逃げ場のない世界
「まさか……お嬢様が嫁がされてしまうなんて。意中の相手ではないのでしょう?」
侍女のロゼッタが憤慨する。
彼女は幼少の砌からクラーラの世話をしており、非常に親しい中だ。
この家でも数少ないクラーラの理解者だった。
そんなロゼッタだからこそ、今回の強引な決定には不満が隠せない。
「仕方ないのよ。どうせ、こんな家にいるよりは嫁いだ方がマシな待遇でしょうし……もちろん侍女も一人だけ連れていく許可をもらったから、ロゼッタも一緒よ」
「はい、どこまでもお供します。しかし……お相手のハルトリー辺境伯もお嬢様を愛するのでしょうか? 強引に押しつけられた相手ですし、もしかしたらリナルディ家のように酷い仕打ちを受けるかもしれません」
「まあ、劣悪な家庭環境には慣れているから。嫁ぎ先が酷い場所なら甘んじて受け入れるわ。つらい環境でも、なんとか生活を快適にすることには慣れているもの。……ああ、つらい環境ってリナルディ家のことよ? うふふ」
なんというか、クラーラの考えには諦観があった。
自分の主人が抱く諦めはどうにかしてあげたい――そうロゼッタは思ったが、いち使用人の立場ではどうしようもない。
「あら、クラーラ。話はお父様から聞いた?」
「お姉様……はい。すべてお聞きしました。とても素敵な婚約を紹介してくださり、ありがとうございます。お姉様がいなければ私に縁談がくることもありませんでしたからね」
二人で愚痴をこぼしているところに、イザベラが乱入してきた。
――また嫌がらせか。
ロゼッタは心中の嫌悪感を隠してクラーラの後ろに控えた。
イザベラは哀れな妹を嘲笑うかのように声を上げる。
「ハルトリー辺境伯ってどんな方かご存知?」
「いえ、存じ上げません」
「なんでも酷く不養生な外見をしているらしいわよ? まるで子豚のように太っていて、体臭もきついとか。あと、以前の夜会で他の令嬢にものすごい不敬を働いたとか。そんな方の子を産まなければならないなんて、かわいそうね……でも仕方ないわね? 黒魔術なんて使ってるクラーラの方が悪いもの。白魔術を磨いていれば、もう少しまともな相手を紹介してもらえたのに」
辺境伯という立場上、ハルトリー辺境伯は王都にはほとんど来ない。
夜会にあまり参加しないクラーラは彼の姿を知らなかった。
そんな人物と結婚しなければならないとしても、もう決まったことなのだ。
いまさら家に逆らって婚約を破棄することなど許されない。
「あ、私はこのあと夜会に行くんだった。それじゃ、クラーラ! もう会うことはないかもしれないけれど、辺境でゆっくり余生を過ごしなさいね!」
「はい、お姉様。お気をつけて」
最後まで嫌味たっぷりに、イザベラは吐き捨てていった。
そんな姉の態度にロゼッタは怒り心頭に発する。
「……ほんとクズです。イザベラ様」
「それ、イザベラに聞かれたら打ち首よ。気をつけなさい。心では思っていても、言ってはならないことがあるの。どこで聞き耳を立てられているのかわかったものではないのだから」
「すみません。一番の被害者のお嬢様が我慢されているのに」
「とりあえず使用人たちにお別れの挨拶をしましょう。いつでも人とのつながりは大切にね」
リナルディ家の使用人は、大体クラーラに味方してくれている。
というのも、黒魔術を用いて使用人たちの家事を効率化していたからだ。
クラーラの熟達した魔術により家事のスピードは非常に上がっていた。
だからこそ使用人たちは彼女に信を置いている。
クラーラが去るとなると、退職する使用人も出てくるかもしれない。
別にリナルディ家からどれだけ人が流出しようが、知ったことではないが。
「せっかくですし、使用人たちに協力してもらって……うんとお嬢様を綺麗にしましょう! せっかく嫁ぎに行くのですから、最上級のドレスを着て……」
「あらあら。お父様がそんな贅沢を許すと思う?」
「大丈夫です。こんな日のために、実は使用人みんなで貯蓄していたのです……! 長年お世話になったお嬢様のためとあらば、みんな協力してくれますよ!」
「そうなの? まあ定期的に使用人間で密会してたのは把握しているけれど。私としては自分の見た目を整えることも大事だけれど、黒魔術の道具を持っていく方が大切ね」
一番大切なのは魔術だ。
これがないとクラーラの生活レベルが非常に落ちてしまう。
嫁ぎ先でも、できるだけ一人で生活できるような環境を構築する用意を。
もちろん、そんな用意をしなくてもいいのが最良なのだが。
「では参りましょう、お嬢様」
「ええ。しばらく準備で忙しくなるわね」