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氷たちの夜 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 がりがり……うーん、グラスに入った氷をかじっていると、いっときでも暑さを忘れられていいね〜。

 氷をかじる人って、鉄分が足りていない説も聞いたことあるねえ。赤血球が足りないから身体の温度調節に狂いが生じる。そうして口の中が熱くなってしまうと、身体が冷えを求めて、手っ取り早く氷に解決手段を見出してしまうんだと。

 でも、本当なのかなあ、それ。少なくとも僕は野菜をはじめ、食べるものには気をつかっているつもりなんだけど。


 氷。自然にできるものではあるけれど、そいつを年中、どうにか利用できないかと古来考えられてきたしろもの。

 付き合いが長いだけに、そいつがのぞかせる顔は様々で、効果的な面こそ僕たちは利用しようとする。けれども、それは理解から遠ざかっていく行いかもしれない。

 氷に関する奇妙な話のひとつ、聞いてみないか?



 僕の地元に伝わる話に、戦の落人の話が存在する。

 地方では少し知れた一族の出だという彼は、部隊の壊滅した折に、どうにか血路を開いて戦場から離れた山野を進んでいたらしい。

 乗っている馬に疲れは見えるが、目立った傷は見られず。自分はというと鎧のあちこちに矢を受け、かろうじて肌に矢じりが届くものもあったとか。

 幸いにして、行動に支障が出るような傷は負っていない。半刻くらい前まで、背後にしつこく感じていた追っ手の気配もない。

 ただ合戦は敵地に入り込んだところで行われた。見慣れた街道は抑えられているだろうし、どうにか自然に紛れて落ち延びるよりない。

 その考えを見越しての、地元民たちの落人狩りの線もあるし、差し迫った戦の気配はなくとも油断はできない。

 馬上の武者も、竹槍一本で命を奪われる存在に違いないのだから。


 すでに夜陰が忍び寄ってきている。

 足元からは草の気配が消えて久しく、立つ音はだいぶ小さい。よく鍛えられた馬も不用意な声を漏らすことはなかったが、鼻呼吸は荒くなっている。どこかしらで休みを入れたいところだ。

 自分も今は興奮しているが、いかほど疲れているかしれない。

 どこかしら休める場所はないかと、さらに用心深く小半刻ほど探したのちに、小さな潰れかけの小屋を見つけた。

 半ば以上が崩れた切妻の屋根に、大人数人がとどまれる平屋。木でできた壁も経年の劣化に押されてか、ところどころ欠けている上に、泥やコケが付着したまま。

 床にはゴザ一枚なく、地面がむき出しになっている。武者の腰ほどにまで伸びた草たちも散在し、他の生活の気配も内部からは感じられなかった。


 ――本当に打ち捨てられて久しいのか。それとも、これさえも偽装の一環なのか。


 判断に困るも、いよいよ馬の呼吸は怪しくなってくるし、自らも馬上でこっくり、こっくり舟を漕いだのも、すでに幾度か。

 結局、武者はその小屋で休むことに決める。

 馬は武者の手を離れるや、ぐったりと横になってしまった。相当の疲れが溜まっていたのだろう。

 武者も一番傷みの少ない一方の壁に寄りかかり、いざというときにすぐ使えるよう脇差を握り、コケ交じりの木の臭いを嗅ぎながら、うとうとまどろんでしまった。

 


 どれくらい経っただろうか。

 ふと武者は、自分の足の裏に感じた冷えに、眠気を飛ばされた。

 ぱっと目を開くも、そこへ映る景色がにわかに信じることができない。

 小屋に入ったばかりのときは、いずれも腰に至る高さがやっとだった草たち。それが今や崩れかけの天井を突かんばかりに、背を伸ばしているのだから。


 草が伸びたと思うか。それとも自分たちが縮んだと思うか。

 面食らいながらも武者は周囲を見やる。

 小屋の壁や入口が一緒になって高く、大きくなってきてはいない。自分たちが小さくなっている線は考え難い。

 ほどなく天井へ接し始めた草たちは、首を傾げ始めてしまう。同時に、武者が足元に感じる寒気もぐんぐんと増してきた。

 馬も目覚めたようで、驚きのいななきを隠そうともせず響かせながら、立ち上がろうとする。その毛、その肌、その足から大きな水音が響き渡る。


 草に隠されていた地面は、いつの間にかじっとりとぬかるんでいたんだ。

 武者が足元に感じた冷たさが増したのも、水気が草履を越えて足袋に、そして足の裏にまでしみ込んできたからに違いない。

 手綱を引き、馬と共に武者が出た時には、小屋の草たちが崩れた天井の一角からなお背を伸ばすところだったとか。

 雨は片時も降っていないはずなのに、外の土もすっかり冠水してしまっている。

 夜の空気を目いっぱい吸ったそれは、小屋の中よりさらに冷たく、寒中水練を思わせる肌触り。

 つい馬へ飛び乗る武者だったが、馬自身もまた足元から広がる全身の震えを隠そうとしていない。

 すでに足首へ届くほどの水位。その中へじかに足を突っ込んでいるんだ。草履越し、足袋越しの自分より相当しんどいはずだ。


 武者は、しゃにむに馬を走らせた。

 行き先、潜伏する敵対者、いずれも二の次だ。

 一刻も早く、この現れた水場を抜け出さねばならない。馬が冷えに参ってしまう前に。

 土地勘はない。ただ自分の中から訴えてくる感覚のまま、低地へ低地へと馬首を向けた。

 横目に見る木々たちも、明らかに先ほどより背を伸ばしている。その育ちぶりは、こうして馬を走らせている間でも、確認できるほどだ。

 幾度か、馬が嫌がるように大きく立ち上がり、武者を振り落とさんとするときがあった。

 自然と足は止まってしまうが、その間に見た木々たちは土の下に隠れていた幹、ときには根さえもどんどんせり上げてきていたんだ。

 同時に、浸かっている水の水位も増してきている。すでに腱輪は水の下へ隠れ、足の運びも走るというよりも水をかき分けるといった方が近い。

 気のせいか、馬の歯の根も合わないのか、口元からがちがちと歯を打ち鳴らす音もする。



 ――自分たちが立っているのは、土の上などではなかったのだ。


 またがる馬を鼓舞しつつ、わずかな月明かりに照らされる夜道を、武者は必死に下っていった。


 ――ここは氷だ。地面と見まごう硬さを持った氷。木々たちもまた、その身の一部を氷に沈めているに過ぎなかったのだ。それが理由は分からないが、いま溶けだそうとしている……。


 考えを巡らせながら、夢中で馬を走らせ続けた武者は、気づいたときには夜が明けかけており、自分の勝手知ったる領内の街道に出ていたらしいんだ。


 どうにか自分の館へ帰り着いたものの、乗っていた馬の四肢はもはや使い物にならなくなっていた。

 その葦毛と同じ色合いを持っていた足は、ひづめから手根にかけてを真っ青な色に染め上げられており、小屋に寝転んだ馬はそれきり目を覚ますことはなかった。

 疲れを癒した武者は、暇ができるとあの日に通りかかった道と小屋を探したが、ついに見つけることはできなかったらしい。


 あれはただ氷が溶けたばかりじゃない。

 小屋や周囲の木々も含めて、氷が張るほどに長く動きを止めていた巨大な物が活動を始め、どこかへ消え去っていったのではないかと、武者は思ったのだそうだ。


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