婚約成立
「……こほん。クラーラ様、失礼いたしました。これよりレナート様からお言葉をいただきます。ほら、早く早く」
「ああ、すまない。俺が婚約相手のハルトリー辺境伯レナートだ。もちろんはじめましてだよね。こんな美人、一度見たら忘れるわけないし。そもそも俺は領地から出られないし」
「政務がお忙しいのですか?」
レナートは勤勉だ。
王都で遊説してばかりで、領地の管理を配下に任せる貴族とは違う。
また政務だけではなく、個人的な魔術の研究も進めている。
だが、領地から出ないのには別の理由がある。
彼はため息まじりに告白した。
「たしかに仕事は忙しい。だが……王都に行くと夜会とかサロンとか、人付き合いがあるだろう? えーっと……嘘がつけない性質上、とある令嬢に『マナーがなってませんね』とか言ってしまって。それで激怒されて、トラウマになって王都には行かなくなったんだ」
「なるほど。ええ、マナーがなっていないのはよろしくないですね。わざわざ指摘はいたしませんが、そのご令嬢は自分を見つめ直すべきです。とはいえ、レナート様が社交界に出るのは難しそうですわね……」
「そう、それなんだよ。リナルディ伯爵令嬢は王都のご令嬢だから、夜会とか貴族との付き合いとか大好きだろう? だから俺のような引き籠りとは反りが合わないと思う。王命とはいえ、婚約がどうしても嫌なら……」
スッ――と。
クラーラは口の前に指を立てる。
彼女はにこやかに微笑んで、レナートの美しい碧眼と視線を合わせた。
するとレナートは恥ずかしそうに横に視線を逸らす。
「クラーラ、で構いませんわ。私たちは夫婦となるのですから。そして婚約についても謹んでお受けします。私、あいにく夜会の類にはあまり参加しませんの。そしてレナート様の専門である、黒魔術の研究が趣味ですわ」
家族の前では憚られて言えなかった言葉。
黒魔術。口にするだけで父から拳が飛んできそうで。
だけどレナートの前なら、この雪のように柔らかい印象を持つ彼になら……遠慮なく自白することができた。
レナートはハッと顔を上げて、クラーラに迫った。
「ほ、本当か!? リナルディ伯爵家のご令嬢が黒魔術を!? 魔力量は? 専門は? うちの図書館にたくさん魔術書があるんだけど、よかったら一緒に……」
「はい、旦那様。クラーラ様を困らせない……っと」
ぐいとレナートを引き戻すジュスト。
やはりりレナートは興味あるものに関しては饒舌になる性格らしい。
クラーラも同じような性質だと言うことは、口が裂けても言えなかった。
魔術書がたくさん。
本の虫である彼女からしたら、どれだけ嬉しいことか。
いつかレナート共に夜なべして読みふけりたいものだ。
「ともかく、婚約は成立です。レナート様、今後ともよろしくお願いいたしますね」
「あ、うん……よろしく。別に俺が嫌な男だと思ったら、すぐに婚約破棄してくれていい。俺が旦那なんてかわいそうだ」
「ふふ……そんな未来は訪れません」
ずいぶんと自己肯定感が低いようで。
自分をすてきな男性だと思えるように、クラーラが教えたい。
きっとレナートは世界を知らないのだ。
辺境で一生のほとんどを過ごし、だからこそ嘘をつけないという制約があっても、純粋な本音がスラスラと出てくる。
彼の人生に少しでも彩りを。
それがクラーラが最初に抱いた、レナートへの印象だった。
サラサラと羽ペンを走らせる。
クラーラ・リナルディは本契約書をもって、レナート・ハルトリーの婚約者となった。
「いまだに実感がわかない……俺にこんなかわいらしい婚約者が? ジュスト、これは夢だと思うんだ」
「夢ではありません旦那様。そんなことを言うとクラーラ様に失礼ですよ」
頬をつねるレナートを眺めながら、クラーラは考える。
婚約者になったとはいえ、まず何をすればいいものか。
普通の令嬢といえば、夜会などで腕を組んでエスコートを受けたり、ダンスをしたりするものだが……彼は辺境から出ない。
「あ、そうそう。まずはクラーラのご実家……リナルディ伯爵家に支援金を送らないとな」
「あら、それでしたら必要ありませんわ。実家には何も送らないで結構です」
クラーラの言葉にレナートは目を丸くした。
ハルトリー伯爵家は金銭的な余裕がある。
レナートが浪費家ではないし、使用人の数も質素で、それでいて領民からの信頼が厚いので税を滞納されることもない。
「ええと……すみません。理由は後ほどお話します。とにかく、今すぐにリナルディ伯爵家へのアクションは起こさずとも問題ありません」
素直にリナルディ伯爵家には利益を与えたくなかった。
そもそもあの一家が浪費をしなければ、家は問題なく存続できているし、暮らしに困らない程度には金が入ってきているのだ。
姉や父の浪費のせいで金がなくなり、最近は領民への課税も増えてきている。
ここは一度痛い目を見て、別の人間に領地経営を任せた方が民のためになる。
もうリナルディ伯爵家の事情は、クラーラには関係ないのだから。
「そうか。クラーラが言うならそうしよう。よし、ジュスト。クラーラを部屋に案内して。君、疲れてるだろう?」
「まあ。おわかりですの?」
「仮にも領主だから、人を見れば疲労度くらいわかる。たぶん婚約前で緊張してたのかな。あまり気張らずに過ごしてくれ」
疲労を見抜かれるとは恥ずかしい。
クラーラは令嬢として情けない思いをした。
……と同時に、レナートの優しさが身に染みる。
ジュストがすっと立ち上がり、ドアを開く。
「こちらへどうぞ。ご案内します」
「はい。レナート様と同じ部屋ですか?」
「な、何を言っているんだ君は。そんなことをしたら俺の精神がもたないだろう」
「あら、残念です」
去り際、少しだけからかう。
顔は見えていないが、きっと後ろでは悶絶するレナートの姿があるのだろう。
とりあえず部屋は別々らしい。
そのうち一緒の部屋になれるように……少しずつ距離を縮めていこう。