(3)
その日の夕食後、半魚族の女生徒は知識科舎に忘れ物をしたことに気づき、寮を出た。明日の小試験に必要な教科書だったので取りに行かざるを得ず、一人小道を急ぐ。
恋人たちが過ごしているのか、時折ささめきが耳に触れ、女生徒は口の端を曲げた。順調なら今年修了証を手にできるので、帰郷する前にできれば結婚を約束したかったが、先日勇気を出して幼馴染に告白したら鼻で嗤われてしまったのだ。君は太りすぎだ、本来の姿になると腹が目立ってみっともないと。
もともと歩くのが苦手な種族だったこともあり、余計な運動は疲れるからと億劫がったら、みるみる肉がついた。今はもう自分でも半魚族が集う憩いの噴水池に行くのがためらわれるほどだ。それでも、泳ぐ生活に戻れば体型はすぐ元通りになると思っていた。
優しかった幼馴染は、メソス・スコラに来て変わった。他の種族の女生徒と戯れの恋を繰り返し、遊びに興じた。今は一学年下の総母に夢中だが、『取り巻き』には入れてもらえないようだ。
自分だってたいした器量ではないくせに。胸をえぐられた言葉にいらいらした女生徒はつと、何かの気配を感じた気がした。ふり向くが誰もいない。
思い違いだろうか。もしかしたら彼が謝罪に追ってきたのではと、わずかに残る期待にすがっているせいか。
ふうと長大息をついた次の瞬間、女生徒は薄闇の中で背後から口をふさがれた。
いつの間に――悲鳴はしかし、あげられなかった。
「丸々とした魚だな。脂が多そうだ」
舌なめずりの音が耳元でする。吐く息は血生臭く、これまでたくさんの肉を食らってきたのが嫌でもわかる。
もう片方の腕が首に絡みつく。ゆっくりと締め付けられ、恐怖と苦しさに女生徒は抵抗したが、相手はびくともしなかった。
こんな……こんなところで。
冷や汗が首筋を伝う。
震えながら女生徒が最期に横目で見たものは、頭一つを丸呑みできるほど異常に大きく開かれた口だった。
翌日の昼休憩、カシェは用事があったのでオストレアは一人で図書館に赴いた。緊張しながら扉を開き、壁一面に設置された本棚とびっしり並べられた書物に息をのむ。
「うわあ……すごい」
紙の本だとこんなにたくさん収納できるのか。圧倒されて立ちつくしていたオストレアは、ふと鼻をついたリンゴの匂いにどきりとした。慌てたところで「どけ、邪魔だ」といきなり背後から突き飛ばされ、前のめりに転ぶ。
驚いてふり向き、オストレアは目をみはった。少なくない数の男子生徒に囲まれた知識科の女生徒は、大きく開いた胸元にリンゴの痣をのぞかせていたのだ。
「入り口でぼうっと立っていると危ないわよ」
腰のあたりまで届く淡黄色の長い髪をやわらかくうねらせ、女生徒は肉厚な唇に笑みをたたえて言った。
唇だけではない。胸も尻も厚みがあって全体的に蠱惑的だ。褐色の瞳は少し潤み、左目の下にあるほくろがまた色香を醸し出している。
「――すみません」
急いで脇へどけたオストレアの視線が胸元のリンゴにそそがれていることを確認し、女生徒は満足げな容相で過ぎていく。目で追えば、図書館内にいた生徒たちがさっと道をあけて一団を通していた。
「オストレア、けがはない?」
図書館内にいたらしくそばへ寄ってきたモラに、オストレアは「大丈夫」と答えて立ち上がった。
「あの人……」
「ジェローシア。半犬族で、知識科の三年生だよ」
漂ってきた香りに加え、彼女の胸元にあったのは『総母』の印だった。
「あんなに堂々と見せる人がいるんだ……」
「目立てばみんなが監視しているようなものだから、もしメソス・スコラに半蛇族が紛れ込んでいても守ってもらえるって思ったんじゃない?」
なるほどと納得しかけたオストレアに、モラが肩をすくめる。
「まあ、あの人の場合、ちやほやされたいっていうのが一番の理由だろうけど。特に引き連れる男子は選別してるんだって」
あの取り巻き、すごいでしょと言われ、確かにとオストレアもうなずく。彼女のそばにいるのは種族も在籍する科もばらばらながら、みんな比較的顔立ちのいい男子生徒だったのだ。
そしてオストレアは首をかしげた。タキュスはモラと同学年なので、ジェローシアとも同じだ。さらにもし学年問わずなら、タキュスだけでなくエグルもジェローシアが放っておくとは思えない。
オストレアの疑問を察したのか、モラがにんまりした。
「タキュスとエグルは、ジェローシアがどれだけリンゴの匂いを振りまいても、まったく食いつかなかったのよ。タキュスは普段からほとんどの人に対してあんな態度だし、エグルは逆に女の子に優しいけど誰にでもそうだから、ジェローシアを特別扱いしなくて……だから、ちょっと気をつけたほうがいいかも」
いっこうになびかない二人にジェローシアは相当じれているらしい。同じ班というだけで自分もにらまれているので、オストレアがタキュスに乗ると知ったら癇癪を起こすかもしれないと忠告され、オストレアはげんなりした。好きでタキュスと組むわけではないのに、嫌がらせなどされたら迷惑だ。
「組み合わせってどうしても変えられないの?」
すがる目でモラに尋ねると、モラは腕組をしてうなった。
「戦闘科の半魚族は必ず半馬族と組むことになってるからね……それに実は去年も、戦闘科に決まった半魚族の子を見に行ってこいって命じられてタキュスが向かったんだけど、相手と視線があうなり引き返してきちゃったの」
結果、その女生徒は別の班に配属されたという。
「ちょっと好き嫌いが激しすぎない?」
「まあ、タキュスは特別そうかも。でも半馬族って本当に敏感なところがあって、仲良くしたくないってちょっとでも感じたら絶対に乗せられないんだって」
さわられると気持ち悪くて振り落としたくなるってリサも言ってたとモラが語る。モラとソンリッサは最初から互いに好意をもち、とても良好な関係を築いていると聞き、オストレアはうらやましく思った。
「私、タキュスに好かれてる気がしないんだけど」
モラの話からすると、少なくともタキュスは自分ならかまわないと判断したことになるが、休憩時間などに視線を感じるわりに面と向かえばそっけないので、正直苦手だ。
「そうね、みんなその点はまだ安心してないというか、様子見してるのよ。ただ、タキュスが乗せて帰ってきたってだけで見込みがあるのは間違いないわ」
女の子に冷たいのは集落にいた頃からなので、本人もそうすぐにすぐは変わらないだろうというのがソンリッサたちの意見らしい。
「昔からモテてたとか?」
それで女の子を鬱陶しがるようになったのだろうか。
「うん、そうだね。それに……」
言いさして、モラは同情めいた面持ちになった。
「タキュスもオストレアと一緒で、早く集落を出たがってたの」
オストレアが目をみはったところで、名を呼ばれた。ファルベが頬を上気させて駆けてくる。
「メソス・スコラには半魚族が憩う噴水池があるから、また近いうちに行こうね」
新しい友達に気をつかったらしく、モラが去っていく。入れ違いにやってきたファルベはあたりをきょろきょろした。
「今日、カシェは一緒じゃないの?」
「戦闘に使う武器の選定があるんだって。カシェに用事?」
「あ、えっと……その……課題の絵、カシェにお願いできないかなって思って……」
ファルベの声が小さくなっていく。
「そう言えば、昨日描くものを探してたんだよね。課題って何?」
尋ねると、ファルベは真っ赤になってうつむいた。
「……輝いている異性」
オストレアも返答に詰まった。芸術科の全学年が同じ課題に取り組むらしいが、入学してすぐの題材としてはなかなか難しい。しかも相手の許可を取らなければならないというからなおさらだ。
オストレアから頼んでもらえないかとファルベに懇願されたが、自分で交渉したほうがいいよとオストレアは勧めた。主題が主題だけに、安請け合いしてもカシェを逃がしてしまう可能性がある。
エグルなら気軽に承知してくれるかもと考え、オストレアはふと気づいた。あの美人な半馬はタキュスに依頼していたのかもしれない。
輝いているといってもいろいろだ。外見はともかく、タキュスの内面は――昨日偶然目にした笑い顔に鼓動がはね、オストレアは頭を振って追い払った。いつもあんなふうだったら、こちらも距離を縮める努力ができるのに。
本当に親しくなれるのだろうか。コルヴォの言葉ではないが、戦いよりタキュスに乗るほうが怖い。
変に注目を集めたくもないし、やはり好きだ好きだ連呼作戦を実行しようかなと、オストレアはため息を吐き出した。
モラの単体攻撃の歌にオストレアの範囲唱法がぴたりと重なる。力強い旋律は大きな波動となって二人の周囲に広がり、バルバルス・オースの幻影を一気に消し去った。
「すばらしい!」
よくほめるカルマール先生がことさら大声で称賛し、練習をやめて見ていた他の班の半魚たちも拍手する。まだ入学したばかりの一年生なのにと誰もが驚いていた。
「やったわ、オストレア! 大成功ねっ」
一発でこんなにきれいに決まるなんてと、モラが興奮気味に抱き着く。無事に役割をこなしたことに安堵しつつ、オストレアも喜んだ。
モラの歌は速さも音程もぶれないから思い切っていけるのだと笑うオストレアを、「もう、本当に最高だわ」とモラがますますぎゅうっと抱きしめる。
その後は防御、治癒、攻撃力や防御力上昇などを試したが、どの唱法も鮮やかに決まったので、「言うことなしです。これならすぐにでも参戦できますね」とカルマール先生の大絶賛で授業は終了した。
「お疲れ。とんでもない子が加わったね」
若葉色の髪に茶色い瞳の男子生徒がにこにこしながら寄ってくる。ルボル・マールムの一員で名はラクスだと、モラはオストレアに紹介した。
ラクスはモラと同学年で、班長のシュタルクと組んでいるらしい。友好的な班ということもあってか、ラクスの態度はとても柔らかかった。
「さすが、タキュスに選ばれただけのことはあるね。連携をとるこちらとしても嬉しいよ」
「選ばれた……っていうより、さらわれたんですが」
あの日のことを思い出してオストレアはむうっとした。いかにタキュスが乱暴にオストレアを乗せて連れていったかを聞き、ラクスは苦笑まじりに吹き出した。
「タキュスらしいな。でもああ見えて面倒見がいいんだよ」
去年の共闘の際、ルボル・マールムに所属する半熊族のソリドと半猿族のレッジェロが逃げるバルバルス・オースを追って少し集団から離れてしまい、別のバルバルス・オースに横から襲われたとき、タキュスが助けに入ったのだ。しかも二人を乗せて仲間のもとまで駆け戻ってきたという。
初めての戦闘で冷静さを欠いて勝手に動いた二人は、後で班長のシュタルクにがっつり叱られた。特にソリドは兄のマスィーフからも説教され大いに反省したが、お調子者であぶなっかしいことをするレッジェロは今でもよくタキュスの世話になっている。いいかげんにしろと毎回怒りながらでもなんだかんだ援護しているからタキュスは優しいよと意外な話を聞かされ、オストレアは目をしばたたいた。
そんな状態ならタキュスがいないと大変なことにならないか尋ねると、共闘しないときはレッジェロもそれなりに慎重になっているから大丈夫とラクスは答えた。タキュスがいると安心するのか少々無茶をしてしまうみたいだと。
眉間に深いしわを寄せてあきれているタキュスが目に浮かぶ。あのタキュスに何度も頼るなど、かなり神経が図太くないとできないだろう。
「今年はもうタキュスに乗る子が入ったから、今までのようにはいかないぞってシュタルクが言い聞かせてる。そのうち落ち着くことを僕たちも期待してるんだけどね」
まだしつけの最中とわかるラクスの発言に、「あれはけっこう時間がかかりそうよね」と同調したモラの視線が、つと練習場の入口へ流れた。
ぞろぞろと出ていく半魚族の生徒たちの一人を見つめるモラに、ラクスも黙る。薄青色の髪を背中あたりまでのばした少女は落ちくぼんだ紺青色の目を伏せ、誰とも関わろうとしないままふらふらと去っていった。
「もう限界じゃないか」
あれではもし歌えるようになっても本人が危ないとラクスが眉をひそめる。誰かと聞いたオストレアに、二グレードー・マールムに所属している二年生のルビーナだとモラは教えた。
去年タキュスが拒んだ生徒はまさか彼女なのかと重ねて質問すると、それはサルディーネで、問題のプルプラ・マールムに配属され、例の事案でも生き残ったという。
「やっぱりタキュスの目は確かだね」
ラクスが不快げにこぼす。周りに責められたとき、自分は悪くないとサルディーネは泣き散らした。一年生に何ができると。
確かに上級生の指示に逆らうのは難しい。だが我こそが被害者という姿勢を今も崩さないのは釈然としないと、ラクスとモラはぼやいた。助けてもらったことに感謝すらせず、逆にバルバルス・オースに押し負けたニグレードー・マールムをサルディーネたちは恨んでいるのだ。彼らのせいで今後バルバルス・オースに狙われ続けるし、メソス・スコラで卑怯者とののしられることも許せないらしい。
それはタキュスでなくても拒否したくなると納得したオストレアは、昨日のコルヴォとの会話を思い出した。コルヴォもルビーナも、ニグレードー・マールムの全員がまだ悲しみに沈んでいるに違いない。
「ルビーナは『魂読みの歌』を習得しようとしてるんだ」
マレットから送られてきた泡魂を開封するために必死になっていると、ラクスはすでにいなくなったルビーナを追うように視線を出入口へ向けた。
殉職した半魚はルビーナの幼馴染で、もしルビーナが戦闘科に決まったら班に迎え入れたいと希望していた。だからカエルラ・マールムもルボル・マールムも彼女をニグレードー・マールムに譲ったのだ。
自分の命を削って作る泡魂は半魚族だけが使えるものだが、伝言を開封するには魂読みの歌が必要になる。しかし魂読みの歌は非常に難度が高く、無事に歌いこなしてもかなりの体力を消耗してしまうため、開封する側も万全の態勢でのぞまなければならない。弱っている状態で無理に挑めば命を落とす恐れもあった。
おそらく死ぬ間際に作成したのだろうマレットの最期の言葉を少しでも早く知りたくて、ルビーナは魂読みの歌にかかりにきりになっている。それが終わるまでルビーナは復帰できないだろうとコルヴォも考え、警備の任務から外してやっているらしい。
ニグレードー・マールムは本当に満身創痍に近い危機的状況なのに、後を任されたコルヴォは残された班員を気づかい、時間をかけてでも浮上しようともがいている。きっと互いにいたわりあっていた班だからこそ、大きなくくりで仲間とみなしてプルプラ・マールムの要請にも応じたのだ。
利害抜きで、弱体化したニグレードー・マールムに手を差しのべようとするエグルたちの気持ちがよくわかる。
悼みをさらにえぐられ傷つけられた日々を――得られなかったなぐさめをオストレアは頭から払いのけ、自分にできることがあればと思った。