掃除』をせねばならぬな」
言うなり、魔人は床を力任せに引き剝がした。震える幼子の姿が露となる。たれ目がちの顔つきは、先ほど己の夫に刺殺された女によく似ていた。しかし、魔人からすればそうした人間の顔の類似性など気づく価値もない。ただ、状況が幼子と先ほどの道化たちとの関係性を物語っていると思うばかりである。
「お漏らしか?悪い子よのう」
幼子、小太郎の股座は恐怖で黄色く染まっていた。魔人の揶揄いに屈辱を関る心の余裕など当然ながらつゆほどもない。
「悪い子にはお仕置きをしなくてはな」
そう言って魔人は小太郎を片手で持ち上げ、家の外に放り出した。地に叩きつけられる痛みが小太郎を苛んだ。だが、その痛みに呻く間もなく大量の粘液が小太郎と周囲の地面を濡らした。
チッ、チッ、チと魔人の口内で火花が舞う。小太郎は父と母、そしてまだ言葉を交わしたこともなかった弟のことを想った。家族の所に行けるのなら、そう思おうとした。しかし、その思いは死の恐怖を乗り越える支えとするには弱すぎた。枯れたはずの涙が小太郎の目から溢れた。
「爆ぜよ!」
爆炎が小太郎を包み、火花を操る魔人が哄笑した。しかし、他方の魔人は笑うことなく粘液を口吻に充填させていた。頭の中で無数の虫がわめくような感覚が、彼らの敵の接近を告げていた。
果たしてそれは煙の中から現れた。叢雲から顔をのぞかせる月のような白銀の光が小太郎を包み込んでいた。
魔人は口吻の中で何度も粘液を泡立たせた。彼らが殺めたはずの幼子は無傷でそこにへたり込んでいた。そして小太郎を庇うように仁王立ちで魔人を睥睨する者がいる。白銀の衣に身を包んだその男は鋭い視線で魔人たちを捉えた。
「淋黄、そして延威よ」
青年は魔人たちの名を呼ぶ。その行為自体が術となり、魔人たちの動きを止めた。
「こは人界なり。そなたたちのいるべき世界へ還るがいい」
その言葉が合図だった。熱と冷気、相反する2つの属性の波動が魔人たちを襲った。その苦しみの中にあっても魔人・延威の行動は早かった。口内で火花を破裂させ、発生した黒煙を息吹とともに吐き出した。煙幕に隠れ、魔人たちは駆ける。都の外へ、彼らの領域である闇に隠れて追跡を振り切るつもりであった。
「銀様!」
赤き衣を纏う茜、青き衣を纏う竜胆《竜胆》。二人の男は同時に主君の名を呼んだ。
「申し訳ありませぬ。仕損じました」
「狼狽えるな」
銀は部下たちの謝罪を遮った。
「黒檀と牡丹が控えている。そなたたちも疾く合流せよ」
そう言うと銀の姿が揺らぎ、一枚の紙人形へと変じた。主君の分身が消えたのを確認し、茜と竜胆は互いに頷きあい、走り出した。
淋黄らの快楽は一方的な殺戮にある。無力な市井の者を甚振るもよし、調子に乗った呪術師の誇りをへし折るのもよし。しかし、先ほど彼らが対峙した敵は、いずれにも属さぬ強者であると思われた。さすれば最早危険を冒して都に留まる道理はない。
にもかかわらず、魔人たちは不本意にも今だ都を駆けている。門も抜け道も土壁あるいは金の棘で塞がれていた。
虐げるべき存在である人間に追われている屈辱、捕食者から被食者に転じたことへの焦燥が魔人たちから冷静な思考を奪っていた。そうしていることへの自覚すらなく、彼らは巧みな誘導に身を任せていた。。だが、そのことに気づいたのは足元に巨大な五芒星が出現した時だった。五芒星は足枷となり、魔人たちの自由を奪った。
シャリン、シャリン・・・。
歯噛みする魔人たちの前に、錫杖を持った銀が一歩、二歩と迫りくる。戦地に赴く者とは思えぬ泰然とした有様であった。錫杖の先端についた環同士がぶつかり合い、金属質の音を奏でていた。
「破邪顕正!」
そう唱え、銀は錫杖を振る。錫杖の先から光の刃が出現した。人間にとっては神々しい、しかし魔人とっては目を焼く眩しさである。その光に目を奪われた一瞬が命取りであったー最も、警戒を怠らなかったとて結果は変わらなかったであろう―銀は音もなく距離を詰めると、淋黄を一刀のもとに両断した。弦のちぎれた楽器を思わせる断末魔の叫びを上げると淋黄の肉体は崩れ落ち、泡立つ粘液と化した。
銀は錫杖を持ち直した。もう一体調伏すれば今宵の任務は終了する。だが、危機というのは安堵に付け入るようにして襲ってくるものである。
「銀様ああああああ!」
銀の目線の先、延威の背後から黄色い衣に身を包んだ青年、山吹が彼の字を呼ぶ。
「彼奴です!彼奴が来ております!」
なんだと、と返す間もなく高空から彗星の如き勢いで何かが落下してきた。その衝撃が五芒星を砕き、魔人を跳ね飛ばした。
空から降り立った魔人の姿は銀にとってよく知ったものだった。狼を思わせる相貌、額に生えた猛々しい一本の角、その名は。
「狗狼丸・・・!」
銀の眼光が一気に鋭くなる。終幕を目前にしていたはずの今宵の戦いは、生死すら危うい予断を許さぬものへと変わってしまっていた。
「銀様!」
先ほどまで黄色い衣の青年だけがいた所にはさらに赤・青・黒・白の衣を着た者たちが集結し、陣形を組んでいた。
「狗狼丸は我々阿弥陀衆が抑え込みます!」
「待て!」
確かに現在の位置関係でいえば狗狼丸を阿弥陀衆が、延威を銀が相手取るのが妥当である。だが、事はそう簡単ではない。
阿弥陀衆に加勢しようとする銀であったが、その前に延威が立ちはだかった。カチカチと甲殻をかき鳴らし、いくつもの火球が銀に迫る。咄嗟のことに銀は結界を構築して防ぐばかりとなってしまう。その隙をついたというべきか、狗狼丸は阿弥陀衆に襲い掛かった。
狗狼丸は手中に身の丈ほどもある巨大な刀を出現させた。刀の一振りが衝撃波を生み、阿弥陀衆の陣形を崩す。
最初に態勢を立て直したのは赤き衣を纏った茜であった。茜は両掌を使って術を練り上げ、渦巻く火炎を生み出す。
「邪気、退散!」
龍の如き炎の奔流が狗狼丸を吞み込まんと放たれた。狗狼丸は一片の恐れも見せず刀の切っ先を炎流に向けた。
「応!」
という掛け声とともに狗狼丸は突きを繰り出す。刹那、炎が跡形もなく消えた。
「竜胆!牡丹!」
次に立ち上がったのは山吹である。山吹は傍らの2人に呼びかけると呪文を唱え始めた。青衣の竜胆、白衣の牡丹もそれに続く。山吹は荒ぶる暴風を、竜胆は水流を生み出した。さらに牡丹の術で地中から三角錐状の金塊が現れる。金塊に天空から稲妻が落ちる。暴風が水流と稲妻を絡めとり、たちまち竜巻が大地を削り始めた。
「邪気退散!」
3人が声を合わせて叫ぶ。竜巻はその勢力を増しながら狗狼丸へと向かった。狗狼丸は正面に刀を構え、守りの姿勢を取る。そこへ竜巻が直撃する。ムゥという呻りが狗狼丸の口から漏れた。押し切れる、山吹たちは瞳を希望に輝かせた。希望が絶望を深くするとも知らずに。
「ここか」
狗狼丸はそう呟くと竜巻の一点に刀を突き入れた。生成した本人たちですら気づかぬ微細なほつれ、竜巻の腰とでも言うべき一点を魔人の刀が正確に捉えた。竜巻は狗狼丸が引いた刀に引っ張られ、刀身に巻き付くような渦を形成した。
「我らの術を・・・」
「奪ったのか」
山吹と牡丹が呆然と言う。その隙を逃さぬ魔人ではない。狗狼丸は刀を振るい、竜巻を打ち返した。
「させん!」
竜巻の前に阿弥陀衆最後の1人、黒檀が立ちはだかる。黒檀は地面に手をかざし、呪文を唱えた。大地が隆起し、仲間を守る壁となった。だがこの強固な土壁は竜巻と相打ちになり、崩れ落ちた。土埃に思わず目を背ける阿弥陀衆が次に目にしたのは、刀に暗黒の邪気を纏わせる狗狼丸の姿であった。
三日月状の闇の波動が阿弥陀衆を襲う。呪術で強化された狩衣がその衝撃を受け止める。だが、その下の肉体も無傷とはいかない。動けなくなった阿弥陀衆に狗狼丸は容赦なく二撃目を放った。万事休すかと思われた刹那、白銀の光が闇を打ち抜いた。
「狗狼丸!」
魔人は新たなる敵に向き直る。
「私が相手だ」
錫杖を構えた銀がそこにいた。狗狼丸はその背後を見やる。無数の白銀の糸が延威を地面に縫い付けていた。
銀に敗れた魔人がまだ現世にいることを確認した狗狼丸は強敵に向かって吠えた。銀は右手の錫杖に光の刃を、左の掌に白銀の五芒星を生成した。
竜虎相搏つ。光と闇の達人の闘いが幕を開けた。
最初に仕掛けたのは狗狼丸である。邪気が這う刀を銀に叩きつけた。銀は五芒星で刀を受け止める。光刃が鞭に変化し狗狼丸の鳩尾を打った。狗狼丸は顔を苦痛に歪めながらも後方へ飛びのいた。そして、跳躍。今度は右脚に邪気を集中させ、蹴撃を放つ。銀は光刃で正確にその右足を突く。バチバチと暗黒と光輝が弾けた。爆発。
月光の下、2人は再び刃を交える。知らぬ者が見れば舞を踊っているかのように思えるであろう。それは2人の戦闘能力が伯仲していることの証左であった。
狗狼丸はこの闘いに辟易していた。元より彼の獲物はこの人間たちではない。眼前の強敵を喰らうのはまた後でいい。狗狼丸はありったけの邪気を刀に注入した。
「戯れは終いだ」
「何!?」
狗狼丸はその場で振り返り、刀を地面に突き刺した。暗黒の力が半同心円状に広がる。その先には倒れ伏す阿弥陀衆がいる。銀の行動に迷いはなかった。銀は狗狼丸に目もくれず阿弥陀衆の下へ駆けた。すぐさま結界を構築し、闇の怒涛を受け止める。
全ての波を受け止め切った時、そこには朽木のようになった刀だけが残されていた。2人の魔人は忽然と消えている。
「銀様、申し訳ありませぬ」
茜が上体だけを起こして言う。
「我らが不甲斐ないばかりに、狗狼丸も延威も取り逃がしてしまいました」
「言うな。そなたたちが無事であっただけ良い」
銀は眼前の夜を見つめたまま言った。
「それに、延威に限って言えば最早脅威ではあるまい。恐らくだがな」
「ナゼだ」
延威は問う。見上げた狗狼丸の顔は月光に照らされ不気味に輝く。
「ナゼ我を喰らうッ!狗狼丸!!」
狗狼丸は延威の甲殻を力づくで剥がし、その下の紫色の肉を貪り喰っていた。
「我が愉悦故に。それだけのことなり」
問答は終わりだ。そう告げるかのように以後狗狼丸は無言で延威の肉を喰らい続けた。生きたまま肉を喰われる苦しみに悶える魔人を月だけが見つめていた。