(5)
「オストレア、準備できた?」
朝、扉をたたく音に今行くと応え、オストレアはシャツに赤いベストを着てから部屋を出た。待っていたモラにおはようと挨拶をし、そろって食堂へ向かう。今日の合同練習ではどの唱法をあわせようと相談していると、食堂付近の廊下でくすんだ青い髪の女生徒と会話しているラクスを見つけた。
モラが眉間にしわを寄せる。そのときラクスが二人をかえりみてぱっと笑顔になった。女生徒に別れを告げてすぐさま寄ってくる。ラクスの腕をつかんで引きとめようとしたもののあっさり置き去りにされた女生徒は、モラをねめつけてぷいと身をひるがえした。
「おはよう、二人とも」
助かったとばかりにラクスはにこにこしている。しかしいつも明るいモラは珍しくむすっとしていた。
「サルディーネと何の話?」
「ああ、行方不明になった生徒の一人はリマンダらしくて」
内部警備はニグレードー・マールムとプルプラ・マールムが主に担当しているので、そのことをサルディーネが話題にしてきたのだとラクスは弁解した。
では彼女がサルディーネか。髪の色も髪型も自分に似ているので、オストレアは少し嫌な気分になった。
「まだラクスとしゃべりたりないって顔してたわよ」
にらまれたんだけどと口をとがらせるモラに、「勘弁してくれ。僕はモラ一筋だよ」とラクスが困ったさまで言う。
あれ、とオストレアは引っかかりを覚えた。
「モラ姉さんたち、もしかして付き合ってる?」
オストレアの追及に、モラが頬を朱に染めて目をそらした。
「あー、まあ……一応……?」
曖昧なモラの返答に、ラクスが笑った。
「三日前からね。僕が告白したんだよ。入学したときからずっとモラのことが好きだったんだ」
「ちょっとやめてよ、朝から」
「このとおり、モラは恥ずかしがり屋だから、なかなかいちゃいちゃできなくて僕は不満なんだけど」
「だって、私はいい友達だと思ってたんだもの。そんなすぐにすぐ恋人扱いなんかできないわ」
「……モラ姉さん、かわいい」
しっかり者のモラが初めて見せる恥じらいについ漏れてしまったオストレアのつぶやきを、ラクスが拾い上げた。
「そうだろう、オストレア。モラはすごくかわいいんだよ」
オストレアの手をガシッと両手で包んでブンブン振るラクスに、「だからそういうことを言わないでってば」とモラが真っ赤になって駆け出した。
「僕とサルディーネのこと、モラは妬いてたよね」
上機嫌でモラを見送り、ラクスがオストレアを見やった。
「本当は今年の舞踏会で告白するつもりだったんだけど、モラが君の話ばかりするから、友達のままだと僕の存在が薄くなりそうでちょっとあせったんだ」
モラは僕の気持ちに全然気づいてなかったみたいですごく驚いてたけど、受け入れてくれてよかったよと言うラクスは、いちゃいちゃできないというわりにとても満ちたりた表情をしていた。
朝食は無理に班で食べなくてもよかったが、戦闘科の生徒は自然と集まる班が多い。オストレアもラクスと別れてから自分で選んだ朝食を持って、先に逃げたモラがいる仲間の輪に加わった。
「モラ姉さん、リマンダって誰?」
「知識科の半魚族で四年生よ」
モラの返事をエグルが引き継いだ。
「たしか、幼馴染との恋がうまくいかなかった子だね」
「よく知ってるわね、エグル」
「あの後に行方不明になったから、相手の男が自己保身と身の潔白の主張で騒いでたんだ。ずいぶんひどい振り方をしたみたいでさ」
辛い味付けの肉を口に運びながらエグルが言う。
「俺も聞いたな。男のほうはジェローシアに夢中だそうだ」
朝から驚くほどの量をもりもり食べながら、マスィーフも会話に入る。彼はどうやら魚が好きらしく、頑丈な歯で骨までかみ砕いている。
「他にも、半羊族の一年生、半兎族の二年生がいなくなったわ」
ソンリッサの報告に「がっついてるな。その調子でいけばすぐバルバルス・オースになりそうだ」とタオヘンが顔をしかめる。
「荒らしているのは一人だけですか?」
カシェの問いに、「まだわからないわ」とソンリッサはかぶりを振った。
「これだけ立て続けに襲っているから一年生であることは確かだけど、上級生にいないともかぎらないの」
普段何らかの形で自制している生徒が、騒ぎに乗じてこっそり食らっている可能性もある。彼らは毎年犠牲者がたくさん出るこの時期だけ食事をして、最後は卒業間近に大暴れしてメソス・スコラから脱出するのだ。そしてそのときはたいてい総母を連れ去る。四年かけて総母を捜すと知り、オストレアはぞっとした。
「ジェローシアのように堂々と総母であることを公表する女の子は少ないから、彼女がどうなるか興味があるよ」
言葉のわりに、エグルはジェローシアに関心がなさそうだ。そもそもエグルは特定の女生徒と親しくする気がないのではないかと、このところオストレアは思っていた。
博愛主義なのだろうか。他種族との疑似恋愛を楽しんでいるようでいて、注意深く一定以上踏み込ませないように線を引いているような――。
「オストレア、そんなに見つめられると、さすがの俺でも照れるよ」
エグルに苦笑され、オストレアははっと我に返った。「ごめんなさい」と慌てて頭を下げる。
「エグル先輩は芸術科の生徒から依頼が殺到したんじゃないですか?」
きっとタキュスもだろうが、彼が引き受けることはまずないなとオストレアが一瞥すると、案の定タキュスは自分には無関係だとばかりに黙々と食べていた。今日も同じ果物が盆にあるので、好物なのかもしれない。
「それはもう、毎年すごいよ。でもすべて断ってる。一人の希望をかなえると大変なことになるからね」
さらりと答え、エグルは口角を上げた。
「そういえば、オストレアとカシェは捕まってたね」
「あー、見た見た。なんか四人で楽しそうにしてたな」
いいよなあ、俺は頼まれたことがないと、タオヘンがぼやく。
「弟があの場にいたそうだ。かすかに聞こえてきた歌がやたら耳に残って離れないから、誰だろうってみんなざわついてたと」
声の主がオストレアだとわかったとたん、芸術科の男子生徒がいっせいに動いたと弟がおかしそうに話していたことを語るマスィーフに、オストレアは弱々しく苦笑った。弟のソリドとはまだ会ったことがないが、向こうは顔を知っているらしい。
「ところでオストレア、俺もモラと同じように呼んでくれないかな」
モラ姉さんっていい響きだよねと期待にあふれた笑顔を向けてくるエグルに、オストレアは首をかしげた。
「……エグル姉さん?」
ぶふっと吹いたのはタキュスだけではなかった。皆がむせ、爆笑へと流れる。やらかしたと気づき、オストレアは赤面した。
「まさかそうくるとは……」
エグルまでが苦しそうに腹をかかえて震えている。
「ごめんなさい。えっと、エグル兄さんってことですね?」
「そうそう。いや、まあ別に姉さんでもいいけど」
自分で言ってエグルが笑いをぶり返す。ソンリッサも目にたまった涙を指でぬぐい、手を挙げた。
「私もリサ姉さんって呼んでほしいわ」
「ああ、じゃあ俺も――兄さんで」とマスィーフが誤解のないよう呼び方を指定する。
「俺は先輩のままがいいな」と言ったのはタオヘンだ。オストレアは最後にタキュスを見た。
「タキュスお兄……」
「呼び捨てでいい」
この際とばかりに入学初日の仕返しを試みたが、さすがにつけ入るすきを与えてはくれなかった。しかしタキュスはまだ咳き込んでいる。よほどはまったらしい。
カシェも呼んでくれと上級生に指示されたので、とまどい顔でカシェが承知する。
呼び方が変わるだけで一気に親しみが増した気がして、オストレアは笑みをこぼした。この班に自分を責める者はいない。陰口をたたかれることはないのだ。
歩行練習を頑張って集落を出てよかったと、オストレアは心から思った。
昼休憩は昨日と同じ場所で待ち合わせ、ブジャルドとファルベの手がとまらない程度にオストレアたちはおしゃべりをした。ただ、周囲に人が多い気がする。遠巻きにちらちら見られていると言うべきか。
カシェも感じたようで、「場所を変える?」と提案してきた。
「たぶん、オストレアが歌うのを待ってるんだろうね」
ブジャルドが手を休めることなく言う。ファルベも相変わらず姿が消えているので、二人ともすごい集中力だ。
「半魚族の憩いの噴水池をのぞけば、誰かは歌ってると思うんだけど」
モラの話によると、そこでは半魚族は本来の姿に戻ってくつろいでいるという。基本的に半魚族は歌うことが好きなので、時には大合唱になることもあるらしい。
「その噴水池に行ったら、オストレアも元の姿になるのかい?」
観客の視線にはまるで頓着していなかったブジャルドが反応した。
「やっぱり歩くより泳ぐほうが楽だし、下半身が浸かるくらいの水があれば、気分転換に水遊びしたいなって思うわ」
「見たい」とブジャルドが身を乗り出して迫った。
「君の本来の姿をぜひ写し取りたい。これから行かないか?」
「ごめん、今日すぐは無理だわ。一度モラ姉さんに連れていってもらわないと」
ブジャルドの勢いにやや驚きながらオストレアは断った。憩いの噴水池に入るためにはまず、すでに通っている半魚族と一緒に行って同族であることを示す必要があるのだ。
「変わった決まりだね。儀式か何かでもするの?」
カシェの質問にオストレアは首を横に振った。
「一回くっついていけば、後は一人でも大丈夫なの。ちょっとした礼儀みたいなものかな。ここは故郷より水が少ないでしょ? だから、貴重な場所を共同で使わせてくださいっていう最初の挨拶だと思ってくれれば」
「なるほど……でもそれだと、他の種族は近づいちゃだめなんじゃない?」
「噴水池に入らなければかまわないってモラ姉さんは言ってた」
ただし、もしふざけて入った場合、そこにいた半魚族たちから攻撃されてしまうという。
「どんな罰を受けるんだい?」
どうやら描き終わったらしく、ブジャルドがペンを片づけはじめる。
「数日間頭痛に悩まされて眠れなくなる歌を聞かされることが多いそうよ」
「……半魚族って……おっかないね」
再び姿を見せたファルベをはじめ、カシェとブジャルドも顔をしかめ、オストレアは反論できずに肩をすくめた。
オストレアはもちろん、カシェも戦闘への参加を教師から許可されたので、二人を加えた出動日や場所などについて、カエルラ・マールムは戦闘科長であるオペラツィオーネから指令書を受け取った。一年生が初めて参戦する班は連携を結んでいる班と共闘することになっている。班長のソンリッサはルボル・マールムに声をかけ、承諾してもらったことを夕食時に皆に報告した。
そしてオストレアはモラにブジャルドの希望を伝え、明日の昼休憩に憩いの噴水池に案内してもらう約束をした。
翌日、モラとなぜかついてきたラクスに連れられ、オストレアは初めてメソス・スコラにある半魚族の憩いの場所に赴いた。
想像していたよりずっと大きな円型の噴水池は深さもそれなりにあるようで、すでに何人かの半魚たちが潜ったり浮いたりして気持ちよさそうに泳いでいた。
縁に腰かけて雑談していた半魚たちの目がぱっと集まったので、オストレアは緊張した。モラが笑ってぽんと背中をたたいてきたのにあわせ、できるかぎりにこりと微笑んで噴水池の縁に座る。冷たい水にひたした足を銀色の尾びれに変えると、解放感がわき上がってきた。
後ろで息をのむ気配がする。ブジャルドは紙とペンを手に凝然としていた。
モラが手招きし、近づいてもいい距離まで誘導する。五歩程度離れたあたりでとめたが、ブジャルドには十分だったようで、「オストレア、こっちを向いて」と声をかけてから何枚にもわたって写生していった。
「すごい速さだね」とラクスが目を丸くする。「しかもうまいわ」とモラも驚嘆した。周辺に積み上げられていくオストレアの絵に、他の半魚たちものぞきに来る。
「審査は私たちの初戦闘と同じ日なんだって。だから完成品を見られないかも」
「あら、でもたしかしばらくは公開展示するはずよ」
「受賞したものは中央校舎に飾られるしね」
けっこういいところまでいくんじゃないかなと、ラクスがブジャルドを尻目に見たとき、「ねえ、あの子……」という声が耳をかすめ、オストレアはびくりとした。
「ほら、お母さんが……」「ああ、あの……」「バルバルス・オースも追ってきてるんじゃない?」とささやきがさざ波のごとく広がっていく。他の集落出身者も話を聞いて迷惑そうに刺すようなまなざしを投げてきたので、オストレアはうつむき、唇をかんだ。
「モラ姉さん、ごめん。ブジャルドも描けたみたいだし、行くね」
「オストレア――」
引きとめようとしたモラに無理に笑って、オストレアはまた人の足に戻ってブジャルドをうながした。モラとラクスに手を振り、噴水池から逃げ出す。
無言であてもなく歩いていると、「色の確認をしたいから、ちょっと僕の部屋に寄ってもらっていい?」とブジャルドが誘った。オストレアは人目を避けられるならどこでもよかったので、ためらいなく承知した。
寮は所属する科により分けられている。芸術科の寮に初めて足を踏み入れたオストレアは、建物内を興味深く見回した。
「戦闘科とは雰囲気が違う?」
「そうね。構造は同じだと思うけど、何となく絵の具とか、石粉っぽい匂いがするわ」
「みんな部屋で夜通し作業していることがけっこうあるから」
一度始めると夢中になってしまい途中でやめられないので、慢性的に寝不足になっている生徒が芸術科には多いという。ひどいときは廊下のあちこちで力つきて倒れていると聞き、オストレアは笑った。
「君はやっぱり笑顔が似合うよ」
いつも黒眼鏡をかけているので、ブジャルドの瞳がどんな色を奏でているのかわからない。でも声は優しくて、オストレアは目を伏せた。
「せかしちゃってごめんね。メソス・スコラに来れば気にしなくてすむかもって期待したんだけど」
幼い頃にバルバルス・オースに襲われたこと、自分や他の子供たちを逃がそうとして母が捕まったことをぼつぼつ話す。
「君のお母さんは総母だったんだね?」
こくりとうなずくと、「そうか」とブジャルドはつぶやいた。
「総母の子は才能豊かだってよくうらやましがられるけど、案外悩みが多いよね……ここだよ」
ブジャルドが一室の扉を開けた。
入る前にちょっとのぞき、作業机だけでなく床にも散らばっている自分の絵に、オストレアは唖然とした。
「すごい量だね」
しゃがんで一枚一枚を丁寧に拾うブジャルドを手伝ったものの、あまりの数に落ち着かない。
「君のおかげで本当にいいものができそうなんだ。最初に芸術科に決まったときは、正直あまり気乗りしなかったんだけど」
それまで絵を描くどころか芸術とは無縁の生活を送っていたというブジャルドに、オストレアは驚いた。
「経験がないのにここまでできるなんて、やっぱり適性検査の精度は高いのね」
「君が僕の創作意欲を刺激してくれるんだよ。他の女の子だとこんなふうにはならなかった」
未提出も覚悟して気晴らしに散歩していたらオストレアの歌声が聞こえてきて、この子だと飛びついたんだとブジャルドが破顔する。
「お役に立てて光栄です」
照れ臭さをオストレアはおどけた口調でごまかした。
足の踏み場ができたところで、ブジャルドは絵の具を出してオストレアと見比べはじめた。
「銀が難しいな……君の色がどこまで出せるかな」
これとこれを混ぜて、と独り言を吐くブジャルドのそばに寄ったオストレアは、ブジャルドに話しかけようとしてその胸元に光るものを見つけた。
視線を感じたのか、ブジャルドが「ああ、これ?」とシャツからのぞく鎖形の首飾りを指さした。
「母さんからの贈り物だよ」
そしてブジャルドは、「君の耳飾りもきれいだよね」と言った。
入学日にカシェと話しているのを、ブジャルドは後ろで聞いていたという。
「参考に、ちょっと見せてもらってもいい?」
手をのばしてきたブジャルドをオストレアはとめた。
「だめ」
少しきつい語調になってしまったかとあせり、オストレアは眉尻を下げた。
「ごめんね。大事なものだから失くさないように注意してるの」
「へえー……たとえば何かを封じてるとか?」
低い問いかけに、はっと言葉に詰まる。黒眼鏡の奥の瞳が自分の正体を暴こうとしているかのようで、オストレアは緊張しつつ微苦笑を漏らした。
「その理屈だと、ブジャルドも秘密があるってことになるよ」
「確かに、僕は後ろめたいことばかりだ」
ブジャルドの返しに一緒に笑ったものの、オストレアは何となく警戒心がぬぐえず、部屋を出ることにした。
「オストレア、僕は君の絵で最優秀賞をとるよ」
だから初戦闘が終わったらぜひ観てほしいと熱のこもった誘いをかけられ、「うん、楽しみにしてるね」とオストレアは微笑んで立ち去った。