取り戻した笑顔
ハルトリー伯爵家の工房で、クラーラは忙しなく手を動かしていた。
「ああ、回路を少し描き間違えたわ……でも大丈夫。これなら少しいじれば戻せる」
正面には紫色に光る宝石。
周囲には魔力を流した紋様が描かれており、ただならぬ雰囲気を醸し出す。
トビアスを覚醒させるための黒魔術の準備は着々と進んでいる。
集中する彼女のそばでは、ロゼッタが不慣れな様子で手を動かしていた。
「ええと……クラーラ様。この鳥の羽は、こっちの布に取り付けるんでしたっけ?」
「そうよ。もう少し……右の方がいいかも。あ、そうそう。そこら辺でお願い」
「しかし不思議なものです……白魔術はこんなに道具を使わないのに、黒魔術はたくさんの素材が必要なんですね。魔石に魔法布、動植物の素材……」
「根本的に仕組みが違うのよ。私が白魔術の家系に生まれながらも黒魔術に惹かれたのは、こうして使う道具によって差異が生じるから。どこまでも奥深く、追求のしがいがあるの」
自分が白魔術を修めていれば。
きっと実家のリナルディ伯爵家で冷遇されることもなかっただろう。
だが、それではレナートに出会えなかったし、こうしてトビアスを目覚めさせる研究の手伝いをすることもできなかった。
だから今、自分が黒魔術を学んできたことを誰よりも誇らしく思っている。
工房の扉が開き、レナートが急ぎ足でやってくる。
「クラーラ。こちらの準備は整った。君の方は……もう少しで回路が完成しそうだな」
「昔の術だけあって、描くのが難しいのです。レナート、ここの修正を手伝っていただける?」
「わかった。焦らなくていい、慎重に進めよう」
焦らなくていい……そう言ってくれるが、誰よりも焦っていそうなのはレナートだった。
一刻も早く弟を起こしたい。
そんな切なる願いがひしひしと感じられる。
「……レナート、怖い?」
不意にクラーラは尋ねた。
この質問をするのに多少のためらいはあったが、それを聞く関係性はすでに築いていると自覚していたから。
「…………ああ、怖いよ。これが失敗したらまた振り出しだ。もしかしたら俺が死ぬまで、トビアスを目覚めさせてやれないかもしれない。そう思うと怖くてたまらない」
きっとレナートが嘘をつけても、この本音は語ってくれていただろう。
強がって虚勢を張るのではなく、自らの心に従って。
「私も怖いです。こんなとき、安心して……なんて言える婚約者だったら心強いのにね」
「はは……いや、逆に安心したよ。俺と同じように悩んで、不安に思ってくれている人がそばにいるんだからな。うん……大丈夫、きっと」
いまこのときに限っては、二人の間に仮面は必要ない。
ただひとつの目標に向かって願いが重なっていた。
◇◇◇◇
トビアスの眠る地下室に、レナートとクラーラは訪れた。
下準備はすべて終了。
あとは術を発動するのみとなった。
「発動は俺が行う。クラーラは不測の事態のため、よく様子を見ていてほしい」
「わかりました。落ち着いて取りかかりましょう」
レナートはうなずき、ゆっくりとトビアスに歩み寄る。
同時に彼を囲んでいた結界が解除された。
レナートが時を止める黒魔術を解いたのだ。
固唾を呑んで見守るのみ。
クラーラはレナートの一挙手一投足を観察し、異変がないかを確認していた。
足元に用意した魔法陣に両手をかざし、魔術を発動。
二人と使用人たちが魂をこめて用意した黒魔術。
それだけ期待も大きい。
「第一陣、二陣……魔力充填。乱れなし……」
ゆっくりと、確実に。
レナートは魔法陣に魔力を流し込んでいく。
さすが黒魔術の名手だけあり、失敗する気配はなかった。
しかし。
「っ……!?」
不意に魔力が乱れ、魔法陣が輝きを失う。
レナートは狼狽した様子で顔を上げた。
「なぜだ……!? 行程はすべて上手くいっているはずだ……!」
すぐに状況を確かめるクラーラ。
レナートの術に間違いはなかったはず。
何が原因となって魔術が止められたのか……念入りに周囲を観察する。
自分がこれまで積み重ねてきた知識を総動員して――クラーラが初心者のころ、似たような経験をしたことがあるのだ。
あのときはたしか、魔法陣に描く文字が間違っていて……
「……! レナート、文字が違います!」
魔法陣が輝きを停止した箇所。
そこに記されている魔術文字に違和感を抱き、クラーラは入念に確認した。
この黒魔術は古いものであり、もちろん魔法陣に描く文字も旧字体のもの。
それゆえ間違いが生じたのだ。
「ここ、似た文字と間違えてる。大丈夫よ……これくらいならすぐに修正できる。あなたはそのまま魔力の充填を続けてください」
「わ、わかった。助かったよ……頼む」
こくりとうなずき、クラーラは該当箇所の修正を開始する。
文字を修正した瞬間に輝きは取り戻され、レナートがもつ莫大な魔力が滔々と流し込まれる。
そして――すべての魔法陣に輝きが灯り、ついに覚醒の黒魔術が発動された。
発動を確認したレナートはすぐに立ち上がってトビアスに駆け寄る。
「…………」
固唾を呑んで見守る。
無理に揺り起こすことなく、ただ目覚めを待つ。
わずかな沈黙は永遠のように感じられた。
ただ愛しき弟の目覚めを待って、待って、待って待って……
「…………っ」
小さな衣擦れの音、うめき声。
瞬間、レナートの肩が震えた。
「ト、トビアス……?」
「……? あれ?」
ゆっくりと起き上がった少年……トビアスはぼんやりと周囲を見渡した。
まだ状況が理解できていないのだろう。
ここがどこで、目の前にいる二人が誰で。
何もかもが霞がかっていて理解できていない。
「わかるか、トビアス……俺だ。レナートだよ」
「レナート……兄さん? ああ、うん……でも。なんか大きくなった?」
「ははっ……そうだな。あれから八年経ったんだ。トビアスは八年間ずっと眠ってたんだよ」
信じられない、と言ったようにトビアスは呆けていた。
目覚めたら八年間も眠っていたなんて言われたら、当然の反応だろう。
しかし彼は思いのほか正直で。
「そっか……兄さんがそう言うなら間違いないんだろうね。最後に記憶に残ってるのは……ごほっ。賊に襲われて……」
「だ、大丈夫か!?」
「うん。なんかすごく喉が渇いてるんだ、水をもらってもいいかな?」
「ああ、待っててくれ! すぐに持ってくる!」
レナートは急いで部屋から出ていく。
去り際、クラーラは彼と視線を合わせて互いにうなずいた。
二人地下に取り残され、トビアスはクラーラに視線を向ける。
「あなたは……?」
「はじめまして、トビアス様。私はレナートの婚約者になったクラーラ・リナルディと申します。きっと、今はすごく混乱していることでしょう。でも大丈夫、何も心配はいりませんよ」
トビアスの心は不安で埋め尽くされている。
彼の記憶は賊に襲われ、両親を失った瞬間で止まっているのだから。
そんな彼を落ち着かせるように、クラーラはゆっくりと語った。
「こ、婚約……そっか。八年間ってなると……もう婚約者がいても当然の年齢か。びっくりだなぁ、こんなに時間が経ってるなんて」
「ふふ。レナートはトビアス様を目覚めさせるために、すごく苦労したのよ? 八年間ずっと目覚めさせる方法を探してきたんです」
「ああ……兄さんらしいな。兄さんはとても優しい人なんです。今でも変わってないんですね」
「ええ、存じ上げております。あの人はとても優しくて、強くて、誠実な人。誰よりも誇らしい、私の大切な……」
「おーいトビアス! 水を持ってきたぞ!」
クラーラの言葉は喜びに満ちたレナートの声に遮られる。
息を切らして笑顔で部屋に入ってきた婚約者を見て、クラーラはくすりと笑った。